2.夏至の夕闇
新しい総督にして副帝である男が総督府に着任したのはひと月後、ちょうど夏至の時分だった。
ベルヌスの民は夏至の日を盛大に祝う。
この夏至祭の宴に、ウルスラの父は副帝を招待した。
副帝はすぐに快諾したと送り返してきた。現地の民の現状を視察するのは、帝国にとって望ましいことであると、返書にはしたためてあったという。
夏至の日が近づくにつれ、ウルスラは次第に落ち着かない気持ちを覚えるようになっていった。
――副帝はベルヌスの族長の娘を花嫁に望んでいる。
あのうわさの真相は、いまだ明らかになっていない。
今のところ、はっきりした話は何もない。やはりあれはただのうわさに過ぎなかったのだろうか。
そうだったらいいのに。あのうわさがただのうわさに過ぎないなら、副帝の来訪はウルスラにとってむしろ興味深く、単純にわくわくした気持ちで待っていられる出来事なのに。
いよいよ夏至の日が訪れた。
ウルスラとギーゼラは揃いの晴れ着に袖を通し、頭にはとりどりの花をあしらった花冠を戴く。花冠を彩るのは、野バラ、ライラックにマートルなど、かぐわしく咲く初夏の花々だ。
身支度を整えると、娘たちは連れ立って集落の中央にある広場に向かった。
夜には広場の中央で焚火が燃やされる。燃え立つ炎は命の輝き。太陽の繁栄を祝して、氏族の者は大いなる焚火を囲んで夏至を祝うのだ。
広場の正面には仮の御座所が設けられていて、すでに族長ベルンハルトが坐していた。
族長は娘たちの姿を認めると、手招きして傍に呼び寄せる。
こうして同じ服を身につけてみると、双子は鏡に映したようにそっくりに見えた。ただ、歩き出すといやでも違いが目につく。晴れ着をまとってもウルスラはやはり大股で戦士のように闊歩するが、ギーゼラはしずしずと滑るように歩む。
娘たちの様子を見て、族長は満足げに頷いた。ウルスラの大胆さも、ギーゼラの繊細さも、父の目には好もしいものとして映っているようだった。
族長の背後で、その近侍を務めるアルベルンがはっと息をのむ。
彼が目に留めたのはウルスラなのか、それともギーゼラなのか。そんな疑問がふとウルスラの脳裏をよぎった。
族長の娘たちは父の前で一礼すると、左右にわかれて父の傍らに就いた。
そのとき角笛が喨々と吹き鳴らされて、来客の到来が告げられた。
赤と金で縁取られた白いトーガをまとった男が、十人足らずの随員を従えて広場の中央に歩を進める。
副帝は小柄でほっそりとしていた。丈高くがっしりとした体をもつ北方の蛮族の中にあっては貧弱に見えかねない。だが不思議と、侮りがたいと感じさせる何かを漂わせている。
肌の色はやや浅黒く、黒い髪は短く刈りそろえられている。典型的な帝国本領の人間だ。その瞳は緑柱石を思わせる鮮やかな緑で、快活でありながらもどこか厳しい輝きを湛えている。
族長は玉座から立ち上がると、副帝に手を差し伸べて口上を述べた。
「誉れ高き副帝陛下、わが招きに応じてくださり、恐悦至極に存じます」
「こちらこそ、夏至の宴にお招きいただき、感謝に堪えません」
副帝がそう口にするのを耳にして、その場にあったベルヌスの民は息を呑んだ。
副帝はベルヌスの言葉で話している。
前の総督は氏族の言葉を解さなかった。簡単な挨拶ですら、帝国の言葉で通していたものだ。
帝国の高官とはそのようなもの。ベルヌスの民はそう信じていた。
なのにこの副帝はどうだ。我々の言葉を聞き取り、我々の言葉を口にする。
しかもその言葉には高みから見下ろす傲慢さはなく、限りなく対等なもののように思える。
ウルスラもまた、驚きを胸に副帝を見つめた。
その瞬間、副帝と視線が合った。
静かな目をした男だ。静かなのに、どこか力強い。
まるで年老いた賢者のようだ。
こんな目をした若者には、今まで出会ったことがない。
頬の線はやわらかで、髭はきれいに剃り落としてある。顔だち自体は若い――いやむしろ童顔と言ってもいいような造作なのに。
ウルスラの凝視に気づいたのだろうか。
男もまたウルスラを見つめ返して、頷くかのように軽く目を伏せた。
すべては瞬時の出来事だった。
場に居合わせた者たちが違和感を覚える間もなく、副帝はウルスラからすっと視線を外して、正面に立つ族長に向き直る。
「豪胆のベルンハルト、栄えあるベルヌスの長よ。この佳き夏至の日、ともに集う我らの上に幸いのあらんことを」
古い作法どおりの、氏族の挨拶の言葉だ。
族長は驚きを隠すことなく声を洩らし、副帝の前に頭を垂れた。
「勇壮なるフェリクス・アウレリウス、輝かしき副帝よ。御身の言祝ぎに感謝を」
族長は歩み出て、副帝に右手を差し出した。副帝が差し出された手を握り返すと、族長はその手の上にさらに自分の左手を重ね、口を開いた。
「館の中に宴席を設けてある。酒を酌み交わし、ともに語り合おうではないか」
副帝もまたみずからの左手をさらに重ねて、族長の言葉に応えた。
「ありがたいことだ。御馳走にあずからせていただこう」
酒宴は男たちのものだ。氏族と帝国の主だった男たちは豊かな料理が山と積まれた卓を囲んで、酒を飲み、料理をむさぼった。
女たちは別室でやはり同じように卓を囲んでいたが、こちらに用意されている食べ物はもう少し慎ましやかなものだった。
日暮れが近づいていた。太陽が地平線にかかる頃には、広場で焚火が始まる。
人々は三々五々外に出て、広場に向かっていた。
大方の人々が出払ったのを見計らって、ウルスラもギーゼラとともに館を出た。
裏口から出て、広場に通じる木陰の小道を歩いている時だった。
「今夜誰かと約束してる?」
ギーゼラが小声でそっと尋ねてきた。
(あ……)
「その可能性」を自分がすっかり失念していたことに、ウルスラはようやく気づいた。
夏至の夜は男と女が互いを誘いあう時でもある。
焚火を囲んでともに踊り、そしてその後、ともに一夜を過ごし、ともに朝を迎えるのだ。
ウルスラとギーゼラは十六歳になった。もう大人と言っていい年齢だ。今年からは誘いを受けてそれに応えることもあるかもしれない。
とは言え、ウルスラは一族の跡取りで、ギーゼラは賢者のもとで修行中の身である。
ギーゼラが誘いを受けることはないだろう。知恵を預かる者は、その修業を終えるまでは清い身を――つまりは処女を保たねばならない。
そして、ウルスラを誘える男もまた限られている。
ウルスラの伴侶となる者は、将来、ベルヌス族の長となる。一族を治める器量を持つ者でなくてはならない。
ギーゼラも、そしてウルスラも、気安く誘い誘われることのできる立場ではない。
「アルベルンは何も言ってない?」
「……うん」
ウルスラを誘う男がいるとすれば、彼くらいなものだろう。たとえウルスラを慕う男が他にいたとしても、こういった場合には男同士の力関係が作用する。氏族一と目されている若者を差し置いてたやすく声をかけられるものではない。
「そう」
ギーゼラはあっさりした調子で答えた。
安心したのか、それとも怒っているのか。その声から真意を読み取るのはどうにも難しい。
そのときだった。
「ウルスラ」
背後から声をかけてきた者がいた。
「……アルベルン」
振り向いたウルスラに若者は無言で頷く。
「私、先に行くね」
ウルスラが止める間もなく、ギーゼラは足早に歩み去っていく。
「あ……」
妹を呼び止めようとして上げられたウルスラの右手を、アルベルンはぐいと掴む。
「誘いに来た。ともに焚火の祝福を受け、夜を過ごそう」
沈みゆく太陽を背にして、アルベルンはそう宣言した。
逆光のせいで、アルベルンは覆いかぶさる影のように思われた。ただ、たてがみのような金髪の輪郭だけが、黄昏の光を受けてくっきりと輝いている。
「アルベルン、私は」
口ごもるウルスラを、アルベルンは問い詰める。
「他に約束した男がいるのか?」
「そんな相手はいない。だけど……」
「なら何も問題はない」
「だけどアルベルン、お前は本当に、私を望んでいるのか?」
「お前以外の誰を、俺が望むというのだ」
「それは……」
「お前を妻に迎え、俺が一族の長となる。皆もそれを望んでいる」
「お前が望んでいるのは、長の地位か、それとも私か」
一瞬、アルベルンは答えに詰まる。
だがすぐに、何事もなかったかのように言葉を返した。
「……そこにどれほどの違いがあると?」
(ある。大違いだ。長の地位が欲しいだけなら、相手は私でなくてもいいはずだろう?)
そう答えたい衝動に駆られながらも、実際にウルスラが口に出したのは別の言葉だった。
「アルベルン、お前はよき友だ。ずっとそう思ってきたのに」
「お前は女で、俺は男。いつまでも友でいられるものではない」
そう言って、アルベルンは強引に身を寄せてきた。
ぷん、と、いわく言いがたいにおいが立ち上り、ウルスラの鼻をつく。
男の体臭と酒精のにおいの入り混じった、不快で甘ったるい、くらくらするようなにおいだ。
「酔っているのか」
「少し飲んだ。だが、酔ったというほどではない」
(嘘だ、ずいぶん飲んだだろう。かなり酒臭いじゃないか)
普段のアルベルンはこんな行動は取らない。少なくともウルスラの知る限りでは、アルベルンはこんなに衝動的で強引ではなかったはずだ。
「もう一度問う。お前が望んでいるのは、本当に私なのか? 長になる資格ならばギーゼラの夫にだってある。私たちは双子なんだから」
問いかけるウルスラを、アルベルンは無言で見つめ返す。
「そんなことはわかっている。俺が望むのはお前だ」
その返答はウルスラを絶望的な気分に追いやった。
「でもアルベルン、私は……」
「俺はずっと我慢してきた。これ以上待ちたくない」
アルベルンはウルスラの手首を掴む手にぐっと力を込める。
(嫌だ!)
とっさにこみ上げてきたのは、はらわたをえぐられるような嫌悪感だった。
手を振り払おうとした。しかしアルベルンの力は強く、まるで歯が立たない。
男勝りとは言っても、ウルスラは十六歳の娘にすぎない。氏族一とも言われる若者に比べればあまりにも非力だった。力ずくで来られては、たやすく逃れられるものではない。
アルベルンはさらに力を込めると、覆いかぶさるようにますますその身を近づけてきた。
だがそのとき、アルベルンの動きがふと止まる。
「ああ、失礼」
背後から声が聞こえる。
「邪魔するつもりではなかったのだが」
アルベルンはウルスラから身を離して、姿勢を正した。身動きが取れるようになったウルスラは、あわてて背後を振り向いた。
白いトーガを身につけた黒髪の男。帝国の副帝が静かにたたずみ、こちらをじっと眺めていた。
(あ……)
ウルスラもまた急いで姿勢を正した。
よりによって、副帝がこんな現場に居合わせるなんて。
氏族の者ならアルベルンの行動の意味するところを察して、問わずに見逃しもするだろう。
だが副帝は外部からの客人、しかも、大きな力を振るうことのできる権力者だ。
「見苦しいところをお見せしました」
動転しながらも、ウルスラはかろうじてそう言った。
「ああいや、事情があってのことだろう。こちらこそ出過ぎた事をしたのではないか」
「いいえ」
思わず、ウルスラは強い調子で答えていた。
「……ウルスラ」
それまで黙っていたアルベルンがふいに言葉を漏らす。
「俺が性急すぎた。無理強いをしたいわけではなかったのに」
そう言うと、アルベルンは掴んでいたウルスラの手をすっと離した。
「俺は広場へ行く。気が向いたら、声をかけてくれればいい」
「アルベルン?」
問いかけるウルスラと視線を合わせようとせずに、アルベルンは大股にその場を立ち去っていった。
取り残されたウルスラは、茫然とアルベルンの後ろ姿を目で追う。
「間がよかったのか、悪かったのか。どうもよくわからないのだが」
ウルスラはあわてて振り向いた。
「ありがとうございます。よかった、んだと思います……たぶん」
「ならいいのだが」
「あの、どうしてここに」
「焚火を見に行くつもりだった。だが珍しい草を見かけて、つい道を逸れた」
「珍しい草、ですか」
「ああ。以前、書物で見た薬草のようだったから。
あなたはたしか、族長のご息女だったか」
「はい。ウルスラと申します」
「氏族の風習を知らぬわけではない。夏至の夜に男女が誘いあうことがどのような意味を持つのかも。だが、あなたはあの男を望んではいないように見えた」
「……はい」
「心に染まぬ事態から救ったのならば喜ばしいが、あなたには立場もあることだ。内政干渉にあたるふるまいだったのではないかと不安でもある」
「あの男は幼馴染です。許婚と言っていいかもしれません。でも、ちょっと突然すぎて」
「……なるほど」
「さて、私も広場へ向かうとしよう。あなたはどうする、ウルスラ」
「少し気持ちを落ち着けてからにしようかと。今は少し……動転していて」
「もうすぐ日が暮れる。若い娘がひとりになるのはあまり好ましくはないが」
そう言いながら、副帝はウルスラの傍に歩み寄ると、その頭に向かって手を伸ばした。
(え……いったい……)
なぜか胸が高鳴る。
副帝はウルスラの花冠に手を触れて、そっとその位置を整えた。
「花冠がずれていた」
「ありがとう……ございます」
「いや」
副帝はほとんど表情を動かすことなく、軽く会釈のみを返して、足早に立ち去っていった。
太陽が沈もうとしていた。木立の陰はさらに薄く伸びて、広場に続く小道をほの暗く染め上げていた。黄昏の光の中、次第に遠ざっていく人影を、ウルスラはただぼんやりと目で追った。
前方の影がもはや小さなしみのように見え始めた時だった。
突然、何か黒い影のようなものが道の脇から姿を現し、副帝に襲いかかった。
副帝はすばやくこれを避け、向き直って対峙した――ように見えた。
異変が起きたのだ。
そう悟った瞬間、ウルスラは走り出していた。
(しまった、武器がない)
常ならば男とさして変わらないなりをしている上に、護身用の短剣を携えている。だが今は祭の晴れ着を身に着けていて、何の武装もなかった。
晴れ着の裾が足に絡まりつく。いつものように身軽に走ることすらままならない。
(でも、とにかく止めなくては)
夢中だった。怖れを感じる間もなく、距離を詰めたところでウルスラは声を張り上げた。
「何をしている、やめよ!」
副帝に襲いかかった影は動きを止め、こちらを振り向く。
薄暮の光の中、その姿をはっきりと見分けることは難しかった。ただ、氏族のようななりをしていること、顔を布か何かで覆っていることだけは、どうにかわかった。
ウルスラの姿を認めたのだろう。影は素早くその場を離脱して、木立の中へと紛れ込んでいく。
副帝は肩で息をして、茫然とその場にたたずんでいた。だが、ウルスラがその場に着くと同時に、いきなりがくんと膝をついた。