後編㉖
新島は薄く閉じた瞼を開くと壁から背を離した。その視線の先に向日葵が見える。その向日葵は青色の背景に彩られた黄色の花弁を輝かせている。新島はゆっくりと歩き出し、やがて向日葵の絵が掛かっているイーゼルの前で立ち止まった。
「土岐君、君はどうやら多くの事を知っているようだ。おそらく瀕死の病人の冴えわたる頭脳と明瞭さだけでは説明できまい」
新島は微笑を浮かべて向日葵を見下ろしている。見つめる眼差しが向日葵の花弁を撫でるように指を動かしてゆく。その指が止まると新島が言った。
「731部隊…そんな虚構のような言葉を知っているところを見れば、君に伝えた誰かが居ることも明白だ。それに新薬の事についても…、そこまで知っていば…」
言ってから、新島が護を振り返る。
「恐らく洋子の事も知っているのだな」
護の強く決意の籠った眼差しが新島の瞳に映る。
新島の言葉に激しく動揺したのは哉だった。その様子を僅かに新島の視線が捉えたが、直ぐに護の方に視線を戻した。
(知っていたのか…洋子の事を)
哉は新島を見る。今更ながらこの男の勘の良さともいうか、物事を捉える感覚に恐れをなした。しかし、それ以上に哉を激しく動揺させたのは護が洋子の事を知っているという事実だった。
頼子の娘洋子が実は護の娘である、それはしかしながら可能性なのだ。もしかしたら新島の子でもある可能性も否定はできない。唯一、それを確証だてることができる由一の事と言えば、それは頼子とその当人達でなければならい。
その一方に立つ母親である妹の頼子は自分に何と言ったか。
――「私は洋子が護さんから授かった子供かどうか確信は持てなかったのですが、洋子と幼いころ美術館へ行った時、確信したのです。洋子は一つ一つの作品をとても観察深く見つめている、その眼差しがキャンバスに向かって絵を描く、護さんにそっくりだったのです」
「田川君だな。君に全てを伝えたのは」
新島の声が響く。
(田川君…?それじゃ、さっきの人物はやはり…)
哉は首を巡らし、新島を追う。新島の表情は特に何も大きな変化はなかった。ただ向日葵を見つめている。
「…まぁいい。それらは私に取っては些事だ」
その言葉に哉と護が反応する。
(些事だと…)
二人の新島を見る視線が鋭くなる。向日葵の絵の前に立つ、この人物の心底に潜む混濁から湧き上がる、何ともいえない臭気を感じて、怒りを感じないではいられなかった。
「土岐君」
投げつけられた言葉に護が眉間に皺を寄せる。
「君は先程我々に言ったな。――向日葵が僕に問いかけるのです。戦後のあの焼け野原で誓った夢がお前にはまだ残っているじゃないかと、違ったか?」
護が無言で応じる。
「私は言ったよ、君に。――政治家になり、この国を新しい場所へと向かわせると」
「覚えています」
新島が護の言葉に思わず微笑する。
「それから新しい時代に生きることを考えることは大事だと」
それから新島がゆっくりと振り返って護を見た。
「君は画家として生きるのではなかったのか?戦後の焼け野原の後の世界に生きる人々の為に、ゴッホの向日葵を蘇らせる…いやそれだけじゃない。灰になった名画を蘇らせ、いつか人々に多くの希望を与えることができる美術館を造るのではなかったのか?」
言い終わると新島の指が伸びて、向日葵の絵を指差した。
「土岐君、この向日葵はゴッホの描いた向日葵ではない。ゴッホの向日葵はあの空襲の時、山本家ととともに被災して焼失したのだ」
それから鋭い口調で新島が言った。
「そしてこの向日葵は私がここに来た本当の目的である君が描いた向日葵ではない」
続けざまに言う。
「君は人生の最後に措いて、画家で無くなった。そう、君は最後の最後において画家ではなく、私を陥れようとして巧みな技巧を施した策術死になったのだ」
哉は新島が弟に向かって放つ言葉の意味を図りかねた。
困惑が新島の言葉と共に浮かんで行く。
――ここに来た本当の目的である君が描いた向日葵…
――君は人生の最後に措いて、画家で無くなった…
――私を陥れようとして巧みな技巧を施した策術死になった…
(どういうことだ…)
困惑の度合いが深くなる哉の思いをよそに新島が話を続ける。
「もう一度聞く。君の夢は何だ?あの戦後の焼け野原で私に言った夢は何だ?」
護が沈黙する。
「…いいだろう。沈黙するのも。いいか私が君に対して秘密裏に投与を許可している薬は…そうとも、治験などしていない。直接君に与えている。そして日々詳細なデータを取っている。この手の薬の開発には時間があまりあるようで本当は無い。私が手にする巨万の富だと?それが如何なものだ。そんなものは当たり前だ、巨利を得て、また再びそれを投資し、古いものを破壊して新しいものを創造してゆく。私は、それを目指して進んでいる。土岐君、君の心に聞くじゃないか?私は戦後の野原での君との約束を反故にしているか?」
「清濁あまりあるでしょう。僕はあなたの実験台のひとりとして死ぬんですから」
護の言葉に新島が反発する。
「言えばいい。それが政治なのだ」
哉は側で二人の会話をききながら新島の表情を見て思った。新島がこれほど自分の感情を出して話すのをあまり見たことが無かったからだ。
哉は向日葵を指差していた虹間の指が動いて、スーツの内ポケットに滑り込むのを見た。すると次には手に一枚の便箋が握られていた。
「土岐君、これを見たまえ」
その手に握られた便箋を護が見ると、ややあってから微笑した。
その微笑の奥には何とも言えない寂寥感ともいえる寂しさが浮かび、それから声を上げて笑い出した。それはどこか拍子抜けしたような笑い声だった。
「可笑しいか?」
新島が問いかける。
護は頷いた。
「可笑しいですとも、新島さん。可笑しくてしょうがないですよ。僕は…いや僕こそきっと新島さん以上に清濁あまりあるのですからね」
護が下を向いた。
それから手で顔を覆う。
「君が描いた向日葵はどこにある?いやどこに隠したんだ?」
「ここにはありません。しかし安全なところにあります。誰にも手の届かないところに」
顔を手で覆いながら護は言った。
「新島さん…」
新島が顔を向けた。
「ありがとう…」
新島が護を見つめて言う。
「土岐君、教えてくれ…君の信じる真は一体どこにあるのだ」
問いかけに護は首を縦に振った。
「僕はやがて星になって、皆さんのこれからを見守っていきます」
それから続けて言った。
「兄さん…」
哉が側により背に手を当てて撫でる。
「護…」
「ありがとう、来ていただいて。死の間際にお会いできて僕は幸せでした。それから…どうか頼子さんにもどうかこれからも健やかな人生を送ってくださいと…」
言ってから激しく咳き込んだ。
「それから洋子へ…僕が描いたルノワールの絵を一枚渡しました。それを生涯ずっと大事にしてほしいと伝えて下さい」
言い終えると覆っていた手を払い、二人を見た。
「朝にはこの部屋に朝陽が入り込んで、向日葵の絵が輝くのです。向日葵の輝きを見ながら…自分の死を迎えたいというのが今の僕の望みです」
言い終わるのを待って新島が言った。
「私は夢を追う。例え友に裏切られたとっしても、自分だけの夢を追い続ける」
「ええ、新島さんあなたなら出来るでしょう」
その言葉に新島が振り返ると、布団の側までにじり寄り、護の手を取って握りしめた。
「私は、いや俺は…自分だけの夢は追わない、君の夢も背負ってゆく」
「新島さん…」
護が続けて言う。
「いつか時が来たら僕の描いた…向日葵の絵を見ていただけますか」
「ああ、見よう。約束だ」
そこで護が微笑した。
「手強いですよ、僕の仕掛けは。それを欲しがる人が出てきて、新島さんを脅すこともあるでしょう」
「脅しなど構わん。俺は負けずに生き続ける。しぶとく、しぶとく生きてその先に君の向日葵を見たい。君が描いた向日葵をな」
力を込めて新島が護の手を握る。哉には握る新島の手を護が同じように強く握り返すのが見えた。
しかし次の瞬間には新島は立ち上がり、二人に背を向けた。
それから力強く言った。
「東京へ戻る」




