第二章『老技師と蒸気大戦』1
立ち話もなんだからと、楓は駅舎内の喫茶店に案内された。帝都では名の知れた喫茶店だが、誘われるままに入った楓は店名を見るひまもなかった。
仮に見ていたとしても、帝都にしか展開していないイノダの名を彼女は知らぬ。
喫茶店にとんと縁のない楓は品書きを見ても何を頼んでいいのかわからず、とりあえず目についた紅茶を注文する。しかし女給は新たな品書きを取り出して、「本日はこれらの銘柄がございますが、どれにいたしますか」とさらに問う。
紅茶は紅茶ではないのか。
ざっと見たところ十種はある。
その多さに楓はたじろぎ、お品書きに書かれた文字が頭に入らなくなる。
上から下に目をさまよわせているのを見かねた女給が、「こちらのおすすめでよろしいですか?」とお節介を発揮する。
「そ、そちらのおすすめでよろしいです」と混乱していた楓が鸚鵡返しに応じると、「かしこまりました」とうなずいて引き上げていく。
老人はすっかり注文を済ませていたらしく、ルンペン帽を脱いでくつろいでいた。
喫茶店に入るまでの話によれば、元は鉄道技師をしていたのだという。汽車を待っていたのではなく、駅の長椅子に腰かけて来し方に思いを馳せるのが、退職してからの日課だそうだ。
老技師の頭髪は黄味がかった白さで時計塔の文字盤のようだった。
象牙色の髪を見て、楓は彼の黒い顎鬚が煤によるものだと気付く。現役時代から着ているという作業着のくすみや、その下のよれた開襟シャツの黒ずみも同じだ。単に汚れているのではなく、寄る年波を示す皺のようなものなのだろう。
「これか? すっかり滲みついておって、どんなに洗っても落ちんでな」
老人はおしぼりで袖口を何度かこすってみせた。黒ずみは薄まりもしない。長年にわたって煤を浴びつづけた結果、念入りに洗っても取れなくなってしまっているのだ。それでもなお現役時代のものを着ているのは、ひとえに愛着があるからだという。
「この黒ずみそのものが皆勤の勲章のように思われましてのう」
ともすれば汚れているとすぐに払いがちな煤も、老人にとっては帝都で技師として生きてきた積年の証なのだ。
女給が注文を運んできて、紅茶はロンヌノワールだと説明する。舌を噛みそうな銘柄だ。
ごゆっくり、と女給が去っていくが、老人の前にはまだなにも置かれていない。
淹れるのに時間がかかるのだろうか。それとも注文忘れだろうか。
女給を呼びかけるべきか逡巡している楓に老人が言う。
「後でくるから気にせんでよいよ。それよりも話を続けようかの」
話は主として、楓から老人への帝都に関する疑問が多くを占めた。
それらは概して取りとめもなく、たとえば、
「蒸気で顔が煤けたりするのは気にならないのですか」
「帝都っ子は慣れておるからね。生まれた時から煤を浴びていればさして気にもならん。といっても、脳髄まで煤まみれになるのだけは避けねばならんがの」
「脳髄まで?」
歩廊に降り立ち、肺どころか脳まで煤まみれになりそうだと感じた楓は、彼の言葉に心でも読まれたのかとどきりとする。
「能がないとか身知らずとか、それに類する罵り言葉じゃよ。蒸気機関にあふれた帝都では最大級の侮蔑表現でな、心から罵りたい時に使う」
滞在中その機会が永遠に訪れませんように。そう庶幾(*5) しながらも楓は続けて問う。
「薄着のようですが冷えないのですか?」
シャツにつなぎという出で立ちでは寒かろう。寒がりの楓は見ているだけで肌寒い。
「丈夫だからの。それを抜きにしても今年は暖冬というやつらしくってな」
それにしては道行く人々の格好は楓と同じか、それよりも厚着だ。防寒着として外套だけを着ている楓はとっくに肩に冷えを感じている。
「暑い寒いは人それぞれ」心を読んだように老人が続ける。
「実際のところ帝都にとっての問題は実測された気温の暑さ寒さではなく、《時計塔》がこの暖冬を予測できなかったところにあっての、事前に例年通りと見立てておったのが蓋を開けてみれば暖冬であった、とそこらが問題になっておるそうじゃ」
「予報、ましてや気象のそれは外れるのが普通ではないでしょうか」
それは楓にとって当たり前の事実でしかない。
故国では観天望気を行える彼女であるが、それが百発百中というのはありえなかった。
「あなたの言う通りではある。しかし帝都の《時計塔》周りではそうもいかん。お上は難儀なものじゃよ。《時計塔》がこんな間違いを起こしはしない、どこか不調なのではないかと気を揉んでおってな、議会は上を下への大騒ぎじゃ」
「予報の外れひとつで、ですか」
「そう、たかが予報の外れひとつに。彼らは知らぬか見ぬふりをしておるのじゃよ――」
《時計塔》とて万能ではないことを。
そう続いた老人の言に、楓ははるか東の故国にまで届いていた噂を思い起こす。
「先ほどからお話をうかがっていますと、時計塔が街の全権者だというお話がまるで本当のように思えてきます」
帝都ではすべてを《時計塔》が支配している。
地方では実しやかにささやかれている、帝都にまつわる風説のひとつだ。
楓が赴任したこの都市は『帝都』という名の、独立した都市国家である。
身もふたもないその名は、本来の都市名よりも、帝国の首都という事実の方が有名になった結果だ。かつてこの街を都とした大東和帝國はとうになく、いまの『帝都』は東和に複数ある国のひとつでしかない。
国家としての帝都は、五つの市区の選挙で選ばれた議員からなる議会と政府が、立法と行政をつかさどる共和制を布いている。《時計塔》は閣僚や両院議長の承認を行っているがあくまで形式的なもの、その実態は政府や議会に情報を提供する機関にすぎないという。
しかし人が関われば噂が生まれるもの。
ましてや《時計塔》は世界一の思考機関だ。なにかと尾ひれ憶測がつきまとう。
楓が口にした《時計塔》が全権者という噂もそのひとつ。議会こそが形式的な集まりにすぎず、実際には思考機関である《時計塔》が万事を取り仕切っているというものだ。
他にも似たような噂は無数にあって、いずれも東和のみならず東海道や西海道、極東や中州、南洲といった、大東和帝國時代に本土と呼ばれた地方で真実味を帯びて広まっている。
こうした噂が広まるのは、帝国本土の人間が大東和帝國の再興を夢見ているという側面と、逆に再来を恐れているという側面が絡んでいるのだろう。
すなわちかつて大陸の大半を領し、欧州と対等に渡り合った強い支配者への憧れと、支配者が起つ過程で多くの犠牲と弊害を生んだという経験に基づく恐れ。人々の相反する二つの感情が現在の『帝都』に仮託された結果、世界一の《時計塔》にまつわる噂が生まれたのではないだろうか。楓はそんなふうに解釈している。
当の帝都人の前でそんな噂に触れるのは、非礼にあたるかもしれないと懸念しながらも、楓があえて口にしてみたのは、噂の渦中にある帝都の人間に、「根も葉もない噂だ」と、正面から否定してほしかったからである。
戦前も戦後も実感として肌で知る老人ならば、はっきり否定してくれるだろうと半ば信じて。
「帝都の全権者か。《時計塔》はそんなものではないよ」
望んでいたものを得られて楓は安堵した。
噂はどこまでいっても噂でしかないのだ。
が、老人はふと真顔になって、
「《時計塔》は象徴であり、守護者であり、そして支配者である」
重々しく言ってコーヒーを口に含んだ。
いつのまにか老人の前に小ぶりなカップが置かれていたようだ。
工場から漏れる蒸気のような濃い湯気が、苦味を覚えるほどの濃厚な香りとともに立ちのぼり、楓の鼻頭をつんつんと押す。
サンサスタ・エスプレッソ。
眠気覚ましにこれほど適した豆も淹れ方もない。さっと飲める眠気覚ましとして職人や技術者が愛飲している。
「ご存知とは思うが《時計塔》自体がひとつの演算装置、巨大な思考機関でな、街区別の気象予報から街鉄や循環線の運行計画、各種統計の算出や役所、議会、政府の事務処理、さらには〈城壁〉の制御など役割は多岐にわたっておる。人間でいうところの脳と心臓を兼ねておるのじゃな。くわえて目や手足は機関情報網の接続口として、役所や警察、企業など帝都のあちこちに設けられておる。これを支配者と言わずしてなんと言おうか」
「それは……、まさに時計塔は街を管掌 (*6)しているというわけなんですね」
楓は辛うじて老人の主旨をつかめた。
彼女の出身地方となる極東ではようやく本格的な思考機関の導入がはじまったばかりだ。
思考機関が動作工程文という独自の言語で稼働し、人間よりも多くの物事を記憶し、情報を効率的に処理する。あまつさえそれが帝都の各所に根を張り枝葉を実らせている。
そんな世界に想像がおよばないほど、楓の人生は最先端の科学技術とは縁がない。
「街を? いいや、帝都という国家そのものに食い込んでおる。機会がおありならば《時計塔》の足元に行くとよい。一帯には府議会をはじめ政府の重要施設が建ち並んでおる。寄らば大樹の陰。あれを守護者と言わずしてなんと言おうか。いまの帝都は《時計塔》の庇護なしには立ち行かんよ」
各種の事務処理などの職能を担う時計塔を権力者とたとえた話が地方へ流れる間に、全権を手にしているという形に変じたのだろう。楓は噂と老人が語る実態との関係を捉え直す。そうして噂はほぼ事実を示唆していたのだと思い至る。
おそらくそこには、帝都と帝國、《時計塔》を重ねて見る政治的な向きがあり、蒸気機関によって世界の最先端をゆく帝都という大陸一の国家への憧れがあるのだろう。
「それほどまでに帝都は時計塔――や、蒸気機関によって栄えているのですね」
「そう、すべては蒸気機関にあるといえよう。そして《時計塔》も含めた現在の発展の源流は帝國の時代に求められる。もっといえば先の戦争にな」
(*5)庶幾:こいねがう。そうした状態が実現するのを願う。
(*6)管掌:自分が管轄する仕事。またその仕事に責任をもってのぞむこと。