第五章『特高の取り調べ』1
「――旭号こと三二四便は帝都第二城壁駅へは五分の遅延――」
淡々と読みあげる声の意味するところを聞き知った楓は、こっそりため息をついた。
「――貴方は、というより列車は午後一時三十四分に入都。三二四便は一等車二等車のみで構成されているので入管手続きは車内で受けられましたね? 誤っていなければ返事をしてください」
「……はい」
射扇が縷陳する楓の行動には誤りがない。
なさすぎて恐ろしいぐらいであった。誰にも教えていないのに、帝都に入国した時間や列車を把握されているのだ。むろん楓は目の前にいる二人とは初対面である。そんな彼らに行動が筒抜けであると懇切に教えられる気分はいかばかりか。楓は不気味さしか覚えなかった。
警察署の取調室という場所柄も相まって、気分は最悪といってよかった。
ふつふつといやな汗が出てくる。一方的に聞かされる内容自体はどこも間違っていないので、問われる身としてはうなずかざるをえない。それがまるで意志に反して肯定しているかのような気分にさせられるので、否応なしの不快感を覚えてしまうのである。
これがいくところまでいけば、本当のことで肯いているのにもかかわらず、自分は嘘をついているとのあべこべな心理に達してしまい、進んで嘘を〝自白〟してしまうことになる。
そもそも連れてこられたと思ったら、外套を脱ぐ間もあいさつを交わす間もなく、椅子に座らされてそのまま取り調べに移行したのも、楓に不快な印象を与えるのに一役買っていた。
「午後五時までに御山ビルヂングへ――足取りはこんなところでよろしいですね」
はい、と楓がうなずくと、射扇は、
「ありがとうございます」と書類からいったん目を離す。
ひと段落がついたようだ。
楓は大きなため息を漏らす。ようやく人心地がついた。
ここは特別高度警察隊の東部市分署にある取調室だ。分署とは名ばかりで、帝都警察の東部市中央署の一角を特高が強引に間借りしているのだが、両者の縄張り争いなど楓のあずかり知らぬ話。
左右の壁面では瓦斯灯が煌々と輝いており、楓が想像していた取調室というものよりずっと明るい。灯りより高い位置に格子窓が小さな口を開けていた。楓の身長では外をうかがうことはおろか、手を伸ばしても届きそうにない。
部屋の中央には木製の机が三つ向かい合って『品』の字に並んでおり、蛇の目のネクタイをしめた射扇捜査官と楓が差し向いに座っている。脇の机では日進捜査官が片言も漏らさぬよう調書に速記しつつ、楓が妙な行動を起こさぬよう目をぎらつかせていた。
日進から一切遠慮がない視線を受ける楓だが、監視しているという行いを見せて威圧感を与えているのだと想到し、また射扇の方を見た。
彼はそれを待っていたかのように取り調べを再開する。
「東部市中央停車場で午後三時の《時計塔》の鐘を聞いたのは確かなんですね」
「はい……、間違いありません」
「それでは《時計塔》の鐘の音を聞いてからの行動を教えてください」
射扇はさっきとは逆に楓に説明を求めた。
帝都に入ってからの彼女の動きを捕捉しきれていないのだろうか。
や、そうではない、と楓。
帝都の中こそ特高の縄張りだろう。つかんでいないわけがない。
それなのにこちらに説明を求めるのは、向こうが把握している行動とこちらが口述する行動との違いをえぐるためだろう。もし違いがあれば、その点を徹底的に責めさいなまれるのは必至だ。
先までは返事をしていれば済んだが、今度は自らの口で進んでいかなければならない。
記憶を慎重にたどるべく、楓はうつむきがちになってゆっくりと口を開く。
「駅にある喫茶店で少しばかり休憩いたしまして、それから御山ビルへと向かいました」
「東部市中央停車場の喫茶店といいますと、イノダコーヒーの東部市駅店ですね」
「店名まではすこし……、見ておりませんでしたから」
入るときはここがよいのですと誘われ、出るときは時間を気にして確認していなかった。
「店名も見ずに入るのですか。あなたは帝都に来るのは初めてでしょう。店の名前ぐらい確認すると思います。なのにあなたは見なかった。それはなぜですか?」
射扇捜査官は鄭重に相手を扱う。
それがかえって楓に非常なやりづらさを感じさせていた。
だいいち足取りを最初からたどるやり方からしてまだるっこしい。令状を取ってまで尋ねたい内容はなんなのか、それさえいまだに判明していないのだ。仮にこれが尋問という形で直截に問題視している点を問うのならば、それがたとえ暴力を伴うものであれ、その内容について頑として口を割らないか、あっさり全て口にするかを決められる。
それに引き替え、このやり方には底意地の悪さがうかがえた。
――私は何も悪いことをしていないのに
楓はすぐにでもそう訴えたかったが、こういった手合いは自分が知りたいことを知りぬくまで退かないものである。だから彼女は話すしかない。
「その、駅で知り合った方に案内されまして……」
「〈全弌巫機構〉帝都支部所属の方ではなく? どういった経緯で」
「時計塔を見ていたら出会い、あれこれ他愛のないお話をしました」
「その他愛ない話の内容というのは?」
「個人間のことですが――」
そこまで立ち入って聞くのですか、と言外に楓。
射扇は黙ってうなずいて先を促す。
「初めて帝都に来た私への助言ですよ。時計塔や東部市駅、煤煙、慣用句、暖冬や戦前のこと」日進の頬が一瞬ひくつくも楓は気付かない。「――それらがわたくしのかかわっていると目されている事件に結びつくと、そのようにお考えなのでしょうか」
時間が経ち、楓は証言すべきこととそうでないことを判別できるほどには落ち着きを取り戻しはじめていた。
「可能性はありえますのでね。イノダコーヒーを出たのは何時ごろですか?」
「……店を出てからビルに入るまで鐘の音を聞いていないので、おそらく四時過ぎであったのではないかと思います。そのときは時間を意識していませんでしたが」
「待ち合わせがあるのにですか?」
「相手が今から行けばいいと頃合いを告げてくださいましたので。それに帝都の方はどうだか存じ上げませんが、私には時計を持つ習慣がありません」
「ああ、極東の方でしたね。では、東部市中央停車場から御山ビルヂングへは帝都市街電気鉄道を利用しましたか」
「帝都市街でん……?」
これまた知らない言葉を出されて楓は混乱する。
「よくわかりませんが、歩いて向かいました」
「帝都市街電気鉄道。大手通を走っているのを見かけませんでしたか?」
「ああ、あの路面を走る……」
楓は蒸気を吐かない列車を思い出す。
「しかし東部市中央停車場から御山ビルヂングまで移動しようと思えば、タクシーか俥、もしくは帝都市街電気鉄道を使うはずです。ましてや初めての帝都ならばなおさら。なのに、あなたはなぜ歩こうと考えたのでしょうか。しかもわざわざ人の少ない裏通りを」
楓はやはり自分の行動が特高に把握されているのを知った。
でなければ、向こうから先んじて裏通りのことを切りだせるわけがない。
ちらりと射扇の表情を盗み見るが、相手は柔和な表情を保ったままだ。相対する者に感情を読ませない技術である。特高の捜査官は仮面の一団とは別の意味で表情を張り付ける術を知っているのだ。
その仮面の一団については楓の方が進んで話したくもあるが、順を追わなければ内容が飛躍してしまう。それは特高も望まないだろう。
「道を案内していただいて、歩いて行っても時間はかからないと言われましたから。それにタクシーも俥も好きではありません。帝都市街電気鉄道については、初めて目にするもので乗り方もわかりませんでした」
「初めて会った相手でしょう。ずいぶんと信用するのですね」
特高と違ってなんでも疑うようには生まれていないので。
そんな言葉がよぎった楓だが、さすがにそれを口にできるほどの勇気も図太さも怒りもなく、
「……それぐらいの目は、持っているつもりです」
と言葉を選んで絞りだすように答えた。
「その案内に従った結果が裏通りですか?」
「はい」
「それはおかしいですね。たとえ歩いて行くにしても、御山ビルヂングへは大手通をまっすぐ東へ進んで、角を一つ曲がるのが一番わかりやすいんです。車でここへ来る途中で気づきませんでしたか、御山ビルヂングの通りをまっすぐ進むと大手通に出ることに。
つまりわざわざ路地裏へ入るのは、必ずしも遠回りとはいえませんが、けして近道にもならないのです。仮に近道になるとしても、初めて帝都に来た相手にそんな道を歩かせようと思いません。東部市の路地裏は入り組んでいますからね」
「おかしいですね、と言われましても――」
もらった道案内に従っただけである。
射扇はその相手が怪しいと暗に言っている。
そんな相手を信用するお前の目も節穴だぞ、と。
しかし楓とてめくら滅法に相手を信じたのではない。最短でない経路を教えるような小さな意地悪のために話し相手になるだろうか。あまつさえ飲食代までおごるだろうか。仮に不審な点があるのを認めたとして、そこから導かれる筋道は非合理的だ。
――そうだ、あの紙を見せればこの疑いは晴れる
そっと手を動かして外套を探るが、肝心の案内を記した紙がなかった。
「怪しい動きをしませんように」
「路地裏を行くよう記された案内の紙を持っているので、それを見ていただければ」
釘を刺す射扇に楓が訴えるも、
「それについては結構です」とあっさり却下されてしまう。
「え?」
「とりあえずその件は置いておきます」
射扇もいま楓が考えたのと同じような疑問を検討していて、どれもぱっとしなかったので、深く突っ込んでも得るものがないと判断したのである。しかし捜査官の勘が怪しいと告げている。もっともそんな感情はおくびにも出さない。彼女が誰と喫茶店に入ったかは、現地で聞きこめば自ずとわかるだろう。
それに令状まで取得した本題はむしろここからであった。




