5.手紙
副帝フェリクス・アウレリウスが総督府に戻って、ひと月が過ぎた。
約束どおり、フェリクスからは何度か手紙が送られてきている。
時候の挨拶のような簡単な内容だった。文章は短く、使われている言葉は単純で易しい。ウルスラが負担を感じないようにと、言葉を選んだ末の文面なのだろう。フェリクスは当代一流の学問をおさめており、その気になれば詩人も顔負けの優美で技巧に富んだ文章を書くことができることを、ウルスラは知るようになっていた。だがフェリクスは、そういった美しいが難解な文章を送りつけてウルスラを当惑させるような真似はしなかった。
一見、子供に向けて書かれたような易しくて読みやすい文面。そこに込められた気遣いと思いやりを、ウルスラは嬉しく思っていた。
フェリクスから三度目の手紙が送られてきた時、同行してきた者がいた。
イシドロスと名乗るその人物はフェリクスが約束していた教師で、老年に差しかかったくらいの年頃の、穏やかで落ち着いた雰囲気を漂わせる男性だった。
この人物について、フェリクスは手紙の中でこう紹介していた。
――イシドロス先生は、私が子供の頃に勉強を教えてくれた方だ。立派な先生で、信頼できる人だ。きっと君を助けてくれるだろう――
イシドロスはかつて、フェリクスの家庭教師だったのだという。幼いフェリクスに最初に教育を施した人物であり、時として親代わりのような役割を果たした存在だったらしい。
イシドロスは厳しすぎはしないが、甘くはない教師だった。成果を正しく褒めてくれるが、与える課題は容赦ない。その落ち着いた物腰と知的な話し方は、どこかフェリクスと共通していた。
言葉の学習にとどまらず、イシドロスはウルスラに基礎となるべき学問を授けていった。帝国の貴人であれば知っていてしかるべきとされている歴史や地理のごくさわりとなるような部分を、無理のない範囲で少しずつ伝えていったのだった。
イシドロスから勉学を学ぶだけではなく、ウルスラは武術の修練にも時間を割いていた。
武術に関してはもとからそれなりの心得があった。だがもっと磨きをかけ、もっと実践的なものにしていきたいと思ったのだ。
婚約を申し込んできたあのとき、フェリクスは言った。
自分のそばにいたために亡くなってしまった人がいたと。
だから自分は伴侶を求めるべき人間ではないのだと。
あのときの彼の表情は、今でもウルスラの記憶にくっきりと刻みこまれている。
もうあんな顔はさせたくない。
フェリクスは優しい。だがその優しさは、多くを失い、多くをあきらめてきたがゆえのものなのではないか。
フェリクスの歩む道は決して平坦ではない。
刺客に命を狙われるなど珍しいことではないと彼は言った。
それはウルスラの想像の外にある世界だった。
ウルスラはベルヌス族の長の娘として、大切に育てられてきた。
氏族の民は素朴で純情。いい意味でも悪い意味でもそうなのだ。
氏族の間では単純な暴力がそのまま幅を利かせている。理屈よりも腕っぷしが重んじられ、強い者は褒めそやされ、弱い者はさげすまれる。
帝国の中枢は、これとはまったく違うという。
そこでは知恵と策謀が幅を利かせ、笑顔の裏には毒が潜んでいる。
フェリクスは皇帝の義弟にあたる。彼は多くの皇帝を輩出してきた家系に生を享けたが、幼い日に政争に巻き込まれて肉親のほとんどを失っている。そして今、皇后のただひとりの実弟として皇帝から目をかけられ、重用される身となった。次期皇帝に選ばれることも十分考えられるのだという。
彼の足手まといにはなりたくない。むしろ彼を守る武器となって、その傍らにありつづける存在となりたい。
そのためには何が必要なのか。
言葉を操る能力、法やはかりごとを理解する知性、そして、暴力を退けて打ち勝つための武力。
それらはすべて武器となるはずだ。
武器を手に入れ、その刃を研ぎ澄まし、大切なものを守らなくては。
ウルスラはそう考えるようになっていた。
ウルスラのもとにフェリクスからの手紙を運んでくるのは、いつも同じ男だった。
グントラムと名乗るその男は、帝国の兵士ではあるが氏族の民とよく似た容姿を持っていて、氏族の言葉を自在に操った。
聞けば正規の帝国兵ではなく、属州からの供出兵だという。
こういった氏族出身者から構成される部隊は決して珍しいものではない。特にフェリクスは、ヴェネラント平定の頃から氏族出身の部隊を重く用いてきた。
グントラムはベルヌス族ではないが、それに近い背景を持つ氏族の出身であるらしい。言葉の壁がないことから、グントラムは次第にベルヌス族の者たちとも馴染むようになっていた。
季節は夏から秋へと移り変わり、婚礼の日が次第に近づいていた。
そんなある日、フェリクスからの手紙を携えて、いつもの兵士――グントラムがベルヌス族の集落を訪れた。
手紙を手渡した後、グントラムはこっそり耳打ちするように、ウルスラにささやきかけてきた。
「実はウルスラ様にだけお話しするように言いつかっていることがあるのです。大切なことなので、よそにもらすのははばかられるのですが」
父や他の者たちの姿が見当たらないことを確認して、ウルスラはグントラムに訊ねた。
「どんな内容なのだ」
「実は、陛下の容態が思わしくないのです」
「えっ……」
「夏至の頃に体調を崩されて以来、しばしば寝込まれるようになっておられました。それが最近になって、かなり深刻な状態になっているのです。ですが、ご不調を公表すると、これに乗じて各地に潜む謀反人どもが動きを見せないとも限りません。属州を平和に保つため、陛下はお病気を極力押し隠すおつもりのようです。よそにもらすのがはばかられるというのは、そういうことなのです」
「でも、手紙にはそんなことは何も」
「ご心配をおかけしたくないとお考えなのでしょう。あの方は何かにつけて我慢なさるお方ですから」
「なぜそれを私に」
「陛下はウルスラ様にお会いしたいと思っておられるはずです。高熱で意識が定かでない時に、うわごとでウルスラ様のお名前を呼ばれたことがありました。意識のあるときは、そのようなそぶりはお見せになられないのですが。あちらにお出向きになって、陛下をお見舞いくださるわけにはいきませんか。ウルスラ様がいらっしゃれば、きっと陛下も励まされることでしょう。そば近くに仕える者たちは、みなひそかにそう望んでおります」
「それでフェリクス様は、今は……」
「正直、かなり危険な状態にあられるのではないかと」
ウルスラが息をのむのを、グントラムは冷静な顔で見つめていた。そして、一層声をひそめて囁きかけてきた。
「お心が定まれば、私に声をおかけください。内密にご案内いたしましょう」
とりあえずグントラムを下がらせて、ウルスラは考え込んだ。
どうしよう。
フェリクスが心配でたまらない。
たしかに彼は自分の状態を他人に知られまいとするようなところがある。属州の情勢も決して安定していない。自分の健康状態を隠している可能性は十分考えられる。
こうしてはいられない。一刻も早く彼に会わなくては。
フェリクスが総督府に戻ってからウルスラは気づいた。
あの夏の日々の間に、フェリクスはウルスラにとって欠かすことのできない存在になってしまっていた。
彼に会いたい。会って話がしたい。
いつも手紙が待ち遠しかった。けれども手紙だけでは本当は満足できない。
彼の声を聞きたい。彼の顔が見たい。
今、彼は危ない状態にあるという。
迷っている暇などないはずだ。今すぐ駆けつけなければ、手遅れになるかもしれない。
「ウルスラ様」
思いを巡らせていたウルスラに声をかけた者があった。
「イシドロス先生」
「授業の時間が過ぎております。なかなかお見えにならないので、探しに参りました」
「先生……」
老教師の落ち着いた態度に接すると、涙がこぼれそうになる。
「どうかなさったのですか」
この人ならば大丈夫だろうか。
グントラムは内密にと言っていた。たしかに副帝の健康状態について不確かなうわさが流れ出るのは好ましいことではない。
だが、イシドロスは信頼できる人間だ。この人はフェリクスについては誰よりもよく知っているはずだし、フェリクスのことを、副帝ではなくひとりの人間として、大切に思っているはずだ。
この人ならばウルスラの不安を理解して、正しい道を示してくれるのではないか。
「先生、聞いてもらいたいことがあるのです」
ウルスラの話を聞いて、イシドロスは眉をしかめて黙り込んだ。
「……いかにもありそうな話です。陛下はご自分のお体よりも帝国の平和を案じられるようなお方ですから。ですが少し、ひっかかるところがありますな。
ウルスラ様、陛下が一番最近書かれた手紙を見せていただいてもよろしいでしょうか?」
「え……」
「私信を拝見するのは不躾なことだと心得ております。ですが、確かめておきたいことがあるのです」
ウルスラは受け取ったばかりの手紙をイシドロスに差し出した。
文面には変わったところは特にないはずだ。
――少し涼しくなってきたが、変わりはないだろうか。中庭に秋の花が咲き始めた。紫色の美しい花だ。君に見せたい。
イシドロス先生からも便りがあった。ずいぶん頑張っているのだね。嬉しく思うが、あまり無理はしないでほしい――
そういったことがさらりと書かれている。恋文と呼ぶにはあまりにもあっさりとした、短い手紙だ。
「ありがとうございます」
手紙を戻して、イシドロスは言った。
「あの方らしい手紙です。手蹟もたしかにあの方のものだ。しっかりと書かれていて、にじみやぶれもありません。日付は……三日前となっておりますな。総督府からここまで来るのにかかる日数と、ほぼ同じくらいでしょうか」
「あの、それにどういう意味が」
「陛下は三日前に、ご自分の手でこの手紙をお書きになられた。口述筆記ではなくて、自らの手で。そしてすぐにそれを使者に託し、こちらに送らせた。つまり三日前のフェリクス様はこの手紙が書ける程度にはお元気だったはずですし、最後に使者が陛下と接したのも三日前だったはずです。その時の陛下がそれほど危ない状態であったとは、少し考えにくいですな」
「では、グントラムは……あの使者は」
「さよう。嘘をついている可能性があります」
「でも、何のために」
「ウルスラ様はあの使者とともに、おひとりで陛下のところに向かわれるおつもりだったのではございませんか」
「みなには内密にと言われてたので……あ」
「おひとりになられたところで使者は牙をむき、あなたを拉致する。そのような計画なのだと思います」
「そんな……」
「ウルスラ様の身柄を押さえれば、陛下にもベルヌス族にも力を及ぼすことができましょう。姑息だがよく考えられています」
「ベルヌス族は……父たちならともかく、フェリクス様は私の身をそこまで心配なさるでしょうか」
「なさるに決まっています」
「でも、フェリクス様は私との結婚を『契約』だと。属州の平和のために必要だから私と結婚するのだと」
「ああ……」
老教師は首を振り、嘆息を漏らした。
「なんとあの方らしい言い草であることか。大切だからこそわざと突き放したようなもの言いをなさる。あの方はそういう方です。
断言してもいい。ウルスラ様はすでにあの方にとって替えの利かない存在です。でなければ、私がここに送られてくるはずはありません。
私は幼い日のあの方を存じています。あの方がどのような思いを重ねて、どのように育ってこられたのかをずっと見てまいりました。あの方が今一番大切に思っているのは、まぎれもなくあなたです」
「先生のお話はわかりました。でもやっぱり心配です。もしフェリクス様が本当に危ない状態に陥っていたら」
「ならば、正面からお訪ねすればいいのです。供をつれて、堂々と」
イシドロスはこともなげにそう言った。
「ウルスラ様は陛下の婚約者です。訪ねて行って何の不思議があるでしょう。ただ寂しいから会いに行った。理由などそれで十分です。誰も疑問にすら思いません」
「あ……」
思いつかなかった。だがたしかにイシドロスの言うとおりだった。
ウルスラはフェリクスの婚約者だ。ごくつまらない理由で訪ねていったとしても、疑問に思う者は少ないはずだ。誰かに隠して行動する必要など、もとからないではないか。
「ただ、今回の件が何者かの陰謀だった可能性を思えば、供回りの者はしっかり選ぶ必要があるでしょう。信頼のおける者で周囲を固め、くれぐれも、おひとりでうかつな行動をとるようなことはお控えください」