七章
朝の四時、十一月のこの季節ではまだ辺りは闇。見上げれば白い星が点々と、海の砂を撒いたように夜空を彩る。
夜の中、彩は一人、坂道を下る。一歩、下るごとに息を吐き、水分を含んだ吐息は十一月の空気に触れて白く濁る。
日付は変わって、今日は日曜日。そして、アレクシアとの約束の日。
――所謂、デートというやつ。
彩は大きめに息を吐く。
「なんだかなー……」
なんて、ぼやく。
言い出しっぺは彩だから、愚痴を漏らすのは筋違い。だから愚痴は我慢する、が、いままでの彩の生活の中であまりにも馴染みのない言葉だから、肌に合わない。
――デートなんて思うから、居心地が悪いんだ。
ただ、駅前まで出るだけ。別に、遠くの町まで行くつもりはない。駅のデパートの中に入って、適当に店を眺めるだけ。ウィンドーショッピング、ってやつだ。昼になったら、デパートの中の喫茶店かレストランにでも入って食事にする。普通の女の子だったら喫茶店くらいで十分だろうが、彩の相手はアレだから、レストランにでも入ってたらふく食べられたほうがいいはず。その後は。そのあとは…………。
「まあ、適当になんとかするさ」
それ以上先は、デート経験のない彩には想像もつかない。
そもそも、彼女を普通の女の子と一緒に扱っていいのだろうか。
なんてことを考えながら、彩は坂道を下りきる。そこに来て、ようやく彩は待ち合わせ場所など決めていなかったことに気づく。
彩は足を止める。
「…………」
……やらかした。
自分でも信じられないくらいの、失態。どうしてこんなことを失念していたんだ。
いま彼女は宿なし。ホテルはないし、なにより彼女にお金を創るなと、言ったのは自分ではなかったか。
なら、アレクシアはどうしているのか――?
宿なし。金なし。あてなんて、彩しかいないだろう。
――じゃあなにか、いま彼女は正真正銘のホームレスじゃないか!
短く、彩は舌打ちする。
「やっちまった…………」
こんなにぼやくのは、きっと初めて。それだけ、これは彩にとって、失態。
「出だしからこれかよ」
はあ、と大きく息を吐いてから、彩は顔を上げる。
……いつまでも、愚痴っていても仕方ない。
とにかく、アレクシアを捜すしかない。彼女の行きそうなところを片っ端に。
「で、どこにいるか」
そう口にして、急に彩の頭の中で靄が晴れる。
考えてみれば、彼女の行きそうなところには限りがある。その中で、彼女が一番いそうなところ。
「簡単だよな」
彩はまっすぐ、公園を目指した。最初に彼女と話をしたところ。人捜しの待ち伏せ場所に彼女が選んだ場所。
案の定、アレクシアは公園にいた。ほとんど定位置になったように、彼女はブランコに座っている。ブランコを揺らすでもなく、ただ彩のことを待っているふう。
彩はアレクシアに気づかれないように、そっと背後から近づく。足音を殺し、気配を殺すなんて、彩には造作もないこと。一メートルまで近づいても、彼女は少しも彩に気づかない。彼女を驚かせるつもりで、彩は隣のブランコに手を伸ばす。鎖の揺れる音に、アレクシアはようやく気づいて振り返る。
「よお、アレクシア」
彼女に声をかけて、彩はブランコに座る。
「彩!」
彩を目にして、アレクシアはぱっと表情を明るくして声を上げる。
「彩だ。彩、来た!」
「…………そりゃ来るだろ。約束したんだから」
子どもみたいなアレクシアの喜びように、表面上は呆れながらも、内側では彼女らしい反応に彩はホッとする。
うん、とアレクシアは満面の笑みを浮かべる。
「そうだね。約束したもんね」
さっきまで一人で待っていた姿が嘘みたいだ。アレクシアは大分上機嫌になって、ブランコをこぎだした。
――わかりやすいやつ。
なんて言葉は浮かぶのに、彩の心境はいつもと違う。
アレクシアのその無邪気さに、納得して、安心している自分がいる。安心、安堵、それはいままでの自分からは遠いモノ。これをなんて呼べばいいのか、彩は知らない。こんなもの、彩はいままで経験してこなかったから。
ブランコをこぎながら、アレクシアが首を傾ける。
「じゃあ彩、行く?」
そう口にしながらも、アレクシアはちっともブランコ遊びをやめようとしない。少しも動く気がないのは、丸わかりだ。
いや、と彩は首を横に振る。
「もう少しここにいる。まだ暗いから、店もやってない」
こじつけのような事実。事実だけれどこじつけ。
アレクシアが動く気がないから、彩は動かないのではない。彩自身も、もう少しだけ、アレクシアとこの時間を過ごしておきたい。
そっか、とアレクシアは嬉しそうに頷く。
アレクシアの体は、ブランコの振り子運動にまかせて揺れている。いつのまに覚えたのか、前まではブランコをこがずに、板に座って揺れるだけだったのに。
そうだ、と彩はアレクシアに提案する。
「時間潰しに、アレクシアの話、聞かせろよ」
きょとん、とアレクシアが彩を見返す。
「あたしの?」
「そう。昨日、なにしてた?」
「昨日はねえ…………」
彩が話を振ると、途端、アレクシアは進んで話し始める。彩も、次第に彼女の扱い方がわかってきた。もちろん、いい意味で。
アレクシアの話は、彩には少し意外だった。
昨日はずっと公園にいて、公園に遊びに来た子どもたちと一緒に遊んでいたらしい。そもそも滅多に人が寄りつかないこの公園に子どもが来るなんてことに驚いたし、その子どもたちと普通に遊んでいたってことが、彩には驚愕に値した。
彩にとって、他人はどうでもいい存在、できるなら関わり合いになりたくないモノ。彩の破壊の性質から、他人とは関わり合いになりたくないと今でも思う。それでも、周囲からはそんな外れた存在である彩は好ましくなかったらしい。小さい頃から、喧嘩は彩の日常。
だから彩は決して、自分から他人と関わろうとしない。必要があるときだけなんて、それこそ必要すら彩は作らないし、求めない。
――でも、まあ。
彼女なら――。
アレクシアなら、子どもたちと遊んでも、不思議ではないかもしれない。逆に、もっとも違和感のない光景かもしれない。
見た目は彩と同じくらい、声はどこか大人な響きを持っているアレクシア。けれど、中身は中学生、小学生くらいがちょうどいいか。
「彩は?彩は昨日、なにしてたの?」
アレクシアが話し終えて、今度はアレクシアが彩に話を求めてくる。
「俺?」
咄嗟に訊き返す彩。
うん、と頷くアレクシア。
少し考えてから、当然といえば当然の返答をする。
「療養、ってやつ」
昨日はずっと家にいて、ほとんどベッドの中で過ごしていた。やったことといえば、読書くらいか。
アレクシアが心配そうに声をかけてくる。
「もう大丈夫なの?」
「大丈夫だ。きっといつも通りに動く」
腕を伸ばして、振って見せる。自分自身の感覚に意識を向けないから正確なところはわからないが、違和感はない。
ふーん、とアレクシアは感心したような声を漏らす。
「彩って、丈夫ね」
「そうか?」
うん、とアレクシアは素直に頷く。
「派手にやられていたのに、もう大丈夫なんて。傷の治り、早いんだ」
言われて、彩は自分の記録を引っ張りだす。
あの夜、カニバルとの戦いで、彩は半ば袋叩きにあった。何度倒しても何回でも立ち上がる、ゾンビのような軍隊。攻撃するための体力だって尽きかけ、防御も最低限だけ。あれだけやられていたら、彩の経験では三日くらい動けなくなってもおかしくない。
それが、たった一日で全快している。
よくよく考えれば、それは異常だ。屋敷でベッドの中にいたときだって、ちょっとおかしいなくらいには思っていた。しかし、アレクシアに指摘されて、改めて奇妙だと実感する。
「そういうわけでもないんだが…………」
いくら彩に破壊の性質があったって、身体の造りは他の人間と大差ない。感覚を無視しても、傷の治り具合は良く理解している。
いつもと違うところといえば、妹の鮮に手当てしてもらったくらいか。鮮は響家の跡継ぎとして医療に詳しいと言っていたが、そのせいもあるのだろうか。
「でも、彩が大丈夫なのはいいことね」
アレクシアが安心したように笑う。
彼女が喜んでくれるなら、まあいいか、と彩も深くは気にしない。実際、体の調子がいいのは良いこと。だって、これでもしまた彼女の前に敵が現れてきても、彩が相手になってやれるのだから。
しばらく適当な話でもして時間を潰そうかと思っていたら、意外に時間の経過は早く、気づけば空が白み始めてきた。十一月のこの時期でも、朝になれば鳥たちは活動を始めるのだと、姿は見えなくても鳴き声だけは聞こえる。
彩の隣で、アレクシアがブランコこぎを再開する。勢いのついたところで、アレクシアは自分の座っていた板から離れて、宙を跳ぶ。座ったままこいだので高さはないが、それでも着地は見事なもの。少しもふらつかず、完璧な着地を見せる。腕を広げてポーズをつける辺り、様になっている。
えへへ、とアレクシアは振り返って得意そうに笑う。
「昨日、遊んだ子たちに教えてもらったんだ」
上手でしょ、なんてアピールするアレクシア。
対する彩は、全く意地を張らず、ブランコを減速させて立ち上がる。
アレクシアが首を傾げる。
「彩はやらないの?」
ああ、と彩は肩を竦める。
「慣れてないんでね」
まだ彩が屋敷にいた頃は自室で勉強か、せいぜい屋敷の中の森みたいな庭を散策するくらい。三樹谷家にいってからも、公園で遊ぶ以前に、誰かと遊ぶ習慣は、彩にはなかった。もちろん、ブランコやジャングルジムといった遊具は知らない。できるのは、体育の時間でやった鉄棒ていど。
ふーん、とアレクシアが意味深な笑みを浮かべる。
「言ってくれれば、あたしが教えてあげたのに」
その気取った笑顔に、遠慮しておく、と彩は返す。彩がアレクシアに教えるならわからなくもないが、彩がアレクシアからブランコの乗り方を教わるなんて、釈然としない。
彩の内心なんて知らず、アレクシアは空を見上げる。
「明るくなってきたよ、彩」
ああ、と彩も頷く。
「そうだな。そろそろ行くか」
朝になって――。
ようやく、今日が始まった気がする。今日は日曜日、アレクシアと約束した日、彼女とのデート。――それが、やっと始まる。
駅に向かうことは決定していたが、その前に、コンビニへと立ち寄る。まだ朝食を食べていない彩は一食くらい抜いても平気なつもりだが、アレクシアは昨日一日なにも食べていないのだから無視はできない。金もなく、一日中公園にいたなんて、初日の食べっぷりからはとても信じられない。
……なのに。
早朝のコンビニではモノの仕入れがないらしく、あるのはお菓子くらい。彩はゼリー飲料を手に取り、それを見たアレクシアも彩を真似て同じものを所望した。
「足りるか?」
購入直前と、買ってからの二回、彩はアレクシアに同じ質問をした。
「うん」
アレクシアはなんの疑うところもなく、頷く。いや、そんなに率直に頷かれるほうが心配になる。
「昨日からあんまりお腹減らなくなったんだ」
元々食事なんて必要なかったし、と付け足すアレクシア。
「ようやく、体に慣れてきたみたい」
チューブからゼリーを吸いながら、アレクシアは笑う。
見た目は人間と変わらないが、アレクシアはカニバルと呼ばれる人喰種。世界から直接生まれた存在で、食事に必然性はない。いままで彼女が食事をしたり、睡眠をとっていたのは、本人が言うように、体調が優れなかったため。彩が壊してしまったことが原因なのだが、それも治ってきているのかもしれない。
ゼリー一個の食事では、そう時間もかからない。空になったパックをアレクシアから受け取り、彩は持っていたビニールに放り込む。
アレクシアは目を輝かせて、彩に首を傾げる。
「今日はどこ行くの?」
「まずは、駅前。適当に、アレクシアの気に入ったところに行ってやる」
コンビニで確認した時間によれば、いまは六時半。天は白く、空気に吐いた息は白く消える。時折、道路の上を車が駆け抜ける。まるで自分だけの道であるかのように、猛スピードで去っていく、走り屋というやつだろうか。
人の姿は疎ら、というか、ほとんど見かけない。朝のジョギングに励む人を二人だけ見ただけだ。
彩は駅に向かう道を歩き、途中で止まる。駅までは、歩いて一時間。バスを利用したほうが楽だが、バス停の時刻表を見れば、始発まで三十分待たないといけないらしい。
彩一人だったら歩いていくのだが、いまはもう一人連れがいる。彩は誰もいないバス停の前で立ち止まる。
アレクシアが不思議そうに彩の背後で訊ねる。
「どうしたの?」
アレクシアには、彩が急に止まったように見えるようだ。どうも、バス停というモノを認識していないらしい。
彩は短く答える。
「バス待ち」
「バス?」
ああ、と彩は頷く。
「決められた時間に決められた場所を走る、人を乗せる乗り物。バス停で待っていると、時間になればバスが来て、乗せてくれる」
決められた時刻に、決められたルート。決められた流れに、人は自身の目的と予定を合わせる。何時にどこへ行きたいと決めたら、それに合ったモノを選択する。
ふーん、とアレクシアは初耳のような反応。
「それに乗って、駅まで行くの?」
そう、と彩は返す。
彩は、個人的にはバスを利用してこなかった。もちろん、学校の行事――修学旅行など――では乗らないわけにはいかない。だが、できることなら使いたくない。
別に、乗り物酔いをするとか、そういうわけではない。感覚を遮断している彩は、酔うこともない。
密閉された空間に、人が押し込まれる。移動している間は、なにもすることがない。ただ、近くに人が溢れている。
人の存在を、感覚する――――。
感覚が破壊と繋がる彩にとって、それは致命的。
学校という空間は、まだいい。授業を受けている間は、授業内容に意識を向けていればいいから。だから、彩にとって休み時間ほど削除したい時間はない。なにもすることがなく、周囲の談笑が聞こえる。彩が読書で時間を潰すのは、ただ自分の世界に閉じるため。
――なにも感覚せず。
――ただ自分の中で意識を完結させる。
バスに乗るなんて、彩には存在しない選択肢。だが、いまはアレクシアがいるのだから、仕方ない。それに、彩だってバスに乗ったことがないわけではない。修学旅行など、人間で溢れたところにいても、いままでなにかを壊したことはない。それだけ、彩の感覚遮断は完璧だ。
だから、今回は特別。
「…………」
ふと、アレクシアに目を向けると、彼女の顔から笑顔が消えていた。
物思いに耽るよりも、それは哀しい――。
透き通ったアレクシアの表情は、けれどなにかの傷を目にしたように、いまにも泣き出しそうで、でも泣くことはない。
それを、なんて言葉にできるだろう。
言葉に、形に、それは、一つの意味にするということ。
それは、不可能だ。
――だって。
そんな、単純なモノではないから――。
彩は彼女に近づきたくて、でも触れられなくて、意味のない音だけが口から出る。
「アレクシア……?」
応えるように、アレクシアが口を開く。
「…………なんか、寂しいね」
なにが、というより先に、アレクシアは続ける。
「決められた通りに動く。決められた通りにしか、動けないなんて」
彩とは顔も合わせず、アレクシアは呟く。
その言葉に――。
その感情に――。
響彩という存在は、なんて返せるだろうか。
笑い飛ばすなんて、彩にはできない。だって、彩はその意味を知っているから。
――生きる、って、そういうことだろ。
小さい頃からの記録。
父親もいて、母親もまだ生きていた頃、彩は響の屋敷にいて、一日中与えられた部屋の中で過ごしていた。朝から晩まで、ただ書物を読み、勉学に励む。
事故に遭って、三樹谷の家に住むようになってからも、学校へ行って授業を受け、終われば戻る。変化があったとすれば、周囲の人間と喧嘩をしていたくらだが、それも慣れてしまえば変化のない、決まった予定と同等。
高校生になっても、学校へ行き、勉学に励む。授業以外の休み時間は本を読んで、消化する。
大人になり、社会人なんて呼ばれる頃には、きっと決められた時間に起きて、決められた行動をして、決められた場所で、決められた仕事をして、決められた時間に家に戻り、決められた時間に眠るのだろう。
決められた通りに動くなんて、生きていることと同義。
人は世界に存在する歯車の一部、くるくると廻り続け、壊れれば捨てられる。消滅の空洞は、やがてそれが自然であるように、違和感なく溶け込む。
――そうやって、この存在は消える。
反射的に浮かんできた言葉を、しかし彩は飲み込む。
「別に……」
代わりに、急ごしらえの言葉を口にする。
「ずっとその通りに動くわけじゃないだろ。仕事をする時間が決まっていれば、自由な時間だってある。休みになれば、いまの俺たちみたいに、どこへでも行ける」
吐き出してから、すぐにアレクシアから顔を逸らす。
……らしくない。
感覚はないが、体が拒否反応を起こしている。妙に、落ちつかない。いまが早朝で、他に誰もいないだけ救いだ。
アレクシアが意外なものを見るように、彩に視線を向ける。
「――うん。そうだね」
ややあって、アレクシアは笑う。その笑顔を、今回ばかりは彩も直視できない。だから、顔を逸らしたまま無反応を決め込む。
バスが来るまで、会話は生まれなかった。彩が意図的にアレクシアから顔を逸らしていたから、当然といえば当然。けれど、アレクシアのほうからも、彩にそれ以上はなにも言わなかった。ただただ無為な無言の時間を、彩は早く終わってしまえと願った。
すぐに終わったかは感覚を切っている彩には答えようもない。だが、時間は進みを止めるなんてことはしないから、いつかはバスが来る。
バスに乗り込むと、前のほうに一人乗っているだけで、他に乗客の姿はない。彩は後ろから一つ前の二人用の座席を選び、アレクシアを座らせる。彼女を窓側に座らせてから、彩も通路側に腰を下ろす。運転手の事務的な発車の合図とともに扉が閉まり、バスが動き始める。
「……………………」
しばらく、無言。
彩はすぐに窓の外を眺めていた。バスの中から意識を外すための、ちょっとした儀式。だが、いまは人も少ないので、すぐに隣のアレクシアへと目を向ける。
アレクシアはカニバルで、つまり人間ではなく、人としての常識とか知識とか、そういうものは持ち合わせていない。以前の会話の中でも、町を走る車が珍しいと喜んで話していた。なら、バスに乗ったらどんな反応をするのだろうと淡い期待をしていたら、予想外にも彼女は静かに席に座ったままだった。
いくらか浮かれている要素は見えたが、辺りをきょろきょろ見る、なんてことはしていない。不思議に思い、彩は訊いてみた。
「バスは、そんなに珍しくないか?」
アレクシアは彩のほうへ顔を向け、いっそうの笑顔で答える。
「珍しいよ」
決まってるじゃない、なんて仰るアレクシア。その割には、いつものアレクシアの反応は見られない。
素直な疑問を、アレクシアにぶつける。
「……にしちゃ、あんまり騒がないな」
「当然でしょ」
なんて、アレクシアは応える。
「他の人がいるところでキョロキョロしてたら、変に思われるでしょ」
そう、真顔で返すアレクシア。
……いま、自分はどんな顔をしているだろうか。
感覚を殺してきた彩にはわからない。感情なんて、そんなモノはどこかに置いてきてみつからない。
なのに。
彩は吹き出すのを堪えて、けれどそんな素振りを表情に出すことを知らないから、顔が不自然に歪む。
彩の反応に、アレクシアが首を傾げる。
「どうしたの、彩?」
「……………………おまえから、そんなまともなセリフが出るなんて、意外だ」
「なによそれ」
唇を尖らせてから頬を膨らませる、なんて器用なことをするアレクシア。彼女らしい反応に、つい吹き出しそうになったが、彩はぐっと堪える。
なおもアレクシアは主張する。
「この時代に対する多少の知識の穴はあるけど、でも、あたしだって、最低限必要な情報は心得ているんだから」
真剣に反論するアレクシアに、彩は平淡な口調で頷く。
「へえ、そうなんだ」
「あっ、信じてないな」
ぷんぷん、とそんな音が聞こえてきそう。
アレクシアは真剣に主張して、彩はそれを、はいはいと宥める。彩はアレクシアの主張を半分近く聞き流して、ふとこんな疑問が浮かび上がる。
――そういえば。
アレクシアはどうやって、現代の知識を得ているのだろうか――。
アレクシアと一晩中話をしていた彩だから、わかる。
アレクシアの知識には、現実味が欠けている。
知識として、いまの町を知っていて、店やビルというものを知っていて、道を知っていて、車を知っていて。
彩の通っている、学校というものにも、それなりに知識はあるみたいだ。
けれど、それは文字や写真で見たくらいの知識で、その中身が抜け落ちている、そんな印象。アレはなにと訊いて、答えるとああ、アレか、と納得する。学校の話でも、教室の中とか授業風景とか、校庭で生徒たちが遊んでいる姿なんてものも、理解はできるようだ。
それなりに、知識を持っている、というのは本当らしい。
――けれど、わからない。
その知識は、一体どこから得たものなのか――。
もしも、アレクシアが体験して得た知識なら、中身のない、表層だけの情報なんて、あるはずがない。
彼女の持っている知識は、どれも本やテレビで得たようなモノでしかない。実際に触れた、という認識が欠けている。
では、アレクシアはどこで、そういう情報を得ることができるのだろうか。
ホテルのテレビか、けれど彼女はテレビに対しても中身がない。図書館とか、そういうところか、だがコンビニすら馴染みのない彼女が、一人で図書館なんかに行くだろうか。
「…………」
考えても、結論は出てこない。彼女に直接訊けば早いのだが、いまはやめておく。
――なんとなく、気が引ける。
もちろん、理由はある。
きっと、彼女側に関わることだ――。
なら、アレクシアは人前では、そういう話はしない。
最初に話しかけられたときだって、深い話になったら、人目のないところを選んだし。彩から訊いたとしても、その答えは他の人がいないところ。
だったら、明日以降の時間があったときにすればいい。今日はデートで、そういうこととは無縁でありたい。
アレクシアに、少しでも彼女自身のことを忘れてもらって、いまの世界を見てもらおう、って誘ったんだ。彩からそれをぶち壊すなんて、やっちゃいけない。
だから、この思考は保留。しばらく、ごみ箱で眠っていればいい。
アレクシアの真剣な顔、笑った顔、驚いた顔……。そんな、いろんな表情が見られれば、今日はそれで満足なのだから。
「ねえねえ、彩!これどう、どう?」
呼ばれて、彩は振り返る。
開け放たれたカーテンの向こうに、アレクシアは立っている。ブラウンを基調としたスカートに、トップは萌黄色の温かそうなセーター。ぎゅう、と胸の前で両腕を合わして、彩に目配せする。
「………………似合ってる」
やっとの思いで、それだけ口にする。たったそれだけの言葉で、アレクシアは端から見てもわかるくらい、有頂天だ。
「そう?そうかな!」
一頻り満足してから、アレクシアはカーテンを閉める。個室の中で着替え終わると、アレクシアは脱いだ衣装を彩に渡して、服の森の中へ消える。
彩はアレクシアの脱ぎ散らかした服を綺麗に整えてから、元の場所に戻す。もはや、彼女の着替え場所として定位置化した個室の前へ戻ると、彩は大きく息を吐いた。
「…………こういうものなのか?」
デート、ってやつは…………。
彩たちが駅前に到着したのは七時に十分の少し前。コンビニは例外だが、ほとんどの店は十時にならないと開かない。店が開くまでは駅近くをうろついて、普通の人間なら退屈な時間だろうが、アレクシアにとってはそれなりに楽しい時間だったようだ。これは何のお店か、あれは、なんてやっているだけで、あっという間に時間は過ぎ、十時の開店から十分くらい遅れて駅近くの比較的大きなビルへと入る。
駅前のビルにも色々と種類があるが、彩たちの入ったビルは衣服を中心としたファッション系の店が多く、そのほとんどが女性向けだから、彼女も飽きないだろう。
……なんて、安直に考えていた彩、だが。
はあ、と自然溜め息が漏れる。
服屋に入ってから、アレクシアのファッションショーを延々と繰り返している。最初のほうこそアレクシアの輝いた瞳に真摯に受け答えしていた彩だが、五回目くらいから言葉を考えるのも億劫になり、一時間以上経ったいまではテンプレを再利用する作業に徹している。
あとは、役目を終えた衣類の片付けか。だから、一応遠目でアレクシアの姿は追っている。あれやこれやと服を引っ張り出し、もっと気に入ったものがあればそれまでの服は適当にハンガーに戻す。もう少し落ちつけと、彼女の傍で注意する気も、もはや起きない。アレクシアに振り回されて体力を消耗するだけだ。
また何着か服を抱えて、アレクシアが個室に突入し、カーテンを閉める。個室に入って人の目が気にならないのか、少しも声を抑える気がない。着替えるたびに、唸ったり、歓声を上げたり。少しは落ちつけ、なんて考えは大分昔に放棄した。
「ねえねえ、彩!」
カーテンが開く音より先に、自分の名を呼ぶアレクシアの声。彩はただ無言で振り返る。
「これは?これは!」
スミレ色のスカートに、清潔感のある白いシャツ、シャツの上から淡いアクアブルーのカーディガンを羽織っている。気取って見せるが、目の輝きは彩にいつもの言葉を要求している。
彩は、もう何度目になるかわからないほど使い古した言葉を流用する。
「………………似合ってる」
アレクシアは「そう?そうかな!」なんて自己完結して、着替え終わると、再び駆け出していった。
服を戻しながら、彩は横目でアレクシアを見る。だんだん、アレクシアの好みが収束したようだ。アレクシアが服を選ぶ場所が、ほぼ定まってきた。
「なあ、アレクシア」
まだ服を選んでいるアレクシアに、彩は声をかける。何着か服を抱えたまま、アレクシアが顔を上げる。
「なぁに?」
「気に入ったのあったら、買ってやるぞ?」
最初に着替えて見せたアレクシアに、彩は服を買うか訊ねた。アレクシアはお金を持っていないので、支払いは全て彩もちだ。そのときのアレクシアの反応は「まだ。もうちょっと見る」なんてもの。
アレクシアは首を横に振る。
「ううん」
いらない、とアレクシアは答える。
何故、と彩が問う前に、アレクシアは笑顔で応える。
「だって、この服をもう少し着ていたいから」
彩に自分の姿が見える位置に立って、アレクシアがいまの衣装に手をあてる。ブルーのスカートに白のブラウス、彩がアレクシアに買った衣装。アレクシアにとって、初めての人からの贈り物。彩にとって、初めて人にあげたもの。
「折角、彩が買ってくれたんだもの。大切にしないと」
嬉しそうに、アレクシアは笑う。
その素直な笑顔に、彩はつい気が緩む。彼女が喜んで、満足してくれるなら、それだけで心の中が落ちついて、すっきりした気分になる。
急に、いままでの疲れとかそういったものが、吹き飛ぶよう。
アレクシアの瞳が、再び輝きを得る。
「じゃあ、彩。次はこれね」
複数の衣装を抱え、いったいどれを指しているのかさえわからないまま、アレクシアは彼女専用の個室へと向かった。
……前言撤回。疲れがなくなるなんて、そんなの勘違いも甚だしい。
彩は溜め息も隠さず、アレクシアの後を追って個室の前で彼女が着替え終わるのを待つ。こうやって律儀に待っている自分が意外だなんて、そんな考えは無視しながら。
彩が予想していた危惧はちっとも起こらず、問題とは常に予想外なところから生じる傾向にあるらしい。
アレクシアのファッションショーは、本気でいつ終わるかわからない状況にあった。このビルは服屋がいくつもあり、一つを制覇してもいくらでも代えはある。
しかも、アレクシアが少しも周りのことなどおかまいなしだから、彩はそろそろ頭を抱えたくなったが、意味のないことなのでそこまではしなかった。
店が開いたばかりではそれほど人がいなかったが、だんだんと他の人間の数も増えてくる。服屋は女性用のところばかりだから、基本的に女性客が多い。彩たちのように男女で、というのは少ない、というか彩はまだ見ていない。女が大部を占める中で、男一人というのはかなり浮く。加えて、アレクシアが声を上げるから注目を集める。で、感覚を遮断している彩でも、喧嘩の頃の癖で人目とかそういうものを最低限に認識してしまう。人目が痛い、なんてことは感じないにしても、あまり気分のいいものではないし、無駄な緊張ばかりして落ちつかない。
いくつもの店を周っている途中で、彩は店内の時計に目を向ける。正午から二時間を過ぎている。空腹といった感覚も意識しない彩は、時計でもないと時間の経過を計れない。こんなことなら時計でも持ってくればよかったが、生憎彩は時計を所持していない。一日の大半を学校で過ごし、時の経過はチャイムが報せてくれる、なんて生活のために、時計を必要としないことが、彩個人の中で失敗だ。
次の店を探しているアレクシアに、彩は声をかける。
「そろそろ昼食にしないか」
ぴたりと止まって、アレクシアが振り返る。うーん、と考える仕草を作って、うんとアレクシアは頷く。
「いいよ」
了承を得て、彩はエレベーターへ向かう。上の階へ向かうためだ。一番上の階は食事場所になっていて、和洋中見境なく詰め込まれている。
午後二時を過ぎ、昼食としては幾分遅い時刻。そのせいか店の外で列をなして待つ人はいないが、それでも窓から店の中を覗けばそれなりに人がいる。食後の談笑なのか、どの店にも賑わいがある。
端から端まで、一通り眺めてから、彩はアレクシアへと振り向く。
「で、どこがいい?」
うーん、と口元に人指し指をあてて首を傾げるアレクシア。悩んでいるのだろうか、しかしあっけなくアレクシアは口を開く。
「どこでもいいよ」
彩が決めて、なんて要求してくる。
「…………」
正直、彩はアレクシアの返答に窮した。彼女の行きたいところに、なんて考えていたから、どこに入ろうかなんて決めていない。
来た道を戻り、レストランのフロアの、奥地から入口へ。今度は真面目に店の中を見ながら。
「……………………」
入口まで戻って、結局どこがいいかなんて決まらない。彩は小食なので、喫茶店みたいな小さなところでも十分だが、アレクシアはそれでいいのだろうか。
「アレクシアって、腹空いてる?」
確認してみると、アレクシアは再度首を傾げる。空腹の度合いというものは、しっかり考えないとわからないものなのだろうか、彩にはわからない。
「あんまり、かな」
なんとも、中途半端な返答。
朝もそうだったし、初めて会った頃とは大分感じが変わっている。以前、ホテルのルームサービスで、いったい何人分なんだという量を一人で消費していたのに、いまは彩以上に食欲というものが欠落しているよう。
「もう大丈夫、ってことか?」
改めて、彩はアレクシアに確認する。
今度はすぐに「そうかも」と返答するアレクシア。
「じゃあ、軽食にするか」
彩は喫茶店へ向かう。他の店ではそれなりに人が入っているのに対して、この喫茶店はほとんど人がいない。彩の正面、二つテーブルを空けた三つ目のテーブルに一組、彩の隣、一つテーブルを空けた二つ目のテーブルに二組目のカップルが座っているだけ。
彩とアレクシアの通されたテーブルは店の角で、店から視線を外すと窓から外の景色が透けて見える。ビルの屋上に近い位置にあるから、高所恐怖症の人間には致命的な場所だ。もっとも、彩はそういった感覚とは無縁だが。アレクシアも、どちらかといえば窓から見える景色を楽しんでいる様子。
彩はきのこスパゲッティ、アレクシアはホットケーキをそれぞれ注文する。アレクシアはメニュー表を見せても、どんなものが来るのかわからない様子で、見本が載っていた中からホットケーキを選んだ。
注文した料理が運ばれるまでの短い時間、アレクシアは店内を見回すわけでもなく、ただ窓の外を見下ろしていた。
「すごいね――」
呟いた声は、ただの感想。彩に話しかけたわけでもなく、返事も期待しない、ただ漏れただけの声。
「よくこんな高いモノ建てられるね」
そう呟くアレクシアは、じっと下界を見下ろす。ビルの屋上にほど近いその場所から、ただ下の風景ばかりを見ている。遠く、町の光景を見るのではなく、ただ足元ばかりを見ている。この場所が、彼女にとっては珍しいとばかりに。
不意に、アレクシアは窓から視線を外し、彩のほうへと目を向ける。
「バベルの塔と、どっちが高いかな?」
バベルの塔とは、旧約聖書の創世記に登場する塔の名だ。当時、人々は一つの言語をもって意思を共有していたと云う。人々は自分たちの名を揚げようとするために、煉瓦とアスファルトを用いて天まで届く塔を建てようと試みた。
これを見た神は怒り、人々の言語を乱し、互いの言葉を理解できないようにした。結果、人々は意思の疎通を失って、塔の建設は途中で打ち切られ、人々は世界中に散らばった、という伝説。
彩はちらと足元を見てから口を開く。
「このビルは十階建てだから、五十メートルくらい。なら、バベルの塔のほうが高いんじゃないか」
バベルの塔の高さがどれくらいのものか、というのには諸説あり、明確なところはわかっていない。百メートルか、二百メートルか、最大で二百メートルくらいだと彩は聞いたことがある。
そっか、とアレクシアが視線を下のほうへと戻すので、彩は強引に話を続ける。
「でも、世の中にはもっと高い建物がいくつもある」
「本当?」
ああ、と彩は頷く。
「東京タワーで、三百メートル級。最近だと、百階建てで五百メートル級のビルもあるらしい。このクラスだと、バベルの塔なんかよりもずっと高いかもな」
伝説では、神は人々が一致団結して自分たちの領地に踏み入る塔を造らせないために、人々の言語を乱した。しかし、人間の数が増え、また人々が互いの言葉を理解しようと言語体系を確立した結果、人間はついに、高度な塔を造ることに成功した。
いや、それだけではない。人間は飛行機を造り、スペースシャトルを生み出した。
ギリシャ神話に、空を飛んだイカロスの物語がある。彼は蝋で固めた翼で空を飛んだが、太陽に近づきすぎたために蝋が融け、墜落死したと云う。
昔から、人間が神に近づくことは禁忌とされてきたが、現代の人間は空を飛ぶことに畏れなどなく、地球を離れ、宇宙で生活するようになるのもそう遠いことではないかもしれない。
料理が運ばれてきて、お互い食事を始める。アレクシアはホットケーキに満足したようで、笑みを絶やさない。
アレクシアの声に適当に返しつつ、彩の脳裏に疑問が浮かぶ。
――カニバルは、人間を殺すために存在する。
それは、人間という種が世界から離れた存在になり、勢力を拡大し続けるから――。
大昔、人々は神に近づく行為を禁忌として畏れていた。それが現代、天まで届くビルが無数に伸び、人々が空を飛ぶなんて不思議なことでもなんでもない。遠くの世界を見たければテレビをつければいい。遠くの人の声が聞きたければ電話をすればいい。神の業、悪魔の所業など、いまの人間には奇跡でもなんでもない。
――人類はすでに、神の名を必要としなくなっているのか。
禁忌が日常にすり替わり、人間の数はいまなお爆発的に増え続けている――。
思考を押し込むように、彩は最後の一口を飲み込む。パスタは噛まずとも、胃袋に放り込める。喉を塞ぐ圧迫感も、彩は感じない。水で流して、逆流を防ぐ。
彩が食べ終わった直後に、アレクシアも最後の一口を味わうように口にしていた。何度も何度も咀嚼する姿に、もぐもぐ、なんて音が聞こえてきそう。
ふう、と一息ついて、アレクシアは視線を窓ではなく店内へと向ける。アレクシアの関心が、窓の外から離れたらしい。そのことに安堵しつつ、しかし彩はすぐに後悔することになるなんて、予想できなかった。
「…………ねえ、彩」
アレクシアが窓の反対側に顔を向けたまま、彩の名を呼ぶ。彩のほうには目も向けず、人差し指を彼女の視線の先に向ける。
「アレ、食べたい」
彩も彼女の指の先へと目を向ける。一組のカップルが、最後のデザートを食べているところ。テーブルに向かい合い、二人で座っているはずなのに、テーブルの上には一つのグラスがあるだけ。幅はコップよりも一回り大きく、高さはコップの倍くらい。グラスの中身は白いモノが占領して、上には赤やオレンジの果物が乗っている。俗に、パフェと呼ばれるものだとすぐにわかる。それを、カップルは二人で消費している。
「………………」
彩の中で、時間が硬直した。
目の前のアレクシアの、嬉しそうな、どこか羨ましそうな雰囲気など無視して、彩はメニュー表を引っ張り出す。
「ええっと……」
「あ、これこれ!」
デザートの欄を開くと、アレクシアが迷わず指差してきた。ご丁寧にも、お店のオススメがついていた。
彩は店員を呼びつけ、追加注文をする。店員のかしこまりましたの笑みを無視して、彩はメニュー表を元の場所に戻す。アレクシアの愉しそうな笑みも無視して、彩は一人窓の外を眺める。人類の心配より、いまの彩自身の心配を優先する。
感覚を無視して生きてきた彩に、時間の経過など知るわけもない。気づけば、目の前に問題の品が到着する。彩とアレクシア、二人の前に持ち手の長い細いスプーンが用意される。
「…………………………………………」
スプーンには触れず、彩は目の前の白い塊を凝視する。改めて、その大きさのほどが知れる。外食など偶にしかしてこなかった彩には、こんなものを目の前で見るのは初めてだ。
アレクシアがスプーンを手に取り、嬉しそうに微笑む。
「食べよ」
その宣言を、彩は無視する。
……だって、そうだろう。
パフェは一つでスプーンが二つなんて、これは一体何の儀式だ。ここはぜひとも、大食らいのアレクシアに一任したい。
頭のフルーツを食べきったあたりで、アレクシアが彩の様子に気づいて訊ねる。
「どうしたの、彩。食べないの?」
口元に生クリームをつけたまま、アレクシアが首を傾げる。そんな、素でわからないという瞳から逃げるように、彩はきっぱりと返す。
「遠慮しておく。アレクシアだけで食べろ」
「えー、ダメ」
彩の提案は、アレクシアにあっさり却下された。アレクシアは何の躊躇もなく彩の目の前に自分のスプーンを突き出してくる。
「ほら、彩」
あーん、と差し出すアレクシア。
彩は逡巡して、しかしすぐに決断する。要するに、降参した。ここで争ったって、アレクシアが引いてくれるとは思えない。救いは、お昼も過ぎて客が少なく、いるのは似たような組だけだということ。
彩は銀の球面の上の白い塊を口の中に入れる。
「…………」
感覚を遮断する生活をしてきた彩には、味なんてわからない。なにも感じない、はずなのに、彩は素早く胃袋へ放り込んだ。早く水でも飲みたい気分だが、アレクシアの笑顔にその手が止まる。
「どう?」
その問いに。
美味しい、なんて自分でも聞き慣れない音を聞く。それが自分の口から出たなんて、信じ難い。
「良かった」
満足そうに、アレクシアが笑った。これで十分だろ、と彩は窓の外に意識を向ける。彩の体の中で、馴染みのないものが渦巻いている。感覚を遮断している彩には、それがなんなのかわからない。
昼食を終える頃には、午後の三時を過ぎていた。彩が予想していたよりも、時間を消費している。
このあとの予定は特別決めていなかったが、とりあえず彩はビルの外に出ることにした。見るモノがなくなったからではなく、あのままアレクシアのファッションショーが続くことが容易に想像できたからだ。服も買わないで、ただ着せ替え人形のように衣装を替え、終われば店に戻すなんてことを続けるのは、さすがにマズい。どれか一つでも会計を通したくても、アレクシアは特に欲しがる様子もなく、本当にいまの恰好のままで十分なようだ。
ビルを出て広い道へと出ると、朝とは比べものにならない人の数。当然といえば当然だろう、休日の駅前なのだから。彩たちが入ったビル以外にも、店はたくさんある。
これだけの人を前にするのは初めてなのか、アレクシアが感嘆の声を漏らす。
「次はどこいくの?」
期待を込めるアレクシアの瞳に、彩は軽く応える。
「どっか、適当に」
彩は駅前から離れる方向に歩く。駅前近辺は女性をターゲットにした服屋が多い。あとは大きな本屋だが、アレクシアが静かに本を見るなんて想像できない。目当ての本を探しているか、静かに立ち読みしている人の中で、アレクシアがはしゃぎだしたらどうなるか、彩は簡単に予想できた。
午前中のことを教訓に、彩は駅前から十分ほど離れた一つのビルへと入る。ここは商店街で、造りも新しい。駅前と違うのは、ゲームセンターやカラオケといった娯楽が豊富で、休日はもちろん、平日でも人数が多い。
彩の入ったビルは、大きさ自体は駅前のものと同じくらい。しかし、中身は大きくことなり、カバンやアクセサリーといった小物を扱う店が集中している。
アレクシアが珍しいものを見るように、辺りに目を向ける。
「さっきのところと、雰囲気違うね」
「そうか?」
彩が訊き返すと、アレクシアは迷いなく頷く。人の多さはそんなに変わらないから、彩の目には変化が見えない。
変化がないとすれば、アレクシアの反応か。服屋では片っ端から着替えていたが、カバンやアクセサリー系にはそういうイベントはない。珍しそうに目を見張るだけで、静かなものだ。それだけで、彩はほっとする。
今度こそ、ゆったりとしたウィンドーショッピングができるというものだ。彩は店内に飾られたカバンやアクセサリーに目を向ける。彩が持っているのは、学校で使う学校指定の高校鞄くらい。ネックレスや腕輪なんてもの、彩は持っていない。店の中には彩くらいの年の人間もいるから、彩の高校でも持っているやつはいるんだろう、なんてことをぼんやりと考える。
「彩!」
アレクシアに呼ばれて、彩は振り返る。彩が素通りした店の前で、アレクシアが手招きしている。ガラスの棚に並んだその特徴的な商品に、彩はすぐに納得する。
アレクシアの傍に立って、彩は答える。
「靴屋」
アレクシアを先頭に、彩は店の中へ入っていく。サイズはもちろん、色も形も様々な靴が並んでいる。
彩が持っている靴など、普段学校に履いていくものと、運動靴の計二足。いま履いている靴は、学校用のもの。
サイズが合わなくなると、駅前まで出て買いに行く。この辺りにも靴屋なんてあるのか、とそんなふうに店内を眺める。
「靴って、色々あるんだね」
そんな感想を漏らすアレクシア。
そりゃそうだろ、と思いつつ、でも彩自身もそんなに靴のことを知っているわけじゃないな、とこれだけの数を目にすると実感する。服もそうだが、靴に関しても、彩は気を遣ったことがない。とりあえず履ければいい、それくらいだ。
ヒール系の前を素通りして、アレクシアはブーツのコーナーで足を止める。彩は目線を下に向けて、アレクシアの足元を見る。彼女が履いているのは白いヒールで、きっとアレクシアにはブーツが珍しいのだろう。
彩は適当に、彼女に似合いそうな靴を手にとって差し出した。
「履いてみるか?」
「いいの?」
なんて、アレクシアは首を傾げてくる。さっき、服屋で散々脱ぎ散らかしていたやつがなにを言ってるんだか。言葉にはせず、彩は頷いて彼女に差し出す。
何足か履かせて、まずサイズを確認する。それから、また彼女に似合いそうな靴を探していく。彩自身、ブーツなど持っていないから知らなかったが、履くのにも脱ぐのにも手間がかかる。その、彩なら面倒だと認識するところを、しかしアレクシアは文句もなく、むしろ楽しそうだ。
――お気楽なやつ。
なんて、口にはしない。
そんな彼女を見ているだけで、自然口元が緩んでしまう。らしくない、という言葉も、いまは保留にする。
何足か試していって、アレクシアはその中から一足を選んで、再び試し履き。
「…………」
背のない椅子に腰かけたままブーツを上げてみたり、立ち上がって床を踏みしめてみたり、前から見て、後ろからも確認する。
それが、彼女なりの納得の表現だと理解して、彩はアレクシアに訊ねる。
「気に入ったか?」
彩の言葉を、半ば上の空で聞きながら、アレクシアはまだ自分の足元を確かめている。五秒くらいして、ようやくアレクシアが口を開く。
「あったかい」
だろうな、と彩は肩を下げる。ヒールと比べればな。服は買ってやったが、靴は気にしていなかった。
だから、彩はすぐに提案した。
「欲しけりゃ、買うぞ」
アレクシアはすぐに顔を上げる。端から見てわかるくらい、彼女の瞳は輝いている。
「いいの?」
ああ、と彩はなんでもないように頷く。
もともと、なにか買ってやるつもりでアレクシアを誘ったんだ。一日歩き回って、服屋を荒らしただけなんて、格好悪い。昼食代も思いのほか使わなかったし、ここで奮発してもどうってことない。
購入したブーツはすぐに袋から取り出され、代わりに白いヒールがお蔵入りになった。アレクシアの膝下まであるブラウンのブーツ。足取りは軽く、スキップでもしそうなくらい、アレクシアはご満悦だ。
「彩からのプレゼントが増えた」
なんて、心底嬉しそうなアレクシア。
店を出てからも、ビルを出てからも、アレクシアはそんなことおかまいなし、まるで周囲のことなど見えていないかのように、軽快に進む。
彩も――。
アレクシアに、周囲の人間が見えていないように。
いまの彩も、彼女の背中しか見えていない。
人の数はちっとも減っていないはずなのに、そんなことは気にならない。その存在を忘れてしまったように、彼女以外は背景のような空白。
彩とは違って、素直に自分の感情を表すアレクシア。楽しい、といって笑い。嬉しい、といって笑う。
彼女の背中を、ただ彩は見つめる。夕焼けのような、金の髪。身に纏ったものは真紅のドレスではなく、白い雲に、青い空。新しく、大地の色を踏みしめて。
彩、と彼女が廻る。
「ありがとう」
優しく。
アレクシアは微笑む。
――この光景を、彩は知らない。
――この感情をどう表現したらいいのか、彩は知るはずもない。
でも、かまわない。
「……どういたしまして」
自然にその言葉を口にだせただけで、他のことなんて、どうだっていい。
十一月のこの時期では、陽が落ちるのは早い。町は茜色に染まり始め、そろそろ夜が訪れる。デート本番を迎えるまでは、時間の使い方を考え、余ってしまうのではと心配していたが、実際には時間はあっという間に消費して、むしろ足りなかった気さえする。
一日だけでは、時間なんて足りない。今度誘うときはどこがいいか、なんて、彩は一人、候補を挙げておく。
だが、まだ今日が終わったわけでは、もちろんない。
遠足は家に帰るまでが遠足なら、デートだって、家に帰るまでは終わらない。いまどきだったら、携帯電話を使って、帰ってからも続くのかもしれないが、彩の相手はそういう文明の利器を所持していない。
それでも、ちっともかまわない。家の連中に目聡く見つけられないんだから。
――それに。
屋敷に戻ってからが無理なら、いまこの瞬間、最後まで、やるだけのことをやるだけだ。
朝とは違い、彩たちは町の中を歩いている。バスはもう、十分楽しんでもらっただろう。バスから観る町の景色もいいけど、人の目線、歩く目線で眺めてみるのも、またいいはずだ。だって、アレクシアからすれば、町で観るモノ全部が珍しいんだから。バスであっという間に流れてしまうのは、惜しい。
彩は、アレクシアがまだ通ってない道を選んで進んでいる。そのせいか、アレクシアの反応も上々だ。
ビルの犇く町中を離れ、歩道橋を渡れば、周囲は緑の多い景色に切り替わる。ただ広く、何もない空き地。緑が多く、先の見通せない公園。車道はまだ大きく、車の通りもそれなりだが、ビルのあるところに比べれば、車の数は減っている。
ただ広くて、でもなにもなくて、緑が目につく、そんな場所。
町の中に広がる自然のオアシス、なんて、この町に住んでいる人々はそんな大袈裟に思っていないかもしれない。けれど、ここだけは町中の喧騒とか、そういうものとは無縁だ。
彩たちの前に、大きな橋がある。この橋を渡り、十分ほど進めば、アレクシアのお気に入りの公園や彩の屋敷がすぐ近くのところまで行く。
あと少しで橋も渡り切る、その途中で。不意に、アレクシアが足を止める。
「――――」
三歩先に進んで、彩は立ち止まる。振り返ると、アレクシアは橋の向こう、川のほうへと目を向けている。
アレクシアの近くに並んで、彩は彼女に訊ねる。
「……アレクシア?」
返事は、ない。アレクシアはただ、橋の外の景色を見つめたまま。
「きれい――――」
独り言のように、呟く。彩も、彼女と一緒に同じ風景に目を向ける。
辺りは、夕焼けの茜色。森の緑、山の緑が、陽に照らされて燃えるように輝いている。目線を下げれば、流れる川も朱に染まっている。水が跳ね、白い泡がキラキラ煌めいている。いつもは無機質な岩も、いまは夕陽に照らされて一つの芸術のよう。
茜に、朱に、染まり輝くその光景は宝石のよう。
自然の生み出した芸術は、人の心など軽く超える。圧倒され、誰もが言葉を失う。
出てくる言葉に、意味なんてない。そんな装飾、つけなくたって、その雄大さは少しも色褪せない。
「――――不思議」
また、呟くアレクシア。
その声に、しかし彩は返さない。言葉なんて、必要ない。彼女だって、彩の返事を求めてはいない。
ただ、静かに。同じ場所で。同じ時間を。一緒に過ごしている、それだけで、十分。
「――不思議で、きれい――――」
世界は、いっそう、強く燃えて。
ゆっくりと、しかし確実に。陽は傾いて、夜が空を彩り始める。茜と闇の中間に、星の瞬きが見え始める。藍の闇。白色の星は、砂のように夜空に散る。
十一月では、夜になれば空気はすぐに冷気を帯びる。でも、彩もアレクシアも、そんなことは気にしない。吐き出す白い息も、いまは我慢する。
夜空は漆黒ではなく、深海のような濃い藍。浮かぶ月は、十三夜ほど。もうしばらくすれば、満月になる。空気の澄んだこの季節では、表面の影までよく見える。
夜を照らすのは、まだ月明かりのみ。でも、その光で十分だ。月の光に照らされて、アレクシアの顔が白く浮かぶ。
「あたし、夜は嫌いなのに。いまは、ちっとも嫌いじゃない」
なんでかな、と茶化すアレクシアに、彩は微笑で応える。
……笑顔なんて、本当に慣れない。
でも、いまは愚痴なんて聞いてやらない。
彩もアレクシアと一緒に、月を見上げる。闇は、彩にとって恐怖ではない。闇こそ、彩が存在るべき場所であり、それは昔も今も、変わらない心境。
こんなに暗くて、お互いのことを確認するのにも近づかなければわからない。
全てが曖昧で、不確かで。だから、自分がどちらにいるのか、わからなくなる。光のもとに、白日に晒されるよりも、暗夜に溶けて無くなってしまったほうが…………。
その心境が、いつか変わって、別のモノになるなんて、彩にはまだわからない。変わることが、変わってしまうことが良いか悪いかなんて、そんなこと、響彩は知らない。
――そう、どっちだっていい。
彩は振り向かず、ただアレクシアの声を聴く。
彼女が喜んでいるなら、それでいい――。
「――あたし、今日のこと忘れないよ」
なにを大袈裟な、なんて笑い飛ばそうとして――。
――彩は彼女へと振り返って、その表情を見て口を閉ざす。
遠く、ビルが隣接する町では人工の明かりが氷のように見える。箱の氷に灯した、電球。触れても熱はなく、触れたら熱を奪われそうな冷気。
車の音も、ただ遠く。流れて、去って、消えていく。まるで、背景にならない。みんな他人で、振り向きもせず、素通りしていく。
町は、遠く、遠い。
目の前の彼女は…………。
すぐ近くにいるアレクシアは、微笑っている。
……そう、微笑って。
……ただ、微笑って。
くるり、とアレクシアは振り返る。町の明かりを背に、彼女の顔は、暗く――――。
「…………ありがとう」
その音は小さく、しかし確かに彩の耳に届く。
小さくて、弱くて、――美しくて。
聞き逃してしまいそうで、けれど、気づかないはずがない。
そう、彼女は微笑って――。
――月は闇に隠れて消えてしまった。
ブーツの音が、遠ざかる。
澄んだ闇に、近くの街灯が、ジィィィ、と音をたてて灯かりを落とす。
そこだけが、白く――。
――彼女の姿は、そこから消えていた。
アレクシアは彩の目の前から姿を消した。遠ざかる足元も、もう聞こえない。それだけ離れてしまっても、彩は動けなかった。
「……………………」
体が、麻痺したみたいだ。動力を失ったように。あるいは、噛み合わせる歯車が外れたように。まるで、現実味がない。
空に浮かんでいる?いや、海だ。夜空の海に、ただ漂う。浮遊感に、溺れてしまいそう。このまま沈んでしまったら、どんなに楽か――――。
「アレクシア…………!」
意識せず、彩は彼女の名を叫んでいた。
その声に弾かれるように、身体は自然と駆け出している。走って。ただ、走って。
疾走、疾駆。
木々の下を抜ける。森のように、深い闇。街灯も木の葉に隠れて、ここは暗い。人の姿も、ほとんどない。
「はぁ、はぁ、…………」
森を抜けると、そこには坂がある。下り坂、下へ下へ。まるで飛び下りているみたいに。地が、すぐそこまで迫っている。
「はぁ、はぁ、…………」
小さな橋を通り過ぎ、次に聳えるのは上り坂。足が、とり憑かれたみたいに重くなる。躰が、地に引きずり込まれるように、重く、沈む。
「はぁ、はぁ、…………」
白い光、人工の明かり。町の中へ戻ってきた。このまままっすぐ進めば、アレクシアが以前利用していたホテルがある。
彩は、そことは違うホテルに、彼女を連れていくつもりだった。別に、不純な理由なんてない。アレクシアは宿なしだ。響の屋敷に連れて帰るわけにもいかないから、彼女をホテルに泊めて、それで今日を終えるつもりだった。もちろん、お金の面倒は、彩がみるつもりだ。だって、アレクシアに金を創るな、って、約束したのは彩なんだから。
「はぁ、はぁ、…………」
足を止め、ただ周囲に目を向ける。
ずっと、ずっと走り続けて、アレクシアの姿はどこにもない。ここまで一本道で、見失うはず、ないのに。
「くそっ……!」
つい、悪態が出る。
彩の体力は、たぶん人並より上。喧嘩慣れしているから、それも当然。足だって、それなりに自信がある。
なのに、追いつけないなんて。後ろ姿さえ、見つけられないなんて。
――ありがとう。
最後に聴いた、アレクシアの声。
その言葉に、息が止まりそうになる。
――なんで、って?
――わからないのか?
違う。
わからないふりをしているだけ。目を逸らして、自分には関係ないって、そう思い込んでいるだけだ。
――感覚を遮断して。
――だから、感情も理解できないのか。
そんなわけない。
だって、響彩は。
ずっと『破壊』してしまうことを、懼れているんだから。
無くしてしまうのを恐がって、だからずっと、誰もいない処を求めていたんだ。
誰かと関わること、誰かと一緒にいること、――誰かに触れること。
そうすることで、誰かを破壊してしまうことを、恐怖していた。モノみたいに、呆気なく、失ってしまうことを、恐怖した。
だから、周りから迫害され、無視されて、拒否されることを、響彩は厭わない。
誰もが彩を疵物のように扱い、関係を断ってくれるなら、それは響彩にとって望むところ。
そうやって、響彩が人でなしと蔑まれ、社会から捨てられれば、どんなに楽かと――――。
なんて、中途半端だ。
響彩は、自身の感覚を『破壊』すことはできるのに。
――自分の感情だけは『破壊』しきれないなんて。
ああ、そうだ。
彼女の笑う理由だって。彼女の悲しむ意味だって。
――ありがとう、の意味だって。
これ以上、無視することなんてできない。もう、目を逸らしたくない。
だって、わかっているだろう。
こんなにも、彩は夢中になっている。だから、彩はここまで走ってきたんじゃないか。
失いたくない。無くしたくない。
――彼女を、諦めたくない。
それだけで、息切れが引いていく。身体が、まだ走れると訴えてくる。
……馬鹿みたいだ。
彩は、再び走り出す。周りのことなんて、どうでもいい。
――ありがとう。
微笑って言った、彼女の言葉。
それが、とても辛そうで。
とても、哀しそうで。
あの声が。
――さようなら。
なんて。
言っているようにしか、聴こえなかったから。
もう、どれだけ走ったのかわからない。そんなこと、考える余裕なんてない。
辺りは街灯の光も届かない、路地裏。細くて、入り組んでいて、闇ばかりがそこら中に蔓延っている。
なんとなく、こっちにアレクシアがいるような気がする。根拠なんて、ない。直感に任せて、片っ端に。
――月が、雲に隠れる。
そこは、真の闇――。
この風景を、彩はどこかで見たことがある。
「…………」
ああ。なんてことはない。
彩が、初めて彼女と出会った夜。
真紅のドレスをなびかせて、彼女は夜の底へと消えていく。見失わないように、彩は彼女を追いかけた。彼女の幻影に誘われて、彩は必死に追いかけていた。
角を曲がるたび、彼女はずっと先まで進んでいた。彩は気づかれないように、けれど見失わないように。
――酷似した光景。
つまり。
それは、同じ夜――。
ただ、違うところは。
彼女が身につけているのは、血を想像させる、真紅のドレスなんかじゃなくて。
白いブラウス、ブルーのスカート、ブラウンのブーツ。どれも、彩が彼女のために買ったもの。
彼女の背中を追いかける。角を曲がるたび、彼女はもう次の角を曲がっている。
息苦しさは、しかしいまはない。吐き出す息は、ちっとも苦ではない。
奥へ奥へ、向かっていく。町からは遠く。まるで人々から忘れられた場所を目指すように。町の明かりは届かず、その標は月も見ることはできない。
誰も知らない、世界から忘れられた場所。
「…………」
あの夜、体を支配していた感情は、いまの彩にはない。いま向かっているのは、間違いなく彩自身のもの。
もう、あんな昂りなんてない。だって、彩は彼女を知っているから。自分がなにを追いかけていて、なにを見つけたいのか。――なにを求めているのか。
わかっているから、不安なんてない。でも、早く見つけてやらないと。
だから、彩はただ走る。疲れなんてない。ずっと、ずっと彼女の背中を追いかけている。角を曲がるたび、一瞬でも彼女を見つけられて、それだけで彩の疲れは消失する。
あとちょっと。あと少し……。
「……」
最後の角を曲がって、彩はそこが行き止まりだとわかる。街灯もなく、周囲にあるのは、闇の壁だけ。
――雲が晴れる。
月が、その存在を主張する――。
あれだけ走ったのに、不思議と息は乱れていない。身体のほうは疲れきっているかもしれないが、そんなことは聞いてやらない。
代わりに、聴く。その、荒い呼吸を。
「……、……、…………」
閉ざされた、空間。彩を追い抜くものはいない。ただ、追いついただけ。
月明かりに照らされて、もう一つの月がそこにいる。――彼女は一人、彩に背を向けて立っている。
彼女は闇を見つめるように、彩に背を向けていた。漆黒の中、薄い月明かりでは、彼女の輪郭が見えるていど。
「……、……、…………」
聴こえる、荒い息遣い。彼女の肩が、微かに上下している。――辛くて、苦しくて。
彩の気分は、妙にすっきりしていた。彼女にまた会えたから、かもしれない。意外と、単純なんだな、と呆れてしまう。
――でも、かまわない。
彩は一歩、この世界へと足を踏み込む。気配は隠さず、踏みしめた音が地面に波立って、壁の間に反響する。
そんな、小さな音に。
「……、……」
彼女の肩が、微かに震える。少し垂れていた頭が、反動で直立する。
彼女の息は、荒いまま。酸欠みたいに、空気を求めている。肩が、軋むように上下に揺れる。左右の腕も、その動きに従う。
彩が、彼女の存在に気づいたように。きっと、彼女も彩が現れたことを知っている。その上でなお、彼女は振り返らず、彩に背を向けたまま。
だから、彩も確信してしまった。
彼女の背中が語っている、来ないで、と。
その一言、たった一言も、彼女は叫ばない。いや、口に出すことさえできない。
それだけ、辛くて。苦しくて。泣きたくて……。
でも、荒い呼吸がそれを遮っている。無理矢理走って、抑えつけたのに、それももう限界。だから、こうしてここで、止まるしかできない。
――わかっている。
でも。
彩は、彼女の気持ちを裏切る――。
一歩、彩は彼女へと近づく。
「……、……、…………」
彼女は、荒い呼吸を繰り返すだけ。その背中は、なおも悲痛な叫びを繰り返している。
一歩、彩は彼女へと近づく。
「……、……、…………」
彼女の震えが、すぐそばにある。肩は揺れ、腕は力なく垂れている。体を意識してしまったら、もう弾けてしまうことを知っているかのように。
一歩、彩は彼女へと近づく。
「……、……、…………」
繰り返される息は、冷気に触れて白く消える。音が、より鮮明に聞こえる。彼女の背中が、よりはっきりと目に映る。
また一歩、彩は彼女へと近づく。
「…………………………」
呼吸が、止まる。
肩の揺れもなくなって、腕もぴたりと動きを亡くす。
完全な静止。
……予感はしていた。
あと一歩。
あと一歩近づけば、きっと彼女は耐えられない。
同時に、あと一歩近づけば、彩も逃げられない。
こんな至近距離では、如何に彩とて、回避不能だ。
動きを止め、気配すら断った彼女に、もう言葉を発することはできない。震えも失って、彼女には、彩になにも伝えることができない。
――来ないで、と彼女は泣いていた。
――引き返せ、と彩の本能が告げている。
でも――。
彩は、裏切る。
彼女の想いも。彩自身の本能にも。
彩は決めた。
自分の感情から、目を背けない、って――――。
震えはない。迷いもない。躊躇など、するはずがない。
彩は……。
気配も消さずに…………。
一歩、その先を踏む。
致命的な一歩。
逃げ場を失う一歩。
もう、引き返せない一歩。
彼女の牙が、彩の首筋にかかる。
瞬きなどしていなかったはずなのに、彩は彼女の接近に気付けなかった。
触れられていることにさえ、すぐには認識できない。十一月の空気が絶えて、巨大な肉食獣に下敷きにされたように、ただその熱に覆われる。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、…………」
鼓膜を震わす、息遣い。
それが、ようやく意識に届く。
――狂おしく、欲するように。
――激しく、拒むように。
もう、逃げられない。微動も、できない。
彩は、動けない。――いや、動かない。
手を伸ばせば、彼女の背中に触れることができる。無防備な、彼女の背中。でも、彩は手を伸ばさない。腕を上げることもしない。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、…………」
彼女の息が、首筋にあたる。
わかっていたことだ――。
彩は彼女に抱かれながら、ただ彼女の吐息を聴く。
――響彩が破壊したモノは、二度と元には戻らない。
彩は、彼女を破壊した。
彼女は自分の体を創り直して、治ったつもりでいた。
――でも。
それは、間違い――。
彩が破壊してしまったら、どんなモノでも最初のモノには戻らない。
だから――。
――現代の〝彼女〟は、過去の〝彼女〟とは違う。
わかっていたはずだ。
彼女が、眠るようになったこと。彼女が、食事をとるようになったこと。
いままで不必要だった睡眠が。いままでありえなかった食欲が。
いままで、抑制できた人喰衝動が。
もう、彼女は抑えることができない。
わかっていたんだ。
彼女から食欲が消えたのは、体が治ったからじゃない、ってことくらい。
もう、肉体の衰弱がなくなって。もう、精神の衰弱が抑えきれなくなって。衝動が、抑えられなくて。
だから、彼女は彩に、
――さようなら。
って、言ったんだ。
「――――――――」
自分の馬鹿さ加減に、ほとほと呆れる。
彩の身体は、彼女の手の内。あと一皮。この一皮を破れば、それで全てがすむ。そこさえ突破してしまえば、彩も彼女もイってしまう。
そのギリギリを、彼女は耐えている。
苦痛――。
必死で耐えてくれる彼女に、彩は感謝する。
――でも。
これ以上、彼女を苦しめたくはない――。
だから。
彩は、彼女にこの体を差し出す。
「――――喰えよ」
恐れはない。
彩にとって恐怖とは、人に触れることなのだから。
人に触れて、壊してしまう。それが、響彩の恐怖。自分が望もうと、望むまいと。そうやって、失ってしまうことが、響彩の恐怖。かけがえのない、大切なものを亡くしてしまう、響彩の懼れ。
だから、響彩は感覚を殺し。
けれど、彩は感情を殺しきれない。
――でも、それも、もういい。
懼れるよりも。
自分の恐怖なんかより、大切なものを見つけられたから。それ以上の恐怖を、彩は知ってしまったから。
――触れる恐怖よりも。
――触れられない、恐怖を。
このまま、彼女を失ってしまうなんて、それこそ彩には耐えられない。
だから。彩は手を伸ばした。彼女を求めた。そして。――彼女を捕まえた。
この、閉ざされた世界の中で。彩と彼女の、二人だけの箱庭の中で。失いかけた大切なものを、また取り戻して。
彼女の気持ちを、裏切ることになっても。彼女の望みを、踏み躙ることになっても。
彩は、決めた。
自分の感情を選ぶ。
彼女から、もう離れたくない、って――――。
「俺を、喰え」
彼女の吐息が聴こえる。背中に爪を立てられて、首筋には牙がかかる。
彩は、それ以上手を伸ばさない。だって、こんなにも彼女の近くにいる。それだけで、十分すぎる。
本心から、彩は彼女に全部を捧げてもいいと思う。
それで、彼女の苦しみが和らぐなら。
それで、彼女の役に立つなら。
これで、響彩という存在に、意味があったから――。
痛みは、なく。
――ドン。
と、衝撃。
体が、宙に浮いているような。
浮遊感。
体が軽い、とは違う。
体の神経に、感覚が無い。
自分は、ただ自分という視点から映像を見ているにすぎない。
ここにいるはずなのに。
でも、自分という存在は稀薄。
時間に、体が溶けてしまったように。
融けて、無くなってしまうように。
ただの一瞬。
でも、それは永遠に等しい無限。
死ぬときは、こんなふうに、なにも感じないのかな、なんて空想してしまう。
――それが夢でも、幻でもないことくらい、目を開いていた彩にはすぐにわかる。
彼女との距離が、開く。
二メートル。三メートル……。
踏みとどまって、彩は彼女を見る。やっと、正面から彼女の姿を見ることができる。なのに、彼女は俯いて、その表情を見せてはくれない。
彼女は突き出した腕を、力なく下げる。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、…………」
まだ、荒い呼吸を繰り返している。
肩で息をして、なんとか踏み止まって。
苦しむ彼女に、彩は手を差し伸べたくて、けれどそれは駄目だと堪える。手を差し伸べてしまえば、彼女はあっさり決壊してしまう。そうなったら、せっかく耐えている彼女の努力が、全部無駄になってしまう。
だから、彩は彼女の応えを待つ。どんなに苦しくても、彩は待たないといけない。だって、彼女も苦しんでいるんだから。だから、彩はその苦しみを共有する義務がある。
「……駄目、だよ…………」
弱々しい、声。
闇に消えてしまいそうなのに、しかし彩が聞き逃すはずはない。
「駄目、あたし…………」
震える体は、けれどそれ以上は動かない。顔も上げず、手も上げず、ただ佇む姿は、この場所に訪れて最初に見た彼女のそれに良く似ている。
似通っていて、けれど決定的に違うモノ。
それを識ってしまって、彼女はさらに首を横に振る。
「いや……」
拒絶の、言葉。
溢れるモノに、彼女は一人拒絶する。
「いや、だよ……こんな、の…………」
なにが駄目なのか。なにがいやなのか。
――そんなことは、いいんだ。
彩は自分の中の感情を殺す。殺しきれなくても、いまだけでも殺し尽くす。
感覚は、とうの昔に殺している。
殺されたモノは、どんなものも壊すことなんてできないのだから――――。
気配を殺す。足音を殺す。
彼女に悟られないまま、彩は彼女を抱いた。
「――――」
なにも、感覚しない。
なんの感情も、芽生えはしない。
壊れモノのように、彼女をその腕に抱く。
壊れないように、でも、離れてしまわないように。
ずっと、彼女が自分の傍にいてくれるように――――。
「さ、い」
その音も、いまは感覚しない。だって、口を開くのは彩が先だって、決めていたから。
「――大丈夫」
全てを殺す前に、決めていた言葉。
それを、彼女に伝えないと。
「アレクシアは、どこも壊れてなんかいない――――」
最高の偽善を、彩は自分の口から吐き出した。
こんな最低なやつ、他にいない。彼女の気持ちを裏切って、彼女を追いかけて。彼女を壊しておいて、彼女は壊れていないって、嘘をついて。さっさと、こんな存在は世界から消えてしまったほうがいい。
――でも、もう少しだけ。
このままで、いさせてくれ――。
いままで、ずっと近くにいたのに。
ようやく、触れることができたんだから。
もう少し、このまま。
響彩にできるのは、破壊だけ。どんなものも、区別なく、大切なモノだって、簡単に奪ってしまう。
自分中心で、他人のことなんて省みないで、他人を傷つけたって、なんとも思わない。こんな悪辣な存在、他にいない。
そんな悪者みたいな存在だけど、約束だけは、守らせてほしい。口にした言葉に、責任くらいは持たせてほしい。この〝感情〟だけは、嘘にしないでほしい。
「さい……」
降り注ぐ、その名前。
ほんの少し、離れていただけなのに、彼女の口からその音を聴くのは、ずいぶんと久し振りのような気がする。彩は、ただその音を聴く。――いつまでも、聴いていたい。




