後編㉟
頭の中に痛みを感じた。
それが何の痛みなのか考えた時、水野の意識が戻って来た。そこで水野は肌に触れる感触を感じた。それは滲み出た汗ばむ感触。
――これは
(ソファ…?)
そこで何かにはっとすると顔を上げた。
それから急いで立ち上がる。その時不思議だが僅かに鼻腔の奥で薬品の匂いがした。(これはなんだ?)
水野は瞬時に考える。顔料の溶剤ではない。ましてやペインティングの油剤でもない。
どこか甘くて痺れるような匂い。
(こんな香りのものなぞ、俺のアトリエにはない)
その思いがいよいよ自分を焦らせる。焦らせながら記憶を振り返る。
(確か自分は向日葵を描き終え、外に出ようとした…)
撫でるように纏わりついている髪を指で掻きむしりながら水野は向日葵の方へと歩いてゆく。そこで水野は向日葵の絵に掛けられている布が、何処か変に感じた。それは自分の記憶とははっきりと違う。それは整えられた布ではなく、どこか荒々しさを隠す為に戻されたような…。
思わずはっとして水野は布を捲った。
捲るとそこに向日葵が在った。それは昨晩と寸分変わらない咲き様で。
だが、水野は既に感づいている。
(…誰かが、ここに忍び込んだのだ。それで向日葵を見た)
首を回して壁時計を見た。
時計は午前十一時半を過ぎている。
(…俺はそれほど深い睡魔に襲われて眠ったと言うのか!!いかに精魂込めた作業だとしても、それ程長く倒れこんで眠ろうはずがない!!)
水野は背筋に冷たさを感じた。それは正しく何者かに刃物を突き付けられたような冷たさだった。それで瞬時に思った。
(誰かが俺をマークしている)
過る思いの中で考える。
(…警察か?)
有り得ないことは無い。だが、このような不法侵入のような離れ業を法の番人である彼らがやってのけることは無い。
(…となれば、それらではない何者か…)
だが、是には答えは無い。何故ならこれについては何も心当たりがない。
(物盗りでもあるまいが…)
水野は向日葵を布で覆った。この絵について何も価値が無いと判断したに違い無いその誰かは、興味をこれに示さなかった。それは或る意味、この向日葵について物としての価値を有していないと判断に至ったのだ。
ならば全くの空き巣だったのか。
(それか…この場所にこの向日葵が在ることお知っている誰か…)
――まさか、
この事を知っている誰か…?
焦燥が背を伝う汗となって流れ落ちた。それを感じた時、水野の背に声が掛かった。
「よう、水野先生」
その声に驚いて振り返るとドア向うから部屋に入り、自分を見ている男が立っていた。
それは目深く被った帽子の鍔を軽く人差し指で押し上げると金縁のサングラス越しに目を細めてにっと笑う近松だった。
水野はその姿を見て思わず唸るように言った。
「あんた…ここに来たのは初めてじゃなかったよな」
それを聞いて、近松はん?という顔つきになった。
「まさかあんた…」
水野は低い口調で近松に言った。
「昨日、ここで俺に何か悪さをしでかしてないか?」
水野の重い口調に近松は軽く首を捻るとシャツの胸を開き、パタパタと扇子で仰いだ。そしてそれからパンと音を立てて扇子を閉じると、顎を後ろに捻った。
「――外出よか、先生。どうもあんたに良く事情は分からないが何かあったと見える」




