後編㊷
「グランファム…」
黒塗りの車内で呟く声が聞こえた。その声に僅かに横に居る誰かが肩を揺らした。呟く声は年老いた老人の声。それに絡みつく様に声が重なる。
「親父」
老人を見つめる四十代を過ぎた男が言う。
「そいつは何です?今言ったのは」
首を向けて問うた男は細いフレームの眼鏡越しに老人を見つめている。口元は引き締まり、鼻が長い。誰かが見ればその顔つきから政治家としての生真面目さと意思の強さを感じるだろうが、但し老人はそれがあくまで外面だけのものだと知っている。
内面は生真面目とは程遠い程、貴重面すぎる臆病が隠れている。生真面目とは失敗を恐れる為に失敗を犯したくないそんな表れだ。それを現しているのが鼻筋の綺麗さであろうが、それは誰かに殴られてしまえば、一瞬に居れる程の弱さの表れだと言うのが自分の息子への厳しい見立てである。
「それで今のは?」
息子の問いに対する答えは短い。
「何でもない。独り言だ」
政治の清濁混じる世界での息子の内面の弱さと言うのは、自分自身は虚勢を張り分からせていないつもりでも、そんなものは分かる者には分かりすぎるくらいである。
であるからこそ、自分という保護者を置いて、足りないものを補わなければ、やがて別のものにするりと全て奪われてしまうだろう。
だから今日も態々自ら神戸財界の集まりに出向いたのだ。それは神戸財界からひしひしと息子では足りないものを日々感じ得ているのもあるが、何よりも息子自身がそれらを感じていない鈍感さと相まって自分自身が歯がゆくあるからだ。
――やがて別のものにするりと全て奪われてしまうだろう。
苦りすぎる思いの中で老人は思う。
息子から奪う者。
それは誰か?
老人はそう思いながら隣に腰かける息子を見た。見ると老人はスーツのポケットから煙草を取り出し、口に咥えると火を点けた。それからゆっくりと息を吐いた。
(幸雄では…いつかあいつにやられるだろう)
車内に煙が溢れて来る。それを息子が怪訝そうに見ている。
「親父、煙草はほどほどに。それにドクターにも言われているでしょういくら昔からの好きと言っても、歳を考えていただかないと」
老人は息子の忠告を聞きながら思う。
そんなことは些事である。
考えてみれば良い。
老人はふんと鼻を鳴らす。
自分はもう幾ばくも無い高齢の老人だ。明日死のうが、自分自身には大したことではない。むしろそれにびくびくして細心を起こして器量を疑われ多くの敵に後ろを取られるわけにはいかない。だからこそ、自分自身の強さを損なうような姿を世間には決して見せない。煙草一つで何をびくびくしないといけないのか。
(それぐらいわからないのか?)
息子の言葉に対して憤懣やるかたない思いで煙草の煙を吐く。
(…それに比べれば、まだ敵である奴等の方が気骨ある。幸雄、それに比べてお前の強さは何だ?)
老人は思うと内心で再び、先程の言葉を呟く。
――グランファム
それは英語のGRAND PHANTOMを作り替えた造語だった。
その意味は
(…偉大な亡霊、怨霊)
老人は瞼を閉じた。
それから息を吐く。
(戦中、俺が所属する部隊に極秘裏にある情報が入った。それは連合軍が開発している或るウィルスに対する対抗剤薬を開発せよとのことだった。それが無ければ、前線の兵士達はそのウイルスの為に戦闘が出来なくなると言うことだったからだ。故に俺達はある場所で対抗製薬を設計した…)
老人は瞼を薄く開け、煙を吐く。
(対抗剤の設計ができたこと、それが当時の自分の強さであった。しかし、戦後は違う…)
再び沈黙の中に老人は埋没してゆく。
(…その知識とは違う強さを俺自身が政治の世界で手に入れた。勿論、このグランファムの設計に携わったことが一因ではあるが…)
沈黙を手探るように思いを馳せる。
(アメリカの大手S製薬は、どうやらこのグランファムの事を知っていて、俺に手を握ることを求めた。それは設計をいじれば癌の対抗薬として利用できるからだが。その見返りは俺自身を日本の政界で力をつけさせる後ろ盾をすること、それはつまり俺を動かし、薬の一手独占を狙う事ではあったのだろうが。だが、グランファムの歴史的背景は俺の所属する部隊一切と共に歴史上から極秘裏に消されなければならない事だった)
そこで老人は苦みを含む煙を吐きだそうとして、思わず気持ちが入り、強く煙草の端を噛んだ。
(…その筈だった…)
その表情に気づいた息子が親父に言った。
「親父、もう煙草は…」
「煩い!!」
息子の言葉を跳ねのける父親の言葉に思わずたじろぐ。
「今或ることを考えてる最中だ。幸雄、煙草の事ぐらいで細かいことをぐちぐち言うな、この馬鹿者!!」
激しい罵倒を受けて少し顔を紅潮して息子が黙る。何か言いたげな表情をしたが、しかしそれから腕を組むと何も言わず沈黙した。
それを見て老人は思った。
(ふん、本気で俺に煙草をやめさせたいのなら自分で最後まで言えば良いものを。所詮他人の意見を借りて言えることは、精々そんなことぐらいだ。それに比べ…あいつらが仕掛けたことは、まさに恐るべき極みだ、俺に本気で止めさせようとしている)
背を動かし、老人は煙草を指で咥え直した。それから深く澱みの無い眼差しになると、老人は唸った
(…やはり、あそこに出向いた時に全てを…彼から聞き出すべきだったかもしれない。それを聞きだせなかったのは俺自身の甘さだったか、それとも…)
老人は煙草の煙を吐き出す。
(自分自身が信じてやまない何かが彼…いや、あの男にあったからかもしれない)
煙が車内に溢れた時、車内電話が鳴った。それを息子が手に取ると、受話器から手を離して父親の面前に向け、言った。
「親父。鬼頭君から電話ですよ。なんでも乾建設のダム建設の事で耳に入れたいことがあるそうです」




