4.夏の日々
ウルスラと副帝の婚約が知れ渡ると、ベルヌス族は騒然となった。
これまではウルスラの夫がベルヌス族の次の族長になるものと思われていた。だがウルスラは外部に――しかも帝国の副帝のもとに――嫁ぐこととなった。双子の妹のギーゼラがいるので、後継者問題に支障が出ることはない。それでもこれまでの心積もりが覆されたことには変わりはなく、あちこちにさまざまな影響を及ぼすことが予想された。
ウルスラはアルベルンのことが気がかりだった。
あの夏至の日暮れ以来、アルベルンとはまともに会話できていない。
あの時、アルベルンはウルスラへの気持ちを明らかにした。だがウルスラは彼を拒絶し、その直後に副帝と婚約した。
悪く受け取っていなければいいけれど。ウルスラはそう願わずにはいられない。
アルベルンは誇り高く、我の強い男だ。自分の意志が通らないという経験は今まであまりなかったはずだ。
アルベルンのことは決して嫌いではない。だが、彼に迫られて、力ずくで押し切られそうになったあの時、ウルスラが最初に感じたのは嫌悪感だった。
自分はアルベルンを望んでいない。はっきりそう感じてしまった。
副帝から結婚話を持ちかけられたときにこみ上げてきた感情とは対照的だった。
そのことはウルスラ本人にも不思議だった。
アルベルンのことなら昔からよく知っている。いずれ結婚するのだろうと、ぼんやりとではあるが考えていた相手でもある。
一方、副帝は見知らぬ人間だ。十歳も年の差があるうえに、生まれも育ちもまったく違っている。そもそも、逆らいがたい状況に追いやられて、否応なく婚約を交わした相手だ。
なのに不思議と嫌悪感はない。むしろ、そばにいたい、もっとよく知りたいという気持ちがわいてくる。
ただ、アルベルンは一族の中で一頭地を抜く存在だ。後継ぎ娘の婿として彼以上にふさわしい者は今のところ思い当たらない。ウルスラが一族のもとを去った後に、ギーゼラとアルベルンが結ばれるなら何の問題もないはずだが、そううまく話が運ぶだろうか。
以前は、自分の存在がなければアルベルンはギーゼラを選ぶに違いないと素直に信じていた。だが今は、そう言い切る自信がない。
思い切って、ウルスラは妹のギーゼラと話してみることにした。
「ウルスラの気持ちがはっきりしているなら、問題はないんじゃないかしら」
ギーゼラはあっさりとそう言った。
「アルベルンは確かに誇り高くて自分から折れるのを嫌がる人だけど、実際のところ愚かでも短気でもないわ。たしかに今は憤っているかもしれない。でも、一族にとって必要なことが何なのかを見失ったりはしないはず。私はそう思ってる」
「そう……なのかな」
「少なくとも、今さらあの人に情けをかけたってどうにもならないでしょう?」
「それはそうだけど」
「振るときには無用の情けはかえって毒よ。優しくして希望を持たせるような真似をするほうが、かえって残酷で始末が悪いんだから」
「そんなものなのか」
「そうよ」
「というか……振った、ことになるのか、これ」
「それ以外の何だって言うの?」
「そ、そうなんだ」
「ともかく、あまり気を揉むことはないわ。それよりもウルスラ、もしかして副帝陛下のことを好きなの?」
「へ?」
「嫌じゃなかったのよね、結婚を申し込まれて」
「それは……」
「私、心配だった。ウルスラは無理してるんじゃないかって。一族のために、ううん、私のために、自分を犠牲にしたんじゃないかって。でも、ウルスラが望んで婚約したのなら、私は嬉しい」
「よくわからないんだ」
考え込みながらウルスラは答えた。
「断れない話だったから受けた。それは間違いないんだけど。でもなんだろう。嫌、じゃないな。たしかに」
夏至の日から十日あまりの間、副帝はベルヌス族の集落に留まっていた。
命にかかわるような重傷ではなかったはずだが、副帝の状態はあまり思わしいものではなかった。思ったよりも傷が深いのか、それとももともと体調を崩していたせいなのか、軽い発熱が続いてなかなか床から離れられない様子だった。
ウルスラは毎日のように彼のもとを訪れていた。
最初は必要に駆られてのことだった。だがそれはいつしか習慣になっていた。
婚約にまつわる細々とした取り決めを行うに際し、副帝は必ずウルスラの意思を確認しようとした。ウルスラは法的な決まり事などにさほど詳しいわけではない。だが頭越しに決まったことを押し付けてくるのではなく、必ず彼女の承諾を得てから話を進めようとする副帝の態度を嬉しく感じていた。
そうやって関わりを持つうちに明らかになったことがある。
ウルスラは帝国の言葉があまり堪能ではなかった。読み書きはひととおり習っているが、ごく簡単な文章が読める程度だったし、会話でも時々つまづくことがある。
それでは難儀することも多かろうと、副帝は彼女に言葉を学ぶことを勧めた。
よその土地から来た花嫁が帝国の言葉を理解しないのは珍しいことではない。だが、言葉ができるに越したことはないのも事実だ。
ウルスラは素直に副帝の言葉を容れ、勉強を始めた。
副帝はよい教師だった。穏やかで忍耐強く、相手の様子をよく観察して、決して無理な要求はしない。
向かい合って勉強を教わっていると、勇壮さをもって知られる将軍ではなく、むしろ子供に勉強を教えることをなりわいとしている教師のように思えるのだった。
穏やかな時間が流れた。次第にウルスラは副帝を信頼し、心温まるような慕わしさを覚えるようになっていった。
副帝がベルヌス族の集落を離れる日がやってきた。
完全に快復したわけではない。だが移動に支障のない程度には体力が戻っていたし、あまり長く総督府を離れているのは好ましいことではないと、副帝は考えているようだった。
「皇帝陛下から婚約の許可をいただくことができた。秋の収穫祭には君と婚礼を挙げよう」
集落を離れる前日、副帝はウルスラにそう伝えた。
「はい、陛下」
応えるウルスラに、副帝は何事か考え込むようなしぐさを見せた。
「ウルスラ、その」
ためらい、口ごもりながら副帝は話し始める。
「私たちは正式に婚約者同士になった。これからは、私のことは称号ではなく……その、名前で呼んではもらえないだろうか」
「あ……」
とてつもなく重要なものを委ねられた。そんな気持ちがした。
副帝の名前を知らなかったわけではない。こっそりとその名を呟いたこともある。だが、声に出して直接名前で呼ぶには、どうにも遠慮があった。
「はい……フェリクス・アウレリウス様」
「ああいや、もっと簡潔に。ただ、フェリクスと」
「……フェリクス、様」
その名前を口の端にのぼらせると、どうしようもなく頬が熱くなった。
思わず俯いたウルスラの耳に、フェリクスの声が聞こえてくる。
「ウルスラ」
呼びかけに顔を上げると、フェリクスがこちらをまっすぐに見ていた。
いつものような真面目な表情。だがフェリクスの頬もまた、うっすらと紅潮している。
「向こうに戻ればしばらく忙しくなるだろう。滞っていた仕事を片づけなくてはならないし」
「無理しないでください。まだそんなによくなってるわけじゃないのに」
「そうも言っていられない。秋には……君を迎えないといけないし」
「あ……それは、そうなのですが。でも」
ちゃんと休んでください。そう念を押すウルスラに、フェリクスは笑って応える。
「大丈夫だよ。そもそも体を壊してしまったら元も子もない。きちんと休養は取るから」
「本当ですか?」
信じていいものかどうか、ウルスラは半信半疑だった。この館に滞在している間にも、フェリクスは無理をおして仕事をしようとしていたことがたびたびあったのだ。
「当分会えないな。だが手紙を書こう」
「手紙……ですか」
手紙をもらっても読めるだろうか。
不安がにじみ出ていたのだろう。フェリクスは笑みを浮かべて励ますように言った。
「大丈夫だよ。君はもうちゃんと読める。読めるような内容のものを送ろう」
「はい」
「それと、教師となってくれる人間も送ろう。これからも勉強を続けてくれると嬉しい」
「はい」
本当に真面目な人だ。しばらく会えなくなる婚約者を相手にしているのだから、もっと甘い言葉をかけたっていいのに。
だが、その真面目さこそがいかにも彼らしくて、ウルスラはほんのりと胸の中が温かくなるような気持ちを覚えたのだった。