〈凍魔〉急襲
ぶん
〈無敵〉を振るうと、分厚い風が吹き、あつきの部屋の内部に埃を撒き散らした。
ただの物理的な風ではなく、〈無敵〉にこめられたあつきの〈魔力〉が起こした衝撃によるものである。
一メートルにも満たない刃もついていない金属の棒を振った結果によるものとは思えない風圧であった。
あつきは肩で力を調節してみた。
もう一度、振るう。
ふん
今度は床に落ちた紙切れが一枚わずかに浮き上がっただけで終わる。
肉体に溢れている〈魔力〉を操作するためには、それなりの経験値が必要となる。
昔はできなかった。
でも、今はできる。
あつきは精神を体内に埋没させ、一際異物感を発する〈魔力〉を平均的に揃えるように努める。
そのまま、すぐに〈魔力〉を腕を伝わらせて、〈無敵〉へと流し込む。
媒介物を経たことで『逃がす場所』ができ、バランスをとりやすくなっているのだ。
彼程度の実力であったとしても、偽臓・〈女獅子の心臓〉が産みだした獅子の闘気はあまりに膨大すぎてパワーを操作しきれない。
だからこそ、余剰な分を四肢の先端から逃がさないとならないのである。
〈無敵〉は逃げた分の〈魔力〉を増幅できる武器としてはうってつけの強度を誇ることもあった。
これこそが莫大にして膨大なエネルギーを完全に己がものとするための、かつて〈勇者〉が彼に教えた〈魔法〉の操作、いや支配法であった。
〈魔法〉使いになるための。
「―――悪くないか」
あつきは以前と変わらない力が残っていることを確認した。
あの〈勇者〉にはまったく及ばない。
しかし、たった一人の幼女を救う程度ならばなんとかなるだろう。
足りなければ命も差しだせばいいしな。
「タム・リン……。あんたほどにはうまくいかねえだろうが、まあ真似をさせてもらうぜ」
〈無敵〉をケースの中に放り込み背負う。
壁時計を見ると、昼になる少し前だった。
「そういえば、あいつ、腹空かしていたな。……魔物が飯をくれるとは思えねえから、できる限り早く助け出してやるとするか」
部屋の奥にしまっておいた籠手を左手にはめる。
蛇の形をしたレリーフが彫られた銀色の美麗な品であった。
はめると手首の部分がしゅっと自動的に締まり、手の形にフィットしていく。
〈猛蛇鉄〉と名付けられている、〈魔力〉を指向性を持たせて放出するための武具だった。
タム・リンたちの世界のものではないが、よく似た魔導技術を持った場所から“雨人”とともにやってきたものだ。
あつきにとっては使いやすい慣れた武具であった。
〈雷魔〉という〈妖物〉だけならばともかく、同格の化け物があと二匹。そして、あの〈魔王〉を名乗る青年。
それと戦うにはまだ戦力としては不安だが、時間がないので諦めた。
拉致された碧薫が、いつまで生きていられるか不明瞭な段階では、拙速ではあってもすぐに動くしかない。
斬れぬ剣と白銀の籠手だけを頼りに、あつきは部屋を出た。
もうここには戻れないかもしれない。
しかし、行くしかないのだ。
あの〈勇者〉の真似をするしか彼にはもう生きる道はないのだから。
「秋良波羅」
アパートの階段を降りると、黒塗りの巨大な車の横で迦陵頻伽火翠が腕を組んで呼びかけてきた。
ついさっき帰ったばかりのはずなのに、と不審に思っていると、
「事態が変わったので、急いで戻ってきた」
「携帯端末で連絡すればいいだろ」
「口で伝えた方が早い距離だからな」
「―――何があった?」
迦陵頻伽は顔色一つ変えず言い放った。
「貴様の所属している青年学校が〈妖物〉に襲われた。敵の数は一。要するに、貴様と戦う予定の化け物の一匹だ」
「……なんだと? うちの学校にか?」
逆にあつきは顔色が酷く悪くなった。
「現認したうちの部下どもの報告では、地面に氷原を作り出して滑るように移動し、空中に作りだした幾つもの巨大な氷の塊を飛ばすということだ。先ほどの〈雷魔〉とも〈魔王〉とも違うタイプだ」
「……氷を使うってことか?」
「だろうな。雷が本体のような〈雷魔〉とは違って、氷が本体だと思われる。貴様にとってはお誂え向きの敵かもしれんぞ」
「そんなことは関係ねえ」
あつきは迦陵頻伽を正面から見据えた。
「敵がなんだろうと俺の知ったことじゃねえが、一応、あそこは俺の母校なんでな。知った顔もいるし、行かなくちゃならねえだろう」
「―――強敵だぞ。私のところのサイボーグが迎撃に当たっているが、すでに三体近く信号が途絶えているぐらいだ」
「時間だけ稼がせておけよ。命は大事にってな」
「わかった。貴様はすぐに行くのか」
「ああ。俺が行くまでもたせていてくれ」
離れていくあつきを迦陵頻伽は引き留めた。
「車に乗っていけ。送るぞ」
「いらねえよ。俺は―――」
全身に再び〈魔力〉を送り込む。
「飛んでいけるから」
先ほど、〈妖物〉たちと死闘を繰り広げたときと同様、あつきは空を飛んだ。
翼もなく空を駆れるものは、この世界ではわとんどいないが、彼は例外だった。
凄まじい勢いで矢のように飛んでいくあつきを見送りながら、迦陵頻伽は呟く。
「空を飛べるのに、天から降り注ぐ“雨人”を助けられない。貴様がその罪悪感をどのように押し殺して生きるのかをずっと観察していたが……」
能面のごとき感情を消した無表情のままで、
「やはり俗人であったようだな」
―――迦陵頻伽は容赦なく断罪した。
◇◆◇
〈凍魔〉の一撃。
化け物が発生させた夥しい数の氷柱が、矢襖のように突き刺さった青年学校の校舎は恐怖と混乱の坩堝と化していた。
突然、校庭に現われた〈妖物〉を見物しようとしていた学生たちは窓を貫いた氷柱の先端によって無残に殺害され、同時に散ったガラスの破片によって多くが負傷した。
気がついていなかった教室も巻き添えにされ、〈凍魔〉の最初の動きだけで約五十人が死亡し、百人ほどが傷を負ったことになる。
しかし、何が起きたかを把握しているものはいなかった。
もちろん、襲撃者が異界からやってきた化け物であり、その目的は自分たちの敵となる人物の抹殺であるということなどわかるはずがない。
ただ、〈魔王〉から提示された秋良波羅あつきの着ていた服のイメージと似たものを纏っているという理由だけでの凶行であった。
氷柱をショットガンのように建物内にぶちこんでから、五分ほど〈凍魔〉は何もしなかった。
〈妖物〉はなされるであろう反撃を待っていたのだが、聞こえてくるの阿鼻叫喚の雄たけびか、非常警報のサイレンの音だけだった。
『無反応であるか……』
拍子抜けだった。
同胞である〈雷魔〉をぶちのめし、主君であるノゴロドに要注意と思わせた戦士の同類がいるものと警戒していたというのに、反撃の一つもしてこないのだ。
ようやく彼の元に駆け寄ってくるものたちがいた。
三人の体格のいい男たちであった。
この世界では軍服と呼ばれる機能性のみを追求した格好をして、銃という武具を手にしている。
立ち居振る舞いは、戦士のものだ。
ただし、まともな殺し合いは経験していない。
やっていたとしても治安維持程度の小競り合いがせいぜいだろう。
ましてや、〈凍魔〉のような殺戮と虐殺の化身のような化け物と対峙したこともあるまい。
そして、〈凍魔〉の予想は当たっていた。
彼らは青年学校の警備を依頼されていた、単なる警備員であり、銃も侵入者を気絶させるための麻痺銃であった。
とても殺傷力など認められず、〈妖物〉には効果はまったくない程度だ。
「止まれっ! 止まらないと撃つぞ!!」
「貴様、我が校に対するこの爆発事件について知っているだろう!!」
「止まれ!!」
慣れた手つきで麻痺銃を構えている。
だが、〈凍魔〉からすればどうということはない。
この世界の武器等、彼に傷をつけることもできないのだから。
『うるさい』
邪魔だということもない。
警告を発する声が耳障りというだけだ。
だが、それを聞いて、警備員たちは恭順の意思なしと断定した。
即座に麻痺銃の引き金を絞る。
そもそも、まず校舎が爆発するという事件について関係があるかどうかを問いただしただけ、この街の流儀としては例外的なのだ。
怪しい態度をとるのならば即射殺でも構わないのが〈央京〉の流儀だ。
射撃の反動も派手な火薬音もなく、プシューと麻痺銃の光を〈凍魔〉に浴びせかける。
通常ならば、それで全身が麻痺しまともに動きが取れなくなるのだが、〈凍魔〉には通じるはずがない。
これよりもさらに強い武器を用意したとしても、まったくの無傷で終わるだろう。
『うっとおしいぞ、虫けら』
〈凍魔〉が手を振った。
それだけで一瞬で空気が冷え切り、男たちの周囲に細氷が舞う。
大気中の水蒸気が昇華し、極細小の氷の結晶となる―――いわゆるダイヤモンドダストであった。
ダイヤモンドダストは氷点下10℃以下の気温に発生することから、〈凍魔〉の手の一振りだけで一気に気温が数十度下がったことになる。
それだけではない。
大気がキラキラと煌めき、警備員の男たちの着ている軍服までが完全に白く染まっていく。
一瞬で皮膚が凍りつき、結晶化し、そして骨の髄まで凍結させられた。
男たちは三本の氷の柱となった。
〈凍魔〉の手の一振りだけで。
『〈氷の世界観〉』
吹雪を巻き起こすよりも手早く万物を凍結させる〈凍魔〉の特技であった。
広範囲・致死率高く雑魚を始末するためのものだ。
警備員たちがなすすべもなく凍死したのもむべなるかな。
〈凍魔〉の〈氷の世界観〉は、マイナス273,15℃の絶対零度に近い、マイナス200℃まで一瞬で凍結させるのだから。
いかに準備をしていようと、無駄でしかない。
『さて、想定していたあがきはなしか。ということは、殿下を脅かす戦士なるものは一人しかいないということかな。―――いや、ここは慎重に動くべきだろう』
〈凍魔〉は歩を進めた。
校舎に向かって。
まだ、何百人も生きている青年学生たちをここで残らず皆殺しにするために。