後編㉛
イタリアの空は青い。それも乾燥している為なのか、何処か日本のような水分を含んだ空ではなく、まるで油絵の具に反射して描かれるキャンバスの空の様だ。
つまり芸術的と言える。それはもしかしたらいつまでもこの空がいつまでも芸術的である様にと願った過去の偉大な芸術家達の希望の粒子が、科学的に否定されたとしても、絵画や、路地の石畳、教会の壁に残されていて、それらがつまり蒸留して醸し出され、その香気が空を覆っているためかもしれないと洋一郎は思った。そう思いたくなるほど、フィレンツェの街は空の下、色鮮やかに映えて見えた。
ミラノを出て二時間ばかり移動すれば、そこはルネサンスの中心都市フィレンツェに着いた。
この芸術的古都は、再生芸術活動時代ルネサンスの中心都市だった。ここはメディチ家に支えられ、そして多くの芸術家達がその文化に彩を与えた。――ボティチェリ、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、数えきれない程の芸術家たちの才能によって、一体府どれ程の作品が生まれたことか、そしてそれらは今や人類の遺産として残されている。
洋一郎はジャケットの内ポケットから、紙片を取り出すと、何かを探すように視線を上げる。通りの表示を見つめて、それを確認すると足早に動く。
洋一郎が目指しているのは通りの奥にあるホテルだった。そのホテルは昼食もでき、また移動時の際の緊急連絡先にしている。もしかしたら数時間のミラノからの移動だが、何か変わったことが在ればそこで連絡を受ける様にしている。それに今は秘密裏にしているが、日本で末娘の綾子が行方不明だ。そちらの事については犯人から危害は少ないのではないかと、自分に対する憶測をして心を幾分か慰めてはいるが、しかしながらである。
だから洋一郎は辿り着いたホテルのドアを開けるとロビーへと進み、客室員に言った。
「私は乾洋一郎だが、私宛に連絡は来てないか?」
話しかけた女性は顔を上げると、真横のスタッフに目配せする。目配せるとかなり年老いた背がやや曲がった口髭の在る男性がそれに気づき、女性と入れ替わって洋一郎の前に立った。
それから洋一郎微笑むとイタリア語で話しかけた。
しかしそれに洋一郎は困り顔になり、輪やや照れた様に英語で男性に答えた。
それで洋一郎がイタリア語に通じていないのが分かると男性は英語に切り替えて話し出す。
「――失礼、ミスター。お名前を伺っても」
癖のない英国調の口調だった。それはしっかりとした教養の素振りの在る英語だった。
それに頷き、洋一郎が答える。
「私は乾洋一郎。日本から私宛に…メッセージを預かっていませんか?」
やや緊張気味に相手に失礼が無いように、問いかける。
それを聞いて男性が「失礼」と言って受付下の小箱からメモを捲り出す。その指の流暢で流れる様を洋一郎は見つめる。やがて何か引継ぎでも書かれているのか、メモを捲ると指を止めた。それが何枚か捲られた後、初老の男性は口髭をなぞりながら、こう言った。
「…日本の企業から来ているのが一件あるようですが…」
「それだ!!」
洋一郎は思わず指を鳴らした。
その音に気付く老人は顔を上げた。上げると思わず指を鳴らした洋一郎を見て、吹き出しそうになって笑顔を向けた。
「どうやら日本の海運会社の社長宛ての様ですが、それがあなたですか?」
失礼な質問だと言うのを含ませずに、笑顔でニヒルな事をいう初老の男に、洋一郎は頷いて言った・
「ここのホテルオーナーのアントニオ・ボザーリは私とハーバードの同期なのだよ。そしてその日本ン海運会社の社長である位乾は私だ」
そう言ってか名刺入れを取り出し、名刺を渡すと、同じように写真を男の前に出す。
名刺を受け取った初老の男が写真を覗き込む。見ればそこに若い頃の洋一郎とイタリア人男性が写っていた。それを見て男が顔を上げ、洋一郎を見る。それから大変、満足そうに頷いて、曲げていた背を少し伸ばして笑った。
「ええ、勿論。これはアントニオです。伺っておりますよ、乾様。今日明日、こちらに見えたら特上の中庭の席に案内して素晴らしい食事をあなた様に与える様にアントニオから受けたまっています」
洋一郎は男の言葉を聞きおえると安堵の息を吐いた。洋一郎はこの欧州視察に行く直前に、ここのオーナであるアントニオには連絡を入れていたのだ。それはとても個人的なメッセージだったので、このホテルまでちゃんと伝わっているか不安だったが、しかしそれは懸念として消えた。それはその安堵だった。
「では乾様、こちらの中庭に」
言ってから初老の背を伸ばして男は歩き出すそ。その時、若いスタッフから杖を受け取った。そのまま歩き出すと老人は洋一郎を振り返って言った。
「例のものは其処に在ります」
洋一郎はそこでおや?という顔をした。男が言った例のものとはそれはボザーリ家のものしか知らない物なのだ。それを「知っているとすれば、この男は…不意に浮かんだ疑問が表情に出たのか、それを理解したように老人は笑顔になった。
「私はトニオ・ボザーリ。アントニオは私の息子です。ようこそ、ボザーリ家へ「お越しになりました」
言うと、驚く洋一郎の顔を見て再び大きく笑い、歩き出した。
洋一郎は老人の言葉にやや驚きながらも、悪戯好きで驚かせるのが好きな友人の顔を思い出した。
(まるで、瓜二つの親子だな)
そう思うと苦笑を抑えて洋一郎は先程トニオ老人に杖を渡したスタッフから差し出されたメッセージ文を手に取りを受け取ると後に続いた。
ミラノについて此処に来ることは予定していたことだった。それはボザーリ家に永年秘匿されているある作品を見せてもらう為にだった。だからこの小旅行は余り知られるべきでは無かったので視察団にも言っていない、秘密旅行なのだ。
それを知っている洋一郎は靴音すら消すように、静かに老人の後を歩いて行った。




