後編㊳
店の暖簾を潜って人が入って気配と共に、店内へ向けて風が吹いた。その風に運ばれて近松の耳に届いた言葉。
それは…
――薬物
この投げかけられた言葉はまるでブーメランのように誰もいない虚空を飛び、やがて落ちた。落ちた場所は水辺だろうか。落ちたブーメランはその羽を水に落とすとやがて波紋のように広がりを見せた。その波紋はやがて細く閉じられた刑事の目に吸い込まれてゆく。獲物を捕らえて離さない、その猫科のような獰猛な獣の眼差し。
「…薬物?」
近松は瞬きをしない。目の渇きを奪い去る何かがそうさせた。
「ああ、そうだ。それをもし言うなら…」
水野は言葉を詰まらせるようにして言った。
「…瞬時に、眠りに落とすような…そんな薬物…」
水野の言葉が奪い去った何かを連れ戻して来た。
それは刑事の頭の中で閃く。閃いて流れ星のように落ちた先に有るのは壇吉の言葉。
――「いやな松ちゃん。さっき医者から聞いたんやけどな。血中の中から睡眠薬の成分が大量に出てきたらしい」
「睡眠薬?」眉間を寄せて近松は壇吉を見た。
「そう、それが田川洋子の検死の際に出てきたものと同じやったんや」
「偶然か?」
流れ星の落ちた先から意識が戻った近松が発した言葉。
それは
「それは偶然やない…」
近松は瞼を上げた。
突如脈絡のない言葉を放った近松に水野が怪訝そうに言う。
「なんだと?」
近松が頷く。
頷いて水野に言う。
「先生、それはこちらの方で分る事や。分かる事やが、どうやら本当に深い闇からあんたに手が届き始めた。それが何を意味すんるのか?」
近松は卵焼きを割った箸を置いた。置いて、水野に言う。
「あの向日葵は完成したか?」
「…どういうことだ?何を言いたい?」
水野が踵を返すように言う。近松が急く様に言う。
「先生。聞いてるのは儂や。で、どうなんや??」
強く秘めた意思を持った言葉にやや水野が唾を飲みこむ。この強い口調の中に何か自分の知らない何かがあり、まるで差し迫った危機が感じられた。喉を絞るように水野が言う。
「…ああ、完成した」
「それを誰かに見られたか?」
水野はそこで――それは無いと言おうとしたが、しかしイーゼルの掛けられた布を思い出した。
思い出してそれを瞬時に黙ろうかと思ったが、ここは素直に吐露した。
「…いや、もしかしたらだが…、見られたかもしれない。俺のアトリエに誰かが忍び込んだのなら、向日葵に掛けられた布が…ずれていた…」
近松はそれを聞いて驚かない。ただ事実を確認した表情をしていた。
――つまり、知らざるべき秘密を伏せていた第三者に見られたのだ、という事実を。
近松は不意に立ちあがった。それから水野と視線を合わせると「ネェちゃん。勘定して」と言って財布を取り出した。
水野が後を追うように立ち上がる。立ち上がると水野は言った。
「近松さん、一体…?」
「準備しろ」
水野が問い質す。
「何を?」
近松が札を出して、振り返る。
「逃亡や、身を隠すな」
「身を隠す?」
勘定された銭を受け取ると近松は顎を引いた。
「アトリエに戻るんや。それから向日葵を持ってゆく」
「どこに?」
問いかけながら、店の暖簾を潜って外に出る近松を追う水野。それには振り返らず近松が視界に入った眩しい太陽を見上げた。
「そうやな。逃亡は昔から、人なら人混みの中。それなら絵は…」
呟く様に言って振り返り水野を見た。いや、もしかするとその時視界の遠くから自部を見る視線に気づいたかもしれない。それは偶然という驚きを運ぶ口調で水野に言った。
「つまり絵なら絵の沢山ある場所。それなら一番はギャラリー…」
どこか遠くへ投げかける口調の近松に僅かな驚きを感じた水野は、言葉を投げかけた。
「ギャラリー…?」
水野の言葉に近松は何故か帽子を目深く頭思わずニヤリと笑った。
「つまり、それはLEONがええやろう。なんせいま、…ほら…なんの偶然か天満駅からこっちへ権田さんが来ている」
そう言って水野の肩を叩いて歩き出す近松の背を見れば、手を振っている。目を細めてみれば、水野の視界に確かにはっきりと驚きの表情で歩き出してくる男の姿が見えた。
その男はギャラリーLEONのオーナ権田の姿だった。
だが水野は近松が自分に言った『逃亡』の意味がまだ計り知れていない。何故、そうしないといけないのか。
その答えを知りたければ刑事の背を追うしかない。水野は走り出して刑事の背を追った。追うと一つの塊になり、やがて天神橋商店街のアーケードに入って、夏の日差しの中から影も無く消えた。
二人が出て行った後、店から出て来たスーツ姿の男たちの事を彼等は知らない。近松は常々忘れるべきではなかったかもしれない。
水野は田川洋子の事件の容疑者であると言うことを。
つまり、彼は未だ警察の監視のもとに在るのだと言うことを忘れていないのでいれば、近松は店を出た時、もしかしたら尾行されているのではないかと振り返らなければならなかった。
しかし、
年老いた刑事は
何かを置き忘れてしまったのだろうか。
自分達を追跡するように動き出した影はまるで自分達の吐く息さえも消すかのように、慎重な足取りで夏の日差しの中に消えて行った。




