第九章『《猟奇博士》なる男』3
本人を前にしてなんたる言いきりであろうか。
博士は怒りのあまり歯が噛み砕けそうなほど顎に力がこもり、何かを言うどころではなかった。仮面に隠されていてなお分かるほどに憤怒の相が浮かんでいる。先ほどまで怯えのために震えていた身体が、いまは怒りのために打ち震えていた。
しまいには軽い立ちくらみさえ覚え、何も言わぬままに、頼りない足取りでふらふらと牢から離れていく。
「むろん人形はもっと補充させましょう。さしあたり十はいるでしょうな。それに〈地下炉〉の扉も固く封ざさなければなりません」
「はっ、たかだ十体の人形に兄貴が負けるわけないだろ!」
返事もなく黙って離れて行く博士を横目に道化師が勝手に事を進めるが、それに市谷が噛みつく。
「確かにその通りでございますな。おそらく百や二百でも苦しいでしょう」
「たりめぇよ、元から人形じゃ力不足なんだよ」
「ならば千対一の戦争はいかがでございましょう? 三日三晩と間断なく攻め続ければ、さすがの《軍団卿》閣下も陥落すると見ておりますが」
「烏合の衆なんざ万そろえても無駄だぜ」
「諦めなければいつか希望は叶うものでございますよ」
「悪党の夢が叶った試しなんざねえんだ」
「それは歴史を知らぬ市谷様だからこその、夢にあふれた言葉でありますな」
「うるせぇ口だけ野郎め!」
「ははは、それは市谷様こそではございませんか。いまのところは安全が保障されているからこそ、そうやって好き勝手に吠えているのでございましょう? 絶体絶命に陥っても口が減らないのか、いずれ試してみたいものでありますな」
「上等だ! 最期まで喚きつづけてやるよ!」
「そうでございますか」
ふいにこれまでの調子から一転、道化師が静かにつぶやく。
「もしや市谷様は、自分の死よりも、自分だけを残して周りに死なれる方をこそ恐れているのではございませんか? なればその時こそ、『口だけ野郎』かどうかの真価が問われるのでございましょうな」
「な、にを――」
痛いところを突かれ、市谷の饒舌がふいに凍る。
探偵の助手になる前の出来事にかする言葉だった。それが負い目になっているわけではないが、だからといってまったく関係がない男がそれに近しいことを口にして、何も感じないほど飲みこみきれたわけでもない。
市谷の絶句は道化師が過去を知っているかもしれないという恐れではなく、言葉がかすっただけなのに、予想外に大きな衝撃を受けてしまった自身への驚きによるものであった。
「……失敬、わたくし『口だけ野郎』なものですから、憶測で好き勝手なことを申してしまいましたな。ですが自分より他人を大事にしていることを恥じる必要もありますまい」
言葉だけで相手をねじ伏せた道化師は、市谷に安い慰めを投げてから、「さて」と猟奇博士に近づていく。
「〈地下炉〉を作らせる折に徴用しました労働者や浮浪者の処分はいかほどに?」
「知れたことを」
ようやく落ち着きつつある博士の声音は静かであった。
怒りというものは爆発的であればあるほど、存外に持続しないものである。
「やつらにはさっそく〈地下炉〉の火床性能を試す薪になってもろうたわ。おかげで幸先のよい火入れとなった」
「ひとり残らずに?」
「なにも残さず、だ」
「が、たった一人これを免れた者がいたとすれば、どうでございましょうか?」
「出まかせを言うな」
落ち着いていた博士の口調にまた熱が篭もった。
「口封じも兼ねて一人残らず炉にくべてやったわ。第一そんな者がいたとすれば今ごろ特高に駆けこむなりして、〈地下炉〉計画はとうに部外者に嗅ぎ付けられているはずだ」
「いまはまだ嗅ぎつけられていないだけ、時間の問題でございます。そもそも徴用に伴う失踪の数が少し多すぎでありましたし、かつ短期間にさらいすぎでございました」
「たかが浮浪者や日雇いの五十や六十、数日間で消えて騒ぎになる帝都ではないわ。それももう二か月前の出来事ですよ」
「警察や特高ならばそうでしょうな。ですが嗅覚のよい探偵が嗅ぎつけ、捜査をはじめるには十分な数でございます。《軍団卿》閣下ならばなおさら。もっともその二か月前きりならば、まだ凌げたかもしれません。ですがいまもなお、ぽつぽつと人をさらわせているでしょう」
「追加の燃料も無しに炉の火力が落ちるのを黙って見ていればよかったとでも言うのか?」
「いいえ、しかしその後の燃料の補い方がいけませんな。ここ数週間の失踪について、《軍団卿》閣下はすでにいくつか人形の尻尾をつかんでいて、二か月前の失踪との関連を見出そうとしております」
「そして、お前が助手を連れてきたせいでいまや尻尾ごと引き抜かれそうだわ」
博士は道化師をあてこすってため息をついた。
「炉の燃焼効率がいまひとつ悪いのが問題だ。暗黒閣下の設計図に誤りがあったのだろう」
「本当にそうでありましょうか」
「何が言いたい?」
「本来ならば最も時間をかけて建造すべきであった〈炉〉の完成を、博士の一存で急きすぎましたのが原因ではありませんか? だから設計図通りに仕上がっていないのでございましょう」
「黙れ、黙れ! あれをこうしたそれをこうした、細かいけちをつけるな!」
いちいち失点をあげつらう道化師に博士は早くも再び激高する。
「炉のことはよい。それよりも逃げた者がいるのなら早く捕まえて来い。《幻影男爵》閣下への協力だかなんだか知らんが、それができてこその力添えだろう。それとも逃亡者はもう《軍団卿》に接触したのか? それで手も足も出んから私を責めているのか?」
「いいえ、逃げた者はまだ誰とも、いや、一人を除いては接触しておりません」
「一人でも計画が露見すれば大問題だろうが!」
「ご安心くださいませ。その一人をここに生け捕りにしているのでございますから」
博士が苦々しげな顔をして牢を振り返る。
少年か女か。おそらくは女のほうだろう。
でないとあまりにも無関係すぎる。
「事実は追々に。さて、《軍団卿》閣下が逃亡者に会うのは時間の問題、もはや間に合わないかもしれません。ですが、ここに二つの餌があります。人質をもってすれば《軍団卿》とて本領は発揮できますまい」
「上手くいくのか?」
「いかせるのでございます。いまや失敗の確率が高い〈地下炉〉計画を有効活用するためにわたくしがいるのでございます。もはや賭けるしかないのですよ」
そう言ってのける道化師に、博士がまた怒号と共に食ってかかる。
*
――自分はなぜ倒れているのか
日進は倒れ伏した自分の体を動かそうと試みる。
手も足もしびれてうまく動かせない。しこたま飲んだ後のような頭痛もする。
――結社の雑魚どもを相手に不覚を取ったか
市谷という探偵助手に邪魔されて見失った人形の捜索を再開した途端、連中に取り囲まれて襲われたのだ。あまりにとっさの出来事で、自分も含め班員たちはみな銃を抜く間もなく打ち倒されてしまった。その悔しさと怒りだけが彼の中ではっきりしていた。
しかし怒りだけで体を起こせるほど、人の身体は単純にできてない。
これでは共にいた班員を探すのすらままならない。
遠くで地鳴りが鳴るたびに、ほのかな光が差してくるのが唯一の外部的な情報であった。
その他に感じ取れるものといえば、地鳴りに混じって聞こえてくる、
『黙れこの腐れ道化師がぁ!』
と肌にまとわりつくような不快な声ぐらいだ。
――ここは一体どこか。まさか結社の拠点では。一刻も早く射扇班長に報告しないと
その意志とは裏腹に、日進の意識はまた閉ざされようとしていた。
手に生ぬるい感触が触れるのを感じながら、彼は再び暗闇に沈んでいく。




