6.総督府にて
ウルスラは父ベルンハルトに、フェリクスを訪ねて総督府に行きたいと告げた。
「なんだか急に不安になったんです。直にお会いたくて仕方なくて」
ベルンハルトは厳格な族長だが、娘には甘いところがある。普段は男勝りな娘が、いかにも不安そうな声で訴えるのに心を動かされたのだろう。婚礼を前にして不安に思うことも多かろうと、ウルスラの言をそのまま信じて旅立つ許可を与えた。そして信頼がおけると判断した者を随員として選び出すと、急いで支度を整えるように命じた。
グントラムは不服を申し立てに来たが、ウルスラは何食わぬ顔で応じた。
「私はフェリクス様の婚約者だ。私が訪ねて行ったからといって、誰も不審に思わないはず。それに、そろそろ婚礼の打ち合わせも進めなくてはならないし」
そう告げると、グントラムは何も言わずに引き下がった。
老教師イシドロスも一緒に総督府へ向かいたいと申し出た。
「私のような老人が一緒では、時間を食うことになるかもしれませんが」
「いえ、一緒に来てください。先生とご一緒できたほうが安心です」
こうして、フェリクスからの手紙を受け取った翌日、ウルスラは一族の者や老教師イシドロスとともに総督府に向けて出発した。
道中は何事もなく安全だった。賊や叛徒が待ち構えているのではないかと身構えていたが、特にそういったことは起こらないまま、ウルスラは無事に総督府の門をくぐった。
ウルスラは門番に名乗ると、突然の来訪を詫びる言葉を添えてフェリクスへの取り次ぎを請うた。恐縮した門番はすぐさま連絡を取るべく奔走してくれた。
「ウルスラ!」
取次の間で待っていたウルスラのもとに、あわただしい様子でフェリクスが駆け寄ってくる。
「フェリクス様!」
「いきなりどうしたんだ。何かあったのか?」
心底驚いたという様子で、フェリクスはウルスラをまじまじと見つめた。
心持ち顔色が悪いようにも見える。だが、深く病んでいるような様子は窺えない。
「フェリクス様、お元気なんですね」
「いったい……?」
不思議そうに首をかしげるフェリクスに、ウルスラはいきなり抱きついた。
「ウルスラ、どうしたんだ」
驚き、気圧されながらも、フェリクスは婚約者を抱きとめて、その背にそっと手を回す。
「フェリクス様が病気だと……とてもお悪いのだと話す者がいて……それで」
「私は元気だ。たしかに風邪を引いて二、三日横になっていたことはあるが」
「風邪を?」
「だがそれもすぐに回復したし、今は特に問題なく過ごしている」
「ああ、よかった……」
「ウルスラ……その……」
胸元にしがみつき、今にも泣き出しそうな様子でただよかったと繰り返す婚約者の背を撫でながら、フェリクスは困惑したような声で言った。
「よくわからないのだが。いったい何があったんだ。それと、その、他の者の目もある。これは……」
「あっ」
ウルスラは飛び上るようにフェリクスから離れた。
「すみません!」
「あ、ああいや……その」
ひたすら縮こまって詫びるウルスラと、なんとかなだめようとするフェリクス。
こほん、と咳ばらいする音がした。
随員のなかから老教師イシドロスが歩み出て、まじめくさったような表情で話し始める。
「お元気でいらして何よりです。落ち着かれたようでしたら、私から事情を説明いたしましょう」
「イシドロス先生?」
首をかしげるフェリクスに、イシドロスは丁寧に一礼した。
「お久しぶりでございます、陛下。ウルスラ様は本当に心配なさっておいでだったのです。そのことはしっかりお心にお留めおきくださいますよう、私からもお願いいたします」
他の随員は別室に待機させて、フェリクスはウルスラとイシドロスを自分の控えの間へと導いた。
イシドロスが簡潔にこれまでのいきさつを説明する。聞き終えたフェリクスは表情をこわばらせた。
「そうか……グントラムがそんなことを」
「あの者はベルヌスの集落に留め置いております。道中で不審な動きをされてもやっかいかと思いましたので。見張っておくよう、族長にはそれとなく頼んでおきましたが」
「グントラムの言葉はでたらめだった。害意があったと考えるべきだな。残念なことだが」
「夏至の夕べの一件もあります。属州出身者の兵士に関して、調査を行われたほうがよいかもしれませんな」
「彼らの仕業だと決めつけるのは気が進まない。だが、対策は取らなくては」
「叛逆をもくろむ者が内部に入り込んでいる可能性は覚悟せねばなりますまい。無暗な締め付けはお勧めいたしませんが、御身の安全を図られることにもう少し関心をお持ちくださいませ。ウルスラ様を悲しませたくはないでしょう」
「むろんだ……え?」
フェリクスはごく自然な調子で相槌を打った。
相槌を打った後に最後の言葉に改めて気づいたのだろう。しくじったとばかりに、顔を赤らめてうつむいた。
「なんと申しますか、これほど強く思いあっておられるというのに、ご本人同士があまりお気づきでないというのは、見ていて、そう、歯痒いというか、面映ゆいというか、なんともこう、大変もぞもぞいたしますな」
まじめくさった表情で、イシドロスはそう言った。
「もぞもぞ……」
当惑した表情でフェリクスが繰り返す。
「到ってしあわせなこそばゆさではありますが」
表情を崩すことなく、とぼけたような調子でイシドロスはそう繋げた。
「フェリクス様」
老教師は姿勢を正し、声音を改めてフェリクスに呼びかけた。
「イシドロス先生?」
「よい方を得られましたな。末長く睦まじくあられますよう」
しみじみとした声だった。フェリクスもまた表情を改め、老教師に深く頭を下げた。
「それでは、老人は他の者たちと同じ部屋に移ります。おふたり、積もる話もございましょうから。ああ、お忙しいことは存じております。ですが、今くらいは私事に時間をお割きください。陛下と未来の奥方のお心の平穏も、属州の平和のために欠かせないものなのですから」
イシドロスが立ち去った後、ふたりはしばらく言葉もなくただ並んでいた。
やがてフェリクスはウルスラの方に向きなおり、彼女の手を自分の手でそっと包み込んだ。
「ウルスラ」
意を決したように、フェリクスは婚約者の名前を口にした。
「フェリクス様」
「その……心配をかけてしまったね」
「はい、心配しました」
「よくイシドロス先生に相談してくれた」
「本当はグントラムの言葉に乗せられかけていました。先生とお話しできたのは偶然みたいなもので」
「そうか……」
「すみません。やっぱり私は愚かです」
声を震わせて詫びるウルスラに、フェリクスはそっと首を振る。
「君が来てくれてよかった。君が心配してくれて、私は嬉しい」
「フェリクス様」
「会いたかった。だからしつこく手紙を送ってしまって、でも、もしかしたらそれだと君に負担をかけているのではないかと不安になって。ずっとそんなことを繰り返していた。とにかく……そう、ただひたすら、君に会いたかった」
「私もです」
「婚礼まであとひと月足らずだが……もう帰したくない」
心臓が跳ね上がったかと思った。
フェリクスがこんな直截的な言い方をするのは初めてだ。
「とはいえまだ向こうでの準備も残っている。一度は帰ってもらうしかないが」
そのまましばらく沈黙が続いた。
フェリクスは何事かを考え込んでいるようだった。眉間に軽くしわが寄って、少し難しい表情を浮かべている。
ようやく考えがまとまったのだろう。フェリクスはまっすぐにウルスラを見つめ、口を開いた。
「ウルスラ、私は、致し方なく求婚したような態度をとった。この婚姻は契約だとも言った。けれども本当は、君が……他ならぬ君であったからこそ、欲しかったのだと思う。
あの夏至の日、集落の広場で初めて君の姿を見た。君は気づいていないかもしれないが、君と一瞬目が合って、なぜかそれが強く心に残った。黄昏の小道で出会ったときも、すぐに君だとわかった」
――ええ、私もです。
ウルスラは胸の裡で呟いていた。
初めて彼を目にした時、ほんの一瞬、ふたりの視線が交錯した。
錯覚なのかと思っていた。だがそうではなかった。あれはやはり、ふたりの間でたしかに起こったことだったのだ。
「ああ、駄目だな。先生はああおっしゃったが、言葉を尽くせば尽くすほど、なんというか、大事なことから遠ざかるような気がする。そう、その、何と言えばいいだろう。私は……」
ウルスラは彼の胸元におずおずと自分の手を伸ばした。
フェリクスは驚いたような表情を浮かべて、ウルスラを見つめ返す。
だが、次の瞬間、フェリクスはウルスラの背に自分の腕をまわして、ぐっと抱き寄せた。
そしてウルスラの顔に自分の顔を近づけると、そのままそっと唇と唇を重ね合わせた。