第七章『探偵は巫女を信ずるか』2
聞きながら楓は自問する。
自分はどうだろう、と。
何も知らず蒸気人間の話を聞かされて、その存在を信じられるだろうか。
蒸気人間が実際に霊性存在であるかはまた別の問題であるが、少なくともそれに類する存在を、楓は難なく受け入れられる。そういったものを認識し、感じられるのが彼女、いや、南海という家の血を持つ者である。
また現在の〈巫機構〉もこうしたものの実在を前提として成り立っている。
霊性存在とは楓が依って立つ存在のひとつであり、現機構の生みの親となった概念といっても過言ではない。そうした存在の否定は自らの否定にもつながってくる。
「どちらも我々の肉体を越えた、精神的な存在とされているものですよね」
「……はい」
頭ごなしに否定されなかった。
その事実に楓はひとまず胸をなで下ろす。
経験上こうした話に拒絶反応を示す人は多い。
彼女の故郷、極東地方では魂や霊性存在といった概念は広く受け入れられているが、それでも近年はその在り方に疑義を呈する知識人が増えてきている。帝都を中心とする東和地方から、最新の科学の知見や蒸気機関が波及してきたのと軌を一にしているという。
機構が根差す極東においてさえそうなのだから、科学と文明の最先端を行く帝都ではまったく信じられていないどころか、顧みられてもいないのではないか。
そんな想像をして、楓は内心で恐々としていた。
帝都支部の人数が異様に少ないのも、こうした背景があるからではないかと彼女は思っている。
「ただ、そういう存在が具体的にどういったものを指すのかまではわかっていません」
「細かい分類はいろいろとあるのですが、大ざっぱに言っておよそ万物に宿る精神を指していると考えてもらって差し支えありません。我々〈巫機構〉では精神――厳密には魂なのですが、その独立性を認めるかどうかを、霊性存在を信じるか信じないかのひとつの指標としています」
「精神の独立性といいますと?」
「人間でいえば肉体から精神が離れられるかどうか、というところですね。たとえば生霊は、肉体は生きているのに、精神がなんらかの強い感情や意思に基づいて遊離した存在として分類されています。肉体の死後に精神が強い感情や意思によって、特定の場所に縛りつけられているものを地縛霊としています。
もっとも霊魂という言葉がありますように、霊と魂を厳密に呼び分けているわけでありません。そこらに触れると長くなるのですが、いまは精神も霊も魂も同じものとして扱います」
「なるほど、勉強になります。ご講義いただいた上で申しますと、僕は霊性存在を実際に見た経験がありませんから、信じてはいませんし、また、肉体のみ、精神のみといった形に分離できるとも考えていません。どちらも兼ね備えていなければこの世に存在できないのではないかと考えています。特高のように頭ごなしに否定はしませんが」
坂下は拒絶こそしなかったものの、霊性存在を信じていないとはっきり口にした。
ただしあくまで自身は信じていないという姿勢だ。霊性存在の実在性については触れておらず、楓には最も穏当な否定に思われた。また特高がこの話を考慮しない理由も推察できた。
彼らは端から信じていないのだ、霊性存在というものを。
「あるいは僕の場合、特高のようにそういった事象を信じることができないようになっている、と言ったほうが正しいかもしれません」
「それはなぜでしょうか?」
「確かあなた方の業界では呪殺というものがありますよね」
「その言葉をご存知ですか」
霊性存在を信じないといったのと同じ口から、その言葉が出たことに楓は驚く。
呪殺というのは祈祷の一種で、文字通り呪いによって対象を殺害せんとする方法だ。それで本当に人を殺せるのかはともかく、古来より公私を問わず行われてきた儀式である。直近で最も有名な呪殺の儀式といえば、戦中に欧州の指導者に対して執り行われたものであろう。
もちろん現代においては禁忌とされ、仮に機構に呪殺の依頼が舞い込んできた場合には、呪い殺すことが本当に可能かどうか以前の話として、例外なく拒否するように定められている。
「四年前の天洲国独立未遂事件の報を受けた際、〈霊薬〉といった言葉と共に伝え聞きました。そのときに得た付け焼刃の知識でしかありませんが」
それは〈巫機構〉よりも宗教色の強い組織が決起、反乱し、南方のある国家からの独立を図った出来事だ。政治家や名士も巻き込んだ大きな陰謀で、事件の解決には〈巫機構〉が国際機関として表と裏から関わり、その中には楓の姉も加わっていた。身内が携わっていた事件の名を、まさか帝都の、それもまったく関係ない人物の口から聞くとは思ってもみなかったから、楓の顔はさらに驚きの色を増した。
そういった彼女の驚きなどつゆ知らず、坂下は続ける。
「もし呪殺が実行された場合、探偵としては事件性や物証を見出すのは極めて難しいと考えています。霊性存在にも同じことが言えます。仮に事件に絡んでいるとしても、それが確かな決め手になるとはいまの僕には考えられません。目にできないものを、どう立証するのか、さっぱり見当がつかないのですよ」
坂下が霊性存在を信じられない理由を重ねていく。
話を聞きながら、楓はその誠実さを感じ取っていた。
彼は彼なりの合理的な理由によって信じていないのだ。
一方の楓はただ〝視える〟という一点でのみその実在性を認めている。自身そのことに気づき、もしかすると理由という部分では自分のほうが軽率なのかも、とも考えてしまう。もっとも血肉にその存在の実在性が滲みている楓にとって、いまさら否定などできようはずもないのであるが。
さておき帝都を訪れたばかりの〈巫機構〉の巫女は、この碩学級探偵ならば自分が見たものの話は聞いてくれそうだという確信を得られた。
「すいません。つい話が逸れてしまいました」
坂下が謝って話を修正する、
「あなたは蒸気のような人形を生霊か地縛霊だと見ているというわけですね」
「はい。地縛霊も生霊も根源は〝思い〟という点で同じです。そもそも霊性解析学の分野では人の思い全般を〝思い〟と呼称し、より強いものを〝思念〟と呼びます。先ほど申しました、強い感情や意思のことです。
人に悪い影響を与える思いや思念を〝邪念〟や〝怨念〟と呼ぶのですが、これを取り除くのに長けているのが太夫や拝み屋などの祈祷師です。怨念が引き起こした未曾有の惨事が『陣場の大火』でして――」
「あ、えっと……、先ほどのお話によると地縛霊というのは特定の場所に縛られたもので、生霊というのは、生きているのに肉体から霊が分離して出現するものなんですよね」
人は得意なものを語りだすと饒舌になってしまう。きらきらと目を輝かせて講義をはじめた楓に、坂下は人懐っこい笑顔を崩さないよう水を向けて逸れた話の修正を図る。
「そうです、そうです、通常は肉体が去ったら思いや思念も隠世に帰します。しかし肉体と幽明境を異にした(*20) 〝思念〟を特に〝残留思念〟と呼び、このうち特定の土地に残っているものを一般的に〝地縛霊〟としています。〝生霊〟は思念の強さゆえに、思念の主体から抜け出て特定の人物や土地に出現するものです。もっとも思念の主体を精神とするのか、肉体とするのかは難しいところでありますから――」
「えっと、つまりあなたが見たものは、この周辺に残った〝思念〟であると。そして生霊だとした場合には、もしかするとあなたに何か伝えるところがあるかもしれない……」
「そうなります。ただ私にかかる生霊であれば、帝都で初めて出現するというのは奇妙なんです。すでに私を知っている方が生霊の源ならば、もっと前から出現しているのが筋です。もちろん今日が生霊として最初に現れた可能性もありえますが、確率が低いので選択肢から取り除いても大きな問題はないように思われます。
ですから、いまここで考えられる状況は三つ。
この周辺に強い思いを持っていらっしゃるご存命の方か、ここに強い思いを抱いて去った遠方の方か、……あるいは――」
ふいに楓は間近で何かの気配を感じ取り、言葉を詰まらせる。
その気配は、地の底から湧いて出たような唐突さで楓の第六感を震わせた。
地縛霊の出現を疑うが即座に否定する。
思念に存在を依拠する地縛霊にしては、感情があまりにも弱々しい。そのくせに気配だけは一丁前に放っていた。
もしも感情が希薄な人間が目の前にいれば、まさにいま楓が触れている感覚と一致するだろう。そして彼女はこの感情の希薄な存在と前にも遭遇している。数時間前、ここへ駆けてくる前の路地裏で。
「あるいは、ここで亡くなられた、ですか」
口をつぐんだ楓の言を坂下が継ぐ。
相手がいきなり押し黙ってしまったのを、三つ目の出現状況を当ててください、と暗に言っているものと解して、三つ目がなにかを検討して答えてみせたのだ。彼の指摘は見事に当たっており、
「ぇ、ぇえ、瞬間的にであれ、ここで強い残留思念が発生すれば、地縛霊がここに出現するという可能性も、ないではないのですが……」
補足する楓の口調は歯切れが悪い。
相手の急変に違和感を覚えつつも、坂下は路地の左右に軽く目をやる。霊性存在はいまだに信じられないが、仮にでもあれここで人知れず殺人が行われた可能性があるのならば探偵として見過ごせない。
「また地縛霊が出現する可能性はあるでしょうか?」
「ぁ、ぇと、もちろん思念の強さによります。たとえば骸が近くに放置されていて、それを見つけてほしいというような強い意志を持っている場合なんかです。口寄せという専門技芸を有している方ならば、一時的においでいただくのも可能なのですが――」
――坂下さんはこの気配に気付いていないのだろうか
周囲に気配が増えつつあった。
すでにそれらがすぐそばに来ているのを把握してしまい、楓は気が気ではない。もとより霊性存在が視える身、気配に敏感なのは自覚しているが、こうも他の人と差があるのは予想外であった。
「事件性があるかもしれないと分かっただけでも大きな収穫です。もっとも、ここで誰かが亡くなったと決まったわけではありませんが」
楓はもはや坂下に構うどころではなかった。
先ほどまで感じていた気配がいよいよあたりに姿を現したからだ。
楓はやはりそれに見覚えがあった。
ビルヂングとビルヂングの間に生じた都会の闇が人の形をとる。真っ黒な詰襟を着込んだそいつらは、いままでビルヂングの影に潜んでいたのだ。
いずれも下を向いていて表情はうかがえない。
しかし楓は彼らの白く変わらぬ表情を予覚している。
影たちの動きは軍隊のように整然としており、真っ直ぐ楓と坂下に進み出て、五、六歩手前でぴたりと停止して散開した。
数は三。
あの時と同じだ。
――やはり自分は巻き込まれ体質なのだろう
楓が身構えると、坂下がようやく気づいて、しかし驚きもせずに、
「やはり君たちが絡んでいるのか」と呆れた調子でつぶやいて楓の前に立つ。
坂下に呼応するように相手も一斉に顔を上げた。
二度目の対面となる楓は声こそあげないが、それでも肝が冷える感覚を味わう。
仮面――男たちはやはり仮面を――それぞれ〈喜び〉〈驚き〉〈怒り〉の感情を宿す仮面――をつけていた。まるで彼らが発する感情の希薄を補うかのように。
かっちきん、かっちきん……
噛み合わせの悪い歯車のような音が、かすかに、ゆっくりと響いている。
*
市谷は人形の攻撃を避けて、十分な距離から銃弾を撃ちこむ。
弾は相手の腕に命中して黒い液体を沁み出させるが、動きを止めるにはいたらなかった。
穴の開いた服の隙間から、弾丸がもぐりこんだ肉体の奥から、忙しない歯車の音が漏れ聞こえる。彼らの痛覚はまともでない。完全に動きを止めるには頭に数発いるが、容易に撃ち込ませてくれない。
――巫女の姉ちゃんを襲ってた連中よりも動きにきれがあるな。使役しているのは別の奴だ。とすりゃ幹部が同時に二人も動いてるってことになるけど……
疑念をよそに、〈結社〉幹部に使役される物言わぬ人形がじりじりと迫ってくる。
「こんなことなら四班の網を解除するんじゃなかったよ……」
ほんの数分前、一人残って現場を探っていた市谷は、打ち捨てられた集合住宅の陰に誰かが倒れているのを見つけた。体躯のよい男たちは射扇班の捜査官だった。いずれも無惨な状態となり、背広もネクタイも彼ら自身の血でぐしゃぐしゃに濡れている。かなり激しく抵抗したものの、力及ばずに命を奪われてしまったのだろう。
――まだ近くにいる!
市谷の直感がそう告げた直後、仮面の男たちが飛びかかってきたのだ。しかし相手が二人だったのは市谷には幸いだった。距離さえ取れていれば囲まれる恐れが少ない。
――兄貴に合流するまでに一体仕留められるといいけど
市谷は拳銃の弾倉を入れ替えた。
残り十二発。
(*20)幽明境を異にする:あの世とこの世に別れること。ここで楓は、肉体と魂が死によって分離され、魂だけがこの世に残ることを言っている。




