第五章『特高の取り調べ』2
「続いて駅から御山ビルヂングに行くまでにあったことを包み隠さず教えてください」
これについても射扇は、寺町通の第三区画第四区画に張りこんでいた日進たち部下から、仮面の一味と楓が遭遇したとの報告をすでに受けている。
部下は彼女が被害を受けたら助ける〝つもり〟で状況を監視していたが、思わぬ横槍が入ってご破算になったという。
黒の詰襟を着た仮面の一味は帝都の闇にうごめく犯罪組織の一員である。
そんな連中と彼女がなぜ出会ったのかを射扇と日進は知りたかった。
もしかすると彼女はその犯罪組織となんらかのつながりがあって、関係が拗れた結果衝突することになったのではないか。そんな可能性もありえる。
むろん当の楓には自分がなぜ遭遇していきなり襲われたのか、その原因などわかろうはずもない。本当にただ巻きこまれただけである。
「どのようにお伝えするのが適切かは分かりませんが、案内された裏通りを進んでおりますと前方に奇妙な方たちが現れて、彼らに道を塞がれました」
「奇妙な、といいますと?」
楓は相手の風貌をどう表したものかとちょっと悩んでから、
「背はわたくしより頭ひとつ分ほど高かったでしょうか。服装は黒い詰め襟で、奇妙といいますのは顔に――」
――仮面をつけた一団に襲われたなどと、果たして信じてくれるだろうか
「顔に?」
と射扇が先を促す。
「……仮面をつけておりました」
「どのような仮面ですか」
「各々が違う表情をした仮面です。覚えているのは喜んでいる表情のものだけですが、みんな同じ表情ならきっと同じものとして覚えています」
「道を塞いだ一味に貴方はどのような対応をとりましたか」
「どうしたものかと戸惑っておりましたら、あちらから飛びかかってまいりました――」
治安のよろしくない場所に踏みこんでしまったがために、三人の奇妙な集団に行く手を阻まれ、先に相手が手を出してきたから自衛した、というのが楓の認識だ。したがって射扇にもその認識に基づいて打ち明けていく。
「ほう、飛びかかってきて。それでよくご無事でしたね」
「ほんの少しばかりは、そのぅ、身を守る心得がありますので」
もじもじと恥ずかしげに楓。日進は目の前の細身の女性から出た言葉に驚いたふうであるが、向き合う射扇はさして動じていない。
「では、幾ばくかの心得があったのでそれで対応できたと」
「無頼漢の暴力は黙って受けようとも抗おうとも、負ければ結果は同じなのだ、と祖母から聞かされて育ちました。それにいきなり掴みかかられたものですから、大人しくしているというのも不自然な話です」
「お祖母さんのご忠告ごもっともですが、その判断は少々危険だと言わざるをえません。かわしておけば無事に逃げられる可能性だってあるかもしれない。掴みかかられるのに対応できるのならば、かわすことだって難しくはないはずです。ごろつき相手に下手な抵抗をするとかえって痛めつけられる恐れがありますよ」
「それは……」
責められるような口ぶりに楓はうなだれる。射扇の言葉は理屈としてよく理解できるが、いきなり襲われて冷静でいられようか。
「しかし、あなたは怪我をしたわけではなさそうですし、ここに来るまでの歩き方などを見ても、負傷を隠しているのでもなさそうです。結果的にではありますが、無抵抗でいるよりも良かったのでしょう。それで襲ってきた男たちを倒してしまったのですか」
「一時的に転がしただけです。そうして最後の一人の段になりました時に、どこからから礫が飛んできまして、相手の脛に命中しました。その直後、『早く逃げなさい』という声をかけられましたので、指示に従ってその場を急いで離れたのです」
「仮面の男たちはどうなりました?」
「礫と声に気をとられたのか、誰も追ってきませんでした。ただ、大きな礫が脛に命中したのに何の声も上げず、まったく痛くなさそうだったのは覚えています」
「『逃げろ』と言った声の主とは合流しなかったのですか」
「はい、声を聞いたきりです。その方も無事に逃げきれているといいのですが」
「その声が誰か知り合いに似ていたとか、聞き覚えがある声だったりはしませんか」
「ないです」
楓は即答する。初めて帝都を訪れたのだから知り合いなどいようはずもない。
「ようく思い返して下さい」
まるで射扇は自分の耳に聞き覚えのある声を探っているかのように問う。
その態度からどうやら声が重要であるらしいと感じ取った楓は、当時のこと――といってもほんの一時間ちょっと前のことであるが――を丹念に思い返す。男の甲高い声は、大人というよりも少年のそれだろう。しかしいくら後から思い出したところで、それ以上に確信を得られるものはなかった。
楓が記憶をたどっている横で、射扇が調書を取っていた日進に小声で呼びかける。そうしてなにやら耳打ちしてから彼を室外へ送りだした。
――あの人はいったいどんな指示を受けて部屋を出て行ったのだろう
いつまで経っても有益な情報を話さないから、確実に吐かせる類の道具でも取りに行ったのでは。横目で見ていた楓は、取り調べが拷問へ変わる様を想像してしまう。
「とりあえずその声の主については置いておいて、質問を先へ進めます」
射扇が切り出した直後、さっき日進が出て行ったばかりの扉が、がちゃり、と前触れもなく開かれる。
途端、射扇が即座に振り返って腰を落とし、懐の拳銃をいつでも出せるように身構えた。いま送り出したばかりの日進が戻って来たのならば、入室の許可を問う声があるはずだ。いきなり扉を開けるのは部外者で、もしそいつらに襲撃の意図があれば、と瞬間的に判断して即座に動いたのである。
それを見ていた楓が射扇の腕前を見積もって目を見張る。
彼女もいくらか心得があるが、その目から見てもいまの反転には無駄がなかった。すぐ行動に転じられるしなやかな身のこなしは、自分よりずっと上の腕前だと考えてもよさそうである。といって、彼女は警察相手に抵抗をしたり、腕比べをしたりという気は寸毫もない。
同じ線上に相手も立ったときに、彼我の能力を比較してしまう人の性質が発揮されただけだ。そういう性分を祖母と下の姉は卑しいと言うが、上の姉は比べてしまうものは仕方がないと言う。楓はそこまで開き直れないが、どちらかというと上の姉に近い。
「おっと、よしてください射扇捜査官。僕ですよ、坂下です」
入ってきた男はとんびを羽織ったまま両手を上に上げておどけてみせる。
「いきなり入ってくるのは止してくださいよ」
「さっきすぐそこですれ違った若い捜査官に、『射扇捜査官に話は通っているのでそのまま入って大丈夫です』と言われたのですけどね」
坂下と名乗った長身の男が鹿撃ち帽を脱いで朗らかな声で言う。
「日進が?」
思い当るところがあるのか、射扇は小さく舌打ちして、
「すいません。行き違いですね。後で彼に言っておきます」
取り調べの空気が一挙に霧散してしまったので、楓はきょとんとした顔で成り行きを見ていた。しかし想像は依然として悪い方向へ進んでいる。
二人が親しげに話しているのを見るに、それなりの付き合いがあるようだ。おそらくは同僚かなにかだろう。となると、この人が射扇捜査官に代わって取り調べを担当するのだろうか。もっともそれだとまだいい方だ。
ひょっとすると坂下というのはもしかすると拷問吏かもしれない……。
不安と懸念で楓の平常心が勝手に侵食されていく。
が、坂下はそんな彼女に手を差し伸べるようにしてこう告げた。
「こちらのお嬢さんを助けたのは市谷くんですよ」
「ああ、やはり彼でしたか」
彼らは路地裏で礫を投げて助けてくれた人を知っているらしい。
まさか関係者が訪ねてくるとは。
いきなり言われてびっくりする楓をよそ目に二人の話が続く。
「当たりをつけていたのならば、わざわざ彼女を引致しなくてもよいのではありませんか。現場には捜査官の目があったそうで、その報告は上がっているはずですし、こっち経由で確認を取ってくれれば」
「報告は受けていましたが、当事者の口から聞くのが重要なんですよ」
「そんなことで〈結社〉や人形との関係の有無なんてわからないと思いますけどね」
「帝都の人間ならばそこまで疑いは持ちませんよ。ただ彼女の場合は少し事情が違う」
射扇の言葉で坂下は事情を察して、
「なるほど、国外からの……、それで〈結社〉が他国の諜報関係者や犯罪組織と接触を持とうとしていたかどうかを探っていたわけですね」
「あくまで可能性があるかどうかですよ」
「部下を別に遣らせたということは、もうその可能性はなくなったのでしょう?」
「九割方は。実に人間的な回答でした」
それは一体どういうことか。
もたげる疑問を隠しきれない楓が目顔で問うと、代わりに坂下が応じた。
「つまり射扇捜査官の質問に対して、返答に詰まったり、『どういうことですか』と疑問で返したり、あるいは声音に色々な情感が込もっていたということです。犯罪組織の構成員の場合は取り調べを受ける事態をあらかじめ想定して、それ用の回答を仕込んでくることが多いんですよ。疑われないようにね。だから捜査官の質問にきっちり的確な返事を返して、特に慌てたりはしません。台本を読むような感じといえばいいでしょうか、微妙な声音が本当にいきなり連れてこられた無実の人とは違っています。落ち着きすぎていて逆に不自然なんですね。それに対して、あなたは全部が生成りであったと、少なくとも射扇捜査官はそう判断したわけです」
「はぁ……」と長い説明に楓がうなずくと、
「要するに、取り調べはもうあらかた終わりですよ」
坂下が笑顔で告げたので、楓は肩をなで下ろす。
拷問には遭わずにすんだのだ。
いや、元よりそれは彼女が勝手に膨らませた想像でしかなかったが。
しかしほっとするのも束の間、楓は相手のまた微妙な言葉が気になる。
あらかた、とはどういう意味か。
心中に浮かんだ疑問を投げかける前に、男がぺこりと礼をした。
「はじめまして、探偵の坂下です」




