第六章『探偵の名は坂下』1
「探偵……」
そうつぶやく楓が本物の探偵を目にするのは初めてだった。
坂下はにこやかな態度のまま、日進が座っていた椅子にさっと腰かける。青年探偵の背は高く、ひげのそり跡などもまったくない。白い歯を見せてさわやかにほほ笑んでおり、全体的に好青年の印象が強調されていた。
しかし楓はその笑顔にどことなく、青年に不相応なくたびれの色が潜んでいるのを嗅いだ。自分よりちょっと年上、二十代後半に見えるが、そんなにくたびれる齢ではないように思う。探偵をやっていると気疲れしやすいのだろうか。
「探偵といっても、僕は碩学級探偵の子分のようなものですけれどね」
「碩学級の探偵?」
碩学級というのは碩学位に匹敵する優れた功績を持つ者に与えられる称号、肩書である。
そもそも碩学位とは学問の探究者たる学者(学術称号保持者)のうちで、功労者や新進の研究者に与えられる国際的な栄位だ。いわば学問の諸分野を切り開いてきた大家、またはこれから切り開く先駆者たちといえよう。碩学位を持つ学者は碩学者と呼ばれる。楓も《全一機関》など教科書に載るほどの碩学者の名は知っている。
その碩学位が国際的な称号なのに対して、碩学級は国家が独自で選ぶものだ。国家が与えるお墨付きの銘柄といってよく、碩学位と異なり対象は学者に限らない。技術者もいれば政治家もいる。探偵だっている。
要するに碩学級探偵とは、帝都にいる探偵の中でも特に優れた探偵を指している。
「碩学級といいましても、それだって帝都探偵協会の使い走りです」
「それではたびたび探偵に助けられている我々特高の立つ瀬がありません」
短気な日進が聞いていれば間違いなく腹を立てるやり取りであった。
探偵に対抗心を持つのは若い特高捜査官にありがちだが、日進はそれが強すぎて敵愾心になっているきらいがある。坂下にいきなり扉を開けるように告げたのも、気持ちが昂じた八つ当たりだろうと射扇は見抜いている。見抜いていながら上手くさばけないでいた。上司としての経験や気遣いがまだまだ足りていないのは射扇も自認するところだ。
「特高を過小評価したわけではありませんよ。ただ」ふっと坂下が笑みを消す。
「その独特な教条主義といいますか、官僚的なところはさすがに改めたほうがいいと思いますよ。もし市谷くんが駆けつけなかったら、一体どうしていたつもりですか」
「それは――」
探偵の静かな抗議に、射扇はばつが悪そうに楓を瞥見(*16)した。
もし坂下の助手が礫で加勢しなかったら、現場に張っていた日進たち射扇班はただ状況を黙って見ていただろう。それは楓が仮面の一味と無事に渡り合っているので見守っていた、という穏やかな性質のものではない。
むしろ逆で、彼女が倒された方が仮面の一味の尻尾をつかみやすいからという、個人の安全より国家の治安維持を優先した理由でしかない。
特高や探偵が〝人形〟と呼ぶ仮面の一味は犯罪組織〈結社〉の構成員だ。
帝都ではここ二週間ほど、人形によるものと目される人さらいが増えつつあった。もっとも被害者は日雇いで糊口をしのぐ貧しい労働者や浮浪者ばかりで、事件としてはほとんど表立っていない。
しかしそれを看過していては、いつか大規模な人さらいに発展するかもしれない。三年前の夏にも南部市で人形による大規模な人さらいがあった。その時は〈結社〉と同じ裏社会の人間ばかりが犠牲になったのであるが、今度は帝都市民にも被害が出るかもしれない。
事件が大きくなれば帝都の治安は損なわれる。
そう危惧する特高が警戒を強化するなかであった、日進をはじめとする射扇班は東部市の路地裏で人形とそれに襲われている女を発見したのは。
ところがそんな状況に出くわしておきながら、射扇班は何もしなかった。
人形たちはさらった者を自身の拠点へ運びこむので、現場の捜査官はそれを尾行するために手を出さず見ていたのである。
見殺しにするためではない。
助けるつもりはある。
しかしそれは今ではない。
拠点の判明、襲撃後にもし被害者が生きていたら救出するし、落命していれば社会を守るためのやむを得ない犠牲として扱う。そういう原則に従ったまでである。
路地裏で坂下と話していた少年が憤っていた、『助ける〝つもり〟』とはこのことだ。
特高による救助はいつだって治安維持のついでであった。
犯罪組織撲滅のためには、たとえ民間人であっても多少の犠牲はやむを得ない。これは射扇班を越えた特高全体の方針であり、通常警察である帝都警察と最も異なる点でもあった。
このような見過ごされる犠牲について、射扇個人の良心も痛まないではない。
だが、特高としての生活が長い彼に大きな葛藤はすでになく、あくまで特高に属する公僕の一員として、国家の安寧のためと割り切っていた。それを教条主義や官僚主義的だと坂下に咎められるのもすでに受け入れている。個人の安全を最大限尊重する探偵と国家の安寧を最重視する特高の、けして相容れない一面だからだ。
とっくに笑顔に戻っている坂下は、特高の動き次第では死んでいたかもしれない楓を観察していた。
そんなこと露知らぬ当人は若い男性に見つめられて気が気ではない。
相手が誰であれじろじろと見られるのは気分がよいものではない。
ましてや初対面ならばなおさら。
やがて坂下が楓と自分の外套を交互に示して、
「そのとんびはなかなかよいものですね。僕はよく破れるから質より数の安物でして」
「こ、これもたくさん修復した跡があります……、そ、それにこれはとんびではない、です。祖父から譲り受けた二重廻しです」
もぞもぞと答える楓だが、とんびも二重廻しも元は同じ外套である。
それぞれの名称の違いは、和服にあわせて微妙に構造が異なっているからだ。
「これは失敬」と坂下はあまり気にしていない素振りで口にしてから、
「あなたが下に着ているのは〈巫機構〉の装束ですね?」
「そうですが、私が機構に属していることは――」
言っていないのですが、と言外に射扇を見る。いくら相手が探偵とはいえ、身元を明かしたのかという抗議を多分にこめて。
しかしこれまた坂下が引き受けて、
「射扇くんは職務に忠実でね、たとえ相手が探偵であっても、職務上知りえた秘密を不必要には口にしない男なんですよ。それに、聞かなくてもわかります」
「探偵だからですか?」
「そうかもしれません。さっき言ったように、石を投げてあなたを助けたのは市谷という僕の助手です。そのとき駆け出すあなたの衣服、白い上衣と真紅の袴がひるがえって見えたと言っていました。そしていま、あなたのとんび……、失敬、二重廻しから赤い袴がのぞいていますし、白い上衣も見えています。で、その服装にぴんときましてね」
「あ」と漏らした楓の顔が赤くなる。
自分の格好そのものが〈巫機構〉所属を示しているのに思い至ったのだ。
自分を疑う前に人を疑ってしまったと気が重くなる。
そんな楓をじっと見つめたまま坂下が続ける。
「加えて駆け出したのが御山ビルの方面ときました。紅白の衣装で御山ビル方面にあるもの――〈巫機構〉の巫女さんなのではないかと、そう当たりを付けたんです。だからこれは射扇くんから聞いたのではなく、いま観察してからの僕の当てずっぽうです」
種明かしをされるうちに、楓の顔が再びむっとしたものへと変わっていく。
「鎌をかけてしまう格好になりました。すいません」
そう言ったが、彼女の怒りはそこにはない。
いきなり入ってきて、初対面の女性を遠慮なく見つめるというのは、いささか配慮に欠けていやしないだろうか。取り調べ中の射扇でさえじっと見はしなかった。
しかしそれを口にして素直に謝られてしまうと、むすっとしている方がかえって具合が悪いように感じられるので、結局楓はなにも言いだせず、遅まきながら笑みを繕い黙ってうなずく。
もっともその笑顔にしても、彼女なりの笑顔を作ったつもりだったが、本当に笑えているのかどうか、うまく取り繕えている自信がない。
「――では、午後五時までに御山ビルヂングへ着いたんですね?」
と射扇がすっかり逸れてしまっていた足取りの話に戻す。
「はい。〈巫機構〉で五時の鐘を聞いたので確かです」
「となりますと、本当にただ偶然に事件に巻き込まれただけだ、と」
さっきまで日進が書いていた調書に射扇が自ら情報を書き足す。令状が出ている手前、しっかり聴取して記録を残さねばならないのだろう。
帝都にやって来たその日のうちに捜査機関に自分の行動と記録が残ってしまうのは、楓としては不本意である。やましいことなど一つとしていないのだから。
「射扇くん、僕が彼女を〈巫機構〉へ送っていくけど構わないかな?」
「坂下さんがお送りするのならば安心です」
勝手に話が進むなか当事者の楓だけが置いて行かれる。
しかし射扇はすっかり合点して早々にそれを請け合ってしまった。
彼は改めて楓の方を向いて、出会ってから初めて優しそうな表情を浮かべた。
「南海さん、取り調べへのご協力ありがとうございました」
「はぁ……」
これで事情聴取は済んでしまった。
ついつい射扇の言葉にうなずいてしまう楓であるが、直後にまだ言うべきことがあったと思い直し、
「あの――」と口を開きかける。
「これであなたの足取りの調査は終わりです。ご協力に感謝します」
言うが早いか、射扇はさっさと取調室を退出してしまった。
まだ言っていないことがあるのだと、すぐに後を追おうとする楓を坂下が呼び止める。
「射扇くんと約束した通り、御山ビルまでお送りします」
「待ってください」
「はい? なんでしょうか」
この人に言ってもいいものか。
楓が戸惑っている間も、坂下はにこにこしたままだ。
「射扇さんに伝えそびれたことがありまして――」
「といいますと?」
「蒸気のような人形が――」
言いさして詰まらせる楓。
探偵とはいえ初対面だ。射扇も初対面には違いなかったが、特別高度警察隊という身許はおよそはっきりしていた。それに取り調べの令状も取られていたので、話さなければならない事由があった。
しかし、この探偵には話してもいいのだろうか。
碩学級探偵の下にいるということは、それなりに身許もしっかりしているだろうから、信用はできるだろう。それは射扇の態度を見てもわかる。信用できない相手に送りを任せはしない。
言葉を呑んだまま思考を続ける楓に、坂下が首を横に振って、
「おそらくそれは射扇くんには伝えても無駄ですよ」
きっぱり否定する。
「射扇くんは、というか特高はそういう証言は一切考慮しません。緊張と興奮を引きずった状態のあなたが見た幻覚かなにかだと片付けてお仕舞いです。なので、その件については僕がお引き受けせざるをえないのです」
まるで楓が伝えたい内容を知っているかのような言い分である。
あるいはこれも推理という名の当てずっぽうに基づいているのか。
(*16)瞥見 :ちらりと見る。




