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暗翳の火床(アンエイのカショウ)  作者: 蒸奇都市倶楽部(シワ)
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第十五章『さらなる深み』2

   *


 それはちょうど、ビルヂングの一階で日進と人形がぶつかりはじめたころだった。


 ――なんだ、さっきの音は

 慎重に、しかしてきぱきと階段を上っていた市谷は、階上から響いてきた銃声を耳にして、ぴたっと歩みを止めた。

 蒸し暑い階段通路の居心地は最悪で、一刻も早く抜け出したかったが、斥候となった市谷はじっと耳をこらして警戒する。楓を待たせているのであまり時間はかけられない。こうしている間にも後ろから《猟奇博士》が追いかけてきているかもしれないのだから。

 もちろんこの探偵助手は、先ほどの音が別の経路から上へ出た特高の男が放ったものだとは知らないし、耳鳴りのような反響が銃声だとの確証もつかめなかった。

 ただ、階段のずっと上で厄介な出来事が生じているらしいとの推測は立った。


 進むか戻るか。

 どう判断したものかと市谷が迷っているうちに、さらに音が続く。

 三回目が聞こえるころにはもう階段を取って返していた。

 もしも彼一人ならばそのまま階上へ駆け、もっと深く様子を探っただろう。

 しかし今は負傷した楓を待たせているのだ。迂闊な行動はできない。


 市谷はものの数分で楓の下に戻ってきた。

「なんか上がごたごた騒がしいよ」

 楓は、「そうですか」とだけ答えて仔細を問わない。

 何が起こっているのかわかっていれば求めなくても説明するだろう、というのが彼女の考えだった。それがなく騒ぎがあったという事実だけ知らせるのは、不明確な事態が発生していて、市谷が確認より報告を優先したからだと察せられる。

「確認のために二人で向かってみますか?」

「危険だよ!」

 とんでもないと市谷が声を大にする。

「それなら俺だけで確認した方がよっぽどいい。あ、楓姉ちゃんが足手まといってわけじゃないけど、ともかく、何が起こってるかわからないのに行くってのはだめ」

 楓はかぶりを振って判断を市谷にゆだねる。ここで待っていた自分よりは、探偵の助手であり、偵察にも向かった彼の方がよほど明敏な決断を下せるだろう。

「救援だったら放っておいても来てくれるだろうし、結社だったとしてもやっぱりやって来るだろう。で、こういう時は悪いほうに賭けた方がいいんだ。だからここは上を結社だと仮定して、すぐに追いつかれないだろう下に行こう」

「自ら危険に飛び込むかもしれないような博打を打つよりは、少しでも引き伸ばして相手の出方、正体を探ろうということですか」

 消極的ではあるが対案は思い浮かばない。

「そそ、それに下が行き止まりと決まったわけでもないし、出口があるかもしれない。で、こっちでは鉄格子に鍵をかけていく」

「悪いほうに賭けるから、ですか? 上が結社だと仮定して」

「そう、相手が合鍵を持ってたらあんま意味はないけど、それでも少しの時間稼ぎにはなる。だけど俺たちの後ろから猟奇博士が来る可能性も残ってるから、その場合には逃げた道を教えるようなものだけどね。こればっかりはどっちか読めない」

 鉄格子を施錠した市谷が眉を引き締める。

「悪いほうに賭けるのならば、下ったところで安全とも限りませんね。私たちには推し量ることさえできません」


 ――悪いほう、〈黄金の幻影の結社〉の手の者が待ち受けているかもしれない


 市谷とまじめな調子で顔を見合わせ、うなずきあうと、どちらともなしに、しかし歩調を合わせて階段を降りはじめる。

 地底から響く音と光が、二人を歓迎する。


   *


 猟奇博士は自分だけの〝人形〟を調整していた。

 時間を経るごとに強くなっていく炎の照り返しを受けた頬は喜びのために緩んでいる。


 ――炉も順調、人形も順調。いいことづくめではないか


 本来より稼働を早めた〈地下炉〉は、急製造された当初は火力が不安視されたが、だんだんと火勢を増していき、いまや設計上の最大火力間近にまで達していた。あと一時間もすれば最大火力の情報が記録される。

 それで加入と引き換えに課せられた義務のひとつを果たせる。

 帝都最悪の犯罪組織〈黄金の幻影の結社〉幹部という立場を手に入れる代価、結社の大業〈混沌なる黄金〉成就への協力義務を。

 もっとも彼は、大業のために背負わされる任務にほとんど興味を持っていない。結社の大業と理念に共鳴して加入したわけではないからだ。欲しいのは相応の立場と自分に役立つ知識、そして技術である。それでも過去に数度は大業のための任務に失敗しているので、そろそろ挽回しなければ立場がなくなってしまうというおそれがあった。

 翻って言えば、これさえ成功させてしまえば失脚の恐れとの戦いは終わる。

 そしてここまでくれば、ただ安坐(あんざ)していても計画は無事に完遂できるだろう。


 燃え盛る炎はもはや余人には止められなくなっていた。

 義務の達成に手が届く状況に安堵する博士にとって、現在の最大の関心事は自らの手で生み出す専用の人形のことばかりだ。


 ――歯車はめ込み完了、動力機関移植完了、動力管接続


 複雑な内部回路の移し替えは滞りなく進んでいた。出所不明の機関や結社の技術で作られた制御装置などを組みこみ、梶田(かじた)式ぜんまいやジビル集音管(しゅうおんかん)、レイピングコイルなどの各種部品を人形から外し、素材の各部に埋め込んでいく。


 ――なぜこんなに長いジビル集音管をつないでいる?


 博士は四尺近い『几』の字型の管を手に疑問を浮かべる。

 表面が細かな蛇腹状になっている部品は音を溜めこむ性質を持っており、音響測定儀や伝声管などに使われている。人形においては音声による指示を媒介する機能を持っているようだ。


 ――こんなに長くては、道理で命令に対する反応がずれてしまうわけだ。理論値ではここまで冗長につなぐ必要はないというに……、《暗黒卿》も存外と抜けているじゃないか。わたしの手でより優れた人形へ改造してみせよう


 初老の博士は情熱を傾けて打ちこむ。


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