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暗翳の火床(アンエイのカショウ)  作者: 蒸奇都市倶楽部(シワ)
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第十三章『為すべきことは』1

 しばらくして市谷が手巾を差し出す。

 楓は人の手巾で吐瀉物をぬぐうのに抵抗を覚え固く辞した。苦い顔を隠しきれない彼女は、口の中に残る酸っぱさを唾液でごまかして飲みこんだ。

 ほとんど無理やりである。

 嘔吐はやむを得ない反応であったとしても、人前で唾を吐くのはためらわれる。かといって(すす)ぐ場所などない。飲みこみ、懐紙で口元をぬぐうのが自前でできる精いっぱいの処理であった。

 清涼剤は二重廻しに入れていたのだったか。いまこそあれを口に含まなければならない。そう思いつつも、立ち上がるとその勢いでまた嘔吐(もど)しそうなので、うずくまったまま肩で息をきって呼吸を整えようと試みる。


 見かねた市谷が背をさする。

「市谷さんは、平気なのですか?」

「楓姉ちゃんよりは慣れてるだろうな」

「慣れの問題、でしょうか……」

「探偵の助手をやってんだ、そういうのを目にする機会もそこそこあったさ。だからって同じ場所に閉じ込められて平気なわけじゃないけどな」

 そうは言ってもけろりとしている。楓と比べてずっと平気なのは間違いない。

 醜態をさらしてしまった楓は、市谷の重荷になっていないかどうかがますます気にかかってしまう。これまでやいまの状況を指してばかりの不安ではない。これから先、地下牢からの脱出を図るにあたってもかかる懸念だ。

 そもそも足をくじかなければ、と肩を落としてから、また思考の悪循環に陥りはじめているのに気付く。同じことの繰り返しだ。少しは断たなければならない。

 慎重に視線をあげて、吐瀉物を撒き散らした原因をゆっくりと視界に収めていく。

 先ほどは市谷との会話から急転した不意打ちの『ご対面』だった。そのためになすすべなく嘔吐してしまったのだ。唐突に出くわすような対面でなければ、気持ち悪さは覚えても吐きはしなかっただろう。何かがそこにあるぞという雰囲気を感じ取ってさえいれば、心構えも身構えも可能だからだ。

 胃液の混ざった()えた臭いにもほんの少しだけ慣れた。

 むかつきもゆっくりとおさまっていく。

 それでもなお、楓はこわごわと部屋の奥を見た。


 川の字に四つの亡骸が並べられている。

 細い丸太のようにも、太い枯れ枝のようにも見えるのは足だろう。それが五本こちらへ突き出ている。四つの胴体に五本の足だ。一体は胴から下がないし、もう一体は片足がない。また別の者は腕がなくなっていた。衣服ごと引きちぎれ、断面には赤黒く変色した血液が固まってこびりついている。

 そこまで観察して、楓はまた動悸と嘈雑(そうざつ)(*34)を覚えて目をそらす。しきりに呼吸が荒くなり、唾液が大量にこみ上げてくる。嘔吐(もど)す前兆だ。

 しばらく肩で息をして落ち着きを取り戻す。


「あ、あの方々、は……、〈黄金の幻影〉の――」

「犠牲者だろうね」

「あのような身体に、よほど乱暴な……」

「連中がどういう性格なのかわかっただろ。でもさ、そんなに気分を悪くしてまで楓姉ちゃんが無理に見るもんじゃないよ」

「そういう訳には、いきません」

 見るも痛ましい骸だった。

 そこに亡くなった者の無念を推し量る。

 肉体が損壊するほどの扱いを受けるとは、いったいどれほど残忍な事態に遭遇したのか。いったいどれだけの苦痛を負ったのか。それがせめて亡くなった後のものならば、痛みという点ではまだ救いはあるのかもしれないが、それとて冒涜には違いない。

 情を持たぬ化生(けしょう)のごとき行いである。


 ――せめて鎮魂と帰幽(きゆう)の奉告を


 義務感に衝き動かされ、楓は少しだけ彼らのほうに這っていく。

「お、おい、姉ちゃん? 何やってんだ」

 彼女なりに近づけるところまで寄って、静かに深呼吸をして目をつむる。

何処(いずこ)()しませば――」

 御霊(みたま)の安寧を祈り、祝詞(のりと)を奏上する。

 祓所(はらえど)はおろか大麻(おおぬさ)もない、およそ儀式の要件を欠いた簡素な弔いだ。略儀ですらない。だからといって楓は手を抜かず一心に弔う。

 巫女でも祝詞を奏上するのが認められたのはほんの数百年前、まだ女働(じょどう)主義などという言葉もなかった時代だ。その折に与えられた権限への感謝も楓は欠かさない。


 市谷は最初、楓が何をしているのかわからずもの珍しそうに見ていた。

 紡がれる(ことば)はおよそ難解で意味などわからない。それでも彼女の一心な態度が弔いに類するものとの見当をつけて、「信心深いなぁ」と呆れたようにつぶやく。

 市谷とて死人を弔った経験はある。しかしそれは死者の安寧を祈るものではなく、一方的に告げる決別のようなものであった。自分はあんたのことも踏まえて生きていくよ、と。そんな彼にしてみれば、楓の祝詞は初めて目にする宗教的な弔いの儀式であった。


「死んじまったら何もねぇんだよ」

 それがかつて路地裏と愚連隊で生きた市谷の死生観だ。

 祝詞を終えた楓に向けた言葉ではない。しかし楓はそれを受けて、

「確かにそういった考えもあります。ですが、『何もない』のだとしても、こちらからお送りする時にまで『何もない』のではあまりにも寂しすぎます」

「……そういうもんかね」

 楓はしっかりうなずく。先ほどまでの吐いたり気弱だったりする彼女の姿はなかった。死者を前に巫女としての使命感を覚えたからだろう。筆で引いたような眉がきりりと引き締まっていた。

 市谷はその態度にわずかに感心したが表情を変えないで、

「済んだんなら、俺もいちおう軽く見ときたいんだけど」

「なにをですか?」

「これだよ、これ」

 と、もの扱いで死体を示す市谷に、楓は当然のごとく非難がましい視線を投げかけた。

「そういう顔しないで、検死っていう立派な作業なんだよ。もちろんおれじゃ本格的なことはできないけど、この人たちが今回の事件に巻き込まれたんだとしたら、ちょっとでも調べて情報をとっとかなきゃなんないんだよ」

「探偵だからですか」

「そ、助手だけどな」

 楓は無言で考えこむ。

「送り出すのが楓姉ちゃんの仕事なんだろ?」

「……はい」

 仕事という言い方に眉をひそめる楓であったが、対外的にはそう呼ばれても仕方がない。それでも彼女は我慢できず「仕事ではなくお勤めです」と小声で訂正する。

 むろん市谷はそんな些細なことに構わず、

「おれは遺体を調べるのも仕事のうちってわけ」

「それは――」

 彼の立場を踏まえれば非常識だとは言えまい。しかし感情的に良い顔はできない。

 巫女と探偵。

 死者を還す者と死者を探る者。

 彼女はその取り合わせの悪さを嘆くしかなかった。


 ――市谷さんのそれは亡くなった方の身辺をお清めする(みそぎ)のようなもので、褻涜(せっとく)(*35)には……、おそらくあたらない


 そうやってなんとか自分を納得させて、楓は市谷に背を向けた。

「わ、わかりました。私は見ないようにします、ので」

「吐きかけといてよく言うぜ、楓姉ちゃんも」

「それは……」

 あろうことか楓はもっとも左の亡骸(なきがら)の左足にぶちまけてしまったのである。やりたくてやったのではないとはいえ、吐きかけた行為は事実だ。彼女としては、我ながらなんたる仕打ちであろうかとうなだれる他ない。

 そのときであった。

「う、ぅん……」

 と誰かが呻く。

 びっくりして振り返ると、市谷も目をぱちくりさせていて、視線が合うと首を横に振った。

 おれじゃないよ、と。

 そうして二人で顔を見合わせている間に、もう一度「んん」と声があがって、二人はその発生源、左側の遺体――楓が吐きかけた、ただひとつ五体の揃っているそれをじっと見据えた。

 するとどうか、遺体だったはずのものがぶるりと震えたではないか。

 これにはさしもの市谷もわっと驚いてのけぞる。

 楓も体中にどっと冷や汗を噴き出させたが、先ほどの衝撃に比べればまだ易しかった。ただ、自分があまりに疲れきっていた事実に内心でうなだれた。もっとよく目を凝らしていれば、あるいは意識を集中させていれば、もっと早く生きていると気づけていたかもしれないのだ。そのことにこの瞬間までまったく気づけないほど精神的に疲れていたのだろう。

 五体の揃った動くそれは、やがて荒々しい呼吸で肩を上下させながら膝をつき、まさに起き抜けの人間がやるような仕草でゆっくり立ち上がろうとしていた。

 ここにいたって、楓は彼が十分な生気を発するのをようやく感じ取った。

 膝を立てて起き上がりかけた男は、だらりと垂らした腕越しに二人を認めて、振り向いてどっかと腰を下ろしあぐらをかいた。

 既製品の安背広は破れており、黒い無地のネクタイもたわんでいる。髪はぼさぼさに乱れ、持ち前の眼光の鋭さは目を覚ましたばかりのためかぼんやりと濁っていた。

「あ、おめぇ!」

 市谷が声を張り上げた。


(*34)嘈雑(そうざつ):胃のむかつき。胸やけ。

(*35)褻涜(せっとく):穢すこと。穢れること。

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