1.子爵一家転落事件 ①
「ここが現場か」
ナタン警視は、シャロン領と王都へと続く街道の難所。ギルガル山の山道の崖の上から谷を見下ろしながら呟いた。
偏西風が強く吹き付けていた。狭い山道であった。
御者が操縦を誤って崖から谷へと転落した。
事故死。
良くある話である。
死体や馬車には金品がそのまま残っている。馬車には山賊に襲われたような形跡もない。
「事故ですね」
そうだろうな、とナタンは思った。
本来ならば、王族直轄の公安警察である自分がわざわざ王都から出向いて現場を実検する必要のない案件である。
だが、今回は、その死体が子爵……つまり貴族であるということが問題であった。
貴族の死に際しては、公安は動かなくてはならない。かならず公安が死因を調査し、そして報告書を王に届ける。
その報告書に基づいて、王の裁量がなされる。
つまり……それだけ貴族の闇は深いということである。
後継者を狙っての暗殺。
当主の座を狙っての暗殺。
王となれるのは一人であるように、貴族の当主となれるのも一人である。貴族の当主であるか、それとも貴族ではありつつも当主の家臣であるのか。
それには天と地との差がある。
それゆえ、貴族は、身内による暗殺が絶えない。
そしてそれを防ぐのがナタンの仕事である。
貴族が死亡したときには、かならず公安が動き、貴族の死因を調べ上げる。
老衰や病死などの自然死であれば、そうであると報告書を書き、他殺であればそう報告書に書く。
他殺であれば、犯人を突き止める。
犯人に貴族の当主を継がせるわけにはいかないからである。
そんなことを許せば、王族、貴族、平民、奴隷という安定した社会階級を崩壊させかねない事態となる。
貴族の死に関しては、徹底敵に調べ上げねばならない。
だが、事故死であろう。ナタンはそう思った。
「馬は?」
「重くて谷から引き上げられません。ただ、刃物や矢などによる外傷がないことは確認できました」
「そうか……」
あとナタンが気がかりであることと言えば、どうしてこんな悪路を通ったのか、ということである。シャロン領から王都までの最短の道であることは間違いない。
子爵一家は、半年に一度ある諸侯会議に出席するために王都へと馬車で向かったということは間違いない。
半年に一度の諸侯会議に出席するのは貴族の義務だ。そして、会議に付随して開かれる舞踏会やお茶会に出席するために家族総出で王都に出向くのは貴族にとって自然なことである。
このギルガル山を通れば三日で王都へと着くであろう。だが、危険な山道だ。貴族の大きな馬車であればなおいっそう危険である。
ナタンは地図を広げる。
南方経由で行けば、馬車で一週間はかかるだろう。だが、定例的に行われる諸侯会議である。貴族にとって最重要な義務であるだけに、予定しておいて当然の行事である。
安全な南方経由のルートを通るのが普通ではないだろうか?
いや……肉体がほとんど朽ち果てたシャロン領主の妻の死体を眺める。
手脚など露出している部分に比べて顔の腐敗が著しく少ない。
白粉などの化粧をしていたのであろう。化粧の成分に含まれる水銀が腐敗を遅らせている。
領主夫人の胸元には大きな宝石のネックレスが下げられたままである。王都で煌びやかに着飾るのには良いが、この事故現場は、屋敷から出発して四時間ほどの距離である。着飾るのには早すぎる。
ナタンは遺体のネックレスを丁寧に外して手に持った。
ネックレスは大きな宝石がついており、重量がある。馬車の移動中に付けておくには首や肩が凝るだろう。
ナタンは、冥界の住人となった夫人の胸元にネックレスをそっと戻した。
着ている衣装も、舞踏会で着るドレスとしては相応であり、他の貴族たちとひけを取らないであろう。だが、馬車の移動中に着るには不適応である。馬車に揺られ、ドレスは皺となってしまうであろう。
「おおかた、夫人の衣装が決まらず、予定よりも出発が遅れ、予定を変更してこの悪路を通ることにした……そして、崖から転落か……」
馬車の積み荷として残っていた金貨の量も、王族直轄の公安として働くナタンからしたら目が飛び上がりそうなほどの金額である。今後、公安としての仕事を全うして、そして順調に出世したとしても、これほどの金貨を給金としてもらうことはないだろう。
シャロン領。
地中海に面した海洋貿易を担う豊かな領地。安定した偏西風によって運ばれてくる異国の品々。良港で魚の水揚げも多いと聞く。
ギルガル山を中心とした、王都とシャロン領を隔てる山脈は、偏西風によって運ばれてきた湿った海風を雨水として落とすには十分な高さで、農業も盛んな土地であると言われている。
「シャロン領の領主様が一家全滅となれば、王都は荒れるだろうな」
だれが次にこの領地の領主となるのか。
四日後に開かれる諸侯会議の注目の議題となるであろう。
功績を立てた平民が貴族へと格上げされるか。
また、他の貴族が治めるにしても、大金を生み出す領地だ。会議は、荒れるであろう。
「いえ……もう一人、娘がいたようです」
「なに?」
貴族図鑑。王族が所有している貴族の正式な記録の写しである。貴族の歴史が事細かに載っており、どのような功績を立ててきたのかという一族の功績から、代々の貴族領主とその家族の肖像まで載っている。
この貴族図鑑に名を連ねることが貴族に連なるものであるといって良い。
要は、自分は貴族の血を引く者だと名乗りを勝手に上げたところで、貴族図鑑に載っていなければ非嫡出とされて、貴族と見做されない。召し使いをお手つきにして子供を出産させるなどして、後継者争いが乱れるのを防ぐ目的の書類である。
「シャロン領主の末尾に追加されています」
ナタンは乱暴にその資料を部下から奪い取って書面に眼を走らせる。
「シャロン領主の娘……ナオミ? 生年月日から言うと……十歳?」
この貴族図鑑はおかしい。
十歳であれば、図鑑の写しの末尾になど記載されているはずがない。毎年、王国に治めた納税額などが詳細に記された書面が図鑑に追加されていくからだ。王が貴族の衰勢を把握する資料でもあるのだ。十歳の娘が、図鑑の最後に出てくるのは不自然である。十年分の納税資料の前に、娘が産まれたという出生記録が挟まっているはずである。図鑑の末尾に……昨年の納税書類の後に、十歳の娘の記録が載せられているのはおかしい。
「一家全滅、ということではないようだな」
ナタンは、資料に目を通して言った。
谷から引き上げられた領主、その妻、長男と次男の死体。
一人生き残った……シャロン領主の娘。
「死亡の報告と……それと事情を聞かねばならないな」
ナタンは、ギルガド山へと吹き込む風に向かい立ちながら言った。
領主が死に、その第一位後継者と第二位後継者の長男と次男が死んだ。そして、貴族図鑑にとって付けたような十歳の長女の記録。
当主と跡を継ぐ長男と次男が死に、残った長女。
「十歳というと……お亡くなりになられた次男様の一歳年下ですか」
部下がそう呟いた。
奥方が妊娠中に性欲を持てあまして、メイドなどに手をつけて産まれた……というのは貴族には良くある話だ。だが、自分の子供だとシャロン領主が認めて、王にまで申請手続きをして貴族図鑑に掲載する手続きまでするであろうか?
「その嬢ちゃん……いや……シャロン領主代行様に話を聞かんといけんな」
ナタンはそう自分に言い聞かせるように言った。
シャロン領主と婦人、長男、次男が事故死であるならば、継承権はその十歳の少女……が成人した後に結婚した男性に引き継がれる。
シャロン領主一家の……娘一人を残した事故死……。その警視としての現場の判断は変わらない。だが、直感が言っていた。
事情を聴取せねばと。