第六章『探偵の名は坂下』2
「それは一体どういう――」
問いかけようとする楓の言葉を遮っていきなり扉が開かれた。
「兄貴!」
と、取調室に高い声が響く。女のような高さではなく、男の、それも声変わり前に特有の甲高さである。楓はその声にどこか聞き覚えがあった。
「四班がまた別の人形を見つけたって!」
ほとんど飛びこむように入ってきたのは少年であった。
帽子にベスト、上には外套と、全体の出で立ちが坂下のそれによく似るなか、体つきと顔つきばかりが異なっていた。少年の目つきはどことなく鋭く刺々しいので、柔和な笑顔を浮かべる好青年然とした坂下と違っていくらか大人びて見える。
「今日になって急に動きが慌ただしくなったね」
「うん、やっぱ昨日〝終わった〟北部市のあれと関係あんのかな?」
「現状ではなにも断定はできないよ」
少年が何者であるのかも含めて非常に気にかかった楓であるが、親しそうな二人のやり取りにずかずか入って口を挟めるような人間ではなかった。
「さっき射扇さんとすれ違ったけど、四班の動きを伝えておくべきだったかな?」
「情報という点ではそうしておいた方がよかっただろうね。さっきみたいにお互いに邪魔しあうような状況になったら両損だ」
「げ、しくったかも……」
「ただ、僕もさっきの特高のやり方をあまり看過したくなくてね、ある程度まではこっちだけで情報を握っておくのも悪くはないと思うんだ。先にこちらの動向を向こうに伝えると、協力するよりも出し抜こうとする動きも出てきかねないからね」
「特高ん中にゃ探偵嫌いもいるからなあ」
楓には意味が分からないやり取りがしばし交わされてから、坂下が振り向いて、
「彼は――」
「兄貴きっての助手、市谷とは俺のことさ。よろしく」
「あ! あなたが私を助けてくれたイチガヤさん……」
その名を実際に本人の口から聞いて、楓の中で話がつながった。
坂下が言っていた『市谷くん』とはこの少年なのだ。仮面の男に礫を投げて助けたという人。そう認識するといま耳にしている少年の声と、蒸気の中で聞いた声がぴたりと重なり合った。
「あのときは、本当にありがとうございます。こちらは何もできないままで……、ご無事でよかったです」
胸の中にわだかまっていた、自分だけが逃げたような罪悪感が解けていく。
「まさか、助けておいて返り討ちなんてことにゃなんないよ。俺ぁ足は速いからな。巫女の姉ちゃんこそ無事で良かったよ」
「ね、姉ちゃん?」
目を丸くさせる楓に、市谷は不思議そうな顔をする。
「うん? おいらより年上でしょ?」
「それは、おそらくそうですが……」
とてもむず痒さを覚える。末子なのでそう呼ばれたことなどなく不慣れなのもあるが、そもそも初対面の相手にそんなふうに親しげに呼ばれる経験が初めてであった。
楓は自分を先輩と呼ぶ山吹を連想した。彼女も似たような振る舞いをしていた。もしや帝都では初対面でも親しそうにするのが普通なのだろうか。国外から来た楓は、自分が帝都の文化に馴染んでいないだけなのだろうかとも思う。
すぐ思考の沼にはまる楓に、市谷が脱帽して手を差し出す。
握手を求めているらしい。
楓はそっと右手を差し出した。彼女が応じたのは相手が少年であるところが大きい。もし相手が坂下のような大人であったならば、手を伸ばすのをためらっていた。
白衣の袂がふわりと垂れて少年の左手を隠す。
少年の右手を握った楓は、ふと違和感を覚えた。反対の手で死角にあるものをつかむと、たちどころに表情をゆがませた少年が気まずそうに目を逸らす。
あいさつとして交わされた二人の手の他、陰になっている部分で楓の左手が少年の左手首をしっかとつかむ形に交差しており、つないだ手が十字を形作っていた。
その手首の先、少年の指が小さな紙片を挟んでいる。
楓はそれに見覚えがあった。駅から御山ビルへの行き方が示された書き付けだ。
見ようによってはこれがあったればこそ、この取調室に運ばれてきたともいえる。
「……私が落としたもの、ですよね? どうして貴方が持っているのですか?」
「これは拾ったっつうか、見つけたっつうか……」
目を白黒させる少年の頭を、坂下がぽんぽんと軽くたたく。
「彼女のほうが一枚上手だ」
「どういうことですか?」
「こいつが言うように、紙自体はあなたを救った後に路地裏で拾ったのでしょう。それを普通に返せばいいものを、握手のついでに懐にさっと隠そうとしたんですよ」
おそらくほんの悪戯心であったのだろう。
それは楓にもおぼろげながら理解できる。しかし笑って見逃せる性分でもなかった。
「どうして、そんなことをしようとしたのですか?」
「いや、こっそり返して姉ちゃんを驚かそうと思ってさ」
「そんな怪しい行動をとらなくてもよいではありませんか。草履の緒が切れてもすいか畑では屈まない(*17)ものです。そんなことをしていると、いざという時たとえ自分が悪くなくても疑われてしまい、悪者にされてしまいますよ」
正面きった論は楓が何度も教えられてきたものである。相手にも分かってほしい一心で熱っぽく説くが、当の市谷にはこの正論が我慢ならなかった。
「んなこと分かってらぁ! じゃあ疑われたらそいつがそのまま悪いのかよ。疑ったらまずそれが本当か探るもんじゃねえのか?」
素直に受け入れてくれると思っていた楓は、意図せぬ反論を食らい「ひ」とひるむ。彼女からすればひどく不条理な反撃であった。
「こら、なんで君が怒鳴り返す。彼女は何も悪いことをしていないだろう」
坂下が珍しく強い語調で難詰すると、さしもの市谷も色を失い、
「ま、まぁ、その、変なことして悪かったな。ごめん……」
「僕からも、申し訳ありませんでした」
「分かっていただけたのならば、よいのですが……」
頭を下げる坂下に楓はいささかの同情を覚えた。また彼女の性分として、いざ素直に謝られてしまうと、とやかく追求するのがためらわれてくる。折れられると敢然と責めきれないのは彼女の甘さだ。
「それにしても――」
気まずさを紛らわせようと楓は小さくため息をついた。
「色々と分からないことが積み重なりすぎです」
いきなり令状を取ってきた特別高度警察隊。
その特高の捜査官に信頼されている探偵は、帝都において一体いかなる役割を持っているのか。
仮面の一味に遭遇したのが事の始まりのような気がしてならない。
――帝都に来てから短時間でいろいろな事態に巻き込まれたけれど、そういえば
楓は自分が巻き込まれ体質なのを、まざまざと痛感するのであった。
くたびれ顔の彼女をよそに、闇に染まる帝都を午後六時の鐘の音が包みこんでいく。
*
そんな《時計塔》の鐘の音が遠く小さく聞こえてくる、とある暗所。
闇の中で巨人が大口を開け、荒々しく息を吐くたびに周囲の影が揺らめく。
口の中では赤い舌が口の中を舐めまわすようにして渦巻いている。
その口へ向かって、何かが放り投げられた。
即座に真っ赤な舌が放り投げられたものを翫味(*18)もせず荒々しく舐めまわし、一瞬で溶かし尽くしてしまう。
口中に入れたもののために呼気は一段と激しくなり、周囲がにわかに明るくなる。すると続けざまに二つ、三つと放りこまれているものの正体が照らされ、それが何であるのかはっきりと視認できる。
何やら細長いそれは枯れ枝だろうか?
いや、人だ!
人間だ!
人が抵抗もみせず口の中へと放りこまれていく。
肉を溶かし尽くす巨人の口から光が漏れて周囲を照らす。
口に見えていたものは床面に穿たれた穴だ。
最奥で唸り続けている猛々しい炎熱が地獄の入口を思わせる。
人が放り投げられる度に地底から炎が噴き上がる。
照応して元気のよい無数の火の手が挙がり、「もっとそれをよこせ!」と貪欲さをみせ、かたわらでは光と闇が常に機先を制そうとせめぎ合う。人が放り投げられると、地鳴りと共に赫然とした炎が烈しく上がり、影も濃く染め上げられる。
光と影のせめぎ合いには際限がなかった。
「もっとくれといってもなぁ? くべてもくべても、帝都の冬はまったく寒くってかなわないじゃないか、えぇ?」
男がしわがれた声でひとりつぶやく。
「この大食らいが! どれだけの食事を与えたらもっと暖かくしてくれるんだ」
男のそばからまた、二つ三つと人が穴へ向かって放り投げられる。
炎は何度も穴からはみ出るほどの噴きあがりを見せるが、男の顔に光が射すことはけしてない。まるで男が闇から生じた意思かなにかで、暗晦に守護されているかのように見える。
しかしなんのことはない。
男は光の届かないぎりぎりの縁に立っているだけだ。
かっちきん、かっちきん……
男の背後、影の中によく目を凝らせば、白い顔が浮かび上がっているのが見えるだろう。
〈喜び〉の表情を張り付けたそいつは影の中でじっとして動かない。
「ええい、それにしても三体が一体になって戻ってくるとはどういう料簡だ!」
怒鳴られてもその表情は一向に変わらず、その場に立ち尽くしている。
「ええい、人形め! 道化師もなんで扱いづらい仕様にしたのか……。ただでさえ〝空白の第四位〟の合流で我が地位はおびやかされているというに! このうえ人形の扱いでけちをつけられるなどたまったものではない」
懸念を思わず口にしてしまい、男ははっとして周囲を見回す。
「おまえ、何も聞いてないだろうな?」
との問いかけに〈喜び〉は無言のまま、ゆっくりと首を横に振る。
かっちきん、かっちきん……
「な……」
いつもは彼の呼びかけになどろくすっぽ反応しない白い顔。
それがなぜ今に限って首を振ったのか。
自分はあの白い顔になんと聞いたのだったか。
その問いに首を振って否定するということは……。
「自らにぶつけられる不満ぐらい聞いてもよいでしょう」
白い顔の隣、闇の中から名もなき存在が近づいてくる。
「お……、お前は……」
「ご機嫌よう《猟奇博士》閣下。逸りの厳冬対策はお進みでございますかな?」
名もなき道化師は黒い嘲りの色に染まっていた。
(*17)草履の緒が切れてもすいか畑では屈まない:我々の世界では「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」という。
(*18)翫味:じっくり味わうこと。




