3.契約
崩れるように膝をついた副帝の傍に駆け寄ると、ウルスラはその顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか?」
「脇腹を刺された……いや、大丈夫、かすり傷だ。おそらくは」
「お怪我を?」
動転して聞き返すウルスラに無言で頷くと、副帝は続けた。
「手を貸してくれないか。館まで戻りたいが……まともに歩ける自信がない」
「は、はい」
副帝の声は冷静そうだった。だがその顔色は真っ青で、額には脂汗がにじみ出ている。
「それと、私が襲われたと知れ渡るのはできれば避けたい。あまり人目につかないようにことを済ませたい」
「裏口に回って、そこからそのまま私の部屋へ。それなら大丈夫かと」
「そうか……すまないな」
ウルスラが膝を屈めて横に並ぶと、副帝は肩に手を置いて体重を預けてきた。
館に戻るまでは誰にも行き会わなかった。皆すでに出払っているようだ。
ウルスラは自分とギーゼラが使っている部屋に副帝を案内した。
部屋に着くと、副帝は崩れるように座り込んだ。あわててウルスラは寝具として使っている毛皮を運んできて、副帝の体の下に押し込んだ。
「私の部下に連絡を。そうだな、スルキピウスとプラウトゥスをここに呼ぶようにと」
「薬師はどうしましょう?」
「スルキピウスは医者だ。他の医者はいらない。とにかくあまり人に知られないように」
ウルスラは館に残っている小間使いを探し出すと、副帝の部下を呼んでくるように伝えた。
そこからはあわただしい時間となった。
副帝の負傷は幸いにして死に至るようなものではなかった。刃は内臓には達しておらず、傷自体もそう深くはないし、毒などが使われた形跡もなかった。とは言っても負傷であることには変わりなく、当面は安静にしていることが望まれた。
副帝の意識はしっかりとしており、呼び寄せた部下にいくつかの指示を与えた。幾分遅くなってからではあったが、ウルスラの父である族長ベルンハルトも館に戻ってきて、遅くまで副帝となにやら話しあっていた。
副帝には新しく別の部屋が用意され、ウルスラの部屋からそちらへと移された。
副帝の起居する総督府はベルヌス族の集落からはやや遠い。そのため、当面はベルヌスの族長の館に滞在して傷を癒すこととなった。
表向きには、副帝は急病に罹ったのだということになっていた。ベルヌス族の集落で襲撃を受けたと明らかにして余計な摩擦を生むべきではないとの判断からだった。
こうして、人々が夏至祭の夜に浮かれている間に、副帝暗殺未遂の後始末はおおかた片付けられたのだった。
翌日の昼過ぎ、ウルスラは副帝の部屋に呼び出された。
部屋には副帝のほかにその家臣らしき人物が三名、そしてウルスラの父である族長ベルンハルトがいた。
副帝は寝台の上で上半身だけを起こしてウルスラを待っていた。
昨夜に比べればかなり顔色もよく、呼吸も落ち着いているように見える。ただ、健康とは決して言えない状態であるのは明らかだった。
「昨日の礼を。そして、少し話したいことがあるのだ」
副帝はそう言うと、寝台の近くに置かれた椅子に腰かけるように勧めた。
「昨日も言ったように、私がこの集落で害されたことは外に漏らさないでおきたい。そのことを心得ておいてほしい」
「なぜですか」
「昨日の一件を企てたのが何者か、今のところまだわからない。だが、今、この場所――ベルヌス族の集落で私が襲われた。このことが明るみに出た場合、帝国はベルヌス族に責任を問わざるを得なくなる。だがそれは避けたい」
「陛下は、我々ベルヌス族を疑っておられるのですか?」
「いや、私はベルヌス族を信頼している。だが、ベルヌス族が帝国から離反することを望む者たちがいることも知っている。ベルヌス族――いや、あなたと妹御は、古の上王イングヴェイの末裔だという。北の地の氏族をまとめ上げて帝国に抗おうとたくらむ者たちにとって、あなたがたは格好の旗印となる」
「では、昨日の件は、そういった目論見を持つ人たちの仕業だと」
そう尋ねるウルスラに頷き返すと、副帝は言葉を続けた。
「可能性のひとつ、ではあるが。もちろん、そうではない可能性もある。だが、もっとも影響が大きく、もっともまずい状況を生むのは、この場合だろう」
副帝の声はあくまで淡々としていた。
自分の命を狙った者の存在に恐怖しているというよりは、未解決の事件を客観的に分析しているように感じられる。
「実際のところ、昨日の件に関しては、むしろ私の側に油断があった。部下を配さずにひとりでぶらぶら歩きまわるなど、もってのほかだった。本当に愚かなふるまいだった」
たしかにあの時、副帝は部下を従えていなかった。どころか、まっすぐに表の道を歩むのではなく、裏の小道を、珍しい薬草を探して散策していた。
ベルヌス族が帝国に従うようになってもう長いとはいえ、思えばずいぶんと隙の多いふるまいだ。
「簡潔に言おう。帝国はベルヌス族を失いたくない。失うわけにはいかないのだ。だから、より堅固な絆をベルヌス族との間に築きたい。その証として、あなたを私の花嫁として求めよう。ベルンハルトの娘ウルスラ」
一瞬、何を言われたのか把握できなかった。
ウルスラは言葉を失い、ただ副帝の顔を見返す。
副帝はまじめな表情を崩さず、重々しく頷き返した。
「以前から提案されてはいたのだ。ベルヌス族の姫を娶るべきではないかと。このような現実に直面した今、やはり必要なことだったのだと改めて認識した。受けてはもらえないだろうか」
痛みに耐えているような、苦しげな声。
傷が痛んでいるのだろうか。いや、単なる肉体の問題ではなく、彼はこの申し出を心苦しく思っているのではないか。
「その……なんと申し上げたらいいのか。このような状況では受けざるを得ないと思うのですが。陛下」
「そうだな。あなたの言うとおりだ」
「ひとつお伺いしても」
「なんだろう」
「なぜ私なのです。私には双子の妹がいます。妹ではなく私を望まれるのは、何か意味が」
「それは……」
いったん切り出したものの、副帝は口をつぐみ、思いを巡らせた。
「私が命を狙われるのは、何も今に始まったことではない。私の妻となる人は、きっと多くの危険に身をさらすことになる。あなたには胆力がある。武芸の心得があるとも聞いている。万が一の場合に生き残れる確率が高い人のほうが望ましいのではないか。そう思ったのだ」
「なるほど、よくわかりました。そういうことなら、私のほうが向いてそうです」
初めて彼の姿を目にしたあの時。
広場の入り口に姿を現した彼とふと視線が合い、瞬間、何かが通じ合ったような気がした。
あの時彼女が感じたものを、彼もまた感じていたのではないか。そんな淡い期待は、だが、あっさりと消え去った。
「お受けしましょう。私、ベルヌスのベルンハルトの娘ウルスラは、あなたの花嫁となります」
つとめて明るい声で、ウルスラははっきりとそう答えた。
「ありがとう」
ただ一言、副帝はそう言った。そしてウルスラの前で深々と頭を下げた。
副帝は顔をあげると、族長ベルンハルトに向き直る。
「すまないが、しばらくふたりで話がしたい。下がっていてもらえないだろうか」
族長たちが立ち去るのを見届けると、副帝は大きく息をついて目を閉じた。
息をつくとともに眉間に軽いしわが立った。まぶたを閉ざした眼下には隈がくっきりと目立つ。
(すごくつらそう……。きっと無理してたんだ)
「大丈夫ですか?」
思わずウルスラはそう問いかけていた。
「ああ、大丈夫だよ」
副帝は目を開くと、弱々しく微笑み返す。
(ぜんぜん大丈夫そうじゃない……)
「その……もう少し楽になさってください」
副帝は首を振ると、ウルスラの顔をまっすぐ見つめて言った。
「……すまない」
「え?」
「ベルヌス族の娘を娶るべきだという話は以前からあった。だが、できればその解決法は避けたい、そう思っていた。ああいや、あなたに不服があるとか、そういうことではないのだ。
先ほども言っただろう。私が命を狙われるのはさほど珍しいことではない。つまり、私のそば近くにいれば、その人もまた危険な目に会うことになる。だから伴侶を持とうなどとは望むまい。そう思っていたのに」
「そんな、なんというか……そこまで悲観的に考えなくてもいいのでは」
「いや……実際、亡くなってしまった人がいたのだ」
驚くほど強い調子で、副帝はそう答えた。
その声からにじみ出る悔恨の深さに、ウルスラはたじろぐ。
「私は伴侶の幸せを約束できるような人間ではない。あなたより十歳も年上の、ごくつまらない男だ。だから、この婚姻は契約だと思ってほしい。あなたの氏族を、あなたの故郷を平和に保つための任務であり、契約であると」
「契約……」
「そうだ。そう捉えたほうが、お互い過ごしやすいのではないか」
(この人はなぜこんなに……)
この結婚がウルスラにとって不幸なものだと思い込んでいるのだろう。
(たしかに押しつけられた結婚だといえばそのとおりだけど)
戸惑っているし不安でもある。だが不思議なくらい、嫌悪は感じていないのに。
「あの、陛下、もうすこし安心してください」
目の前の男を慰めたい。なぜかウルスラはそう感じていた。
「私はその、なんというか……不器用でがさつです。いわゆる女らしい素養とかそういったものが、ぜんぜん足りてません。ただ、けっこう丈夫だし、武術とか狩りとかならわりと得意だったりもします。だからそんなに簡単には死なないはずです。たぶん」
明るくおどけた調子でウルスラはそう言った。
笑ってほしいと思った。そんなに真剣に、深刻にならないでほしいと思った。
だが副帝は真面目な表情を崩さない。いやむしろ、次第に泣き出したいのをこらえているような表情へと変わっていくのだ。
「……ありがとう」
小さな声で副帝は呟いた。その声からにじみ出る真摯な情は、ウルスラの胸に得体の知れない痛みをもたらした。




