後編㉗
時が回転している。
それは渦巻く様にまるで記憶の断片を覆っていた霧を吸い込みながら。
君の、
僕の、
あなたの、
私の記憶を覆う霧をやがて振り払い、やがて夏に輝く向日葵の前に立たせるのだろか。
では今誰が一番あの夏に輝く向日葵の前に居るのだろうか。
筆先に湿る様な思いを乗せて、手を止めた水野は暫く手で目頭を押さえる。押さえた指先から伝わる温もりが充実感という感慨に触れた時、自分の仕事が完成したのだと、水野は思った。
アトリエ内は静寂と共に夏の夜の熱気が増している。いやそれは自分の熱気と共に。
水野は出来上がった向日葵の絵を抱えるとそれから別の部屋に行き、そこでイーゼルに置かれた額縁の側に絵を置いた。
何事も言わず、額縁に裏板を外すと、水野は絵を額に入れた。入れるとそれから絵をイーゼルに置き、自分と対峙させた。
その瞬間、
何にも増して自分を包まんばかりの感情に震えた。
自分で言うのも何であろう。
――見事だ…
水野は捲り上げていたシャツを戻しながら、近くに置いてあった椅子を引き寄せて腰掛ける。
この瞬間、腰掛けて再び向日葵と対峙する自分と向日葵しかこの世界には存在していない。その事実がまた自分を余計にぞくりとさせ、また心の内に湧き上がる情熱の火が燃え上がる。
この情熱の炎とは何か。
それは自分と向日葵、いや正確には向日葵の秘密に触れ、その謎の核心に触れた自分自身の興奮ともいえる。
水野は理解した。
この《芦屋の向日葵》の秘密とは何か。
それはこの仕事を通じて自分だけが独自に得た『解』なのだ。
長年の芸術の内に潜む美という秘密の欠片を拾い集めたのではない。
この向日葵の中に隠された恣意的なものが、――いや勿論、今は其処に何が隠されているのかはわからないが、この模写に使用した芦屋の向日葵には何かが隠されている。それはゴッホという厚塗りの技術を欺瞞ともいうべき目くらましに使い、何かを埋め込む様に隠してあるのだ。
――良い目を持てば、名画の中の小さな欠点を探し出し、秘密を知ることができるものだ。
(正しく…)
水野は心の内で強く反芻する。反芻して、自分が描いた向日葵を見た。それからある人の顔を思い浮かべた。
(…乾玲子)
それは自分に絵を依頼した人物。しかし、今の水野にとっては最もこの向日葵の秘密を囁く様に伝えなければならない人物だった。
壁時計に目を遣った。見れば時刻は午後十時を過ぎている。
この時間では流石に病院には行けない。ならば朝を待たなければならない。
(…仕方ない)
水野は軽く息を吐くと立ち上がった。そして思い出したのだ。今日はずいぶん真面目に仕事をしすぎて、飯を抜いていたことに。
よろめく様に立ちあがると水野はアトリエの電気を消した。消して鍵を手にしてアトリエのドアを開けた。開けた時、水野は不意に倒れてしまった。
それは空腹の為だろうと思って倒れた水野の側で大きな男が立っていたことは意識を失いつつある水野には分からないことだった。




