第十二章『坂上と坂下』3
「どうしても盗みを受け入れられねぇってんなら、緊急時に俺が勝手にしたことにすりゃいい」
「や、市谷さんを責めたいわけでは……」
弁解して楓は話の先を促す。
「隙を見て、ですか?」
「鍵が手に入った以上もう檻なんてないも同然だよ」
「それは確かにそうですが」
格子の隙間は大きく、腕を突き出して鍵を開けるのはたやすそうだ。しかし楓の懸念は見張りだ。この距離ならば内容はともかく、喋りあうぼそぼそ声は届いているだろう。囚人がなにか小声で話していれば怪しまれるのではないだろうか。
かっちきん、かっちきん、かっちきん……
いまさらながらに不安がって様子をこっそりうかがうも、人形は微動だにしない。燭台のほのかな明かりと風が織りなす陰影が詰襟の表面を何度も往復しているばかりだ。
「ん? あぁ、聞かれてても大丈夫だよ。そいつら指示された通りにしか動けないから」
「それはどういう意味でしょうか」
「見張りの役目しか果たさないってことだよ、いまは。博士が言ってたろ、出ないように見ておけって。その通りで檻の内側でわいわい喋ってるくらいなら反応はしないさ」
指示されたことしかやらない人がいるが、人形はそれなのだろうか。楓がなおも要領をえないでいると、市谷が近くに落ちていた小さな石ころをつまんで、「見ていて」と檻の外に向かって投げた。
破片が檻から飛び出た瞬間、人形は跳ね起きるようにびくりと動いてきょろきょろ周囲を見はじめた。が、破片が落下するとともに動きを止め、またもとの姿勢に戻る。
「な? 自動的なんだよ、こいつらは。だから人形ってんだ」
人形と聞いて、楓は《無銘道化師》とのやり取りを思い出す。
『魂なき人形はただただ黙して語らずでございます』
『貴方の指示にしか従わないということですか』
『その通りでございます』
「しかし人形になぞらえたところで、結局は仮面をつけているだけでしょう」
「さ、さぁ? 俺は〈結社〉じゃないからその仕組みは――」と言いかけた市谷は言葉を呑んで、「ともかく、こいつらは人なんてもんじゃない。もう人形なんだ」
「もう?」
「ただの人形ってことさ」
人間ではない。ただの人形。
そう強弁されても楓には信じがたい。
しかし気配の薄さというか、感情の希薄さといったものは楓も感じとっている。
なるほど、人形とするならばそういった情念が微弱であるのもわかる気がする。
しかしである、それならば本当に人形が動いていることにならないか?
――まさか〈付喪の〉というわけではないでしょう
道具に霊性存在が宿る、心が生ずる、狐狸の類が憑くなど、それらはまとめて〈付喪の〉や〈憑き物〉―― 一般に〈付喪神〉〈九十九神〉と呼ばれている。
楓はそのような存在に疑いを持たないが、かといって目の前の人形と呼ばれる一味をそれと認めるのには抵抗があった。人形は複数存在しているのだ。まさかそれらのすべてが霊性存在や心の生じた人形、狐狸の類などとどうして信じられよう。
――人形についてはさっぱりです
考えてもわかりはしない。
楓は小さくため息をついた。
幸せが逃げるというが、帝都に来てからというもの、どれだけの幸せを逃がしたかしれない。それほど信じがたい出来事ばかりが起こっていた。この街ではあらゆる事態が起こりえるのかもしれない。
そんな中で遭遇する事態について、これは本当、これは信じがたい、これは嘘、といちいち分類するのが無意味に思えてもくる。
実際に楓は気疲れを起こしていた。
しかしそれでも、彼女は考えて分けるのを無意味だと思いたくはなかった。
出会うこと遭遇すること全てを細かに分けていく必要はないだろう。しかし分類が無意味だからと、あれもこれも受け入れるのもまた違う。
自分でちょっとでも考えて、事実と事実でないことを吟味したり、保留したりする姿勢を持していなければ、帝都という街に本当に呑まれてしまいかねない。
――考えても答えなど出ないのだとしても、考える行為が無駄なわけではないのだし
「――姉ちゃん? おーい、聞いてるかー、巫女の姉ちゃん?」
市谷の呼びかけで楓の無辺際な思考が中断された。一方で何度もそう呼びかけられたので、これまでのむず痒さの正体にようやく行き当たった。
「そ、それです!」
楓は市谷に迫り、右腕を軽く一回だけ上下に振った。思わず人差し指を突き付けようとしてしまったものの、それが人を告発する行いにあたるのを思い出し、上げた腕を即座におろしたのだ。そんな相手の事情を知らない市谷は、彼女の突如として興奮したような口ぶりと、無意味に上下した腕に不思議そうな表情を向けた。
「そ、その『姉ちゃん』とか『巫女の姉ちゃん』というのは、そのぅ、恥ずかしいので止していただけると、助かります。私は! 南海楓です!」
唐突に言われ、市谷は少しきょとんとしていたが、すぐに、「そういうことか!」と笑顔を浮かべて、「楓姉ちゃん」と口にした。
「これでいいよね?」
その笑顔には嫌味がなく、少年らしい無邪気さにあふれていた。きっと素直にそう呼んだだけなのだろう。
今度は楓がきょとんとする番だ。まさかそう来るとは予想もしていなかった。なんと返していいものかと窮してしまう。しかしこれも間の悪いことで、市谷は楓の無言を了解の意と受け取ったらしく、もう一度、「楓姉ちゃん?」と呼びかけて彼女を見つめた。
――もしも弟がいれば、自分はこんな風に呼ばれていたのだろうか
市谷の呼びかけに楓は突拍子もない想像をしてしまい、それを必死に振り払う。
――なんで私がこんな目に
これも巻きこまれ体質ゆえなのか。
「えーっと、楓姉ちゃん?」
三度目。遠慮がちに呼ばれる。
もはや楓は「その呼び方は違います」と訂正できるほどの気力もなかった。もとより強気な性格ではない。さっきの申し出が、振り絞ったなけなしの勇気であったのだ。三度目の呼びかけも否定できない楓は、この後もずっと市谷から楓姉ちゃんと呼ばれるのだろう。
気恥ずかしいやら情けないやら。そうした諸々の羞恥をごまかしたくて、楓は足首の痛みを確認しようとする。袴の裾を引き上げて足を寄せると市谷がとっさに顔を逸らす。顔を逸らしたいのはこちらだと楓が思っていると、
「いきなりそういうことされると、その、困る」と市谷が足を指さす。まかり間違って袴の中を見てしまわないようにとの配慮であった。
「ごめんなさい、見せるつもりはなくて」
楓は慌てて裾を戻し、座ったまま器用に背を向けて、ふたたび裾を引き上げる。半長靴を脱ぐときにも、彼の目を気にせずやってしまったのを思い出す。
足首の痛みは少しましになっていたが、動けばすぐ痛みが戻るだろう。患部を冷やせない現状ではこれより治癒する見込みもない。ならば、と楓は半長靴と脚絆を引き寄せる。鍵がこちらの手にある以上、いつでも動けるようにしておいたほうがいいだろう。
脚絆を強く巻き直しているさなか、楓はふと奥の床に何かがあるのを見つけた。
目を凝らすと、それはぼうっと円形に浮き出ていて、等間隔でいくつか並んでいた。
「市谷さん、あれは……?」
「あ! 見ちゃだめだっ――」
気づいた市谷が制した時にはもう遅く、地鳴りと共に奥まで光が差しこんでいた。
薄明かりにすっかり順応していた楓の眼がそれをはっきりとらえる。
光の中で彼女が見たもの。
それは様々な形に損壊した人体だった。
首から上がないもの。
形は保っているが、完全に干からびたもの。
なんだかわからない形にねじくれたもの。
それらを目と鼻で認識した時にはもう、楓は己の臓腑を駆けあがってくるものを抑えられなかった。冷たい床に暖かな液体がびちゃびちゃ撒き散らされる。
生々しい嘔吐きに、こんな場所でもかすかに響いてくる《時計塔》の鐘の音が混ざる。
市谷は檻の外から聞こえる音だけに耳を澄ませながら、手巾を取り出した。




