後編㉕
「向日葵が問いかける…」
哉が振り返る。振り返る先に布が掛けられたイーゼルがあった。
「兄さん…布を取ってください」
言われるまま哉は立ち上がるとイーゼルの前で立ち止まり、それから静かに布を取った。
布で覆われていたそれが姿を見せた時、思わず哉は声を出した。
「おお…これは」
哉は布を取りながら後ずさる。
「これは…あの時、あの乾家で見た…ゴッホ作《芦屋の向日葵》…」
言いながら哉は弟を振り返った。新島は静かに瞼を薄く閉じて向日葵をじっと見つめていた。
「護…、これをお前今も持っていたのか…戦争で焼失したと言われている幻の名画を…」
言い終わると不意に護は急いで鞄を開いた。開くとそこにカメラがあった。
それを急ぎ持ち構えると向日葵の前に立ってシャッターを切った。部屋の残る蛍光灯の明かりではこの幻の名画を捉えることができないことは分かっている。しかしながら夢中でシャッターを切った。
「兄さん…」
何か言葉が詰まりながらも哉が言った。
「俺なぁ…護。実は写真を仕事にしているんだ。戦時中、新島さんと居た部隊で写真班として行動していてな…、戦後、病弱で動けなかった自分がやっていける仕事がこれしかなかった」
静かな囁きにも似た兄の言葉に弟が耳を傾けている。どうして自分はこのカメラ入りの鞄を無意識に手に取って新宿の写真スタジオを出たのか。答えが出ぬまま最後のフィルムが切れた。 腕が重くなるのを感じて弟を振り返る。
「思えば俺はお前のように信念ある人生ではなかった。しかしそんな俺でも僅かな写真技術で今ではこうして新宿でスタジオを持てるまでになった。不精だよ、俺はお前に比べれば、それでも今まで俺はどうにか今日まで生きて来た」
兄が天井を見上げる。
「今俺は何故かこの向日葵を見て、感情が爆発するまま写真を撮りたくなった。何故か分からない…何故かわからないが…もしかしたら俺は自分自身が…兄としてお前にできなかった…事をしてみたいと思ったのかもしれない」
うな垂れるように哉はその場で肩を落とすと弟を見た。
「この幻の名画は…お前に問いかけたのだろうが、それはお前だけではない。きっとあの向日葵を見た人全員に問いかけるのだろう…。俺にも新島さんにも…頼子にも、それだけじゃない乾家の人々にも…」
そこまで言い終わらぬうちに新島が鋭い口調で言った。
「戯言だけではないぞ、森君」
その声にうな垂れるように顔を下げた哉が顔を上げる。その顔には困惑が浮かんでいた。
今新島は確かに自分に言った。
――戯言だけではないぞ
(どういうことだ?)
顔が紅潮する。
感情が湧き上がって来る。それが言葉になった。
「新島さん…それはどういうことです?内容によっては…」
「君は分からないのか?っそれとも過去の事を知らんぷりするのか」
新島の鋭い声が再び飛ぶ。
「何!?」
思わず哉が怒声を出す。
「何だというんです?新島さん!!」
新島の相貌が冷たくなる。それから静かに息を吐いて言った。
それはまるで永久凍土の中から何かを拾い見つけた来た者のみが出し得る声だった。
「覚えていないようだな。私はあの時武蔵野の病院で入院していた君に言った筈だ。写しはとらなかっただろうな、と」
その言葉を聞いた途端、哉の顔は見る見るうちに青くなっていった。それから思った。
――そのことは私と
それから横目で弟を見た。
ーー弟しか知らない。
しかしいやと言いながら、哉は弟を凝視する。
(あの資料は戦時中731部隊で新島さんと研究していたあることに対する資料だ。そう…俺はあの時黙って写しを取った。万一に備えて新島さんには黙って…)
新島の冷たい視線が哉の眼差しを捉えている。
(その資料の写しは…弟に頼子の手紙と一緒に同封して送った…しかしそれは医学的な知識のない弟には何の役にも立たない物、そう、それはいざという時の為の俺達家族の安全の為に弟に送ったんだ…それだけしか効果を持たぬはずだし…誰もそのことを外部に話さなければ、新島さんが知る筈等、在り様が…)
そこで思わず哉はぎょっとした。
そうだ…
護は言ったじゃないか。
――『勿論、僕は最初激しく、兄さんも新島さんも…そう、頼子さんも激しく恨みました。いえ呪ったと』
哉は護を振り返る。そこには静かに佇む弟がいた。
何言わぬ彫像となって。
「森君、君前達兄弟はやはり血を分けた兄弟なんだな。私は戸籍上形式的な兄弟ではあるが、二人が私に対してしでかすことは同じだ」
どこか嘲りの在る様な口調で言葉を吐いた。
「新島さん」
嘲りを殴る様に護の言葉が拳となって飛ぶ。
「あなただって自分がしていることが世間に明るみになれば恐れているでしょう」
新島の瞳の奥で護の姿が青い炎で包まれる。
「どういうことだ?」
冷静さの中に僅かな驚きと感心がある響きで答える。
護は落ち着きを払って話し出した。
「僕の身体に投薬しているこの薬、このデータをあなたは詳細にとっている。そうでしょう?」
新島の瞼が細く閉じられる。哉が驚くように声を出す。
「ど、どういうことだ?」
護を見る。
「兄さん、これはねまだ治験ができていない薬なんだ。それを知っていて、実際に目の前にいる僕に対して人体実験として使用しているんだ。おそらく新島さんが独断で許可を出したんだろう…この僕相手だという事でね」
哉が目を丸くする。
「それじゃ、まるであの時の俺のように…」
新島は黙っている。
「この独断的で人を簡単に実験に使うやり方、あなたは今でも心は731部隊なんだ。いやもうそんなものは存在しないのなら、あなたは生きた亡霊なんだ」
「だとしたら?どうだと?」
言葉を切る。
切った先で護の陽に焼けた手が動いて新島を指差した。
「今は政治家として生きているあなたにとって、その事実が明るみになることを恐れている。兄が写しに取った資料は、あるウイルスに対する抵抗薬だが肝臓癌へ使用でき新薬でもあった。新島さん、あなたはそれをアメリカを始めとする諸国に先立ちに先行して開発し、巨大な利益を得ようとしている。その為に僕を利用している。違いますか?」
沈黙が答えている。
「…だから僕は仕組んだんだ。再び最後の力を振りしぼり、あなたの暴走を止める為に。兄さん、僕は失恋で確かにこの世界の全てを恨んだ、兄さんも、頼子さんも、ええこの新島さんも。しかし、それ以上に僕は失望したんですよ、新島さん、あなたに」
指先が震えている。感情が震えているのだと哉は思った。
「だから僕は芦屋の空襲後に言ったあなたとの約束を反故にはさせたくなかった」
――空襲後の約束
「だから僕はそれを反故にさせないようにするために、あなたに僕の描いた向日葵を見てもらう為に、再び描き始めたんです。《芦屋の向日葵》を。それを見る度あなたは眠れない時を過ごすことになるだろうと思って!!」




