中編①
八月の夏の雨が降り始めたのが窓を叩く雨音で分かった。
少し少年の面影を残した青年は大阪の朝日ビルの一室から大阪湾へと流れる小さな中之島の川にかかる石造りの橋を見た。眼下に中之島を行く人達が急いで傘を開く姿が見えると油絵の具の筆をそっとイーゼルの側に置いた。
青年は部屋に掛けられた時計を見た。丁度正午を過ぎたばかりだった。
(もうそろそろ兄が来る頃だ)
そう思いながら立ち上がって窓の方に近寄ると目を細めて橋を渡る人達の中に兄の姿を見つけようと目を細めた。
その時、部屋のドアが開いた。
青年はドアの方を振り返った。
ドアを開けて和服姿の年配の人物と洋服を着た中年の男が部屋に入って来た。
青年は部屋に入って来た二人を見ると再び窓の外を見た。
街行く人が傘を広げて急に降り出した雨を避けるように建物の中へ入っていくのが見える。
(これだと兄もどこかで雨宿りをしているかもしれないな)
そう思っていると二人の男は青年が先程まで絵を描いていた席に来て絵を見た。
そして洋服を着た男が背を曲げて絵を覗き込んだ。
綺麗に七三に分けた髪の下で深い瞳がじっと絵を見ている。
暫くその瞳は動くことは無かった。
イーゼルが二つ並び青年は真新しいキャンバスに絵の模写をしていた。
男が顎を摩りながら目を細めて青年に言った。
「土岐君、大分上手になったね。この絵なんか殆ど亡くなった小出先生の絵と寸分変わらへんよ」
男は青年に言うと横に並んだ年配の男の方を見て微笑んだ。
「鍋井さん、護君の絵はそれほどですか?」
和服の男は口髭を触りながら隣の男に聞いた。
「ええ、もう申し分ないほどの腕前ですね。ほら、今護君が描いている絵は小出先生の絵なのですが誰が見ても護君のこの絵を見たら小出先生の絵やと思うでしょうね」
ほう、と和服の男が言った。
「もし小出先生が生きていらっしゃったら土岐君のことを殊の外気に入ってくれたでしょうね」
洋服の男の言葉に青年は振り返り笑った。
照れたように笑った青年の名前は土岐護と言った。
そしてぺこりと頭を下げた。
この中之島洋画研究所には養父の勧めで数年前から通っている。
いや正確にはこの洋画研究所は去年閉められた。今はその場所で密かに数名の有志が研究室と称して続けているだけだった。
和服を着た人物が養父の乾憲介だった。養父は神戸を本拠地とした乾海運の社長だ。
養父だから血のつながった親子ではない。
土岐護の両親は尼崎の漁師だった。朝早く沖に出ては魚を網で取り、それを朝の市場にいつも卸していた。
春の雨が降る日だった。その日は朝から雨が降っていた。
瀬戸内は霧が出て薄暗く陽の光はまだ差し込んでは来ていなかった。
その日の未明、軍事物資を積んだ乾海運の大型船が瀬戸内の暗い中を静かに進んでいた。
突然激しく振り出した雨の中で航海士は目の前に浮かぶ小さな暗い塊を雨の中で見つけるのが遅れた。
ドンと言う低い衝突音が船内に響いた。
驚いた船員が船室から甲板に出てきて音の鳴ったところに駆け寄り海を覗いた。
海の中で何かが大きく割れていくのが分かった。
「これは!」
その声に多くの船員が集まって来た。
「おいどうした?」
近寄ってきた船員達が海を指さす船員の顔を見て暗い海へ向かってライトを当てた 。
ライトの先に漁船から投げ出された漁師達の姿が見えた。
「船だ!小さな漁船が衝突して人が海に投げ出されているぞ!!」
乾海運の大型船と両親達を乗せた漁船が衝突したのだった。
護の両親の乗った漁船は大破し、乗っていた全員が海に投げ出された。
喧騒と怒声の混じった声が甲板に聞こえ、急いで小型の救助船が下ろされた。
ライトが海に投げ出されて人々を照らし出しているが雨は激しく振り出し、やがて雷雨になった。
吹き荒れる嵐のような海上での救助は難航した。
そしてやっと護の両親が甲板に引き上げられたとき、既に二人は冷たくなっていた。
憲介はその時東京に居た。電報でその報に接するや否や、急いで神戸に戻った。
そして幹部社員から事故の全容を聞くと死体の安置されている尼崎の寺へ向かった。
すすり泣く声が聞こえる扉を開け、憲介は安置所に入った。
死体を囲むように泣いている遺族が安置所に入って来た憲介を見た。
憲介は遺族の視線を受けると目頭を押さえてその場に跪くと大声で「申し訳ありません」と言って額を床につけた。
青年は窓から視線を外すと男に向かって頭を下げた。
「いや、鍋井先生の指導が良いからです。僕はまだまだとても先生達の様に上手ではありませんから」
「そんなことは無いよ、土岐君。謙遜しなくてもいいさ。君の実力は既に誰もが認めるところだ」
そこで鍋井は咳をした。
「それより、もうあれにはとりかかっているかね?」
青年は二人に近寄りながら頭を掻いた。
「いや、まだあれには取り掛かってはいません。何せ僕にとってはとてもまだ手に負える様なものではないと思っていますから」
「そんなことは無いさ。あの絵は君に描かれるためにあるようなものだよ」
護ははぁとはにかみながら言った。
「あれとは何ですか?鍋井さん?」
憲介が不思議な顔つきで鍋井に言った。
それで鍋井はああそうです、と言った。
「いえ、彼にね。或る作品を描いてもらおうと思いましてこの研究室の秘密の部屋の鍵を渡したのです。それは余程の人間しか入れない部屋で山本さんの許可がないと入れない部屋なのですよ」
「山本さん?」
憲介は首を捻った。誰だろうと言う顔つきだった。
「鍋井さん、その山本さんとは?」
鍋井が顎を摩って言った。
「山本顧弥太さんです」
「おお、芦屋の山本さんですか」
「ええ、山本さんはここの前身の信濃橋洋画研究所からの我々の大事なパトロンですよ」
ふふと鍋井が笑う。
「山本さんならうちの方でも何度か船で綿を運ばせていただいたことがある。そうでした、山本さんは芸術にも造詣が深い方です。『白樺派』でしたかね、武者小路実篤氏とも仲が良いと聞いています」
「ええ、その山本さんから今或る作品を暫く預かって居ましてね。それがこの研究室の秘密の部屋にあるのです」
「そうでしたか」
「護君はその山本さんから許可を頂いてその部屋に入りその作品を描く許可を頂いたのですよ。その部屋に入って絵を描けるのは僕の知っている限り護君で二人目ですよ」
鍋井が護の方を見た。
憲介も護を見た。
「護君はもう私など手に届かないところにいるのですな」
そう言うと大きな声で笑った。
「お父さん、とんでもないです。それにこうした機会を頂けるようにしていただいたのは全てお父さんのおかげです。両親を亡くした僕を手元に引き取っていただき育てていただいた。亡くなった両親もどれ程感謝しているか、それを思うと僕は・・」
そう言うと護は目を拭った。
憲介はそっと護の側に寄り、泣いて震えている肩に手を置いた。
「護君、私の方こそ君に返す言葉もない。君から全てを奪ったのは私だ。私はせめて君の将来を亡くなったご両親の為にも守ってやらなければならない」
鍋井は静かに二人の言葉を聞いていた。護の事は憲介から聞いていた。
乾海運の海難事故で護の両親が亡くなったということ、そして両親を亡くした護少年を憲介が引き取りその将来がはっきりとするまで憲介の子供として育てるということだった。
鍋井は少し視線をずらして窓の外の世界を見た。
窓枠に残る雨の滴が憲介と護の心の窓に寄せるように流れて落ちて行った。
窓の外の世界が少し明るくなっていた。
(おや、雨が少し止んだようだ)
数歩進んで窓から眼下に広がる中之島の街を見た。
雨は既に止み、傘を閉じて街の通りを歩く人達の姿が見えた。
その中に朝日ビルの前に立つ三人の姿が見えた。
(おやあれは、もしかして・・)
そう思うと窓から振り返り護に声をかけた。
「護君。もしかして今ビルの入り口にいる方は今朝護君が言っていた方では?」
それを聞いて護は鍋井の側まで来て窓から覗いた。
続くように憲介も窓から覗いた。
ああ、と護が声を漏らした。そして護は憲介の方を見た。
ビルの前に立つ姿は三人の若者だった。
二人は青年で一人は若い娘だった。
「護君、君が言っていた方かね?」
憲介が護に言った。
「はい、あの先頭に居る背の少し低い男性がそうです。あとの方はその男性のお連れです」
そう言いながら護は目を凝らして娘を見た。娘は肌が白く遠目からでも目が大きくはっきりとした二重の美人だと分かった。
(頼子さん、元気そうだ)
護は憲介の方を振り向いた。
「お父さん、森哉・・いえ、僕の兄が到着したようです」
そう言うとにこりと笑った。ただ心の中で(もう一人は誰だろうと)思った。
護達がロビーに足を入れると丁度三人が入ってくるところだった。
護は先頭を歩く背の低い帽子を被った男に声をかけた。
「兄さん、哉兄さん」
その声に背の低い男は帽子を取ると護を見ると破顔して声を出した。陽に焼けた頬に白い歯が見えた。
「護!元気にしていたか」
哉と言われた男は急ぎ足で歩み寄ると護の両肩をしっかりと掴み、やがて互いに抱き合った。
「前に会った時はお前達が満州から引き上げる前でまだ小さかった。ちゃんと覚えていてくれたかい?」
護は少し涙ぐみながらええと低い声で言った。
「いつも兄さんの写真を見ていましたから忘れることはありませんでした」
そう言うと胸のポケットから四つに折れた写真を取り出した。
若い夫婦が二組、そして男の子が二人に女の子が一人映っていた。
その写真を哉は丁寧に受け取ると眺めながら言った。
「養父母は流行り風邪の為、満州で亡くなってしまった。だから思い切って妹の頼子と一緒に内地へ引き上げることにしたのだ」
そう言うと護は頷いた。そして数歩下がったところにいる娘を見た。
娘を見る護の視線を追うように哉が言った。
「護、この写真は養父が満州で診療所を出していたときのものだからお前が覚えているかどうかわからないけど、ほら彼女が妹の頼子だ、わかるかい?」
娘が数歩歩いて護の前に立った。髪を後ろに束ねて白い頬に桜のような薄い桃色が見えた。
護が遠目で見た大きな二重の黒い瞳が微笑している。
「兄さん、勿論覚えていますよ。頼子さんの事は」
そう言って護は娘の前に立って手を出した。
「頼子さん、お久しぶりです。護です。お元気そうで何よりです」
頼子は護の声で少し頬が緩んで静かに言った。
「護さんですね。こんなに立派な青年になられて。私の方こそ、連絡もせず長い間ご無沙汰をしていました」
そう言って頭を下げた。
「頼子さん、とんでもない。こんな時代ですから仕方ありません。それに僕の方こそ満州から引き上げて直ぐに両親が事故で無くなりましたから」
そう言って哉の方を見た。
哉は黙って頷くと護の後ろを見た。数歩離れて護達の様子を見ている二人の男の姿が見えた。
「護、あちらにいらっしゃる方が乾家の御当主かい?」
鍋井がその声で憲介の方を見た。
その言葉で憲介が護と哉の前に出て、哉に向かって頭を下げた。
「森哉さんですね?私は乾憲介です。神戸で乾海運という船会社をしているものです」
そこで一度言葉を切った。そして小さく咳をした。
哉の瞳がじっと憲介を見ていた。
「哉さん、既に護君からお聞きになられているかと思いますが、我社の船が大阪湾を航行中にあなた達のご両親を乗せた漁船と衝突をしてしまいました。これは言い訳に聞こえるかもしれませんが・・その日・・折り悪く海上は春の嵐のような天候に見舞われておりました。我社の船員も全力を出して救助すべく努力をしたのですが・・海に投げ出された方々の救助が難航しました」
哉は少し視線を床に落とした。頼子がその姿を見て気遣うように兄の背に手を当てた。
哉は無言で下を向いたまま頷いた。
憲介は目を押さえると少し赤くなった目で話を続けた。
「それで多くの漁師の方が無くなられ・・・そして海に投げ出された方たちの中にあなた達のご両親がいらっしゃいました。私は会社の代表として亡くなられたご遺族の方たちにできるだけの手厚い配慮を差し上げようとその時決めて、社を上げて誠意をもって対応いたしました。そしてご遺族の方を調べて行くうちに幼い護君がいることを知りました」
憲介は深く息を吐いた。そこに居る誰もが苦しい胸の内を話しているのだと思った。
「我が家にも一人息子が居ましたが妻と相談して護君を引き取り、せめて護君の将来がはっきりとするまでは無くなったご両親の代わりに守り育ててやりたいと思い、今日に至っています」
そう言うと憲介はすっと床に膝と手を着き哉に向かって大きな声で「申し訳ありませんでした」と言った。
その声と憲介の態度にロビーにいた人達が振り返って憲介の姿を見た。
目を上げた哉が驚いて憲介の背を押さえて立つように促した。
促されて立ち上がる憲介の頬からは大粒の涙が流れていた。
「どうぞ、あまりご自分をお責めにならないでください。ええ、そのことは弟から聞いています。私は生まれて早くに満州で森洋三と言う医者をしている父の幼馴染の家に養子に出たのです。私は満州で暮らしていましたのでその事を知ったのは大分たってからでした」
哉は護を見た。護が頷いてそっと手で憲介の背を摩った。両手で涙を拭いながら憲介は二人の兄弟を見た。
「そうでしたか、いや本当にこちらの調べ不足でした。護君にお兄さんが居たことはほんのつい先日まで知らなかったのです。護君が満州へ手紙を出されていたのは知っていたのですが、それがお兄さん宛だとは・・ご苗字が違っていましたから・・」
涙声で憲介が言った。
その声に哉は優しく「すいませんでした」と言うと穏やかに憲介に話し出した。
「弟からの手紙では乾さんからのご厚意も厚く今ではこうした大阪の素晴らしい画家先生のいる研究所で好きな絵を学ばせていただいていると書いてありました。私は乾さんに感謝しているのです。こんな見ず知らずの弟をこうした立派な青年にしていただいたのですから。きっと両親もそう思って喜んでいることでしょう」
「ありがとう、いやそう言っていただけると私は・・お二人に言葉がない。本当にありがとう」
憲介は哉の手をしっかりと握ると手に額を寄せるように頭を下げた。
「乾さん」
様子を見ていた鍋井が憲介に声をかけた。
「護君のお兄さんはお手紙通りなら今日神戸に入って来た汽船ではるばる満州からお戻りになられたのでしょう。それに正午過ぎやから丁度お腹もすかれているやろうし・・ほら、後ろのお連れさんと一緒にどこか食事でも行きましょう」
鍋井がロビーで一人壁にもたれて立っている青年を見て言った。
青年は帽子を目深く被りシャツの胸元を開けていた。青年は立ちながら本を開いていた。
憲介も青年の方を見て「そうですね」と言った。
「鍋井さんの言う通りです。皆さん長旅で疲れているし、お腹もすかれているでしょうからどこかで食事でもしましよう」
憲介はそれで「どこかこの辺に適当なところが無いか運転手に聞いてきます」と言って足早にロビーを出て通りに出た。
護が哉に聞いた。
「兄さん、あの方は?」
哉が青年に視線を向けた。
「護、僕は満州で陸軍の仕事をしている」
その声はどこか重たかった。
「その時ハルビンの研究所で知り合った友人が彼さ」
「陸軍の仕事を?」
哉が頷いて言った。
「ああ、養父が医者だったろう。僕もだから家業を継ぐために猛勉強して満州の医科大学に進んだのだけど陸軍の目に留まり直ぐに別の研究所に勤めることになったのさ。そう・・このことは手紙には書いていなかったね」
「そうでしたか、知らなかった。では兄さんは軍人ですか」
それには少し首をかしげて護は頼子を見た。頼子は何とも言えない表情をしていた。
するとロビーに憲介が現れた。手を振って皆を呼んでいた。
その姿を見て哉が壁にもたれていた青年を呼びに言った。そして一言二言手短くしゃべると青年が本閉じて荷物を担ぐのを護は見た。
「どうやら見つけたみたいやね?」
鍋井がにこりと笑って皆の方を振り返った。振り返りそして頼子の方をじっと見た。
その様子を見て護が言った。
「鍋井先生?どうされました」
七三に分けた髪を触りながらにこりと笑って護に言った。
「昔ね、東京で画家の中村彝さんの油絵を見たことがあるのだけど・・彼が描いている相馬俊子さんにあなたは雰囲気が似ているのですよ」
「相馬俊子さん?」
頼子が鍋井に言った。
「ええ、まぁそのことはゆっくり食事しながら話をしましょう。僕はもうお腹がへって動けなくなりそうなかんじですから、早く食事がしたいですよ」
そう言って笑いながら憲介のもとへ歩き出した。
皆もにこやかに笑いながら歩き出した。
戻って来た哉に護は聞いた。
「兄さん、陸軍の何処にいるのです?」
哉は少し間を取って「関東軍防疫部というところさ」と小声で言った。
良く知らないなと言う表情で護は続けて言った。
「ではあの方は?」
その声に後ろから急に二人の間を割る様に低い声が聞こえた。
「弟君、私は新島新平。明治華族の出だ」
護はその声に驚いて振り返った。
新島と言った男は目深く被った帽子の下で護に向かって静かに微笑した。
雨音が細くなっているのが庭の芝生を叩く音で綾子は分かった。
ソファに腰を掛けながら膝元に先程まで自分が抱えていた絵が置いてある。
ちらりとその絵を見た。
美しい青地の背景に輝く向日葵が見えた。
(この絵にどんな秘密があると言うのだろう)
ドアを開く音がした方を向くと白髪を短く切りそろえた護が首にタオルをかけてソーサーの上にティーカップを乗せて持ってきた。
そして戸棚を開けると茶葉を取り出してポットに入れるとテーブルに置かれたアルミ製の入れ物から湯を注いだ。
そして静かにそれをテーブルの上に置いて綾子と向き合った。
綾子はその動作を静かに見ていた。
護がポットに手で触れて温度を確かめてからそれぞれのカップに紅茶を入れた。
白い湯気が綾子の目の前で消えてゆく。
「どうぞ、綾子さん」
綾子はそれには答えず沈黙していた。
二人の間に暫く無言の時間が流れた。
外の芝生を叩く雨音だけが綾子と護の耳に響いた。
その沈黙を破る様に護が小さな咳払いをして言った。
「真夜中ですが、いかがです?紅茶でも飲みながら夜話というのは?」
綾子はゆっくりと顔を上げて護の穏やかな視線を見ながら言った。
「この紅茶に眠り薬が入っていないと言う保証は?」
それを聞いて護は声出さずに笑った。
そして「成程」と言った。
「未だ私に警戒は怠らずと言うことですか」
そう言って護は紅茶を口元に持って行き、先に一口飲んだ。
「綾子さんの疑いもごもっともです。ですから先に私が先に一口いただきました。何かあれば私の方に何か起こるでしょう。まぁそんなことは在り得ないですがね」
そして「それに」と言った。
「それほどの警戒心があの当時あなたの御祖父と乾海運にあればあんな悲惨な事故は起きなかったでしょうがね」
それを聞いて綾子は顔を上げた。
「どういうことです?」
黒い瞳に護の表情が映った。
「祖父が何かあなたにしたのですか?」
詰めかかるような声に穏やかに護は言った。
「まず冷めないうちに一口」
綾子は護の穏やかな口調に促されるように紅茶を一口、ゆっくりと口に含んだ。
いつ護が入れたのか、紅茶はヴァニラの香りがした。
「鍋井さん」
憲介が鍋井に言った。
「どうされました、乾さん」
憲介が後ろを振り返り後についてくる車を見ていた。
「いえね、先程紹介を受けたあの新島君と言う青年、彼、明治華族の出だと私達に言ったでしょう。しかし僕もそうした方面の方達とも付き合いがありますが、聞いたことが無い苗字なのですよね」
ははと鍋井が笑った。
「今は昭和だ。まぁ明治維新、日露戦争と続いて新国家設立からもうすでに多くの時間が流れていますよ。明治華族とはいえ何人もいらっしゃるのだから、乾さんがご存じないのも無理はないでしょう」
鍋井が目を細めて外を見た。雨上がりの空に虹が見えた。
「おや、乾さん。虹が出ていますよ。ほら」
憲介はその声に鍋井の指さす方を見た。
「ああ、本当だ」
憲介も目を細めて外に輝く虹を見た。
「そうそう乾さん、それよりも後ろの車に積んだ絵をすいませんが芦屋の山本さんのところに届けていただけますか?」
「先程後ろの車に積んだあの二枚の色のついた包みですか?」
「実は僕、急に画家仲間の黒田君やサクラクレパスの方と夜に会合があることを思い出しましてね。それをすっかり忘れていました。今回は心斎橋の丹平ハウスにある赤松洋画研究所からも吉原君も来られるようで賑やかになるでしょう」
「いやそれは構いませんよ、それで黄色と青色の包みでしたがどちらですか?」
憲介は後ろを見た。後ろの車の後部座席で揺れている包みが見えた。
「黄色の方です。そちらを山本さんのところにお願いします」
「ええ、どうせ同じ芦屋で帰り道ですから。ちなみにもう一つの青い包みは?」
「あの青い包みは護君の為の絵です」
「護君のですか?」
そう言った時車が上下に揺れた。それで思わず鍋井は前のめりに倒れそうになった。
「大丈夫ですか?」
憲介が鍋井を見て慌てて言った。
「いや、大丈夫です。全く・・道が荒れて困りますわ。国も戦費にばかり金を使わずにもう少し我々の生活をしっかりみてくれないと」
「全くですね」
そう言って鍋井は乱れた髪を整えた。
「青い包みは先程研究所で僕が護君に言っていたアレです」
「アレ?ですか」
「そう、黄色の方は今日まで山本さんからお借りする約束でしたからお返ししないといけなくて。それでその代り同じものを護君にお渡しします」
要領を得ない顔つきのまま憲介は顎髭を撫でた。
「まぁ良くわかりませんが、とにかく護君に必要な絵だと言うことですね」
ふふと鍋井は笑った。
「その青い包みには黄色の包みと同じ絵が描かれているのですよ。憲介さんこれは秘密にしてください」
そう言って肩を寄せて小声で言った。
「その絵は僕の亡くなった知り合いの画家がその黄色の包みの絵を山本さんの許可を頂いて描いた模写なのです」
ほうと憲介は低い声になった。
「その絵は原画をもとに描かれた素晴らしい模写です。恐らく見れば本物と思うでしょう。そしてその原画は今日までお借りする約束でしたから山本さんのところにお返しをしなくてはいけない。そうなると護君が描くはずの絵が研究所から無くなりますからね、護君も夏休みに描く予定でしたから困るでしょう」
「鍋井さんまぁ分かりました。護君には青い包みは研究所の絵、つまり原画をお借りしたと言っておきますよ」
その答えに少し考えたように「いや・・」と鍋井が言った。
「やはり護君には或る画家が描いた模写やといって下さい。模写と言ってもそれが原画と見劣りするとは思って欲しくないですし、それに才能があれば原画を超える素晴らしい作品になるということを知ってもらって護君の今後の励みにして欲しいですからね」
「そうですか」
憲介の言葉に鍋井が頷く。
その時車が少し大きな橋を渡り、二人の前方に心斎橋界隈の街並みが見えた。
「心斎橋ですね」鍋井が街を見ながら言った。
「ここら辺に良い店があるらしいですよ」
後ろを振り返りながら憲介が言った。
「ちゃんとついて来ていますか?」
鍋井の問いかけにええと憲介が答えて、鍋井を振り返りさりげなく言った。
「それで鍋井さん、その原画と言うのは誰が描いたのですか」
少し返事をためらうのが鍋井の表情が見て取れた。
すると鍋井が先程より肩を一層寄せて耳元に口を寄せた。
そして静かにゆっくりと小さな声で言った。
「ゴッホです。ゴッホの向日葵です」
小さな声だったが憲介の耳にもはっきりと聞こえた。
「まぁ乾さんなら秘密は守っていただけるでしょうし、それにこれからお昼を御馳走していただけるのですから。せめてもの食事代の代わりにお答えします。そしてそのゴッホの向日葵の絵を描いた画家は・・・」
車が道の悪い場所を通ったのか大きく上下に揺れた。それで兄の哉が態勢を崩した。
「おっと」
それを見て頼子が言った。
「哉兄さん、大丈夫」
少し照れ笑いを浮かべながら「大丈夫だ」と言った。
「護さん、哉兄さんね、対馬沖で船が大きく揺れた時、甲板に出ていてもう少しで海に投げ出されるところだったのよ」
「そうだったのですか」
護が哉を見た。
後部座席に哉を挟むように三人が肩狭く座っていた。
助手席には新島が座っていた。相変わらず帽子は目深く被っている。後部座席に会話にはまるで無関心のようで、彼はずっと大阪の街並みを眺めていた。
「だからしっかりとしてくれないと、今みたいなことでも舌を噛んで怪我をするのだからね」
頼子がぷいと怒って外を見た。
「いやあのときはデッキに掃除用のクリームの塊が残っていて、それに気が付かなくて踏んでしまってそれで滑ったのだよ」
それに哉が護を見ながら笑って答えた。
「だからしっかりしてってことよ。哉兄さん、しっかりしないと私達これから東京で暮らすのだから」
(東京へ行くのか)
頼子の言葉に護は思った。
兄からの手紙では内地に戻ってきた後のことは書かれていなかった。護も気にはなっていた。
憲介に頼めばきっと一緒に芦屋の邸宅に住むことを許してくれる筈だった。
静かに護は哉を見た。
(東京か・・)
そして頼子も見た。
(頼子さんも一緒か)
寂しい気持ちがあった。
それにも増して心配事があった。
前年から米軍による空襲が頻繁に発生している。祖開する人々も多い。首都の東京は日々空襲に襲われていた。
「兄さん」
「ん?」
哉が護を見た。
「東京は空襲で酷いと聞いていますよ。それでも行くのですか?」それには哉は低い声でああと言った。そしてちらりと前に座る新島を見た。
その様子を護が見ていた。
「どうしたのです兄さん。新島さんを見て」
「いや実はな護。僕達は東京へは行かない」
それには頼子が驚いて言った。
「どういう事です哉兄さん?私達は東京へ行くのでは」
哉が頼子の方を見た。あまりの驚きの様子に哉がまぁまぁと言った。
「当初は東京へ行く予定だったが事情が変わったのだ。新しい行き場所は新島さんが知っている」
「新島さんが?」護が言う。
「さっき僕は向こうで陸軍の仕事をしていると言っただろう?新島さんはその陸軍での僕の上司になる。実は神戸に到着した時新島さんが海軍室で電報を受け取ると、東京ではなく僕達は別の場所へ向かう指示が書かれていたようだ」
護と頼子が黙ったままの新島の背中を見た。その背中は自分達を振り返らず、沈黙していた。
「それでどこへ?」
護が言った。頼子もその返事を聞く為に哉に体を寄せた。
「護、それで相談があるのだ」
哉が護の方を見た。
「申し訳ないのだが、頼子を暫くお前のもとで預かってくれないか。どうだろう、あの乾家の御当主に相談してくれないだろうか」
「哉兄さん・・」
頼子の驚く声が続いた。
「それは・・」
護は哉の以外な申し出に少し驚き隠せなかった。
しかし、その一方で頼子と一緒に過ごせると言うことで何とも言えない自分の気持ちが沸き上がるのを感じた。
数年ぶりに見た頼子は既に少女ではなく、美しい娘になっていた。
二重瞼の下で輝く黒い瞳に真っ直ぐに伸びた鼻梁と白く透き通るような肌に浮かび上がる薄い桃色の唇。
本心を言えば先程頼子を見た時から既に護は恋に落ちていた。
研究所で描く度、戦時とはいえルノワール等の印象派が描く外国の娘の美しさとはどのようなものかと思っていた。
それが頼子を見た時、護は思った。
(外国の画家たちが云う『ミューズ』とはきっと僕にとって彼女の事だ)
そう思ったが東京へ行くと聞いて離れ離れになることに身を引き裂かれるような寂しさを強く感じた。
それを知っているかのように兄が妹の頼子を「ここに残らせてくれないか」と言っている。
護は浮き上がる気持ちと同時にそんな兄を心配した。
「それは乾のお父さんに言えば何も言うことは無いです。しかし兄さん僕達と一緒に暮らしてはくれないのですか?満州からせっかく戻ってこられたのに。兄弟仲良く暮らせたら」
頼子が頷く。
「いや、護。お前の言う通りだ。しかし僕は或る任務を受けていてね・・」
兄の声が重くなって護は最後が聞き取れなかった。
「任務ですって?それは何です?」
「森君、その辺でいいだろう」
新島の鋼のような声がした。
全員が新島の方を向いた。
「それ以上、君が語る必要は無い」
揺れる車に中でゆっくりと新島が振り返り護の方を見た。
護は帽子の影から自分を見る新島の瞳を見た。
それはどこか冬に吹く風が肌を叩きつける冷たさを感じた。
「それより、護君と言ったかな。先程ほら車の後ろに積んだあの青と黄色の包み、あれは何だい?」
護は後ろを振り返り後ろで揺れている青色と黄色の包みを見た。
包みの下は頑丈に木枠で囲まれていた。
ガタゴト揺れる長方形の包みから視線を新島に戻した。
しかし視線を戻しても護は何も言わなかった。
護はこの新島と言う人物の中に何か得体のしれない部分を感じていた。
どこか冷徹で平気で人を燃え盛る炎の中に放り込むような、そんな感じを初めて会った時から感じていた。
(言うべきか・・)
聞かれた返事に答えればその先に広がる深い暗闇に自分が吸い込まれてしまう、そんな恐ろしさを感じた。
車に積み込む時、鍋井は護には何も言わなかったが一枚の絵が何かは分かっていた。
(そう、これはあの絵だ)
しかしもう一つは知らない。
唐突に新島は言った。
「ゴッホだな。そう、山本顧弥太氏所蔵の向日葵だろう」
目を大きくして護はビクリとした。
心臓に氷のつららが突き刺さった感じがした。
そんな護を見て、唇の端に薄く笑みを浮かべながら新島が言った。
「父がね、1924年ごろ東京の星製薬で見たらしい。とても素晴らしい絵だったと僕に言っていた。その後、大阪の信濃橋洋画研究所で展覧会があったようだ。中之島洋画研究所は信濃橋洋画研究所の流れを汲んでいる。ここは今表立って研究所とは言っていないがゴッホの絵があってもおかしくない」
新島の意外な見識に護は驚きを隠せなかった。まさしくその通りだったからだ。
「残念ながら僕はまだ一度もお目にかかれたことは無いのだけど、是非この機会に見たいものだと思ったよ」
そう言うとゆっくりと姿勢をもとに戻して新島は再び街の外の風景を眺めた。
そして言った。
「なぁ森君、後で弟君に頼んでくれないか?明日をも知れぬ軍人の願いだ。是非、その向日葵を一目見せてくれないかとね」
「森さん・・それは」
声を詰まらせながら哉が言う。
「芸術は人類の宝だよ。今は戦争なんてつまらないことをしているが、僕はそう思っている。例えそれが敵国の物だとしてもね」
新島はそう言うと帽子を深く被って、何事も無かったかのように車窓の外を見た。
「それに今晩は芦屋の乾家にお邪魔するのだから、その時にでもね」
綾子は紅茶の中に含まれたヴァニラの香りを嗅ぐと護を見た。
護は穏やかな眼差しで綾子の目を見た。そしてゆっくりと口を開いた。
「はじめに言っておきますが、原画であるゴッホの《芦屋の向日葵》は残念ながら既にこの世に存在していません。あなたの期待を裏切るかもしれませんが乾さんのお持ちのあの絵は本物ではありません。そのことはこれから私が話す中で分かることです」
護はひとつ大きな息を吐いた。
「私の話を聞いて綾子さんがどう思うかは自由ですが、そのお話の中で実際に生きた人々の事を悪く思うことが無いようにお願いします。そしてそれは・・・・そんな時代だったと理解して下さい」
護はそして紅茶を口に運んだ。
「1945年、8月5日。この日、私達兄弟は芦屋のあなたの邸宅に居ました。そして頼子も・・」
綾子は意外な内容に驚いて目を開いた。
「私の記憶の中からその日の事をお話いたしましょう」
夕暮れに鳴く蝉の声を聞きながら哉は縁側に腰を下ろしていた。憲介は護達を自邸に招き入れると直ぐにどこかへ出かけた。
憲介の乗る車には黄色の包みが積み込まれていた。
青い包みは護の指示で土蔵の奥に運び込まれた。哉が護に聞くとその土蔵は護のアトリエになっているとのことだった。
それも憲介が護の事を思ってしてくれたことだった。
(護は乾家で大事に扱われている。御当主の憲介さんは誠実なお方だ。両親を亡くした護を例え義理とはいえ、このように礼遇してくれている。これからも護をお任せしても問題はないだろう)
哉は入浴を終え、庭の木を見ながらどこで蝉が鳴いているか首を動かして探していた。
部屋の奥では新島が柱にもたれながら読書をしている。相変わらず帽子を目深く被っている。彼も先程風呂に入り長旅の疲れを取ったばかりだった。
今は頼子が入浴している。いつもより長くなっているのはやはり女だなと哉は思った。
長旅の汚れを取っているのだろう。男の様に風呂桶で水を浴びれば良いと言うものではない。
蝉を探すのを止めて足を組んで顎に手をやった。空の向こうに夕暮れが染まっている。
(頼子も護も大人になった)
そう思って、ふと哉は護が頼子を見る目が少し少年の頃とは違うなと感じた。
久しぶりに見た弟は少しばかり少年の面影を残してはいるが青年の若々しいなんとも言えぬ匂いを出していた。
(護も今年で17歳だ。恋の一つをしてもおかしくはない)
そう思うと、今日の護は頼子と久々に会ったがどこかよそよそしい。
(頼子に恋心でも抱いたか?)
くすっと心で笑った。
(別に血のつながったもの同志ではない)
物思いに耽っていた為か蝉が鳴き止んでいたのを忘れていた。
「蝉を探していたのではないのか?」
突然、新島の声が聞こえた。
いつ来たのか新島が縁側に立って哉を見下して言った。
「次の朝、生きて蝉を鳴く声が聞ければいいが」
新島は遠くに沈む夕陽を見詰めている。
「そうですね、新聞は書いていませんが各地での戦局はかなり厳しいようですね。本土空襲もひどくなっている。東京はもうほぼ焼け野原になっているでしょうね」
哉は静かになった庭に下駄を履いて出た。同じように新島が後に続く。哉も新島も誰にも声が届かないところを探して腰を下ろした。
「新島さん、どこへ行くのです」哉が言った。
「朽木へ向かう」
「朽木?」思いつかない地名に哉が眉をしかめた。
新島は帽子を取ると鍔襟のところから一枚の紙を取り出した。
哉はそれを広げた。
電報のようだった。それを広げると短く書かれた一文を読んだ。
確かに「クチキへユケ」と書かれている。
「どこなのですここは?」哉が聞いた。
「琵琶湖のほとりから山一つ中に入った場所だ」
「琵琶湖?」
「そうだ、戦国時代に織田信長が朝倉征伐の途中、浅井長政の裏切りに遭って京へ戻る時、立ち寄った場所がある。それが山間の谷の集落で朽木だ。一度その集落に研究員を集めて、そして敦賀から次の場所へ向かうそうだ。人目を避けるためかもな。そうした山深い里へ研究所員を連れて行くのだから」
帽子の鍔に手をやりながら新島が言葉を足した。
「東京は空襲が酷い。そして船で何処かに連れて行き、まだ例の続きをしたいのだろう」
哉は吐き捨てるように話す新島を見た。
「新島さん、絵画だけでなく歴史にも詳しいですね」
ふんと新島は鼻を鳴らした。
「森君、戦争には負ける。それが俺には分かる。だから俺はその次の時代に生きるための準備をする」
「準備?」
ああ、と言った。
「それは?」
哉の言葉に新島は静かに押し黙った。
その両肩に夜の暗闇が迫ってきていた。その闇の向こうから小さな音がした。
新島と哉がその音の方を振り返った。
「護・・」
そこに護が立っていた。新島と哉の顔が暗闇の中で緊張しているのが護には分かった。
「すいません、兄さん。驚かすつもりは無かったのです。頼子さんがお風呂から上がられたので呼びに来たのです」
「僕達を呼びに?」
哉が不思議な顔つきで護に言った。
新島は帽子を被った。自分の表情を悟られぬようにまた目深く被った。
「ええ、先程乾のお父さんに土蔵に運んだあの絵を・・皆さんに見せていいか聞いたのです」
新島がちらりと護を見た。その視線に護は下を向いた。
「そしたら見たことを秘密にしてくれれば・・とおっしゃってくれたのです。或るお方からお預かりした大事な絵だが兄さんも新島さんも軍人ですからいつ戦争で災厄に巻き込まれぬとも限らない・・と言うことでした」
「見せてくれるのか」
新島が下を向く護に言った。
顔を上げながら護は言った。
「秘密を守れますか?」
挑戦的な言葉だった。
「無論だ」
新島は頷いた。
新島の返事が護の心に届くのを待って、護は言った。
「兄さん、新島さん、ではこちらです」
二人は訪れ始めた夜の帳の中で自分達の見えない影を静かに踏むと護の後について歩き出した。
土蔵の鍵を開けると護は電気を点けた。オレンジの明りがイーゼルや椅子などを照らす。
天井に小さな小窓があり、そこから夜の空が見えた。
護は後ろを振り返ると三人の顔を見た。
兄の護と頼子、そして新島の顔が電気の明りに浮かんだ。
護は一人奥に入ると明りの届かない影のところから青色の包みを持って来るとそれを丁寧にイーゼルの前の床に置いた。
すると三人が土蔵の中に入り、全員がイーゼルを囲んで立った。
護はそれぞれ三人の顔を見渡した後、ゆっくりと青色の包みを取った。そして紙をゆっくりと広げられると中から大きな木枠が見えた。
護はその木枠のふたを取った。ふたを取ると中から太い少しベニア材の額縁に囲まれた一枚の絵を静かにイーゼルの上に置いた。
オレンジの灯りの中で大きな向日葵の絵が誰にも見えた。
「ほう・・」
新島が感嘆したのか小さな声を出した。
「これがゴッホか」
続いて護が言い、頼子が深く頷いた。
護はそんな三人を見渡した後「そうです。これがゴッホです」と言った。
ロイヤル・ブルーに輝くクローム・イエローが鮮やかな向日葵がオレンジの明りの下でもはっきりと見えた。
皆の頭上を沈黙の時間が流れた。
何処から来たのかオレンジの灯りに蛾が寄って来て灯りに当たった。
護は沈黙の中、父が出かける前に自分に密かに言ったことを心の中で思いだしていた。
それはこの青い包みの絵は原画では無い、原画をもとにある画家が描いゴッホの模写だと言うことだった。
護はそのことは皆には黙っていた。この絵を誰が描いたかは知らない。本物は養父が山本邸に届けている。
本物ではないことを思えば護は心が痛んだ。そして本当の事を言えばこの絵を見せることは養父から許可を得ているわけではない。
自分の独断で皆に見せている。
何故だかは護にも分からない。ただここに原画では無くても素晴らしい芸術があると言うことを皆に伝えたかっただけなのかもしれない。
土蔵に仕舞った後、一人で木箱を開けてこの絵を見た。
その時、それは初めてゴッホの向日葵を研究所で見た時以上の感動があった。
模写とはいえまるで本物を越えるような輝きを見たからだ。
だからこれほどの感動をうける作品であれば皆にゴッホの本物だと言って見せても、誰も疑うことは無いだろうと思った。
(これはゴッホの向日葵に匹敵する・・いや、もしかしたらそれ以上のひとつの素晴らしい芸術作品だ)
護の心の上を蛾の羽ばたく音が響く。
(この向日葵は模写だと鍋井先生からお父さんが聞いた。原画は今日山本さんのところに返さなければならない、だから僕の絵の練習の為に鍋井先生が青い包みに入ったこの絵を僕に渡してくれた。この絵は若い才能のある方に持っていていただきたいという鍋井先生の希望だと言うことだった)
護は向日葵の絵を見た。オレンジの灯りがゴツゴツと浮き上がった絵具の影を照らしてゆく。
そんな影を見ながら思った。
(しかし、模写とはいえどうしてこれほどまでに素晴らしい作品になるのだろう。僕は研究所で原画を見ていたけれど、これはそれにも負けないくらいの素晴らしい作品で、描いた画家の才能が溢れてもうすでに一つの作品としての力が備わって居る)
蛾が明りに再び当たった。
それで皆の影が揺らいだ。
皆が真剣に向日葵の絵を見ていた。
無言の中、土蔵の外から潮風を含んだ夜風が流れて来た。
(誰が描いたかなんてどうでもいい。模写でもこれほどの感動があるのだから、僕もいつか沢山の模写を描いてそれで埋め尽くした美術館を建てることができればどれほどのものか・・・)
そう思った時、新島が言った。
「これは本物か?」
護は新島を見た。
目深く被った帽子の影から細くなった視線が向日葵を見ている。
「どうしてですか?」
新島に詰め寄る様に護が言った。
「先程、御当主が車に持ち込まれた黄色の包装の物、あれはこれと寸分変わらぬ大きさだった。そちらが本物で君は僕達に違うものを見せているのではないかい?」
新島が向日葵の方に歩み寄った。
そして青色の下地に目を寄せた。
「ゴッホは確か筆跡が厚く、絵具もパレットから直接キャンバスに乗せていたと私は人づてて聞いている。そして絵具の表面がゴツゴツしていると聞いている。そうであれば画面全体に同じようなマチエールがあると思うが・・」
新島はそこで振り返るとある部分を指さして護を見た。
「見給え、これは一部その表面が何か蝋の様に光っている。この部分は油彩の溶き油や仕上げ材によるものではないな」
護は驚いて新島を見た。
「まさか」
思わず声が出て向日葵の絵の側に寄った。
その部分を覗くと確かにその部分が蝋の成分で光っており、油絵の具で塗られたようには見えなかった。
哉と頼子が心配そうに護を見ていた。
「君、これは偽物だな?」
断定的に新島が言った時、後ろから声がした。
「それは本物だよ」
皆がその声に振り返った。
振り返ると土蔵の入り口にいつ戻ったのか憲介が立っていた。
そしてゆっくりとした足取りで皆のところにやって来た。
「新島君、君は美術に詳しいようだね。まぁ私は君ほど博識ではないがね。それでも本物かどうかは分かる」
「少し失礼な言いようですが、御当主、それは何故です?」
新島の視線を見ると、憲介はゆっくりと笑い出した。
「いや、君の指摘は実に鋭い。必ず正確な答えを求めようとする方のようですね。では言いましょう。それはゴッホの絵をお持ちである方から僕が直接聞いたからですよ」
新島が視線を変えることなく憲介を見ている。
「本物であるかどうかは、お持ちになっているご本人に聞くのが一番ですよ。例え絵についての知識があろうがなかろうがそれですべてが分かる」
憲介が護の側に立って皆の視線を確かめながら言った。
「今しがた私は山本さんのところに出向いて私が預かっている絵についてあれは何の絵ですか?と聞いたのです。そしたらご本人がゴッホの絵だとおっしゃった。ご本人がそう言う以上それ以上の答えは無い。それは宜しいですな、新島君」
新島は黙って聞いている。憲介は続けた。
「それで私がそんな大事な絵をお預かりしていいのですか?と聞くと山本さんの邸宅ではいつも向日葵の絵を居間のところにはめ込んで飾るのだが、暫くその絵を飾るための専門の職人が来ないと言うことだった。それで山本さんは先程鍋井先生に電話で申し訳ないが乾家の方で暫く預かってくれないかとお願いしたところだと言われたそうだ」
口髭を触りながら穏やかに憲介が笑う。
「実際先程その鍋井先生から私宛に電話がありましたよ」
新島が目を細くして言った。
「では聞きますが、あれと寸分変わらずの大きさのものを先程持っていかれたようでしたが?」
「新島さん」
新島をたしなめる様に哉が言った。
憲介は軽く手を上げて哉にまぁまぁと言いながら新島を見て言った。
「確かにそうです。ただあの包みは絵ではない」
「絵ではない?」
「そう、あれは今晩初めて山本さんに会うので私が手土産に用意したものです」
「中身は?」さすがに言い過ぎだろうと哉が何か言おうとした。
「中身は酒です。灘の酒ですよ。一升瓶に入れた酒を木枠で入れていたものです」
そこで憲介は一呼吸おいて言った。
「新島君、君は大きさが同じだと言いますが・・」
憲介の少し目が鋭くなった。
「実際に二つ並べて寸法を測られたわけではないでしょう?」
護は父が明らかに嘘を言っていると分かっている。まるで息子の非難を弁護してくれているようだった。
心が温まるのが分かった。本来ならば無断で絵を見せた軽率さを責められてもおかしくは無かった。
帽子の鍔で目を隠して新島は言った。
「確かに、御当主の言う通りです」
新島は護の方を見た。
「疑って悪かった。この絵は正真正銘、本物のゴッホだ」
そう言うと軽く頭を下げて土蔵を出た。
それを見て憲介が言った。
「妻は丹波の方に疎開して不在ですが、ささやかではありますが料理もあります。さぁ今晩だけは戦時中ですが楽しく過ごしましょう」
そう言って皆を促した。
「護君も土蔵に鍵を掛けたら、居間のほうに来て食事をしよう」
憲介は微笑をたたえながら護達を促して土蔵の外に出た。
「お父さん・・」
憲介が振り返った。
「すいません・・軽率でした・・」
それに憲介は軽い笑顔で答えると足早にその場を去って行った。
ひとり土蔵に残った護は向日葵の絵を見た。
ロイヤル・ブルーが新島の言う通り少し蝋の様に艶めいているのが見えた。
(あの方は目が良い。それに絵画についての見識が深い・・)
蛾が再び明りに当たり護の影が揺らいだ。
(新島新平・・、どこか得体のしれない人物だ)
揺らぐ影の中で呟いた言葉をかき消すように、護は土蔵の鍵を閉めた。
静かな夜だった。
蚊帳の内で哉の寝息が聞こえる。
その向うで新島が同じように静かな寝息をたてて寝ていた。
襖向こうの部屋では頼子が寝ている。耳を澄ませば頼子のゆっくりとした寝息が護の耳に響いた。
開かれた縁側から先程流れて行った雲の切れ間から覗いた月明かりが見えた。
(穏やかな夜だ)
護は横を向けていた身体を向き直すと天井を見た。
久しぶりに兄と頼子と過ごすこの時間がとても幸せに感じた。
両親は既にこの世にはいない。自分はその後この乾家で実子同様に大事にされている。
今は疎開している憲介の妻と息子の洋一郎も自分を大事にしてくれている。
薄ぼんやりと見える天井の隙間を見て自分の将来を考えた。
憲介はもし自分が成人すれば自分の会社で働かせたいと思っている。そして立派な成人として見守り育てたいと人伝で聞いている。
(しかし)と護は思った。
(自分の人生については自分で決めたい)
自分の手を上げて見つめた。
(もしできることなら画家になりたい)
だがそれは難しいことだと思っている。戦争が激しくなっている中でそれは難しい。人々の娯楽や芸術は隅に置かれ、今は戦争に勝つことだけに社会全体が動きだしている。そんな中で画家として自立して生きて行くことは皆無の様に思えた。
両手をじっと深く見つめた。
(それならば両親の様に漁師として生きたい。両親の家業を継ぐことは決して悪くないことだ)
「何を考えている?」
護はその声の方を見た。
「夜に手を見つめて何を思い悩んでいる?」
新島だった。いつ起きたのか半身身体を起こしている。
護も身体を起こした。
「寝ていなかったのですか?」
護の声に新島は低く言った。
「神経が敏感なのだ。隣で誰かが起きていればすぐ目が覚める」
護は薄い暗闇の中で自分を見つめる新島の目を見た。
護をじっと見つめていた。
その目を見て護は言った。
「将来の事を考えていたのです。どうすべきかと」
「そうか」と新島が答えた。
「大事なことだ。次の時代にどのようにして生きて行こうとするのか、それを思い悩み考えることは」
優しくどこか言い聞かせるように新島が言うことに護は驚いた。
その護の表情を見て新島が言う。
「意外かね、俺みたいのが言うのが」
護は小さく頷いた。
声には出さないが口を小さく動かして新島は微笑した。
「新島さんはどのように生きるのですか」
護は思い切って聞いた。
急にこの新島と言う男がどのように将来を考えているか聞きたくなった。
(しかし、年下などに言うだろうか)
護は聞きながらそう心の中で思った。
月明かりがゆっくりと陰るのが分かった。
その陰りが部屋全体を覆うと新島の声が聞こえた。
「俺か・・」
少し間を置いて新島が言った。
「俺は新しい時代に政治家として生きる。そしてこの混迷した国を立て直す」
「政治家に?」
護は驚いた。
「ああそうだ。既にドイツは負けた。こんな愚かしい戦争を続けている国はもはや日本だけだ。この国はいずれ戦争に負ける。その後は米国をはじめとする連合国がこの国を統治下に置くだろう」
再び月明かりが部屋に差し込み始めた。
「俺はその後に訪れる時代を見ている。その時俺は連合国の支配下で息を詰まらせるように生きる様な事はしない。俺は奴らと取引をしてそしてこの国を新しい場所へと向かわせる、そんな政治家になる」
差し込んだ明りが新島の顔を映した。
その表情に感情は無く、切れ長の瞼が薄く閉じられていた。鼻筋は真っ直ぐに伸びており、月明かりに照らされた頬は白く映った。
護は初めて新島の相貌を見たような気がした。
目深く被られた帽子の下でとても才能が溢れている知的な顔立ちが隠れていた。
(これが新島さんか・・)
そんな二人の会話を哉も聞いていた。
寝入っていたが途中から二人の声が耳に入り何となく聞いていた。
新島が護の問いかけに答えたことには少し心の中で驚いていた。
研究所ではあまりにもその研究心の強さで誰とも意見が合わず、孤立していた。そして敵とみると誰構わず攻撃し、相手の息の根を必ず仕留める辛辣さを持っていた。
そんな新島が弟の質問に答えるだろうかと聞いていたが、意外にも答えた。
それだけでなく自分自身をも知らない心の内を新島は弟に言ったのだ。
(人の心の内は複雑で案外分からないものだな)
そう思って寝返りをした時だった。
弟の「あれは?」と言う声が耳に聞こえた。
「あれは何?外が赤く染まっている」
その声に哉は跳ねる様に身体を起こした。
その時には既に新島は縁側に居た。
「まずい!」
新島がそう言う言った時、一斉に大きなサイレンが鳴り響いた。母屋の奥から慌ただしい足音が聞こえてくる。
「皆起きろ!米軍の空襲だ」
その声が聞こえた時、大きな爆撃音がして建物が激しく揺れた。