後編㉙
――あなたは知りたいのです。本当の事を。違いますか?
病室に居る自分という現実を避けようとする自分が
瞼を閉じる時、
眠りにつく時
その言葉が文字通り心に浮かび上がり、やがて自分を何処かに運ぶような錯覚をさせたかと思うと、それを打ち破る様な激しく低い世界を切り裂くような音。
それは回転式ピストルから発射された音。
そこで玲子は目を開く。
見開いた網膜の世界には何もない。
いや、それは違う。現実には天井が見える。その天井は自分の頭上を覆うように平たく伸びている。
無機質で温かみも無い平たい天井。
よくよく思えば病弱である自分はいつもこの天井という存在を身近に感じながらそこに何かを描いてきたように思う。それは玲子にとって画家が描く無地のキャンバスとも言えた。そこに自分が天井を見つめながら何を描いてきたか。
瞼を軽く閉じて睫毛が触れる熱に想いを馳せる。
(そう、それは…)
或る時は死に別れた母の笑顔。
またある時は休日に自分を連れ出した父親の優しさ。
いや、それだけではない。
妹の綾子と庭のブランコで遊んだ時に見えた遥かさきの瀬戸内に向こうの世界。共にブランコに揺られ、美しい世界に居る私と妹。
(そして…)
自分はいつも自分のキャンバスに描いていたのだ。いずれ綾子が結婚し、美しい花嫁として病身の自分が望んでも手に入れられない世界に旅立つことを。
(私が天井というキャンバスに描いているのは自分が叶えられない夢…)
だが、今は…
玲子はそこで心が熱くなる。
不思議だが、そこには向日葵が見える。
それは《芦屋の向日葵》
それだけではない。
その向日葵の絵をイーゼルに置いて、背を丸めてひたすら懸命に命を燃焼させるかのようにひた向きに絵を描く寡黙な人。
いや、人ではない。
彼、と言った方が良いかもしれない。それはあの黄金色の麦畑で出会った麦藁帽子を被った画家と同じ声音をした彼に。
それは、
熱量を含んだ瞼の裏で明確な顔の輪郭が浮かぶ。
やがて玲子は喉を動かしてこの世界でその人の名を呼んだ。
「――水野静」
男とも女とも取れるその人物の名を。
それから閉ざした瞼を開けると病室の窓を見た。見ると僅かに雲の切れ間が見え、そこから朝陽が差し込むのが見えた。
不思議だが、玲子はこの時、今日水野と会えるような予感がした。
まるで自分が求めてやまない「本当の事」をあの消えた消えた麦畑の奥から照れてはにかむ様な微笑を口元に浮かべながら。




