6.子爵一家転落事件 ⑥
馬小屋の近くに掘られた井戸の近くでナタンは少年から話を聞くことにした。
「十一月四日から馬の異常が起こったと、領主代行であるナオミ様とセバス殿がおしゃっていたが、そのことを詳しく聞きたいんだ」
少年の顔が一気に暗くなったようにナタンは感じた。かすかに恐れ、緊張もしているようだった。
だがそれは少年の立場であれば当然であろう。
馬車での移動中に崖から転落。
公安としては暗殺をまっさきに疑う。そして次に事故であるならその原因を調べる。
事故であったということでも、馬車の転落となれば、疑われるのは御者の操縦ミスと、馬の異常である。
そして、馬の異常は直近で起こっていた。御者は暗殺にしろ、事故にしろまっさきに実行犯として疑われるし、処罰の対象となる。
もっとも……転落時に馬を操縦していた御者ジークも一緒に崖から落ちて死亡していることが確認されている。御者ジークが生き残っていたとしたら、領主一家死亡の責任を果たしてもらうことになったであろう。
「それで、君の名前は?」
「アルスといいます。この屋敷で動物たちの世話をやらせてもらっています」
十二歳……いや、十三歳ほどの少年である。鮮やかな金色の髪に青い瞳。
「よろしくな、アルス」とシムアは気さくに言った。
「それで、馬の異常というのはどのようなものだったのだ?」
「最初は、ウォームブラッド種の異常でした。朝から餌を食べずに、馬小屋で暴れ回っていました。運動場へと連れて行くのも大変でした。ジークさんと僕で、なんとか手綱を退いて馬小屋から出して運動場に移動させました」
ウォームブラッドは、重荷運びや乗馬用の馬である。
「今回、転落した馬たちもウォームブラッド種だったね?」とシムアが確認をするように言った。
力が強い品種で馬車を引くのに適した馬であるとされている。
「はい、そうです。ですからエリアム様はジークさんと相談をして、王都への出発を遅らせることにしたのです。エリアム様も実際に運動場にいる馬たちの様子を見に来られていました」
「馬たちはどんな様子で?」
「運動場に行ったあともずっと暴れ回っていました。エサを食べず、暴れ回り疲れ果て、地面に倒れるように横たわる。そんな状況でした」
「それで?」とナタンは続きをアルスに促す。
「次の日には、ウォームブラッド種は落ち着いたのですが、今度はポニー種が同じような症状になりました。その次の日は、ダート・ムーア種でした」
「馬たちが次から次へと……それで原因は?」
「馬たちのこんな症状見たことないとジークさんは言っていました。ただ、新たな流行病かも知れないとジークさんは心配していました。ですが、それにしては回復が早すぎると首を傾げていました。あと、もしかしたら満月が大きすぎるからかもしれないと」
「満月が大きい? 丸いのではなくて? いや……満月は丸いから満月か……どういうことだ?」
「いつもより月が大きいと皆言っていました。王都からでも月は見えると思いますが……。それに、港の満潮の時の潮位も例年より高いらしいと屋敷の方たちから聞きました」
「シムア、気付いたか?」
「いえ……」
貴族にまつわる事件や事故は多数起きている。日々、王国中を忙しく走り回っている公安である。ゆっくり月を……星空を見上げたのはいつであったか。
「犬も、いつもよりも夜吠が五月蠅かったです」
「だが、満月が馬を狂わせるなんて聞いたことがないぞ。狼男の伝説でもあるまいし」
「はい。ただ、ジークさんがそう言っていました。それに満月を過ぎてはっきりと月がかけ始めたのあたりから馬がおかしくなるのはピタリと止みました。でも……それが原因だったのか分かりませんが」
結局、分からないということだろう。
「アルス君と言ったか。話は変わるが、君はエリアム様たちが出発した十五日の朝、どこにいたのかな?」
「この屋敷の敷地にはいました。朝ですから、家畜小屋の掃除をしていたと思います」
「それを証言出来る者は?」
「僕……疑われていますか?」
「念の為に聞いていると思って欲しい」
「ニワトリが産んだ卵と牛乳を屋敷の台所に届けましたが……それは……エリアム様たちが朝食で召し上がったので……出発前です……。あっ。その後、またチーズを作るようの牛乳を台所へと届けました。それは、エリアム様たちが出発したあとだったと思います。見送りをしたと料理長が話をしているのを聞きましたから」
「君は見送りをしなかった?」
「はい……こんな薄汚れた格好ですし」
ナタンは少年の衣服を見る。
シャロン領主の家の召し使いとしてボロキレを纏っているというわけではない。ただ、家畜小屋や馬小屋を掃除するなどして汚れている。糞尿の匂いがするであろう。
「なるほど、では、御者のジーク君に変わったことは無かったか? たとえば、お金が必要だ、とか借金を誰かにしているとか、そんな話を聞いたことはないか?」
シャロン領主が盗賊などに襲われた形跡はなかった。
馬車に乗っている貴族を暗殺する場合、よく使われる手が、人気のない道で襲うか、御者が故意に起こした事故である。
御者は幸運にも生き残るか……事故のあと行方をくらますかである。御者は崖から落ちる直前に逃げ出すはずが、なにかの手違いで一緒に崖から落ちて命を落としてしまった。そう考えるのが極めて自然である。
ジークが暗殺の実行犯なら動機が必要である。そして、だいたいの動機が、金である。
賭博に深入りしていた……ということなら話が早い。
女に入れ込んでいたというのも同様に話が早い。
ナタンの経験上、いちばんやるせないのが、妻や子供が病気で高い薬代のためにそそのかされて貴族の暗殺に加わるということだ。
その悪魔の囁きのような誘いに乗らなければ妻や子供が死ぬ。
だが、実行犯と判明すれば、貴族を害したという罪状は重い。一族が連座して処刑される。そんな事情であった場合、ナタンはやるせない思いとなるのだ。
「借金ですか……いえ……聞いたことはありません。ですがジークさんは最近、屋敷のメイドと結婚をされました」
「ほう……それで?」
「僕たち使用人は基本的に住み込みで働いています。ジークさんとレイナさんは、使用人用の一軒家をエリアム様が与えてくださってそこに住み始めました。祝儀もびっくりしてしまうくらいもらったとエリアム様に感謝していました」
「君自身はどうなんだ? 屋敷の使用人としても若いだろう? 君のお父上と母上もこの屋敷で働いているのかな?」
屋敷の使用人同士が結ばれるというのは良くある話である。ジークとレイナもそういうことなのであろう。そして、屋敷の使用人同士が結ばれた場合、産まれた子供もそのまま屋敷の使用人として召し抱えられることが多い。身元がはっきりしているので貴族側にとっても雇いやすいのだ。
「いえ……僕は、十歳のときに村が盗賊に襲われて……その生き残りです。逃げ延びたところをバラク様に拾われてここでそのまま働かせてもらっています」
「そうか……悪かったな。仕事を中断させて。今日のところは以上だ。協力感謝する」
「いえ……当然のことです」
「では、適当に家畜小屋や馬小屋を調べさせてもらってから帰るとしよう。そうだ、アルス君、君は右腕が悪いのか?」
アルスはブラシで馬部屋の床を磨いていたときにナタンは気がついた。右腕を庇いながら作業をしているようであったのだ。
「えぇ。暴れた馬から転落してしまって。地面に右肩から落ちてしまいまして」
「そうか、お大事にな」
屋敷の敷地は広く、見回るだけでも時間を食ってしまった。庭園で仕事をしていた庭師などからも話を聞いた。
シャロン領主の一家は使用人たちから好かれていたようだ。食と住の待遇も良く、給金も高い。また、理不尽なことを言わない領主一家。
庭師も、エリアムの妻、イザベラが楽しみにしていた薔薇たちがカイガラムシの大量発生によりほとんど枯れてしまったことがあったらしい。
カイガラムシは駆除しにくく、庭師にとっても天災のようなもので防ぐことは難しい。だが、普通なら庭師は責任を取らされる。が、庭師はお咎めなしであったという。来年は期待しています、という優しい笑みとともに。
まさしく貴族の鏡というべき美談である。
屋敷の帰りにセバスから孤児院の地図を受け取った。予想以上に街から離れた場所であった。地図が必要になるのも頷ける話だった。
「明日、シムアが屋敷の使用人たちから色々と話を聞かせてもらっても良いですか?」
ナタンは明日の調査はシムアと別行動することに決めた。自分が孤児院へと行き、シムアが屋敷で聞き込みをする。
特に、御者ジークと結婚をしたというレイナからは話を聞かなければならないだろう。
「はい、かまいません」
「あと、馬の世話を感謝する」
どうやらナタンとシムアが乗ってきた馬に水とエサを与え、ブラッシングをしてくれたようだ。セバスやナオミから話を聞いている間に、世話をしてくれたのだろう。
「お礼ならアルスに言ってください。それに……来客の方々の馬車や馬にもおもてなしをするようにといつもエリアム様から言われておりました」
セバスは少し悲しい顔をした。
「そうでしたか。ではシムア、明日、アルス君に礼を言うように。では、失礼します」
ナタンとシムアは屋敷を発ち、街の宿へと着いた。調査が終わるまでそこに滞在する予定である。悪くない宿だった。食堂は、宿泊客だけでなく街の人間も食べに来ているようだった。旨い食事を出すという何よりの証明である。
「このあたりの名物料理ってありますか?」
シムアは宿の食堂で店主に言った。
ナタンにとっては見慣れた光景である。シムアは、事件で赴く先々の地元特産の料理を食べるようにしているようだ。
王国中を駆け回っても、パンとチーズとエールと同じ物では味気ない。
「魚だね。今日は旨い魚があがったよ。あとこの季節はワサビモドキかな。銅貨二枚の追加料金をもらえればそれを出すよ」
「じゃあそれで。ナタンさんも同じのでいいですか?」
「あぁ。あとエールを頼む」
「あいよ」
店主は忙しそうに台所の奥へと消えていった。
「それで……明日、私が屋敷の調査で良いんですか?」
「あぁ、頼むよ」
「理由をお聞かせいただいていいですか?」
シムアの疑問はもっともだった。孤児院に行く目的は、十一月十一日から十四日の間、ナオミが本当に家出をして孤児院に滞在していたかを調べるということだ。
だが、シャロン領主が屋敷を出発したのは十五日で、そのころにはナオミは屋敷へと連れ戻されているから事件当日のアリバイはある。
ナオミが家出をしたというのはシャロン家のお家騒動ではあるだろうが、今回の事件とは直接関係がないように思える。
重要度で言えば、屋敷の使用人たちから聞き込みをする方が重要である。ナタンが屋敷で聞き込み、シムアが孤児院に行くというのが捜査としては正しい役割分担であろう。
「あのナオミって少女。化粧しとった」
ナタンは呟いた。
「え? そうでしたか?」
薄化粧であった。
それも、華やかに見せるためのものではなく、幽かに塗った口紅は、赤色でなくわざと灰を混ぜたかのような、色調を落とした鈍色であった。
唇を赤く染めて、健康的で魅力的に見せるのではなく、その真逆の化粧をしていた。
化粧をしていたことに気付いたのは、ナタンの警視としての長年の観察眼の賜物であっただろう。
あの化粧は……より同情を誘うための化粧だった……。屋敷にいた侍女たちがその化粧を施したのかもしれない。が……美しさを引き立てる以外の化粧をするだろうか?
ナオミという少女が自らしたのであれば……。
いやいや、考えすぎか。
だが、ナタンはナオミという少女に引っかかりを感じた。そして、そのひっかかりは、大事にすべきだというのがナタンの持論だ。
「お待たせ」
店主が料理を持って来た。魚一尾をまるごと油で焼いた料理であった。
「旨そうですね」
「あぁ」
「お二人は地元の人間じゃないよね?」
「あぁ、王都から来た」
「それじゃあ、このワサビモドキはちょっとずつ様子を見ながら口に入れてくれ」
「へぇ、これ、山葵じゃないのか」
「このワサビモドキはちょっと特殊でね。生で食べると酸に反応して辛味が出るんだ。噛むと甘いけどね。地元の人間はこの季節、これを齧って身体の芯から温まるんだよ」
さっそくシムアが恐る恐る少し齧った。
「腹に落ちてから一気に汗が噴き出ますね。面白い。こういう食べ物に出会えるのが出張の役得ですね」
「俺は止めておこう。魚も旨いな」
綺麗に鱗が処理され、油で皮がパリパリに焼かれていた。中の白身も程よい塩加減だった。ナタンは、エールが進む味だと思った。