八章
時刻は、そろそろ午前零時。今日という時間は消滅し、明日という時間が浸食する。刻は止まることなく、残酷に過去を奪っていく。
過去というものは、所詮存在しない。在るのは、人間の記憶、世界の記録。感情ですら、情報に成り下がる。万物は悉く劣化し、堆積し、無機の大地となる。
――永遠。
――不変。
そんなものが、この世に存在するのだろうか。
いつまでも在り続ける生命。いつまでも変わらない感情。
想いも、在りようも。維持し続けた形は、いつか壊れ、どんなに修復しても、どれだけ精巧に創り直しても、それが不変などと、誰が決められる――?
「――――――」
彩は一人、窓から月を眺める。十三夜の月は、あと少しで満月になる。
彩のすぐ近くで、アレクシアは目を閉じている。寝息も立てず、彼女は眠る。その姿は、中身の無い殻のよう。生物が身体を休めるための眠りではなく、外界との繋がりを断つような、それは一つの匣。
「…………」
月光に曝されて、彼女の目元が赤く腫れているのが見える。溢れた涙は、彩の手で拭き取った。悲しみは拭ってやれても、流した傷は消せない。だから、彩は彼女には触れず、ただ傍にいることしかできない。
彩とアレクシアは、空き地の倉庫の中にいる。彩の屋敷のすぐ近く、ここから坂を上れば、そこに響の家がある。
結局、彩は彼女をホテルにつれていくのを諦めた。少しでも、人気のないところ。それを探して、辿りついたのがここ。響の家まで連れていくのも、無理だ。アレクシアが家の連中を前にして耐えられるかどうか、わからない。
もちろん、彩はアレクシアが大丈夫だって信じている。ただ、耐えられるからって苦しくないことと同義ではない。少しでもアレクシアの気分が落ちつくほうが、ベストだ。
……この倉庫に辿りつく前に、アレクシアは眠ってしまった。
橋の辺りから、彩はアレクシアを抱えてここまで歩いてきた。幸い、他人とは擦れ違わなかった。深夜だから、かもしれない。
――いや、それよりも。
神隠しが、まだ解決していない――。
彩が暮らす明風市では、一カ月前から神隠しと呼ばれる殺人事件が起きている。現場には殺されたと思われる人間の衣服や鞄が残され、大量の血液が流れている。
最後に起きたのは、彩の通う高校のある波左手町。つまり、この近く。正常な人間なら、暗くなってからも外を出歩くなんて、まずしない。事実、ここ最近は夜の七時でも人の姿をほとんど見かけない。
明風市で起きている、神隠し――。
死体はなく、衣服などは残っている。現場には大量の血液だけなんて、普通の人間の手口ではない。
――じゃあ、犯人は何だ?
一瞬、彩の脳裏にホテルでの事件が浮かぶ。――シドという名のカニバル。
――いや。
彩はその考えを否定する。
シドが殺した人間は、ちゃんと死体が残っている。心臓だけを潰すなんて、やり口は特殊だが、神隠しほどの異常性はない。
なら、シドは神隠しの犯人ではない。
――なら。
アレクシアの捜しているやつが、神隠しの犯人なのか――。
彼女が捜している相手がどんなやつなのか、彩はいまだに聞かされていない。というより、アレクシアから手伝いを依頼されてからというもの、ずっとはぐらかされている気がする。
気にはなっていた。しかし、アレクシアが彩に話そうとしない、隠そうとする、あるいは近づいてほしくない、という思惑があるのなら、彩が無理に問い質すわけにもいかない。
彩はアレクシアの寝顔を一瞥する。呼吸の気配さえないその姿は、この薄闇の中ではただの眠りと呼ぶにはあまりにも不吉すぎる。月光に照らされたその白い肌は、まるで……。
「……」
静かに、彩は首を横に振る。
……ばかばかしい。
そんな自身の思考に、彩は嫌気がさす。
――アレクシアは、大丈夫だ。
そう、自身に言いきかせる。
彩が信じてやれなくて、誰が彼女のことを信じることができるのか。
彩は手を伸ばさず、汚れた倉庫の壁に背を預ける。アレクシアの気分が良くなるまで、ずっと傍にいようと、改めて決意する。
午前零時より半刻ほどが経過する。時計などなくても、彩には馴染みの時間。深夜に散歩をする彩には、その経過が理解できる。
――だから。
彩は、その『存在』を理解できた――。
彩は窓から目を外し、扉のほうへ目を向ける。いろんなモノが捨てられたこの場所で、この倉庫はそれなりに丈夫で、扉もしっかりしている。
「……」
論外だ、と内心で呟いて、彩は立ち上がり、外へと出た。
空気は冷たく、追い打ちをかけるように風まで吹いている。感覚を遮断している彩にはわからないが、普通の人間は、こんな夜に出歩くものではない。
「…………」
彩は自然、右手の手袋を外す。
現れた男は、闇を纏っていた。身長二メートル近い大柄で、その体躯に相応しい大樹のような脚、胴、腕を有している。顔には憤怒を宿し、怒りこそがこの男に許された唯一の感情であるかのように、それ以外の色が廃されている。顔に刻まれた皺は深く、しかし老いた印象などなく、むしろその身に重ねてきた年代の深さを示すように、強いものがある。
この、巨大な闇そのものであるかのような男を、彩は知っている。以前、アレクシアが泊まっていたホテルを襲撃し、ホテルに泊まっていた無関係な人間たちを殺した、シドという名のカニバル。
元魔術師の、人間を捨てて人喰種となった男――。
「――――神魔の王を呼べ」
シドは彩の前、三メートルほど離れた位置で止まり、低い声で命じる。彩は右の手袋だけ外した状態で、この長躯の男を見返す。
「アレクシアはいま眠っている。――帰れ」
恐れはなく。震えもなく。
この男を前にしても、彩は少しも恐れない。
シドが強敵であることに、変わりはない。きっと、シドが本気を出してくるなら、危うい戦いになるだろう。
だが、彩は恐れず、かまえもしない。
――もう、前回の失態は犯さない。
今度こそ、彩はアレクシアを守らないといけない。アレクシアを失うことのほうが、いまの彩にとっては恐怖だ。
だから――。
――彩はただ、目の前の男を睨み返すだけ。
シドが、不意に表情を崩す。微かな変化だが、憤怒以外の表情を見せるから、それはあまりにも異質。
シドの口から、声が漏れる。それは、笑み。低い音は、まるで嘲笑を含んでいるようで不快だ。
「……なにがおかしい」
反発するように、彩は男を睨めつける。
シドは笑うのを止め、再び怒りの表情でその重い口を開く。
「それはなんの冗談だ?神魔の王が眠りに就く?ふん、あれに眠りなど存在しない。世界の系統樹より生じ、世界と直接繋がった神人には、眠りなどありえぬ。食事すら必要としないやつらに存在するのは、唯一、その身に刻まれた世界の意思のみ、すなわち、殺人衝動以外は持ち合わせていない」
いや、とシドは言葉を切る。
「神魔の王を、そこらへんの神人と同格に扱ってはならない。神魔の王は、その名が示す通り、神人も魔人も超越した、カニバルを支配する王だ。あれには、生物などという生温い概念は存在しない。貴様らの言葉を借りるなら、あれは『システム』だ。この世界を調律する巨大な『システム』。カニバルに生じた狂いである人喰の欲望すら、あれは持ち合わせない。世界の均衡を乱すモノがあれば棺より姿を現し、使命を終えれば再び生物の界隈から消え、己が棺で永遠を生きる。――それが、神魔の王の在り様」
突きつけられた言葉には、呪詛めいた響きがある。
神人は世界から直接生まれ、世界と繋がった幻想種。他の生物種とは異なり、世界からエネルギーを補給できる。疲労と無縁の彼らは眠りを必要とせず、食事も不要だ。
世界から直接生まれる存在とは、すなわち世界が求める形を有している。人が生きたい、繁栄したいという願望を持つように、神人は世界から与えられた絶対命令――人を殺すこと――に従う。殺人衝動から派生した神人の欲求こそ、人喰いだ。神人は世界の望むままに人を殺し、人を喰う。
だが、人喰いという欲求の形を持つがゆえに、その行為は度を逸する可能性をもつ。
世界は増えすぎた人という種を一定値に抑えるために、生物のピラミッドの、人より上の存在として人喰種を創った。カニバルは基本能力で人間を遥かに超えている。
そんなカニバルが世界の命令を無視して、己が欲求に翻弄されてしまえば、すぐに生物界のバランスが崩壊する。
ゆえに、世界は生物とは別の、世界の均衡を調律するための『システム』を設置した。――それが、神魔の王という存在。
「神魔の王の厄介な点は、社会に融け込むことだ。魔人も神人も、人間の目に触れてはならないというのに、あれだけは人間の中に身を隠すことができる。誰も、神魔の王を認識できず、誰も、神魔の王を覚えてなどいられない。なんの違和感もなく、時代に融け込む。そうやって、白昼であろうと闇夜であろうと、なんの躊躇もなく、神人も魔人も悉く滅ぼすのだ。どこにも存在していないのに、どこにでも存在しているなど、まさに悪夢だ。それに比べれば、あれの『創造』など、大したものではない」
神魔の王、それは生物ではない。生物種の天秤を調律するための、担い手。世界を俯瞰し、調和を乱す異分子を取り除く、それは一つの秩序。
誰も、この世の摂理に逆らうことはできない。ゆえに、人間ではその存在を認識することはできない。人の世に溶け込み、その時代に溶け込み、決して誰の記録にも残らない。それは世界という箱庭から抜け出せないモノが、それ以上の果てを識ることができないように。
――その異常に。
だから、彩は気づいたのではないか――?
頭にとり憑いたものを払うように、彩は言葉を吐き出す。
「おまえ、なにが望みだ?」
愚問だ、とばかりにシドは眼光を鋭くする。
「――私の目的は神魔の王。それだけだ。あれの特有である『創造』も、神魔の王のみの有する『毒』も、私には興味がない。神魔の王はこの世界の調律者、人間を超えたカニバルでさえも支配する、その存在。まさしく、あれは世界そのものだ。あれの肉体は、世界の起源へと通じていよう。私は魔人を捨て、神人も超越し、この世界そのものに通じる神魔の王となる。それのみが、私の目的だ。そのためならば、私はこの世のあらゆるモノを、自身とて生け贄に捧げる」
己が断固とした意志を、シドは決して違わず宣言する。
それがなにを意味しているのか、魔術師のなんたるかを完璧に理解していない彩でも、理解できた。
人は決して世界を識ることはできない。人が、世界の内にいる以上、その全容など理解できるわけもない。
人が世界を識ろうというのなら、世界の外側、世界からの逸脱をもってして、ようやっと道が開けるというもの。
人であることを捨て、魔術師であることをやめたこの男は、この世界という枠からの脱却を目的としている。世界の外側へと達せられるなら、内側で生じたあらゆる事象も――自身を生み出した世界の消滅さえ――厭わないのだと、断じている。
「おまえは、狂ってる……」
彩は、初めてこの男が危険な存在であると、理解した。
いままで本能的に、直感的でしかなかったこの男から放たれる恐怖というものを、響彩はようやく認識した。
「正気じゃ、ない」
目の前の男は、破壊することに懼れを持たない。この世の全てを破壊しようとも、自分自身さえ破壊しようとも、かまわないのだ。ただ己が目的、それさえ達成できれば、この世界が無くなってしまっても良いと、本気で考えている。
シドは少しも揺るがず、彩に返した。
「かまわぬ。自己という存在さえ観測できれば、それで十全だ。狂気も正気も、自我さえあれば意味のない差異でしかない」
だが、とシドは低い声を出す。
「私の目的は神魔の王であって、あれではない。あれは、ただの生物に成り下がっている。感情をもち、意思をもち、挙句、この時代にすら馴染めず、睡眠をとるなど、断じて許さぬ。人間にもカニバルにも平等で無慈悲に死を突きつける、世界を調律するための巨大なシステムのはずが。何が故かは知らぬが、――あれは壊れている」
シドの顔が憤怒に歪む。その色はより苛烈に、許し難いものを見るように、激昂している。ただでさえ怒りが染みついた表情に、その激情はこの男の存在を強めている。
「……っ」
彩の右手がぴくりと反応する。それ以上の震えを抑えるように、彩は意識を外す。
シドは彩に背を向ける。
「あれに伝えろ。丑三つ刻、ここより鬼門へと向かえ。――そこに、貴様が求めるモノがある、と」
もう用はないとばかりに、シドは去っていく。その無防備な背中に、しかし彩は一歩も動かない。もしも彩が手を出したら、あの男の怒りがどれほどの破壊力を放つのか、簡単に想像できた。
シドが消えた闇から、彩はすぐに背を向ける。右手に手袋を嵌め直すと、倉庫の中へと戻る。元いた位置に腰を下ろすと、まるで見計らったようにアレクシアが身動きする。
「ん……」
一度寝返りを打っただけなのに、アレクシアの髪は乱れる。上半身を起こすと、小さく欠伸を漏らす。
「……さい…………」
まだ半分意識が戻ってきていないのか、呆とした瞳で彩のほうを眺めている。
彩は緊張を解きほぐすように、微笑を作る。
「休めたか?」
アレクシアは一度伸びをして、大きく息を吐く。うん、とアレクシアは頷く。
「もう大丈夫。こんなに気持ちが落ちついているのは初めて」
笑って返すアレクシアは、しかしあまり大丈夫なようには見えない。薄暗い、月明かりていどではアレクシアの顔色までは窺えないが、彼女の声音は、彩には落ちつきすぎているように聞こえて、反って不安になる。
「――夢を見たの」
アレクシアは微笑で呟く。彩に話を聞いて欲しいのか、アレクシアの瞳は彩のほうへと向いている。なのに、その表情はどこか遠く、彩は自分のことを見てもらえていないのではないか、そんなふうに思ってしまう。
「そこは、まるで月の上にいるみたいなの。どこまでも、どこまでも白い大地が続いている。上を見上げれば、そこには黒い夜空が広がっている。星も月もないの。ずっと、ずっと闇が広がっているだけ。白と黒だけの世界、そこにあたしは一人きりなの」
その光景を、彩はイメージできる。だって、それは彩も知っている光景だから。彩とアレクシアは、いま、同じ世界を共有している。
「不思議と、寂しいとは思わないの。なにもない世界にいるのに、自分がどうしてそこにいるのか、あたしはわかっている。だから、あたしはそんななにもない世界にいても、寂しいどころか、むしろ安心しているの。一人きり、って思うより、たぶん解放されている、って思うほうが強いんだ。あたしはいま、何もしなくていい。なにもすることが決まっていなくて、いまあたしは自由なんだ、ってそう感じられる。いつまでも、いつまでも、こんな光景が続いていればいいな、ってそう思う。ずっと、ずっと、白と黒とあたしだけの、なにも無い世界にいられたら、そう願ってしまう」
その意味を知っているから、彩は頷いた。彩には馴染みのない感情、けれどそれが彼女の感情だと、彩は知っていた。だから、彩は頷く。
途端、アレクシアの表情が曇る。
「でもね、途中で気づくの。あたし以外、誰もいないその世界では、ほんとうになにもないんだな、って。誰もいないから、あたしはしゃべることもできない。ずっと同じ景色ばかりだから、目を瞑っても同じ景色しか浮かばない。どんなに目を凝らしても、見えるものは変わらない。なにもない世界って、確かに一つの救いの形だけど、けど、あたしには退屈なんだって、気づいちゃった」
彩は頷かず、アレクシアの話の続きを聞く。
「そうしているとね、どこかから呼ばれている、って気づくの。『声』じゃなくて、でも呼ばれている、ってわかる。そして、あたしは目を閉じる。辺りはなにも見えなくなって、真っ暗になって。あたしは、一人で落ちていく」
アレクシアは両手で自分の体を抱きしめる。
「落ちていくのは、恐い。よくわからないけど、それが恐いことだって、知っていた。目を開けたら、きっと恐いものがある。だから、目を開けないように、って必死で閉じるの。でもね、目を開けようとする気持ちも、あったんだ。目を開けたらきっと恐いものを見ることになるだろうけど、それと同じくらい、素敵なものが見つかる、ってそう思ったんだ。だから、目を瞑っていたいと思いながら、目を開けようと必死だった」
そして目を開けたの、とアレクシアは微笑む。
「目が覚めて、彩が近くいにいて、あたしホッとした。どんなに自由でも、どんなに解放されても、一人きりはやっぱり寂しい。彩と一緒のいまのほうが、ずっと、ずっと安心できる」
そっか、とだけ彩は返した。それ以上、彩は返す言葉を知らない。
アレクシアは、それだけで十分と、彩から視線を外した。まるで遠い世界を見るように、アレクシアは微笑を浮かべる。
「――あたし、夢なんてみるの、初めて」
その笑顔が、彩を息苦しくさせる。感覚を遮断している彩には、苦しいなんて感じることはない。ただ、上手く呼吸ができないだけ。しかし、それだけで彩には十分すぎた。
アレクシアの言葉は、予想できた。シドとの会話で、彩の予感は確信となった。
彼女は、いままで夢なんて見たことがない。人間と同じように笑って、人間と同じように眠る彼女は、しかしそれはいままで彼女の生涯の中で、あまりにかけ離れたもの、存在しない現象。
――神魔の王。
それが、カニバルの中での、彼女の呼び名。
世界から直接生まれた、人間とは違う存在。生物という枠から外れた、それは機械と同じ。人を殺す神人、その神人を調律する殺戮機械。
それは、カニバルにとって恐怖の対象。それは、人間には知られることのない、世界そのもの。
どんな時代も生き、どんな人々の中にあっても、彼女は決して誰に知られることもない。彼女自身も、そんな自分に疑問など持たない。
初めて見るモノ、初めて聞くモノ、でもそのどれもが、もうすでに知っているモノ。世界と繋がった彼女は、すでにこの世界の情報を得ているから、それ以上のモノは得られない。なにも、得られない。
感情はない。意思はない。欲求も。願望も。
そんな空虚で空白のまま、永遠を生きる。いや、存在し続けるだけ。永遠に色褪せず、永遠に朽ちることのない、世界の一部。世界の、歯車。
――そんな彼女が。
夢を見る――。
笑って、努めて笑って、彩はアレクシアの言葉に頷く。……頷こうとする。
彼女の在り方。彼女の存在意義。
――それを、彩が破壊してしまった。
それを奪ったのは他でもない、彩自身――。
壊れた彼女は、ずっと彩の傍にいる。彩と話をして、彩に笑顔を向けて。彼女が身につけているものは、彩が彼女に贈ったもの。それを、大切にする、と彼女は笑ってくれた。
そう、彼女を壊してしまったのは、彩だ。
ようやく、自覚する。いままさに、突きつけられている。
――それでも。
アレクシアが、彩とは違う場所で生きていることに、変わりはない。どんなに人間らしくても、アレクシアは神魔の王と呼ばれ、シドに追われる。彩にはずっと黙っているけれど、捜している相手は、やっぱり捜さないといけない。それはきっと、彼女が神魔の王として生まれてきたから。
彩は、彼女を壊してしまった。
でも、彩は彼女の生きる世界まで、壊すことはできない。彼女が生まれたその理由まで、奪うことはできない。
手を伸ばしたい衝動を抑えて、彩は伏せていた顔を上げる。
「……なあ、アレクシア」
声が、震えている。自分でも、情けないくらい、震えているのがわかる。
震えを抑えて、込み上げてくるものを隠して、――この感情を殺して。
「散歩に行かないか?」
彩はそう、アレクシアに提案する。アレクシアはなにも知らずに「うん」と微笑って頷いた。いつもとは違う、少しやつれた表情で。その笑顔が、彩の呼吸をまた締めつける。
時刻は、深夜一時を半分ほど回ったところ。時計など見なくても、響彩にとってこの時間帯は、馴染み深いもの。もはや自身の一部であるかのように、この静寂と闇は彩の空気に合う。
まだ十一月にもかかわらず、周囲には眩いイルミネーションが燦然と輝いている。十二月の、クリスマスに向けての装飾だ。例年なら、この眩い灯かりに誘われて深夜でもそれなりの人の数があるのだが、さすがに神隠しなる殺人事件が起きているいまでは、迂闊に外を出歩く人間は彩たちくらいのものだ。
「わあ、きれい」
アレクシアが感嘆の声を上げる。
「ここって、初めて来る場所だよね」
「そうだよ」
散歩に選んだのは、アレクシアとまだ通っていない場所。ここは交通の利便性よりも、お祭りなどで人が集まるように作られていて、歩道が広い。車道の真ん中には中央線の代わりに、外周の歩道と同じ幅の歩道が内側に伸びている。
外周の歩道だけでなく、内側の歩道にもクリスマス用のイルミネーションが輝いている。彩とアレクシアは、外周の歩道を歩いている。
アレクシアがはしゃぐように、周囲の光に見入っている。
「今日一日でたくさん歩いたはずなのに、まだ知らないところがあったんだ」
彩は呆れ気味に肩を落とす。一日で周れる範囲など、高が知れている。それに、行った場所は駅周辺だから、そんなに多くの場所に行ったわけでもない。
「靴を買った通りも、結構派手だったろ」
今ではクリスマス一カ月前だろうと、商店街ではすでにクリスマス当日のような賑わいを見せる。駅前もそうだが、昨日の午後に向かったビルはアーケードの中にあるから、ここのイルミネーションに負けず劣らず、華やかだ。
うん、とアレクシアは頷く
「でも、こっちもすごいよ。いろんな光がいっぱいで、すごくきれい」
確かに、と彩も頷く。
夜も更け、周囲には彩とアレクシア以外に人の姿はない。二人だけで町のイルミネーションを独占しているみたいだ。
そんな感慨も、しかし彩の中にはない。
……当然だ。
いま、彩がどこに向かおうとしているのか考えれば、周囲の光景に目を向けていられるほどのゆとりはない。
「ねえ、彩」
彩のすぐ隣を歩くアレクシアが、不意に車道のほうから彩のほうへと視線を移す。
「なにか、お話して」
突然振られて、彩は咄嗟に応えに窮した。
「なにか、って。なんだよ」
「なんでもいいの。彩の知っていること、話したいこと、あたしに聞かせて」
アレクシアと彩は手を繋いでいない。それは、彩の破壊の性質があるから仕方のないことだが、アレクシアには不安の種でもあるのだろう。日中と違って、アレクシアは彩より先に歩こうとしない。真夜中、こんなにも明るいのに、アレクシアは彩から一メートル以上の距離を開けようとしない。
「そうだな……」
彩も、アレクシアのお願いを無下にはできないと、律儀に考える。
しかし、考えれば考えるほど、まともな話なんて思いつかない。こんな気分で、そもそも明るい話題を作ろうとすること自体、無理がある。
仕方なく、彩は予め断っておく。
「面白い話じゃないけど、いいか?」
うん、とアレクシアは少しも気にせず、すぐに頷く。
その優しい瞳が、いまの彩には致命的だ。目を逸らしたいけど、彩はなんとか耐える。空白を作らないように、彩は話を始めた。
「俺は、自分がどうしてこの世界に存在しているのか、この世界に存在する理由について、良く考える」
初めて、彩はそれを口にした。いままで誰にも明かしたことのない、彩の胸の内。
学校の連中、佐久間にも話したことはないし、三樹谷夫妻にも話したことはない。誰にも話さず、それはきっと、誰にも理解されないと思っていたから。誰にも、響彩の苦悩は共有されないのだと、そう確信めいたものがあったから。
それを、彩は話し始める。始めると、言葉が自然と出てくる。まるでいままで溜め込んでいたものを吐き出すように、淀みなく言葉が流れる。
「アレクシアには話したよな。俺は感覚したモノを破壊する。俺の意思とは関係なく、ただ感覚しただけで破壊してしまう。だから、極力感覚しないように、感覚を遮断している。俺と関わることで誰かを破壊してしまうなら、俺は誰とも関わらないようにした。存在しているだけで何かを破壊するなら、存在しないほうがいいんじゃないかって、最初は思った。でも、結局はそうしていない。俺はまだこの世界の上で生きている。じゃあ、どうして俺は存在しているのか、いや、こんな俺がどうして生まれたのか、そればかり考えている。人間が存在しているのは、なにか理由があるんじゃないかって、そう思うから」
遠い昔。彩がまだ小さかった頃。
その記録の中で、その人は「この世界に存在しているものには、必ず意味がある」と彩に教えてくれた。どんなものにも、どんな存在にでも、この世界に生まれ落ちたからには、意味がある、理由がある。
幼かった彩には、その言葉の意味を理解できなかった。高校生になったいまでも、信じられないような言葉。
――でも、と彩は思う。
あのときは、あの人が言うから真実だと、信じた。
いまは、きっとそうなのだろうと、求め続けている。
「まだ、理由は見つかっていない」
それは、遠い夢のよう。永遠に見つからないかもしれない、長い旅路。人生の終焉のときでもいい、それが見つかったなら、自分はこの世界に存在している意味があったということ。
「俺は、俺には、俺という存在があることの理由が必要だ」
理由がなければ、彩は自分を壊していたかもしれない。何の役にも立たず、ただ破壊だけの存在なんて、そんなもの、この世界にないほうがいい。
でも、約束したから。理由が見つかるまで、自分の存在の意味が見つかるまで自分を壊さないと、遠い昔に約束した。
「存在理由?」
アレクシアは首を傾げる。
「彩は、響彩の起源が知りたいんだね。自分はどこから生まれたのか、そして自分はどこに向かうのか」
起源――。
その言葉を、どこかで聞いた気がする。
それは、自分が生まれた始まり。いや、自分という存在が生まれるよりも、遥か昔から存在するもの。自分が、自分という魂が、この精神を、肉体を得るに至る大いなる流れ。始まりと終わりを記した、それは自己を表すそのもの。
彩は曖昧に頷く。
「そう、かもしれない。俺は、俺という存在がわからない。ただ破壊するだけなんて、そんなのなんの役に立つかわからない。この世界にとって、なんの益になるか理解できない。破壊なんて、そんなもの、普通、ないほうがいいだろう」
この世界にいらないものを壊してしまうなら、少しは意味があっただろう。しかし、彩の破壊は見境がない。感覚、その一点だけで破壊してしまう。そこに、選択性はない。それこそ、目についたから破壊するのと同じだ。それは、一つの災厄でしかない。
アレクシアは首を横に振って彩の言葉を否定する。
「でも、彩は生まれた。響彩という存在は、確かにあたしの前に存在している。それだけは、絶対」
そして、彩の存在を肯定する。いま、ここに響彩は存在している。アレクシアの前に、彩は確かにいるのだ、と。
アレクシアは困惑したように眉を寄せる。
「あたしには、彩の苦しみがわからない。存在理由なんて、そんなもの、本当に必要なの?ただ生まれたからこの世界に存在している、それだけで十分なんじゃないの?自分という価値が不確かなのは、自分で好きなように決められるってことじゃないかな」
存在していることに、意味はない。
存在している、それだけで十分。
自分の価値なんて、そんなものはなくていい。自分が生きていく中で、好きに自分の価値を見つけられれば、それでいい。
アレクシアは語る。
「彩は、いまのままでいいと思う。自分が何者か、なんて、わからないほうが幸せだよ。存在していることに理由がないなら、一生、そのままでいればいいよ」
存在の理由は、ないほうがむしろ幸せ。
自分がなんのために生まれて、なんのために存在していて、なんのために生きているのか。それを識ってしまったら、もうその運命から逃れられない。永遠に、その決定された価値でしか生きることを許されない。
アレクシアの訴えに、彩は微笑で応える。
「…………アレクシアなら、そう言うと思った」
きょとんと、アレクシアが不思議そうに首を傾げる。
「なんで、わかるの?」
「そりゃ、おまえと話していれば、わかるさ」
そう。わかる。
彼女にとって、自分が存在する理由なんて、嫌になるくらいわかっていることだから。
彼女は、望まれて生まれた。この世界に、なんのためにいるのか、なにをしなければいけないのか、最初から決まっていて、決められていて、存在している。
望まれた、生。
望まれた、存在。
望まれた、命。
それは、祝福?
それは、宿命?
それは、運命――?
望まれた命を、しかし彼女は望まない。
なにもない。自分の意味なんて、ないほうがいい。誰からも望まれず、価値なんてなくて、そのほうが幸せ。
それが彼女の思考だって、響彩は知っている。
「――でも」
彩は、口にする。
彼女にとって、それは辛い言葉。彼女にとって、それは受け入れられないモノ。
「俺は、理由が欲しい。俺が、響彩がこの世界に存在する確かな理由。俺が生まれたこと、生きていることに、意味が欲しい」
この気持ちを、どう伝えればいいのかわからない。どう言葉を積み重ねれば彼女に伝わるのか、彩にはわからない。
でも、伝えたい。だから、言葉にする。決して色褪せないように、何度でも、彩は口にする。
「何にでも、意味はある。俺とアレクシアが出逢ったことに、意味があるように」
その意味は、決して呪いではないのだ、と。二人が出逢ったという意味を、彩は決して否定したくない。どんな理由があったにせよ、彩はこの出逢いに価値があると信じている。
だから、できるなら、彼女を失いたくない。彼女を一人にするなんて、彩にはできない。彩が約束を果たすまで、彩は彼女の傍にいると、そう決めた。
アレクシアは俯いて、彩から目を逸らす。もう、それ以上話を続けることは、彩にはできなかった。
丑三つ刻とは、魔が蔓延る時間として、古代より不吉な刻限とされている。鬼門とは、魔の棲む方角のことで、無闇に近づいてはならない。
――遠く、扉が開く音がした。
その気配に、アレクシアは顔を上げる。
「……!」
その気配は、しかし彩にはわからない。だから、彩にはアレクシアの表情の変化が理解できなかった。
口元を引き結び、目元は鋭利に研ぎ澄ます。それは、以前ホテルでシドを迎えたときの、戦闘態勢の彼女に酷似している。
――ぞくり。
と、背筋に寒気が走る。
彩にはわかる。ただ事ではない、とアレクシアの鋭い視線が告げている。
「……………」
アレクシアが駆け出す。明らかに人の域を超えた、それはカニバルとしての速さだ。
その速さに、彩は走って彼女を追いかけた。幸いにして、アクレシアは道をまっすぐ進んだので、彩は見失わずに目的地まで追いつくことができた。
そこは、公園だった。アレクシアのお気に入りの公園とは違う、そこよりも大きくて、遊具もなにもない。町の中、そこだけ緑に覆われている。なのに、公園の中は一面、タイルが敷き詰められていて、人工の香りしかしない。
その公園は中央に階段がある。幅のある階段で、すぐ横には人工の滝が流れている。滝の前には小さな川が流れている。アレクシアはその滝の前で足を止めた。
「…………」
追いついた彩は、すぐに息を整える。本気で走ったからすぐには落ちつかないはずなのに、彼女の雰囲気を前に、彩はすぐに息を正常域にまで抑え込む。
その滝は、なんの変哲もない、ただの人工の滝。少なくとも、彩の目にはそうとしか映らない。しかし、アレクシアの迷いのない瞳が告げている。
――この先に、捜していたものがある、と。
アレクシアは滝から視線を外し、背後の彩へと振り返る。
「彩。もう帰って」
何の脈絡も、予備動作もなく、まるで自然な流れのように。しかし、彩は予想もしていなかったから、すぐに言葉が出なかった。彩の動揺を無視して、アレクシアは続ける。
「ここから先は、彩が行ける場所じゃない。彩はもう、自分のいる世界に帰って」
優しく、微笑したまま、アレクシアは最後の言葉を発する。
その意味を、彩もようやく理解した。真実、ここから先は彩の知らない世界――カニバルたちの世界――だ。何の取り柄も抵抗手段も持たない人間が、無知に踏み込んで良い場所では、ない。
だから、彩は不敵に笑う。
「嫌だね」
彩は、無知ではない。危険は、重々承知だ。この先に待っているのは、ただの喧嘩ではなく、生死を賭けた、本気の殺し合い。
カニバルから見れば、彩はただの人間だ。しかし、彩なりに、カニバルに拮抗し得る武器は持っている。喧嘩慣れしている、感覚だけで破壊することもできる。彩は全てを理解した上で、なおも進むと決めた。
「約束したろ。おまえが捜しているやつを、一緒に捜してやる、って」
不意に、アレクシアの表情が曇る。その笑顔を維持できなくて、その悲愴の色を見せたくなくて、アレクシアは彩から視線を逸らすように、俯く。
彩はなおも続ける。
「いまさら、なかったことにするなよ」
予感がある。
――ここで彼女と別れてしまえば、もう二度と彼女と会うことはない、と。
そうだ。
このまま、何もせず、何もできずに彼女に背を向けたら、きっと今までのことがなかったことになってしまう。ただ、彩の記録だけ、思い出の中だけの、それはひとときの夢。
彼女と交わした話も、一緒に過ごした時間も、彩が彼女のためだけに贈ったものも…………。
そんなのは、ゴメンだ。
こんなところで、終わりたくない。たったこれだけで、全部がなかったことになるなんて、ありえない。
「…………あたしが眠っているときだけ、傍にいてくれれば、十分だったの」
アレクシアが、ぽつぽつと語りを始める。
「カニバル同士の戦いに、何の訓練もしていない人間が入ってこれるはずがない。だから、あたしが体調を整えるための睡眠の間だけ、傍にいて、もしものときに報せてくれるだけで、良かったんだよ」
そういうこと。
最初から、アレクシアは彩を当てにしていなかった。最初から、彩はアレクシアに当てにされていなかった。
だから、アレクシアは彩に、最後まで捜している相手のことを教えなかった。教えてしまったら、彩を巻き込まないわけにはいかなくなるから。
――でも。
そんなの、関係ない――。
これは彩が決めたことだ。彩自身が、選んだことだ。
「約束は、約束だ」
彩はアレクシアを見上げて返す。
「俺は、約束をきっちり果たす。約束も果たせないなんて、それこそ俺はなんのために存在しているのか、わかったもんじゃない」
彩は言った、理由が欲しい、と。自分が存在する確かな理由。響彩がこの世界に生きている、この世界に生まれた、その意味を探している。
だから、彩は約束を果たす。約束も果たせず、なにもできないまま終わるなんて、彩には耐えられない。
彩はアレクシアのすぐ横に立った。一呼吸で、感覚を遮断する。
「傍にいてやる」
握った手は、遥か遠くのものを掴んでいるように、感覚しない。
戸惑うように、アレクシアは顔を上げる。そこには笑顔も、悲愴もなく、ただ困惑に目を泳がせている彼女がいる。
迷いなく、彩はアレクシアを見返す。その瞳に、ようやくアレクシアも優しく頷く。
「…………ありがとう」
互いの決意が固まった。二人並んで、滝の前に立つ。握った手は、離さない。二人はこれから、共に歩む、と。
アレクシアに言われるままに、彩は目を閉じた。五秒後に、アレクシアが跳ぶ。彼女に併せて、彩も足場を蹴った。宙に浮く、二人の向かう先は、水が流れ落ちる滝。
恐れはない。不安もない。彼女を信じて、だから彩は跳んだ。
滝の音が近くに聞こえる。しかし、それも一瞬のこと。
――実が虚となる。
この世界に存在するあらゆる現実が虚構世界に堕ちる地面が天井に天井が地面になるいや天も地も互いに混じり合いそれは混沌という法則重力加速もこの空間では一定に定まらないそこかしこで空間のもつエネルギーが位置情報の変化により歪んでいく体が水に溶けているのか光のように自身が融けてしまったのか光は収束し拡散し実の像は虚の像へと変換される現実が無限ならこの空間は有限の範囲に閉じている体が歪み圧縮される閉じた世界ここは実の住人では生存できない虚をもたないものはこの場所では零でしかないゆえに実はここでは意味をもたない全ては虚へと流し込まれる……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。
「もういいよ。彩」
彩は目を開いた。
目の前に広がる、どこまで続くのか先の見えない一本の道。煉瓦のようなものでできた道は凹凸がなく、しかし煉瓦と違ってどこまでも切れ目が見当たらない。道幅は十メートルと広く、道の外には彩の膝丈くらいの高さの草が生えている。雑草ではない、元々は花を咲かせる植物が、しかしいまは黄色く枯れた草が、見渡す限り広がっている。頭上を見上げれば、空までも地面や草と似た黄土の色をしている。まるで砂漠の真ん中に放り込まれたような、そんな寂しい、殺風景な場所。
「……なんだ。ここ」
「ここは、幻影城。神人のみがもつ、その神人固有の城」
彩の呟きに、アレクシアが応える。
彩はようやく隣に彼女がいることに気づいた。同時に、アレクシアと手を繋いでいて、自分の体が確かに存在しているのだと、理解した。
「この世界のどこかにありながら、この世界とはどこにも繋がっていない異界。ほとんどの人間はその存在すら知らない場所。ごく希に、幻影城に迷い込む人間もいるらしいけど、それはよっぽど希ね。ここは神人の城だから、神人の許可がない限り、見つけることも入ることもできない」
もっとも、とアレクシアは肩を竦める。
「少し穴が開いていたから、あたしも気づいたけど。カニバルなら、相手の城に入ることは、そんなに難しくないわ」
彩はアレクシアから手を離して、改めて周囲を眺め見る。草一本生えない、石のような道。どこまでも続く枯れた花畑。空には荒廃の風ばかりが吹く。
「これが、城……?」
城など、どこにも見当たらない。遠い昔に滅びた文明の、その遺跡にしか見えない。荒廃の、世界。
アレクシアは笑う。
「神人によって、幻影城の造りは異なるの。あの子の心象世界が、こういう形をしている、ってこと」
あの子――――。
初めて、アレクシアの口からその言葉を聞いた気がする。だから、彩も確信できた。
「ここに、アレクシアが捜しているやつがいるのか?」
「……ええ、間違いないわ」
やや間を置いて、アレクシアは頷く。
彩とアレクシアは荒れ野を歩く。道自体はしっかりしているから、特に苦もない。しかし、いくら歩いても同じ景色――枯れた花と黄土の空――しか見えないから、三十分も歩き続けていると、さすがに辟易してくる。
不意に声をかけられたのは、ちょうどそんなとき。
「――――来たか」
彩とアレクシアは、同時に足を止めた。二人の視線の先に、その男は一人、悠然と立っていた。
唐突に、二人の前に階段が現れる。二人から、十メートルほどの距離。その存在に気づいた途端、目の前の砂塵が晴れて、その光景がクリアになっていく。
階段は道と同じ、砂色の土を積み上げたもので、幅は道と同じ。その階段を上り切った場所から彩たちを見下ろすように、男は立っていた。
闇そのものを纏ったその男は、この荒廃した光景に良く馴染んでいた。まるでその場所が彼にとって相応しいかのように、声をかけられるまでその存在に気づかなかった。
アレクシアが愕然と声を漏らす。
「どうして、貴方がここに…………!」
シドは当然のように、冷ややかにアレクシアを見下ろしたまま応える。
「そこの人間に伝言をしておいた」
そう、口にしておきながら、シドは少しも彩とは目を合わせようとしない。さも、話す相手はアレクシアしかいないと、そう言いたげに。
アレクシアには話していないが、シドの言葉通りに、彩は彼女を案内した。散歩、というのは口実だ。
しかし、彩とてアレクシアをこの男に差し出すために、彼女を外に出したわけではない。シドの言う先にアレクシアの捜している相手がいる、仮に罠だとしてもこの男と真っ向から向き合える、だからこそ、彩はシドの言葉に乗った。
シドの返答に、アレクシアは表情を引き締める。
「――そう。全ては貴方の計らいというわけね」
シドと対峙する、そう意識してか、アレクシアの口調はいつも彩が聞くものとは違った。
「わざわざこんなところに呼び寄せて、どういうつもり?邪魔するにしても、場所が悪いんじゃなくて?いくら貴方でも、あの子に気づかれるのは不都合じゃないの?」
シドは、しかしアレクシアの問いには答えない。代わりに、背後を示すように顎を上げる。
「最強のカニバルなら、この先だ。好きにするといい」
それで用はないとばかりに、シドはそれ以上を語らない。
不審そうに、アレクシアは眉を寄せる。
「……どういうつもり?」
シドは、遥か昔からアレクシアを狙っていた。彼女こそ、この男の目的を達成するものだからだ。
しかしいまのシドは、まるでアレクシアなど眼中にないかのようだ。その態度の変わりように、アレクシアも訝しむ。
「貴方、何が目的?」
「無論、私の目的は神魔の王ただ一人。ゆえに――――貴様などに興味はない」
そう、シドは何の迷いもなく、言い切った。
アレクシアは愕然として、しかしすぐに表情を戻す。彼女の顔には、冷やかな笑みが浮かんでいる。
「…………なめられたものね」
アレクシアの言葉がなにを意味しているのか、彩にはわからなかった。彩の理解が及ばないままに、アレクシアは振り向いた。その表情に、彩は彼女がなにを言おうとしているのか、理解した。
「彩……」
「後ろから追いかける」
そう、彩にも理解できた。この男は、最初からアレクシアのことしか見ていない。アレクシアは行かせても、彩など、最初から通す気などない。だから、アレクシアも彩に伝えようとした…………「もう帰って」と。
「すぐに追いつくから、心配するな」
そう、気安く請け負う。
アレクシアは、しかし笑わない。不安を押し込むように、硬い表情のまま頷いた。
「……無理は、しないでね」
それだけ残して、アレクシアはすぐに彩に背を向ける。もう、彩の顔を見ていられないように。
アレクシアは階段を上り、シドの前に立つ。両者の距離は、十メートルほど。
「…………」
「…………」
無言で視線を交わし、アレクシアはシドの横を通り抜ける。険しい視線のままに。
「――彼に手を出したら、許さない」
忠告だけ残して、アレクシアは砂塵の中に消える。シドは振り返ることなく、無言で、無表情のままに、彼女を行かせた。
そして、二人の男は向かい合う。
「…………」
「…………」
シドは憤怒の表情のまま、彩を見下ろしている。怒りだけが、彼に許された唯一の感情のように。シドは無言のまま、彩を見下ろしている。さも、彩に語ることなどないと、無言の圧力が告げている。
彩は、そんな相手を黙って見返す。彩もシドと等しく、話す言葉など持ち合わせていない。そして、このまま引き下がる気も、毛頭ない。
「――――立ち去れ。人間」
彩は一歩、前に出る。その彩の動きに応じるように、シドは低く命じる。
「ここは、人間風情がいて良い場所ではない。命あるうちに引き返せ。そして、我らのことは忘れろ」
そう、シドは命じるばかりで動こうとしない。つまり、いまこの瞬間、シドは彩など相手にしていない。アレクシアとの、いや、神魔の王との対決が果たせぬなら、彩のようなただの人間など、相手にする価値はない。だから、邪魔者はただちに失せろと、塵芥ごときに手を出すまでもないと、その憤怒の眼が告げている。
――ああ。
そうだろう――。
いまでもはっきりと思い出せる。
あのホテルの夜。この男と初めて対峙した日。あれは勝負などではなく、一方的な殺人だ。カニバル、人喰種など、言葉の上で知っていただけで、それを直に目にすることは意味合いが違った。
真実、あのとき、あの瞬間に、響彩は理解した。カニバルという存在。人を殺すためだけに生まれたという、その意味。
シドは魔人で、元は人だ。だから、生粋のカニバルたる神人とは異なる。が、その人間離れした、人間を超えた存在であるということは、十二分に理解した。理解するまでもなく、本能で識ってしまった。
あれは、人間ではない。人間とは異なるモノだ、と。
同時に、あの瞬間、彩は恐怖した。あれは、死そのものだと、そう思ってしまった。
――でも。
それは違う――。
いまなら、彩は断言できる。
「命令するな」
彩は、さらにもう一歩踏み出した。シドの憤怒の眼も、その忠告も全て無視して、彩は前に進む。
「俺はおまえの指図を受けない。俺は俺の意思でここにいる。俺は――――おまえを倒して、アレクシアのもとに行かなきゃいけないんだ」
彩にとって、それは恐怖ではない。恐れは、それ以上の懼れを響彩は知っている。それと比べたら、こんなもの、響彩の恐怖の対象にはなりえない。
「――俺は、おまえを超えていく」
こいつは、死ではない。こんなところで、響彩は死ねない。まだ、死ぬわけにはいかない。まだ、彩は自分が生きている理由さえ知らないのだから。
だから、こいつは響彩の死神ではない。響彩が超える壁だ。こんなもの、これからの彩の人生の、一つの通過点でしかない。彩の目的は、ここじゃない。
「――――」
シドの眼が激情に燃える。
――ああ。
いくらでも、怒ればいい――。
いま、シドの怒りは彩に向いている。この男は確かに彩を見て、敵と見なしている。いままで取るに足りないと思い込んでいたのに、どうあっても排除しなければならない存在だと、この男に思い込ませてやった。
彩は笑う。不敵に笑う。傲然と笑う。
右手の手袋は、すでに外した。いつでも、相手をしてやる。そう、彩が相手をする。
この戦いは、一方的な殺人ではない。どちらが優劣かなんて、そんなもの、勝負の世界では一瞬でひっくり返る。だから、これは対等な戦い。
ただの人間である彩。破壊することだけが、彩の唯一の武器。
カニバルであるシド。元魔術師で、人間を捨てた、人間を超越した存在。
その両者は、この戦いにおいては対等。
彩はさらに前に出る。彩の足が、階段を一歩、踏みしめる。
「ほざけ。人間」
シドの言葉には、抑えがたい激情が含まれている。
もう、互いに無視できない。人間とカニバルの戦い、響彩とシドの闘争は、いまここに、不可避のものとなった。




