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黄金色の涙 1945 himawari  作者: 日南田 ウヲ
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後編①

 ミラノ大聖堂の主尖塔を洋一郎は見上げた。そして目を細めてそこに鎮座する像を見た。ドゥオーモには135本の聖人の像があり、そしてその一番高いところに金に輝くマリア像があると教えてくれた。

(これほどの中で地上から探すことができるのだろうか)

 洋一郎は青空の下、天に向かい伸び行く尖塔の一つ一つを見ていく。第二次世界大戦中のミラノは爆撃からもこの建物は連合国側の判断で爆撃を逃れた。

(連合国は、偉大な文化遺産ともいえるこのドゥオーモを爆撃し、破壊することは自分達の歴史やアイデンティを失うことになるという冷静な判断をしたのだろう。戦争と言う禍々しい狂気のような時代にあっても、それほどの冷静さを持っていたということか・・)

 スーツの内ポケットから洋一郎は小さな写真を取り出した。白黒の小さな写真だった。昨晩ラウンジからから戻るとベルギーのアントワープから届いた包みを開けた。そこには沢山の画集が入っていた。

 洋一郎はミラノで一週間ほどの滞在をしなければならず、その為、空き時間が出来ればギャラリーや美術館を回ろうと思い、イタリアの古今の作家の画集をあらかじめアントワープを離れる際、ホテルに送るよう指示していた。

 洋一郎はその包みの中からレオナルド・ダ・ヴィンチの画集を取り出すと膝元に置いて開いた。そして《最後の晩餐》のページを開くとそこに挟まれた写真を手に取った。そしてその写真が今手元にあるものだった。

 その写真には自分の父親の憲介と母親、そして亡くなった妻と二人の娘が写っている。

 洋一郎は目を細めて再び、尖塔を見上げた。

135人の聖人達は何も言わず黙して洋一郎を見下ろしている。

(金色のマリア・・)

 洋一郎は心の中で呟いた。

(あなたはどこにいるのだ・・)

 そう呟く洋一郎の瞳には青空しか映らなかった。



 

 煌く鴨川の流れの前で三人が河川敷に置かれた椅子に腰かけて流れる水面を見つめている。

 水野は消えた煙草を地面に落とすと足で強く踏みつけて火を消した。

 地面を強く踏みつける音に権田は顔を水野に向けて、そして隣で足を組んで腕を頭に回している近松に小さく「すいません」と言った。

 近松は首をに三回横に振ると立ち上がり言った。

「まぁ、しゃぁないんちがうかな。わからへんもんは、わからへんし」

 権田は近松の方を見て再び頭を下げた。

 権田は近松が調査したいと言った「土岐護」の事を話すのを伏せた。

 近松達の姿が見える間際まで権田は話すべきかどうか迷っていた。

 勿論、誰よりも自分が一番その人物の事については知っていたし、話すのであれば近松から電話をもらった時に話すことができた。

しかしあの時、咄嗟に自分は近松に対して「知らない」ことを決めた。それが何故だかは分からない。

(あの時、私は護さんの事を伏せた・・ほとんどそれは直感ともいっても良い・・)

 権田はその直感に強い意志を感じた。

(伏せる事に対して何か大きな意思が働いたように思う)

権田は近松を見た。心の底からすまないと詫びるような表情をしていたのだろう、近松が権田の表情を見て両手を出しながら何度も「気にせんでもいいで」と笑いながら答えた。

権田はその言葉に対して心からつらくもあったが、何よりも近松が破損したあのピカソの絵の修復をした人物こそがその土岐護自身だったことを近松が知ったらどう思うだろうかと思った。



権田はあの日、破損した絵を持って雨の中、尼崎の海岸沿いの小さな家に入った。

木造の小さな造りの玄関を開けると権田は声を出した。

「護さん、いらっしゃいますか?」

 その声に奥から低い声が聞こえた。

「清君かい?」

「ええ、そうです。ちょっと頼みたいことがありまして」

 返事をして数秒、障子が開いた。

 そこには髪を短く刈り揃えてラニングシャツとチノパンを履いた男が現れた。顎には髭があったが頬がこけていて精悍な漁師姿が似合うような男だった。

 そしてじろりと権田の手にしたものを見ると破顔して言った。

「魚の事じゃないな?手にしたそれを見ると」

 権田は頭を掻いて、すまなさそうに言った。

「護さん、そうなんです。実はこの絵がちょっと破損して色落ちなんかしたものですから修復をお願いしたくて・・・」



 権田は元町のギャラリー辞め、北野の方で自分のギャラリーを始めた頃、店の特色として複製品を扱うことを決めた。

権田は商売の最初として洋一郎の会社に飾り、その複製品を見た企業の方から注文を受けたいと考え、洋一郎に願い出た。

洋一郎は快諾しただけでなく、訪問する企業との間での斡旋も引き受けてくれた。

勿論、複製品を扱うのは土岐護というのは二人の暗黙の約束事で、権田は洋一郎から聞いた護の尼崎の家を訪れ、そのことを告げた。

それを聞いた時、護は漁師として陽に焼けた笑顔で権田に言った。

「僕みたいな、漁師でいいのかい?」

 その笑顔は道で倒れた自分を運んでくれたころと寸分変わらなかった。

まるで太陽に向かって輝く向日葵のような笑顔だった。

しかし、その笑顔が少し曇った。

「清君、実は僕、病気があってね」

「病気?」

 そう言って土岐護は腹の下腹部を触った。

「どうも肝臓を悪くしているみたいでね。あんまり長くないらしい」

 権田は、驚いて護の顔を見た。

「それは、乾さんには?」

 護は首を振った。

「言っていない。それでいいんだ、清君。僕の人生はもうすぐ終わる」

 そう言うと護は立ち上がり、権田を手招いた。護は木造の母屋から小雨が降る庭に降りると小さな箱庭のような建物の扉を開けて、室内へ入った。

権田も背を曲げてその室内に入った。

薄暗い部屋の上に天窓があり、そこには小さなステンドグラスがあって、マリアの顔があった。

そこから差し込む光の先に二つのイーゼルがあり、小さな布が掛けられていた。 

「見てごらん、清君」

 その声が薄暗い暗闇で聞こえた時、布が滑り落ちた。

「おお!」

 思わず権田は声を上げた。

 そこには差し込む光で輝く二つの向日葵が輝いていた。

「これは・・・」

 権田は薄暗闇の中にいる護に向かって言った。

「芦屋の向日葵!!」

 権田はそこで思わず唸った。

 権田は戦中に見たあの向日葵が、伝説の名画であることをギャラリーで働きながら知った。そしてそれはあの大空襲で焼失したということも確かに知っている。

 焼失したはずのあの名画がそれもここに一つではなく、二つ在った。

信じられない光景だった。

しかし思えばあの時、護が土蔵のアトリエで描いていたのはこれだったのだ。

「僕の絵を描く腕が君たちの将来に役立つかな・・」

 権田はふらつくように歩くと二つの向日葵の前に立った。

「護さん、とんでもない。この絵を見れば一目瞭然です。役に立つなんて・・・正直恐れ多くて、心が震えます・・」

 権田は薄暗闇から見える護の相貌を見た。ルオーが描くキリストの様にその眼差しは薄く開かれ、そして僅かに微笑していた。

 権田は護の両手を取って言った。

「今は複製品をお願いしますが、いずれは戦争で破壊された沢山の名画を蘇らせたい・・そしてそれができるのは・・護さんだけだ」

 そこまで言って権田は涙を拭いた。自然と涙がこぼれていた。

 そんな権田の姿を見つめて護が言った。

「清君の願いが叶うまで僕の命が持てばいいけどね」

 にこりと笑うと護が続いて言った。

「ところで、清君、この絵を洋一郎君に届けてくれるかい?」

権田は護を見た。

「この二枚の絵を?」

 護が首を振った。

 そして右のイーゼルに立って絵を手に取った。

「こちらさ」

 権田はその絵を受け取った。ずしりとした重さを手に感じた。

「重いかい?」

「ええ」

 権田が返事を返す。

「ゴッホは厚塗りだからね・・」

「成程」

そう言って権田は護を見た。

「もう一つは?」

 護は頷いた。

「こっちは鍋井先生から預かった《芦屋の向日葵》なんだ。この絵は僕が生きた青春の全てを映している。鍋井先生はこの絵は或る画家が描いた模写だと言ったけど、僕にとってはゴッホが描いた向日葵以上に、この絵は《芦屋の向日葵》なんだ。だから自分の最後まで手元に置いておきたくてね」

「そうですか・・」

 権田はそう言ってイーゼルに置かれた《芦屋の向日葵》を見た。

「それに・・洋一郎君にはその《芦屋の向日葵》を秘密裏に誰にも渡さずに守って欲しいんだ」

 その言葉に、権田は振り返った。

 振り返ると護の瞳の奥に炎が燃え上がる音を見た。それは間違いなく怒りであったが、赤く天を衝く様な仁王のような怒りではなく、何処か観音のような慈愛ともいえるような静かな愛を引き裂かれたものを代弁するかのような怒りの炎だった。

「秘密ですか・・」

 護は頷いた。そしてそっと二枚の古い便箋を渡した。

「便箋ですか?」

 そして深く頷くと、白い便箋を出した。これは新しいものだった。

「これを一緒に洋一郎君に渡してほしい。白い便箋は僕がある人物に送った時の手紙をカーボン紙を引いてその下で写し取ったものだ。この絵と一緒に守って誰にも渡さないで欲しいんだ」

 権田はそれを静かに受け取ると、護を見た。

「護さん、どうです。今から一緒に乾さんに会いに行きませんか、絵に秘密があるならなおさら・・」

 そこで護は首を横に振った。そして権田を見て言った。

「清君、僕は乾のお父さんから温情受けて育てていただいたけど、やはり歴とした乾家の一員じゃない。僕は尼崎の漁師だ。そして洋一郎君は乾グループの若い総帥。だからこうした距離が一番良いと思っている」

 権田は護の声が消え終わるのを待って、小さく「分かりました」と言った。

「護さん、僕が責任もってお届けします」

 それを来て護は大きく頷いた。



 居間に上がると権田は絵を開いた。

 それを見て護が言った。

「ピカソじゃないか。これは《泣く女》」

 黒い額に入っている60x40サイズのキャンバスの中の女が鳴いているピカソの作品だった。

 右半分薄い緑の部分が雨で濡れ、また塗料が落ちていた。

「どうです、護さん。できますか?」

 護は暫くじっと見ていいたが、権田に言った。

「日数は?」

「四日で、いや・・三日と言うところでしょうか」

「分かった。じゃぁ三日後に」

 権田が頭下げた。

「すいません。護さん、無理を言って」

破顔して護が言った。

「とんでもない、君のおかげで僕は毎日が命の燃焼が出来て嬉しく思っている」

 それを聞いて護の顔を見た。

「体の方は・・?」

 ああ、と低く護が言う。

「何とか薬のおかげで小康を保っている。何・・このピカソを仕上げるまでは命はあるさ・・」

 そう言って権田は部屋を見まわした。

 部屋に置かれた荷物がきちんと梱包され整理されていた。

「護さん、部屋の荷物が整理されているみたいですが・・」

 それを聞いて護が言った。

「ほらこの前、この裏で火事があっただろう。それでこの長屋もいくつか火の粉が飛んでね、被災を受けてとうとう駄目になった。それで家主からの紹介で最近建てられた別のアパートに越すことになったんだ。それも家賃が無料らしい」

「そうですか。しかしよくそんな良いところが見つかりましたね」

「そうなんだ。なんでも僕の病気だと、そうした行政補助が受けられるらしいと、訪ねて来た役所の人間が言ってたよ。清君、病気にはなって見るもんだね」

 そう言って大きく笑うと、静かに言った。

「そしておそらくそこで自分の最後を迎えることになるだろうね」

 そういうと護は大きく笑った。

「冗談はよして下さい、護さん」

 真顔で権田は言った。権田の真剣な眼差しを見て、軽く頷いた。

「もしそこに移ったら、洋一郎君にも来て欲しいと思っている。でも海外へ行ってる忙しい身の上だから・・難しいかな」

「そんなことないですよ、乾さんなら時間を作ってでもきっと来てくれますよ」

 護はうん、と言って頷いた。

「その時は、鍋井先生から預かった《芦屋の向日葵》を見ながら思い出話がしたいな」

「そうですね」

 権田は言って護の顔を見た。いつもと変わらない護の穏やかな微笑が見えた。

 そして三日後、見事に修復されたピカソの絵を受け取った権田は、それを持ち帰り近松へ渡した。

 しかしその日を最後に、権田は再び護に会うことは無かった。

 土岐護は新しいアパートに越した後、静かに息を引き取った。



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