7.子爵一家転落事件 ⑦
シャロン領の領都の朝は早い。まだ日が水平線から顔を出して間もないというの、港から水揚げされた魚を運ぶ船乗りたちが街の道を往来している。
広場では小麦粉を油で揚げて肉を巻いた料理が朝食として売り出されていた。
パン屋の屋根から出る煙には、焼きたてのパンの香ばしい匂いが混じっている。
「では、ナタン警視。報告は宿でいたします」
「あぁ、頼む」
次の日の早朝、朝食を食べ終わったナタンとシムアは宿屋で打ち合わせをしていた。
ナタンはナオミが十一月十一日から十四日までの間に滞在していた孤児院へと向かう。
シムアはシャロン領主の屋敷で使用人たちからの聞き込みである。主に、御者であったジークの人物像と、そして、ジークが最近結婚したというレイナという女性から話を聞く。ジークに子爵一家を殺害しようとする動機があったかどうかを調べるためである。
ナタンは、セバスからもらった地図を頼りに街を抜けて、収穫が終わった畑を通り抜けていく。小麦はすでにはで干しも終わり、脱穀されて大切に倉庫にしまわれているのであろう。
「この森の中とはな。たしかに地図が必要だったな」
畑に囲まれた小高い丘、そこには未開墾の森がぽつんと残っていた。外からは森が広がっているだけで、中に建物があるとは、知っている者以外は考えもつかないであろう。
森の中を歩くと所々に古い石垣がある。蔓やコケに覆われている。もしかしたら開拓時代にはここが開拓者の拠点であったのかもしれない。
ナタンは雑木林の中、馬を進めていく。
馬道は荒れていない。定期的に整備されているようだ。雑木林も定期的に人の手が入れられていることが分かる。管理された森林である。
「ここが孤児院か」
ナタンは自分の推測が当たっていたことを確信した。孤児院といっても、昔は大層な屋敷であったという名残があった。
半壊しているが孤児院の周りには二メートルを超す石垣がある。シャロン領の歴史は長い。開拓時代があり入植者たちがこのシャロン領を豊かな農地へと変え、大規模な港を建設したのだ。開拓初期時代のものであろう。
ナタンは門……と言うには壊れているが……門の近くで馬を降りて手綱を引いて孤児院の敷地へと入る。
「すまないが院長を呼んできてくれないか?」
敷地へと入ってきたナタンを子供達は明らかに警戒していた。脅えている女の子を庇うように立つ男の子にナタンは言ったのだ。
「何者だ」
「王都から来た王様の使いだ」
男の子はそれを聞くと脅えている女の子の手を引きながら屋敷の中へと入っていった。
建物の中へと入っていく男の子と女の子。それに、木の陰や樽の後ろに隠れてナタンの様子をうかがっている子供達。
その子供達を見て、随分と身なりがまともだな、とナタンは思った。王都の孤児院などボロキレを纏っている。
痩せ細っているというわけではない。シャロン領は孤児の保護に手厚いのかもしれない。
「お待たせいたしました。ここの責任者を務めておりますテレジアと申します」
老婆が子ども達とともにやって来た。
老婆の前に立ちはだかるのは少年たちだ。テレジアを守ろうとしているのであろうが、残念ながらナタンは孤児院を襲いに来たわけでも、奴隷として孤児を買い付けに来たわけでもない。
「王都で公安をしておりますナタンと申します」
ナタンの自己紹介を聞いてテレジアの顔がぱぁっと明るくなった。
「ナッシュが見つかったのですか? まさか王都にいたなんて」
ナッシュ? 今回の件で初めて出て来た名前だった。
「ん? 王都? なんの話でしょうか。実は、シャロン領主エリアム様たちのことで参りました」
「そ、そうでございましたか……先日の……ナオミ様のことで?」
「はい。そのことですが……人払いをしていただいても?」
「え、えぇ。あなたたち、あちらで遊んでおいで」とテレジアは言ったあと、申し訳なさそうに「ご接待をするような部屋が孤児院にはないのですが……」と言った。
「立ち話で結構です。実は、エリアム様たちが事故でお亡くなりになりました」
「それは本当ですか? まさかナオミ……いえ、ナオミ様も?」
テレジアも事故のことを知らない様子だった。まだ街にも知られていないシャロン領主の使用人止まりの情報であるから当然であろう。
「いえ、ナオミ様だけがご存命です。エリアム様、イザベラ様、アムノン様、バラク様がお亡くなりになりました」
「心から哀悼の意を……」
「それで……ナオミ様が先日、この孤児院に滞在されていたと聞いてお話を伺いに来たのです。ナオミ様は、こちらへ何をされに来たのですかな?」
「もしかしたら、嫁いでシャロン領に戻ることがないかも知れないからと……育ったこの孤児院をもう一度見たいと……」
ナオミの言っていたことと証言が少しだけずれていた。
「それだけですかな?」
「ナオミ様の実の両親と……それとナッシュの消息の手がかりがないかを尋ねられました」
「ナオミ様は孤児だったと聞きました。それで手がかりは?」
孤児院長テレジアは首を横に振った。
「それで、ナッシュというのは誰ですか?」
「生きていれば……今、十二歳の男の子です……。領主様に捜索をお願いしているのですが、未だに見つかっていないのです」
「その少年はいつから行方不明に?」
「一年と少し前です……乳飲み子のときの怪我で腕が不自由なので……心配で……」
一年と少し前……。今回の事件とはあまり関係がないように思える。
「それで、どうしてナオミ様はそのナッシュをお探しに?」
「孤児院で仲が良かったのです。ナオミ様の二つ年上です。本当の兄弟姉妹のようでした。ナオミ様がエリアム様の養女となられる少し前にいなくなってしまったのです」
孤児院で保護されているならまだしも、外の世界で子どもが一人生きていくことは極めて困難であろう。生きている可能性は少ないかもしれないとナタンは思った。
「そんなことがあったのですか……」
「私の監督不行届でもあります。実の両親とナッシュの消息が分かったらバラク様にお知らせするようにナオミ様から、先日も熱心に頼まれました」
「なぜバラク様に? エリアム様ではなく?」
「え……えぇ。それはなぜだか分かりません」
「まぁ、そのことはいいでしょう」
おそらく、エリアムに伝えたとしても、ナオミのもとにその情報は届かないと思っていたのだろう。嫁として他の貴族に嫁いだのに、実の両親の消息が分かり、里心がついても具合が悪い。バラクがこっそり手紙か何かで知らせる手筈だったのだろう。
「それにしても、恵まれた孤児院なのですね」
ナタンは言った。孤児たちが着ている服、また顔色など栄養状態も良い。
「はい……シャロン領主様のお計らいです」
「ナオミ様を養女として出す見返りでしょうか?」と核心を突くようにナタンは言った。
テレジアは少し地面に顔を向け、そして再びナタンの方へと顔を上げた。テレジアは五十を過ぎたくらいであろうか。だが、顔には皺が多い。長年の苦労が滲み出ている。
「それもあります……。ナオミ様が養女になる見返りとして、孤児院に、この森での狩猟採取権と森林利用権を独占的に与えてくださいました。森で採れるキノコや枝を集めて街に売りに行けるようになり、いまではそれがこの孤児院の大きな助けとなっています」
「良い領主様ですね。あなたも、領主様から養女引き取りの申し出があれば断ることもできないでしょう。ナオミ様も、本当の家族のように大切にされたとおっしゃられていました。あなたが気に病むことは一切ありません」
「ありがとうございます。当時八歳のナオミ様は、泣きながらこの孤児院にいさせてと懇願され……それを私は……」
「里親として領主様が引き取る以上の好条件はなかなかありませんよ」
孤児院は受け入れるのは良いが、その後のことのほうが大変である。成人して職を斡旋するか、里親を探して引き取ってもらうか。
里親といっても、引き取ったあと、使い捨ての労働力として奴隷のように働かせる者も多いのが現状である。
「ナオミ様は、孤児院ではどのような子どもだったのでしょうか?」
「自分よりも小さな子どもの面倒をよく見る優しい子です。あと、シロツメクサで王冠を作ったりするのが好きな子でした。ナッシュが失踪する前はよく二人で仕事の合間に花畑に行って遊んで、私に花をよく摘んできてくれました」
年齢相応の少女だったということだろうか。二年経っているとは言え、領主の館で自分と応対した現在のナオミとはあまり結びつかない。
「あと、おとぎ話でシンデレラの話が好きでした。子どもの頃、ナオミが眠れないとき、あの子からよくお話して欲しいとせがまれました」
シンデレラ……。おとぎ話によくある、虐げられた娘が、魔法使いの助けにより、王子と結ばれるという話である。
「シンデレラですか……」
「えぇ。この前、孤児院で滞在したときも、毎晩、昔のようにシンデレラの物語を話して欲しいとせがまれました。八歳のときと同じように目をキラキラさせて聞いていました。領主の娘として色々と苦労することもあるのでしょう」
それは随分と不思議な話だ、とナタンは思った。
孤児であったナオミが、領主の養女に迎えられる。孤児のときとは比べものにならない程の生活であるだろう。
それは一種の、シンデレラ物語の成就である。ナオミは滅多にない幸運を掴み、シンデレラとなったのだ。
シンデレラとなりながらもシンデレラに憧れつづける少女。シャロン領主が、シンデレラを王城へと導くカボチャの馬車であるとしたら……その馬車は崖から転落したのである。