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六章

 吐いた息が、十一月の夜に消える。生命の(ぬく)もりは、()てつく漆黒の前では弱い。引きずるように、(さい)は白い息を吐き続ける。

 彩は(ひびき)の家に向かって坂道を上る。途中までは民家があったが、それより先は響家の所有する土地になるため、等間隔に並んだ木々が続く。同時に街灯も弱くなり、見上げれば星明かりのほうが強いくらいだ。

 いまは何時なのか、時計がないので正確なところはわからないが、とうに日付は変わっているだろう。きっと、丑三(うしみ)(どき)は過ぎている。見慣れた静寂に、彩は一つ、大きく息を吐いた。

「久しぶりの我が家、か…………」

 響の家に向かう、その道のりがいつもより長く思えた。感覚を殺しているからわからないが、きっと体中ボロボロだ。

 不意に、小学生の頃を思い出す。その日も喧嘩(けんか)袋叩(ふくろだた)きに()って、一人、三樹谷(みきたに)の家に向かっていた。そのときはここまで遅くならなかったが、同じように周囲は暗く、三樹谷の家の周りには民家があったから、家々から()れる黄色い光をぼんやりと眺めていたのを記録している。

 馬鹿らしくなって、彩は口元を曲げる。

「――どこだって、変わらない」

 喧嘩から生還(せいかん)して、ボロボロで帰っても、三樹谷夫妻は彩の前に現れなかった。ただ一人、冷え切った夕食を温め直して食べるだけ。放っておくと治りが遅いから、傷の手当てを覚えた。三樹谷家にある救急箱は使わず、自分用を買って、それを使った。

 ――それで、かまわない。

 誰も、自分に関わらないほうがいい。自分という存在を、()らなくていい。

 響彩という人間は、触れた人間全てを破壊してしまう。なら、最初から関わらないほうがいい。触れないほうがいい。

 ――響彩(じぶん)(かえ)る場所は、孤独(ひとり)でいい。

 また一つ、息を吐く。白くて、大きな(かたまり)。含まれる温度も、しかし彩は感じない。(うす)れて消える、この闇の寒さも、響彩は感じない。

 坂を上り切り、彩は響家の門の前まで着く。夜中で門は施錠(せじょう)され、正面からは入れない。彩は裏へ周り、散歩から戻るときと同じように(さく)を越える。

「……っ」

 着地した衝撃に、体が(にぶ)る。

 彩が思っている以上に怪我がひどいのか、これ以上無理はしないように自分の部屋へと向かおうとするが、あと一歩のところで彩は足を止める。

「…………」

 見上げる先に、彩の寝室(しんしつ)に入るための窓がある。高さは二階、怪我さえなければ(へい)をよじ登って入るのだが、柵を越えるだけでも体に負担がかかったのに、この高さは、正直無理だ。

「はぁ…………」

 しばらく迷って、仕方なく彩は他に屋敷の中に入る(すべ)はないか探すことにした。できる限り玄関からは入りたくなかったが、調理場の裏口や他の裏口も、しっかり施錠されていて入れそうにない。壊して無理矢理入ることも考えたが、()めておいた。壊したときに物音を立てないとも限らない。

 結局、彩は玄関前に立っている。

「くそっ」

 悪態(あくたい)()いたが、他に入れそうなところがないのだから仕方ない。

 ――開くなよ。

 開いたら、まず誰かに見つかる。

 そう願って扉を引くと、難なく扉は開いた。

「――――ちっ」

 小さく舌打ちしてから、彩は屋敷の中へと入る。

 音を立てないように戸を閉めたつもりだが、しばらくすると灯かりを手にした人影が近づいてきた。

「お帰りなさいませ。彩様」

 (うやうや)しく礼をしたのは、(れん)だった。ナイトウェアではなく、メイド服姿。

「いま何時だ」

 連はいくらか手間取ってから、懐中時計を取り出す。服装とあまりに合っていたから、一瞬自分のほうが時代に取り残されているような気がした。

「三時半です」

 彩は小さく肩を落とす。連から、(あざや)は毎朝五時に起きると聞いていた。なら、鮮はまだベッドの中だ。

「鮮はまだ寝てるな」

「いつもなら…………」

 言い(よど)む連に、彩はわずかに目を細める。(にら)まれたと思ったのか、連が委縮(いしゅく)する。彩の頭に嫌な考えが浮かぶ。しかし、それを口にするより先に、別の声がそれを(さえぎ)る。

「――――兄さん」

 その声は、あまりにも近くから聞こえた。いつのまにか、鮮は連のすぐ後ろまで迫っている。鮮の部屋は二階だ。いつ階段を下りてきたのか、彩はその声を聞くまで少しも気づかなかった。

 鮮の近づいてくる、その足音まで聞こえてきそうだ。連の持つ灯かりに照らされて、鮮の姿が大きくなる。鮮のほうはナイトウェアの上にガウンを羽織(はお)っている。

「兄さん、いったい何時だと…………」

 低い声で近づいてきた鮮が、急に足を止めた。鮮の顔が、彩の姿を目にして蒼白(そうはく)になる。

「兄さん……!」

 悲鳴じみた声を上げて、鮮が彩の(そば)まで駆け寄る。

「一体、そのお怪我は。どうして……!」

 伸びてきた手に、彩は反射的に身を引いた。

「触るな!」

 びくり、と鮮と連が硬直する。

 声を出してから、やりすぎた、と思ってももう遅い。鮮の手が、進退(きわ)まって宙に浮く。その手を視界から(はず)して、彩は早足に二人の横を通り過ぎる。

「部屋に行く。誰も、来るな」

 そう残して去ろうとすると、背後から鮮の(すが)るような声が聞こえた。

「お待ちください、兄さん。怪我の手当だけでもさせてください」

 無視して行ってしまってもよかったのだが、彩は足を止めて振り返る。鮮はさっきと同じ場所にいて、それ以上は動いていない。近寄ることはできただろうに、彩が止めたからまだ進めずにいる。

 最初に口にしたように、このまま二人を追い払うことも彩にはできた。しかし、こんな時間に起きてくれていた二人にそこまで言うのは、さすがの彩も気が引けた。

「……勝手にしろ」

 短く返して、彩はすぐに自分の部屋へと歩き始める。鮮は連に「兄さんの部屋まで救急箱を持ってきてちょうだい」と伝えて、すぐに彩の後をついてきた。


 彩の後ろを、鮮はずっとついてくる。隣に並ぶわけでもなく、彩の部屋まで、いや彩の部屋に入ってからも、ずっと彩の少し後ろを彼女は歩く。

 部屋に入り、寝室まで行くと、彩は汚れた服のままベッドの上に倒れた。しばらく地面の上で寝起きしていたせいか、柔らかいという印象が浮かんだ。が、すぐにその感覚を無視する。

 ベッドが汚れる、なんていまは考える気にもならない。鮮からも注意はされなかったので、改めようともしない。ただ「兄さん?」と鮮が心配そうに声をかけるから、それには適当に返事をしておいた。

 鮮は寝室の(すみ)においてあった背のない椅子をベッドのすぐ横まで寄せる。椅子に座って、しばらくじっとしてなにも言わない。彩も、特に話をする気にはならなかったので、そのまま沈黙に任せた。

 三分くらいしてから、連が救急箱と水桶(みずおけ)を持ってきた。彩が普段自分で使っている救急箱より大きく、しっかりしたものだった。

 連は救急箱と水桶を床に置くと、すぐに一礼して部屋から出て行った。彩は体を持ち上げながら、連の後ろ姿を疑問の目で見る。手当はきっと使用人の連がするものと思っていたから。

「兄さん、服を脱いでもらえますか?」

 鮮に声をかけられて、彩は改めて彼女のほうに目を向ける。鮮は少しもぎこちないところがなく、さも慣れた手付きで救急箱から手拭いを取り出して水に濡らしている。

 彩は言われるままに、上半身裸になる。鮮の動きが、一瞬止まる。灯かりの下で見ると、自分の体がそれなりに(あざ)だらけだということがわかる。地面の上を転がったから、()り傷もそこら中にある。

 濡れた手拭いが彩の皮膚(ひふ)に触れる。まだ傷の熱が残る体の上で、十一月の気温で冷えた水が広がる。傷口に手拭いが触れる、その温度も、染みる痛みも、響彩は感じない。

「…………」

 鮮の手が、一瞬止まる。その(かす)かな間に、背を向けている彩は気づいて声をかける。

「どうかしたか?」

 なんでもありません、と手当てを再開する鮮。

 体を拭き終わると、鮮はガーゼと包帯(ほうたい)を取り出す。傷口や痣の酷いところにガーゼを当て、ガーゼを押さえるように包帯を巻いていく。

 鮮の包帯の巻き方は、絶妙だった。強すぎず、弱すぎず。鮮は微妙な加減を心得ているように、綺麗に包帯を巻いていく。

「上手いもんだな」

 感心する彩に、鮮はしれっと(こた)える。

「兄さん、響家は医者の家系です。これくらいできなくてどうします」

 当たり前のような鮮の口調に、彩は内心で首を(かし)げる。

「……そうなのか?」

 初耳だった。

 三樹谷家にいた頃にはそんな話されなかったし、まだ響家にいた小さい頃にも、そんなこと、聞いたこともなかった。

 鮮が(あき)れたように口を開く。

「小さい頃から基礎学問はもとより、人体構造、体内で生成される血液や酵素、医療薬品など、医者になるための勉学は義務付けられていたでしょう」

 包帯を巻きながら、鮮はさらに続ける。

「兄さんは長いこと響の家を離れていたからお忘れかもしれませんが、わたしはお父様とお母様から…………」

 急に鮮は言葉を切る。

 その先を理解して、彩は皮肉そうに口元を()り上げる。

「俺は父親から、医者の家系だとかそういう勉強をしろなんて、一言も言われた覚えはない。ただ部屋と本を渡されただけだ。母親のほうは普段いないし、(たま)に戻って来たかと思えばもっと頑張れと言うだけだ」

 彩がまだこの屋敷にいた幼い頃、彩と鮮は別々の生活をしていた。彩は西館に部屋を用意され、鮮は本館で暮らしていた。与えられた部屋でほとんど一日中、小難しい本ばかりを読んでいた。お互い、相手がどんな生活をしていたのか知らず、関わる機会も与えられない。食事も割り当てられた館の中で終わり、館から一歩も出ずに一日が終わる。

 彩は当時の記録を閲覧(えつらん)する。父親も母親も、彩には無関心だったような気がする。父親は彩に本と部屋を与えてからほとんど会わず、母親も一年のほとんどを外で過ごすような自由人だったから彩が会うことはそれこそ(まれ)だ。

「そうか。鮮は昔から、響のことについて教えられてきたんだな」

 彩は響家の長男だが、愛人の息子。

 与えられたモノは一族が住む本館ではなく、外れのような西館の一室。用意された本の中には、響家の生業(なりわい)としている医者に関するものはなに一つなく、そのことを教えられたこともない。事故に遭えば、一度も面会には来ないで親戚の家に投げ入れる、疵物(きずもの)扱い。

 いまさらだが、自分という存在は始めから望まれていなかったのだと、納得する。納得し、安心する。

 ――きっと。

 あいつらは、最初から気づいていたのかもしれない。

 響彩(じぶん)が、この世界に適合していない人間(そんざい)だ、と――――。

 その後、二人の会話はなくなった。彩はそれ以上のことは言わず、鮮も繋ぐ言葉を失ったように押し黙る。

 そのほうが、響彩には心地いい。言葉を繋いで(なぐさ)められるより、ずっとマシだ。

 ほどなく手当てが終わり、鮮は救急箱をそのままにして彩の寝室を出ようとする。

「兄さんは、この後はお休みになられますよね?」

 灯かりを消す前に、鮮が訊いてきた。それ以外、するつもりがなかったので、彩は素直に頷く。

「ああ」

「お昼はどうします?軽めの食事をお部屋まで運びましょうか?」

 痛みも感覚しない彩なら家の中を歩いても大丈夫なのだが、重症の体を無理に動かすと治りが遅いことを、彩は経験的に知っている。いまの自分の容体は、それなりにキている。

「そうだな。そのほうがいい。そうしてくれ」

 はい、と静かに(うなず)いて、鮮は灯かりを消す。寝室を出る直前、鮮は扉の前で一度振り返る。

「では、兄さん。お休みなさい」

 彩は、一瞬返事に(きゅう)した。

 しかし、何も言わないでこのまま目を(つむ)るのも素っ気ない気がしたので、なんとか適当に言葉を返す。

「お休み」

 乾いた音を残して、扉が閉まる。

 ……我ながら、変な言葉を口走った気がする。

 その思考を無視するように、彩は(まぶた)を閉じる。大分疲れが()まっていたのか、いつになくあっさりと彩は意識を手放した。


 ――ガラスを引っ()くような音が()こえる。

 空白のように、世界は色を失う。白と黒、境界を示す線以外は、脱色以上に色という情報が欠落している。

 まるで世界の果てのような場所に、いる。世界が終わったその果ては、きっと目の前に広がるこの景色のように何も()いのだろう。

 どこまでも、どこまでも。広がるのは無限(むげん)虚無(きょむ)。あるいは、虚無の無限か。終わりすら失ったその先が、きっとここなのだろう。

 終点の、そのさらに先。

 あらゆるものが()きた、全ての果て。

 ――黒板を(つめ)で引っ掻くような、それは(ねじ)れるオト。

 指先が、冷える。

 吐き出される息は、この空白の世界では境界がない。白のキャンバスの上に垂れた白色のペンキは、誰にも気づかれずに世界に()ける。

 指先から体温が消えていく。指の先から氷に変わっていくように、それは冷たく、硬く、動かない。

 吐き出される、息の間隔が短くなる。(こご)える息は、しかし空白に染まって見ることもできない。

 肺が、痛い。

 心臓が、痛い。

 繰り返される虚無の呼吸に、呼吸器官が悲鳴を上げている。血管、動脈が、首筋が、擦り切れて、痛い。

 体の末端は冷えて固まっていくのに――。

 体の内側は熱く(たぎ)っているのに――。

 指が冷える。――両の手は氷になったように冷たく、動かない。

 (のど)()ける。――肺と心臓が車のエンジンのように暴走する。

 冷たくて、熱い。

 痛くて、苦しい。

 ――氷が(くだ)けるようなオトがキこえる。熱に(つぶ)され、ヒビワレテいく、ヒメイ。

 (からだ)が、熱い。

 エネルギーが必要だ。

 この(からだ)を動かす。この(からだ)を維持する。

 でないと、崩れてしまう。

 崩壊。崩落。

 呼吸を止められない。荒い、求める息が抑えられない。

 …………はぁ、はぁ。

 指先は、氷のように動かない。

 心臓だけが、()れる。

 煮えたぎった血液にやられて、眼球までも血走(ちばし)る。

 この()えを。――(かわ)きを。――満たすモノ。

 (からだ)が欲している。

 指は、その命令に従って動くだけ。

 (からだ)が凍りつく、その前に。――求める。

 …………はぁ、はぁ。

 亀裂(きれつ)が走る。

 悲鳴が上がる。

 崩れる。

 (たも)てない。

 自分が――。

 自我(じが)が――。

 手が痛い。

 心臓が痛い。

 ――セカイがコワれる、オト。コの存在のハテ、、、(ホウ)コウ。

 頭が(しび)れる。

 思考が、止まる。

 ただ、一つの言葉しか浮かばない。

 …………はぁ、はぁ。

 何でもいい。

 誰でもいい。

 ――ソノカラダを。

 ■ワ■テ――――。


 目が()めると同時に、彩は自分の上半身を持ち上げる。一度大きく息を吸い、吐く。それだけの行為で、いくらか気分は落ちついた。

 ……また、良くない夢。

 響の家に越してからというもの、悪い夢ばかり見る。しかも自分のベッドで眠っているときに限ってだ。いい加減、この屋敷に(のろ)われているのではないかと、彩自身もらしくないとは思うが、そんな考えがよぎる。

「………………」

 目だけ動かして、自分がベッドの上にいることを確認する。昨日、というか今日の三時半に響の家に戻り、四時くらいに眠りに()いたはず。なら、彩が部屋にいてベッドの上にいるというのは、間違っていない。

 彩は布団の中から両手を出す。習慣で、寝るときでも彩は手袋を外さないから、いまも手袋をつけていることに安堵(あんど)の息を漏らす。

 一通り確認してから顔を上げると、扉の前に鮮の姿が目に入った。

「…………」

 いつからそこにいたのか、彩は少しも気づかなかった。

 彩が起きる、少し前だろうか。鮮は驚いたように硬直して、このまま入ろうか扉を閉めようか迷っているふうだった。

「…………」

 なにも言わなくてもいいだろうに、彩は壁にかかっている時計に目を向ける。洋館の館に相応しく、()った装飾が施される時計は、時間を読むだけでも余計な神経を使う。

「昼には、まだ早いな」

 (つぶや)いてから、もう一度鮮を見る。鮮は返すように口を開く。

「お昼前に、兄さんの様子を()にきただけです……」

 そわそわと、落ちつきのない鮮。

 ふーん、と彩は鮮から視線を外す。特に興味はない。十分に睡眠はとったから、そろそろ起きようかとそんなことを思案(しあん)する。

 兄さん、と鮮の声が聞こえたので、彩は彼女のほうへと視線を向ける。

「起きられたのなら、お風呂に入りませんか?その、お洋服もかえていませんし…………」

 改めて彩は自分の衣服に目を向ける。確かに、家に戻ったときのまま服はかえずに眠ってしまった。

「そうする」

「連に仕度させますので、しばらくお待ちください」

 それだけ残して、鮮はすぐに彩の寝室を出て行った。

 響家の浴室(よくしつ)は、洋館の雰囲気に合った大理石で()()められている。昔は親戚中が住んでいたので湯を常に放出していたが、いまは必要なときに湯を張るようにしているらしい。

 彩からすれば、思い出もない浴室なので、どちらでもいいこと。小さい頃は、食事も入浴も、本館ではなく西館のもので済ませていたから、本館の浴室はどうも記録にない。西館のモノよりも大きいようにも思えるが、単に昔は体が小さかったせいかもしれない。彩の感想としては、三樹谷家の浴室よりも広いということだけ。浴室も、天井も、三樹谷の倍はある。

 入浴で体を休めるという習慣は、彩にはない。汚れを落とすだけだから、さほど時間はかからない。念のため体の調子を確認したが、昨日よりは悪くない。この調子だと夜には動き回っても大丈夫だろう。

 素早く入浴を終えて、彩はすぐに両手に手袋を()める。入浴のときは()れるので外すが、やはり長時間外していると落ちつかない。手袋なんて(こんなもの)なくたって、響彩は平常で感覚を無視できるのに……。

 着替えを終えて廊下(ろうか)に出ると、すぐ目の前に連の姿があった。彼女はぺこりと彼に向かって一礼する。

「彩様。お湯加減はいかがだったでしょうか?」

「問題ない」

 彩の簡素な口振りに満足したように、連は小さく微笑(わら)う。

「リビングにお茶の用意がございます」

 彩はきっぱりと返す。

「いい。すぐに部屋に戻る」

「鮮様がいらっしゃいますよ」

 ぴくりと、彩は足を止める。

 連に視線を戻すと、彼女は少し困ったような、どこか寂しげな顔をしている。

「…………」

 三秒静止してから、彩は連には応えず、そのままリビングへと向かった。すでにお茶の準備は整って、そこには鮮が座っている。

「兄さんもどうですか?」

 なんて、優雅に誘う鮮。

「…………」

 彩は黙したまま着席する。鮮が差し出すカップを、彩は口にする。お茶を飲むなんて習慣がなかったから、いまだにこの感覚がわからない。どう返していいかもわからないので、彩は沈黙することにした。

 ……なんというか、あまりにも手口が見え見えだ。

 なにか言われるのではないかと彩は警戒したが、意外に、鮮はなにも言ってこなかった。優雅に紅茶を飲み、味わっている。その静寂が、彩には(かえ)って不気味に思える。

「そろそろお昼にしましょうか?」

 なんて、言い出す始末。

 彩は時計を確認する。感覚を遮断している彩は、空腹も感じない。だから、食事にするかどうかは時間を見ないとわからない。

 鮮の言うように、そろそろお昼時だ。少し早い気もするが、別に困らないので彩は鮮の申し出を承諾した。

「そうだな」

「では、兄さんのお部屋に料理を運ばせますので、兄さんは先に戻っていてください」

 カップをテーブルに置いて、鮮は連を呼びに行ってしまった。

「鮮も、律儀だな」

 リビング(ここ)まで来たら食堂でもいいのに、鮮は早朝の彩の言葉を覚えているらしい。もっとも彩も、あとの移動が少なくなるからいいか、なんて自分の部屋へと戻る。

 部屋に入ると、彩は椅子に座って料理が運ばれてくるのを待つ。改めて、自分が割り当てられた部屋に目を向ける。普段、部屋は素通りで、寝室のほうにすぐ向かってしまうから、あまり部屋の(つく)りを意識したことがなかった。

 テーブルは、リビングにあるような背の低いもので、彩の(ひざ)よりも低い。そのせいか、部屋に用意された椅子も、あまり高くない。個人の部屋に、テーブル一つと椅子が五つ、それ以外にも、タンスがあり、勉強机も置かれている。

 部屋の隅には、三樹谷家から運ばれた荷物が置かれている。こっちに来てから開けてないので、まだ段ボールは閉じたままだ。当初はこの土日にでも整理をするつもりだったが、一応怪我人なので次に先送り。

 荷物自体は、大したモノはない、学校に必要な教科書やノート、彩個人が買った本や救急箱くらい。十年も三樹谷の家にいたが、ゲームのような娯楽品を買ってもらったことはないし、彩自身も必要としなかった。友達の家で遊ぶ、よりは、喧嘩をしていることのほうが、響彩という人間には自然だった。彩がゲームや漫画(まんが)というものを知ったのも、佐久間(さくま)に教えられたのが初めてだ。その頃は中学生だったが、彩はすでに娯楽品(そういうもの)には一切興味が()かなかったので、いまでも持っていない。

 そういえば、響の家ではまだテレビを見ていない。三樹谷の家ではあったのに。もっとも、彩自身好んでテレビを見ない人間なので、別段かまわないが。

 ぼんやりと自分の部屋を確認していると、料理ができたのか、部屋の扉がノックされる。それに応えると、鮮が先頭で入って来て、そのあとに料理を運んで連が入ってくる。

「…………」

 言葉が、出ない。

 彩が見ている間に勝手に食事の仕度ができていく。小さなテーブル一杯に、料理が敷き詰められる。怪我人を配慮してか、サンドイッチばかり。ティーポットが一つに、――ティーカップが二つ。

「それでは、ごゆっくり」

 なんて、連は余計なひと言を残して去って行った。――鮮を残して。

 彩の正面に、鮮は座っている。さも当然とばかりに「いただきます」なんて口にして、テーブルの上のサンドイッチに手を伸ばす。

「…………鮮」

 口に入れようとした、その直前に、彩はようやく口が開いた。おあずけをくらった鮮は不思議そうに彩のほうへと目を向ける。

「なんですか、兄さん」

「まさか、お前もここで食べるつもりか?」

「そのつもりですよ」

 しれっと、鮮はそんな返答をした。

 さらに、よろしいですかとばかりにサンドイッチを一口。いつもの食事のときと変わらない、お嬢様のように優雅にいただいている。

 頭は押さえない。奥歯も()まない。彩は(まゆ)だけ寄せてさらに()く。

(かおる)はどうするんだ」

「薫は習い事で、夜まで帰ってきません。お昼も、外で食べるので問題ありません」

 また、サンドイッチを一口。

 なるほど、いま薫は屋敷にいないらしい。使用人の連と(さい)以外は、彩と鮮しかいないということ。

 ――だから。

 鮮がここで食事にしたって、ちっとも問題じゃない――。

「……」

 溜め息は漏らさない。

 黙ったまま、テーブルの上のサンドイッチに手を伸ばす。作ったのは連だろう。一人で作ったにしては、種類が豊富だ。本当に、初日のドジぶりは微塵(みじん)も見られない。

「…………」

 そんなことを考えて、現実から目を()らしている自分を自覚する。自覚した瞬間、心底溜め息を吐き出したい気分だが、堪える。

 そんな彩の葛藤(かっとう)も知らず、鮮は優雅に食事を続けている。上品に紅茶を口にしているあたり、本当にいつもどおりだ。

 内心、彩は毒吐(どくづ)く。

 ……なんというか、ここまでするとは思っていなかった。

 今度こそなにか言われるのではないかと内心身構えていたら、ここでも鮮はなにも言ってこない。食堂で食べるときのように、無駄口一つ()かない、静かなものだ。

 彩のほうが固まっていると、鮮のほうから、

「兄さんも食事にされたらどうです?」

 なんて、(すす)められる始末。

 ……実は毒入り何じゃないか、まさか自白剤かなにか()り込んであるんじゃないだろうか。

 そんな想像もしながら、だがここで拒否したってもう手遅れだと、降参気味に彩はサンドイッチを口にする。

 連の料理の腕は確かだ。だから美味(おい)しいはずなのに、いまの彩はなにも感じない。それは、感覚を遮断しているからという理由ではなく、そんな余裕すらないからというのが事実。

「…………」

「…………」

 静寂。沈黙。無言。

 鮮は何食わぬ顔で、優雅にサンドイッチを食べている。彩のほうも、ちらちらと彼女を盗み見しながら、胃袋に食料を放り込んでいく。鮮は彩の心の内を知ってか知らずか、少しも彩の様子など気にする素振りを見せない。実はわかっていてほくそ笑んでいるのではないだろうか。

 耐えかねて、彩は口を開いた。

「――鮮」

 口に含んでいた分を咀嚼(そしゃく)してから、鮮はゆったりと彩のほうへと顔を向ける。

「なんですか。兄さん」

 (とぼ)けたように訊き返す鮮。

 本当に、何のお話ですか、なんて調子で。彩は、開きかけた口を固く閉じて表情を隠す。

 ……正直、尋問されるほうがまだマシな気分だ。

 いや、と彩はすぐに鮮から顔を逸らす。

「なんでもない――」

 そうしてまた一つ、サンドイッチに手を伸ばす。

 鮮は一瞬顔を(くも)らせて、すぐにお嬢様の顔に戻って食事を再開する。鮮からも彩からも話すことはなく、最後まで無言の食事が続いた。


 昼食後、鮮からお茶の誘いがあったが、彩は断った。これ以上、鮮といるのは気が重くなるような気がした。

 きっと、鮮は彩を問いただすような真似はしない。その意味がわかったから、彩も決めなくてはいけない。けれど、それにはもう少しだけ、時間が欲しい。

「ようやく、一人になれた、か……」

 わかっていたことだが、今日は土曜日で、学校は休み。なにもすることがなく、怪我人なのでゆっくり休んでいればいいのだが、何もしないのは気が落ちつかないので、彩は読書で時間を潰すことにする。

 (かばん)はホテルのときからずっと持っていたので、そこから最近読んでいる本を取り出す。そういえば、制服を鞄に入れっぱなしだった。連が来たときにでも、洗濯を任せよう。

 ベッドに(こし)をおろし、時間を気にせず読書に(ふけ)る、なんて、いままでになく優雅なときの使い方だ。背もたれには柔らかな枕が三個、なんて、初めての経験だ。三樹谷の家は和室なので、畳の上での読書が関の山だ。

 静けさは、対して変わらない。三樹谷も、響の家も、大きさはもちろん違うが、どちらもそれなりに広い家。そして、誰も響彩に干渉しない。

 この静寂の中の読書を、響彩は()いている。

 その間、自分という存在を忘れられる。

 ただ本の空気に没頭し、自己と周囲を感じなくていい。

 この静寂が、しかし永遠に続くわけではなかった。寝室の扉をノックする音が聞こえて、彩は視線を本から外す。返事をすると、扉が開いてメイド姿の連が一礼して入ってくる。

「失礼します。お掃除に参りました」

 掃除機を手にした連は、なにも間違ってはいないはずなのに、そのメイド姿とこの洋館の雰囲気もあってか、ひどく場違いな気がする。

「勝手にやってくれ」

 かまわず、彩は読書を続ける。掃除機の音ていどで集中力を乱すほど、彩の感覚遮断は(やわ)ではない。

 掃除機が終わると、連はいったん下がって、次に雑巾を持ってきた。テーブルや椅子の装飾部分などを拭いていると、連は彩のほうへと振り向いた。

「彩様。なにをお読みになっているのですか?」

「マルキ・ド・サド著『美徳の不幸』」

 視線も上げず、返す彩。

 興味を示したように、続けざまに連が訊いてくる。

「サドでしたか。どこまでお読みになりましたか?」

「外科医の話に入るところだ」

「半分ほどですね。彩様は『悪徳の栄え』のほうはお読みになりましたか?」

「ああ。結構かかったがな」

「ああいった大作のほとんどを獄中で執筆されたなんて、信じられませんね」

 あまりのスムーズなやりとりに、彩は顔を上げた。

 彩の読書について触れる人間など、佐久間しかいなかった。漫画以外を本と認めない佐久間の反応(リアクション)は、文字の多さで騒ぐのがほとんど。このサドの本に関しては、題名だけで拒絶反応を起こすほどだ。

 一方、連は忌避(きひ)するどころか、内容についてこれている。

「連は、サドを読んだことがあるのか?」

 はい、と連は笑顔で頷く。

「本館の地下に図書室があるんです。そこには『悪徳の栄え』も『美徳の不幸』も、他にもサドの本があります。もちろん、他の方が執筆された書物も多数(そろ)えております」

 初耳だった。

 小さい頃は、自分の部屋に大量の本があったくらいだから、それなりに本のある家だとは思っていた。だが、まさか地下に図書室があるなんて、思ってもなかった。

 笑顔で、連は続ける。

「わたし、本が好きです。好き嫌いとかはなく、なんでも読みます。文学から哲学、神学(しんがく)、天文学など。このお屋敷は、本がいっぱいあるので、楽しいです」

 意外なものを見るように、彩は連を見上げる。サドといえば、嗜虐性(サディズム)の語源にもなった作家だ。サドの本を読んでも動じないあたり、本に好き嫌いがないというのは本当らしい。

「地下って、勝手に入れるのか?」

「普段は(かぎ)がかかっておりますが、わたしと兄さんが管理しておりますので、お好きなときにお申しつけくだされば、いつでもお入りになれます」

 なるほど、と彩は一つ頷く。

 彩は暇潰しの本を毎回買っていて、読み終わったら捨てている。一度読めば彩は記録してしまうので、持っていても邪魔になるからだ。気に入った本が響家の図書室にあるなら、今後は買いに行く手間が省ける。今の本が読み終わったら、行ってみることにしよう。

 ほどなくして、掃除が終わったようだ。連は一礼して、部屋を出ようとする。そんな彼女を、彩は呼び止める。

「連」

「なんでしょう?彩様」

 彩はベッド脇に置かれた鞄を指差す。

「この中に学校の制服が入っている。洗っておいてくれ」

「わかりました」

 いったん部屋を出てから、連は再び彩の部屋に戻ってきて、鞄から汚れた制服を取り出す。――普通に過ごしていたら、こんな汚れ方はしない。しかし、連は特に彩に理由を訊ねるようなことはしなかった。

 あと、と彩は部屋を出る直前の連に付け足す。

「夜は食堂で食べる」

 驚いたように連は振り返る。

「お体のほうはよろしいのですか?」

 ああ、と彩は頷く。

「もう不自然なところはない。十分動く」

 それで満足したのか、嬉しそうに連は大きく頷く。

「わかりました。腕に()りをかけます」

 楽しみにしていてください、と連は一礼して部屋を出て行く。

 その言葉に、彩は返す台詞(セリフ)が浮かばない。

 ――楽しみに、か。

 きっと。

 彼女は楽しい食事を想像しているのだろう。

 そうなったら、なんて素晴らしいだろう…………。

「ありえないがな」

 自嘲(じちょう)じみた独白は、閑散(かんさん)とした部屋の中で良く響く。彩は本を閉じて、ベッドの上に放り投げる。もう、続きを読む気にもなれない。


 夕食の頃には、薫も習い事から帰ってきた。鮮が言うには「久しぶりの家族揃った食事」らしい。

 響家の教育が行き届いた鮮はお嬢様(しか)りの優雅で落ちついた態度を見せるが、内心はその「家族」の食卓を喜んでいる様が隠せていない。

 ……こんな。

 こんな嬉しそうな鮮の前で話すのは、気が引ける。でも、話さなくちゃいけないから、ここまで来たんだ。

「鮮――」

 夕食ももう終わる頃になって、彩はようやく切り出した。

 鮮は食事の手を止め、彩のほうへと顔を上げる。

「兄さん、今はお食事中です。お話ならお食事が終わった後にしていただけますか?」

 食事中はお(しゃべ)り厳禁。彩が響家に帰ってきた初日の、その通りの対応。お喋りは、この後のお茶の時間に。だが、彩はティータイムまで鮮たちと一緒にいる気はない。

「話さないといけないことがある」

 そう、しつこくくいつく。

 再度注意されるか、無視されるか、そう彩が覚悟していると、意外に、鮮はナイフとフォークを置いた。

「………………」

 なにも言わず、ただ無言で彩のほうを見る鮮。それで許可が下りたと理解して、彩はようやく話し始める。

「明日、出かけてくる。たぶん、夜まで帰って来ない」

 これだけ。

 たったこれだけを言うために、彩はここまで出てきた。

 たったこれだけを伝えるために、彩はようやく決心した。

 たったそれだけ言い終えて、彩は口を閉ざす。

 ――鮮の顔が、目に見えて驚愕(きょうがく)(ゆが)む。

 鮮は一瞬目を閉じて、小さく呼吸を整えてから、睨むように彩を見る。

「……そういうお話より先に」

 お嬢様らしい鮮の声は、それでも抑えきれないとばかりに震えている。その震えを抑えようと、鮮は一旦言葉を切ってから、続ける。

「兄さんは、わたしに話さなければいけないお話(こと)があるんじゃないですか?」

 そう、切りだしてくる鮮。

「二日です。兄さんは二日もお帰りにならなかった。学校にも行ってらっしゃらなかったと聞いています。それに、兄さんがこの屋敷にお戻りになった翌日も、お帰りは遅く、学校にも行ってらっしゃいませんでした。――兄さんは、そのことについてわたしにお話しなければならないのではないですか?」

 なんて、直球をぶつけてくる鮮。

 ――ああ。

 そんなこと。

 わかりきっていた――。

 鮮のききたいこと。

 鮮のしりたいこと。

 鮮が、(おれ)に話してほしいこと――――。

 わかっている。

 わかっていたさ。

 本当は、彩から話して欲しい、って。そんなこと、いくら彩だって、わかっていた。

 鮮は知りたがっている、でも、鮮から彩に問い詰めるようなことはしない。踏み出せない、からではない。それは、きっと……。

 ――信じていたいから。

 彩から、鮮に話してくれると、信じていたいから。

 だから、鮮はずっと触れなかった。

 彩の傷に触れているときも。彩と二人でサンドイッチを食べているときも。

 鮮はいつでも問い詰めることができたのに、決して触れなかった。だから、鮮は期待していたはずだ。――彩が、全てを話してくれること。

 ――ああ。

 理解している――。

 でも、と。彩は自分の決心を口にする。

「言えない」

 言える、わけがない。

 神隠しという名の殺人事件。カニバルと呼ばれる人喰種の存在。シドという元魔術師。アレクシアという、少女――――。

 そんなこと、話せるはずがない。

 信じてもらえない、なんてことではない。もちろん、信じてもらえないことに間違いはない。

 ――でも。

 彩は決めたんだ。

 鮮に、話してはいけない、と――――。

 鮮の目の鋭さが増していく。

「兄さん――」

「言えない。……鮮には、関係のないことだ」

 切り捨てるように、彩は言い放つ。

 鮮の、ナイフそのものみたいな瞳が、彩を射抜く。怒りを多分に含んだ、それ以上の感情があってもおかしくない、強い意思がそこにはある。

 ――でも。

 彩は顔を逸らさない。鮮に()めつけられようと、決して彼女から顔を逸らさない。それで彼女の気が済むなら、彩はいくらでもその罰を受けよう。けれど、その罪だけは、何があっても自白するつもりはない。だから、それが罰なら、いくらでも受ける。そして、鮮が彩のことを信じなくなるなら、それでもいい。もう、彩なんて存在は信じず、彩に関わることもなくなるなら、いくらでも罰を与えるがいい。

 ――この存在が、存在そのものが罪だという、証になるなら。

 その時間は、永遠のように長い。実際には十秒ほどだろうか。鮮はいつまでも彩を睨み、彩も顔を逸らさず鮮を見返す。無言の上に、静寂がのしかかる。沈黙が、無音を形成し、(おり)のように重い。

 食堂は、鮮と彩だけではない。九歳の薫も一緒に食事をしている、使用人の再は料理を運ぶ係、料理担当の連も時折食堂に足を運ぶ。なのに、この空間が、ここの空気が、二人以外の関与を拒絶している。

 その束縛を破るように、鮮が食事を再開する。空気は、少しも穏やかにならない。

「薫。みっともないですよ。お行儀良く、落ちついて食べなさい」

 早く食事を終えてしまおうとしている薫を、鮮が注意する。その教育の徹底ぶりはいつも通りなのに――いや――今日はいつも以上に鋭利なものがある。

 また、静かな食卓が戻る。

 鮮自らが口にした「久しぶりの家族揃った食事」。……それも、すぐに終わった。


 食事を最初に終えたのは、鮮だった。鮮はすぐに食堂を出て、おそらくはリビングに向かって食後のティータイムを待っている。続いて、薫が(もう)スピードで食事を(たい)らげて、食堂を出ていった。残された彩も、すぐに食事を終えて食堂を出る。

 入り口で使用人の再とすれ違う。

「あれは、ないんじゃない?」

 すれ違い様、再が声をかけてきた。二人の関係は主人と使用人だが、年も近く、昔から友達くらいの距離しかないから、お互いに気を(つか)わない。

 彩は足を止め、振り返らずに返す。

「事実だ」

 そう、事実。

 鮮に話せることなんて、なにもない。明日はこの屋敷にいないという、こと以外。

 ふう、と彩の背後から声を漏らす音。きっと、呆れるように肩を落としているのだろう。やれやれ、なんて言葉が聞こえてきそうだ。

「言葉にしなければ、わかってはもらえない」

 彩はいつもの無表情で再の言葉を聞く。

 ――言葉にしなければ、伝わらない。

 なにを――?

 彩が、鮮に伝えなければいけないことなんて、なにがあるんだ。そんなもの、なにもない。彩は、なにも伝えることなんてできない。なにも、与えることなんてできない。――なにも、理解してもらう必要なんて、()い。

「そのほうが、都合がいい」

 そう、口にする。

 ――ああ。

 その通り――。

 理解なんて、必要ない。共有なんて、気持ち悪いだけ。

 ――(おれ)は、(おれ)だけでいい。

 彩だけのこと、彩だけの問題、彩だけの認識。しってもらおうなんて――わかってもらおうなんて――思っていない。

 食堂の片づけがあるだろうに、再はなおも続ける。

「食後のティータイムは?」

「いらない。部屋に戻る」

 簡潔に、簡素に。

 ただそれだけ、と彩は自分の部屋へと向かった。振り返らず、再も、リビングも見ずに、彩は二階の自室に戻る。部屋を素通りし、寝室へと入り、その勢いのままベッドの上に仰向けになる。息苦しさから解放されたように、一息つく。

 ――これで、やるべきことは一つ終わり。

 あとは、夜のうちに屋敷を抜け出すだけ。

 朝になってから出かけるなんて、そんなの鮮に見つかって、絶対行かせてはくれない。だから陽の出る前、暗いうちに出かけよう。

 ちょっとズルしている気もするが、かまうものか。そうでもしなければ、出かけるなんてできそうにない。下手したら、明日以降外出禁止とかで、軟禁されかねない。

 それまで、眠って時間を潰すか、いや、その間に拘束されたら(もと)()もない。昼間のうちに十分すぎるくらい睡眠はとれたから、しばらくは寝室(ここ)で待機か。体の調子は、今日一日でかなり良くなったから、窓から抜ければいいだろう。

 彩が屋敷を抜け出す計画を頭の中で()っていると、小さく扉がノックされる。彩が無視していると、二度目のノックで扉が開いた。

「失礼します」

 入ってきたのは、連だった。彩は不審そうに連を見る。いまは食後のお茶の時間で、連だって給仕でリビングにいなければならないはず。

 連は彩の姿を認めてから、仰々しく一礼する。

「ベッドメイキングに参りました」

 なるほど、昼間は彩がベッドを使っていたから、ベッドメイキングの時間がなかったのか。本当なら、いま彩がリビングにいてその間に済ませようと考えていたのだろう。

 わかった、と頷いてから彩はベッドを下り、背のない椅子を引っ張ってきて壁に寄りかかる。窓のすぐ隣、部屋に灯かりはなく、けれど窓から差し込む月明かりで寝室は白く光っている。

 淡々と、仕事をこなす連。初日こそ相当なドジっぷりを見せていたが、ここ数日の連はちっとも失態を見せない。最初は、単に緊張していただけなのかもしれない。

 そんなことをぼんやり考えていると、不意に連から声をかけられた。

「彩様」

 連の目が、彩を見る。彩は返事もせず、ただ連を見返すだけ。

「彩様。何故鮮様にお話しにならないんですか?」

 ああやっぱり、なんて彩は連の言葉に返事をしない。沈黙を嫌うように、連は続ける。

「鮮様は、本当に彩様のことを心配なさっているんですよ」

 そう、訴えるような()で連は彩を見つめる。ふい、と視線から逃げる彩。追い打ちをかけるように、連はなお訴える。

「どうか、鮮様を安心させてあげてください」

 舌打ちしたい気分だが、いまはそんな状況ではない。

 安心させるって、どうすればいい。連の言う通りに、鮮になにもかも話すのか。あり得ない。非現実に巻き込まれていて、死と隣合わせのような場所にいるなんて、安心させるどころか不安を(あお)るだけだ。

 それに、彩には人を安心させるなんて、できるわけもない。彩ができるのは〝破壊〟だけなんだから。

「――巻き込むわけにはいかない」

 つい。

 そんな言葉が漏れる。

 自分が口にした言葉だと認識して、彩は慌てて言い直す。

「これは、俺の問題だ。俺だけが知っていれば、いい」

 今度こそ、完全に連から顔を逸らす彩。

 ――なんてこと、口走った、俺は。

 言う必要のない言葉。

 彩に、そんな感情があるはずがない。

 ――そう。

 彩の感覚は、全てを破壊する――。

 だから、感覚を殺し、感情は死んでいる。なにも与えない、もたらすものは破壊だけ。

 誰も、自分という存在を理解する必要はない。誰も、自分という意味に触れる必要はない。

 ――俺は俺だけ。

 行きつく先は、孤独(ひとり)でいい――――。

 連の視線を感じないように、彩は感覚を切る。だっていうのに、連はいつまでも彩のことばかり見ている。仕事も忘れているようだから、彩はさっさと仕事に戻れとそればかり念じる。

「彩様」

 その言葉で、連がようやくベッドメイキングを終えたのだと知った。

 連はすでに寝室を出るところだった。彩が連のほうを見ると、彼女は使用人らしく、恭しく礼をする。

「今晩お出かけになる際は、どうか玄関からお出かけくださいませ」

 なんて忠告を残して。


 ――ちっ、ちっ、ちっ、ちっ。

 (とき)を刻む、秒針の音。

 部屋に灯かりはなく、ただ窓から差し込む月明かりだけが、この部屋の全ての灯かり。たったそれだけなのに、部屋は白く、ここが決して闇ではないと教えてくれる。

 閑散とした部屋。あるのは、人が二人ほどは入れる大きなベッド。大きいはずなのに、部屋の広さとモノのなさから、小さく見える。ベッドから、凝った装飾が施された壁掛け時計が見える。……あとは、彩のモノではない、救急箱が一つ。

 淡い闇と薄い光の中、彩は壁にかかった時計へと目を向ける。時刻は、三時半。()しくも、彩がこの屋敷に戻ってから二四時間経過。

 頃合いか、と彩はベッドから起き上がる。

「さて、そろそろか」

 必要なものの確認、財布と手袋。それだけあれば、十分。

 窓から外へ出ようとしたとき、彩は記録の中から連の言葉を思い出す。

 ――今晩お出かけになる際は、どうか玄関からお出かけくださいませ。

 不意に、窓にかけていた手が止まる。

「…………」

 自分でも、馬鹿らしく思う。

 ――なんで。

 あんな言葉くらいで、こんなにも自分は躊躇(ちゅうちょ)している――?

「余計だ……」

 なんて口走りながら、彩は窓の戸を閉める。

 ……我ながら、馬鹿げたことをしている。

 足音を殺しながら、二階の廊下を歩く。辺りは暗く、ここまでは月の光も届かない。人が五人しかいないのに、お屋敷という言葉がぴったりくるほど広い家。彩はまだ足を踏み入れたことがないが、この上にも階はあったはずだ。

 幅のある廊下は、人が三人並んでも余裕があるほど。それが、ずっと先まで、その先は闇夜のせいか見えない。灯かりが灯っていたとしても、心細くなるような広大さ。

 足音を殺して、彩は階段を下りる。彩の部屋ほどではないが、廊下よりもここは明るい。玄関は、階段を下りてすぐのところ。

 玄関前まで来て、彩は周囲を確認する。誰か待ち伏せでもしているのではと思っていたが、連の姿は見えない。

 と。

 ――ギシ。

 背後で、足音。

 階段を踏み、下りる音。

 彩は、驚きもなく振り返る。そこにいた人物を目にしても、彩は少しも驚かなかった。仄暗い場所(ところ)で、彼女は階段を下りる。

「鮮――」

 鮮は、ちょうど丸一日前と同じ恰好、ナイトウェアにガウン。そして彩も、上から下まで黒一色と、同じ姿。ただ、傷ついていないというところが違うだけ。

 鮮は彩の前まで来ると、二メートルの距離を開けて静止する。それ以上は、踏み込んでこない。

「どうしても、行かれるんですか?」

 鮮の問いに、彩は首を縦に振って回答(こたえ)とする。

 鮮の気配は、少しも変わらない。彼女も、もうわかっていたのだろう。彩が本気で、少しも(ゆず)る気はない、ということを。

 闇に表情を隠すように、鮮が(うつむ)いた。

「…………………………………………兄さんは、勝手です」

 小さく、弱く。

 いつもの、気丈な彼女ではなく。彩の記録にある、昔の彼女の声で、鮮は呟く。

「やっと戻ってきてくれたのに、すぐにまたいなくなってしまう。訊いても、ちっともお話してくれない。ずっと、ずっと居場所がわからなくて、ようやく帰ってきたと思ったら酷い怪我をしていて。…………そして、また行ってしまうなんて……………………!」

 湿った声を、彩は聞き漏らさないようにと意識を向ける。けれど、あまり近づきすぎるわけにもいかない。……彩の感覚は、どんなものでも破壊する。これ以上近づいたら、彩はきっと彼女さえ破壊してしまう。

 ――大切なものさえ、失ってしまう。

 なら。

 触れることもできないなら、いっそ拒絶してしまおうと、決心していた。距離が開けば、もう破壊することもないから。

 なのに――。

 彩の決心が、急に揺らぐ。

 いつも気丈な、いや、気丈であろうとし続けた、彩の一つ下の妹。腹違いでも、彩にとって唯一彼自身の記録に残っている、最後の肉親。

 闇の中で見せる、彼女の素の表情。臆病で、恐がりで、寂しがり屋。

 ――ああ。覚えている。

 彩から離れようとしなかった、その少女。

 準備しておいた拒絶の言葉を奥底にしまって、彩は返す言葉を口にする。

「――悪い」

 ――ああ。

 らしくないな――。

 彩は俯く鮮を見ながら、はっきり応える。

「でも、行かなきゃいけないんだ」

 それだけは、なにがあっても揺るがない。

 ――約束。

 約束したことは、ちゃんと果たさないといけない。

 いつまでも、いまでも手袋をつけている彩にとって、約束は守らなければいけない以上に、尊いものだ。

 ひくつく声を無理矢理押し込んで、鮮は顔を上げる。

「…………約束、してください」

 暗闇で、彼女の目元は見えない。(りん)とした目ではなく、どこか悲しそうな表情で鮮は彩を見つめる。

「絶対に、帰ってくる、って」

 鮮の両手が、胸の前で組まれている。無意識なのか、彼女は気づいてない様子。強く、強く、鮮は手を握っている。

「絶対に、わたしのところに帰ってくる、って。約束してください」

 響彩は、小さい頃に事故に遭ってから三樹谷の家で生きていた。事故に遭ってから、家族とは会っていない。父親は彩を響の屋敷に戻そうとせず、妹の鮮のほうが家を継ぐことがほぼ確実となった。

 その事故から、十年――。

 父親が亡くなり、鮮の計らいで彩は響の家に戻ってきた。父親の考え、親戚たちの思惑(おもわく)を無視して、鮮は彩を響の屋敷へと招いた。それだけ、彼女にとって『家族』は大切なもの。

 彩は感覚を殺し続けてきたから、母親の死も、父親から見捨てられたことも、三樹谷夫妻のような親戚たちの目も、父親が死んだことも、なんとも思っていない。

 ――だが、鮮はどうだっただろう。

 彼女の母親も、彩の事故と同じ頃に亡くなった。今まで一緒だった、時々しか会えないにしても、それでも近くにいた彩がいなくなった。また、一人きりの部屋に閉じ込められる生活が始まる。外に出ると、周囲の親戚たちの目ばかりがある。

 ――感覚を殺し続けてきた彩には。

 そんな感情、わかるわけもない――。

 全てを破壊する、そんな彼にできるのは、記録だけ。忘却も、摩耗もなく、全てこの身に記録する。

 ――だから。

 彩にとって、約束は尊いもの――。

 ああ、彩は背を向けながら応える。

「約束だ――――」

 扉を開く。差し込むのは、白い月光。ロビーが白く輝き、階段は星の(しるべ)のよう。

 ――行ってらっしゃい。

 と、鮮は玄関に残り、彩を見送る。

 ――行ってきます。

 とだけ、彩は振り向きもせずに、返した。


 夜の街に、人工の灯かりがよく映える。(すみ)で塗り潰したような漆黒に、氷のような白色光。薄っぺらな光に温かさはなく、十一月の空気によく似ている。

 どこを歩いても、白い灯かりばかりが目につく。コンクリートから反射された光は、水の上に張った氷のよう。オレンジや緑に色塗りされた店の看板さえも、どこか白々しい。触れたら体温を奪われそうな、そんな印象しかない。

 不夜(ふや)の街に、しかし人の姿はない。この町で起こっている「神隠し」と呼ばれる殺人事件が、その原因。死体はなく、身につけていたモノと大量の血液だけが現場に残される。被害者は、一カ月の間に四人。次は我が身かもしれないと、最近は夜に出歩く人間は少ない。

 暗闇の中を、影が一つ――――。

 影はローブを身につけている。この闇に溶け込むような漆黒のローブは、年代を感じさせるほど擦り切れている。ローブはその影よりも大きく、(すそ)は地面を引きずられ、腕も、その顔さえも見ることはできない。

 ――その者の名は、ゾイル・バックヤード。そしてボロ布を(まと)ったその肉体(からだ)こそ、本体。

 ゾイルは魔術師上がりのカニバルである。カニバルになったのは、彼自身の意思。彼がカニバルの肉体を欲した理由は、不老不死、永遠の命を得るため。

 ゾイルはすでに、魔術師としての研鑽(けんさん)を放棄している。

 魔術師とは、魔術を使う者。科学が発展するよりも遥か昔、魔術は人々の生活を支え、支配していた。魔術は魔術師一族のみに伝承され、他に漏れることを禁じている。何代にもわたって研鑽された魔術は、いつの日か、世界に通じるための()となろう。

 ――世界に到達する。

 ――この世界の真理を()る。

 それこそが、魔術師が代々子に(たく)す願い。そのために、魔術師は魔術を学び、極め、老いれば次の代に一族の願いを託す。

 ――その願いを、ゾイルは遥か昔に諦めている。

 魔術師として生まれた矜持(きょうじ)、一族の期待、そんなものは、遥か昔に捨て置いた。

 彼はただ、己が死を認められない。時に摩耗して消滅してしまうことを否定した。この存在が有限だと、思いたくない。

 魔術師であることに、どれほどの価値があろうか。

 所詮は人の身。老いは止められない。完全な不老は高度な魔術で、彼の知識や技量では叶えられない。では不死はどうか。リビングデッド、ミイラ、転生……。禁術と呼ばれる法はいくらか存在()るが、それら秘術には欠陥(リスク)がある。……自我の消失。自分が自分でなくなる。自分をして自分と認められなくなる。思考は腐敗、または流出し、自身を認識できなくなる。それでは、永遠を手にしてもそれすら理解できないのではないか。

 ……ならば。

 当時のゾイルは知っていた、人喰種(カニバル)の存在を。

 奴らは、生物と呼ぶにはあまりにも世界に近い存在。その能力は標準で人類を遥か超え、滅ぼされない限り死とも無縁。生まれたときから完成していて、老いも知らない。

 ――故に、彼はカニバルとなり、そのときから人の名を捨て、ゾイル・バックヤードとして生まれ変わった。

 ぐしゃり、と足元で鈍い音がした。

 直後、その肉体(からだ)は汚れた路地裏に崩れる。

 暗くて、状況がわからない。手を伸ばすと、右の膝から下がなくなっている。体が維持できなくて、末端から崩れたのだろう。彼は意識を集中して、まだ息のある(むし)を集めて、足を形成する。起き上がろうと、しかし両の手だけでは肉体(からだ)を持ち上げられない。仕方なく、彼は一時的に肉体(からだ)をバラして、壁を()うようにして起き上がる。人の姿に戻ったときには、先ほどよりも一段、肉体(からだ)が小さくなっている。また、弱い蟲から死滅したらしい。

 かまわず、ゾイルは歩き続ける。


『こんなはずではないのだ』


 声帯としての機能を失った喉で、ゾイルは呟く。その声は空気を伝わらず、ただ彼の思考を揺らすだけ。

 そう。こんなはずではない。

 ゾイルはしばらく前からこの辺りを根城にしているカニバルだ。つい先日、神魔(しんま)の王がこの町に現れたことを、()らった人間の眼を通じて知っている。

 神魔の王の名を、ゾイルは風の噂ていどにしか知らなかった。そして、その存在を知ったときには、首元に刃を突きつけられていると心せよ。あとはただ、見つからないよう自分の運を信じるだけ。逃げようとしたって、逃げ切れる相手ではない。

 だが、そのときゾイルは幸運だと思った。どうやら、神魔の王は弱っている。理由は知らないが、それは好都合だとこのカニバルは考えた。

 一昨日(おととい)の夜、あの少女に接近してしまったときも、咄嗟(とっさ)にその名を出せた自分を称賛(しょうさん)したものだ。

 ――あの少女こそ、最強の人喰種(カニバル)

 いくら最強といっても、神魔の王相手では勝ち目がない。だが、神魔の王が弱っている今なら、とゾイルは考えた。

 両者に戦いを(そそのか)し、勝ったほうにつく。それが、ゾイルの狙いだった。

『こんなはずでは、ない……』

 それが、どうだ。

 神魔の王の攻撃を受けて、命からがら逃げ出せたのであれば、まだいい。

 ――それが。

 あんな、ただの人間にやられるなど、あるはずがない――。

 再度、肉体(からだ)が地面に倒れ込む。

 もはや支えがないと歩くことすらままならない。他の肉体(からだ)からエネルギーを供給しようにも、あの人間と接触してからというもの、分離した蟲との連絡が切れてしまっていて、繋ぎ直せない。

 蟲はゾイルの魔術による産物だ。自身の一部を式神――擬似生命体――に転じて、他の肉体に寄生させる。普通の式神なら人の肉を喰らうような凶暴性はないが、媒介がカニバルの一部となると、話は変わる。連絡役としての能力に加え、寄生主の肉を喰らい、子を増やし、最終的には肉体丸ごと蟲に置き換える。喰い尽くされた人間はゾイルの手足となり、また栄養を供給する役目も(にな)う。

 ゾイルは蟲を通じて、情報を()、さらにエネルギーも供給してもらう。そうすることで、彼自身が動かずとも、生きていくのに必要なエネルギーと情報を得ることができた。

 ――それも、もうこの身のみ。

 分離した蟲の何匹かは生き残っているかもしれないが、もうゾイル本体とは連絡が取れない。蟲単体の寿命は短いから、そのうち全て死滅するだろう。

 この肉体(からだ)とて、すでに崩壊が始まっている――。

 立ち上がろうと、支えとなる壁を探したが、彼の肉体(からだ)を支えるだけのモノはもう手近にない。仕方なく、ゾイルは這ったまま地を進む。

『こんな…………』

 崩れるカラダ。()()くシコウ。

 もはや自身さえ保てず、寄せ集まりの蟲のまま、ローブだけを纏って、ソレは進む。


 ――暖かい風。

 ――甘い香り。


 そこには十一月の空気などなく、あるのは南国の(にお)い。そこには真冬の夜などなく、あるのは春の(あかつき)

 空気は(とろ)ける、蜂蜜(はちみつ)のように全身を包み込み、意識は媚薬(びやく)(おか)されたように夢の中。導かれるように、誘われるように、思考は()けた(ろう)のように…………。

 イシキは融解し、シコウは暗示にかけられたように、一つの言葉を浮かべる。もちろん、ソレは誘いの腕には気づかない。

『あれに』

 浮かぶ、シコウ。

 一つがダメなら、もう片割れに託そう。

『あれに……』

 この身は不死。生命さえ繋げれば、決して消えはしない。――故に、繋ぐ存在(モノ)が、()る。

『あれに………………』

 その名。

 最強の、名――。

 どんなカニバルでも、あれには敵わない。

 最強の、カニバル。もっとも純粋な、力。

 まさに――――――。


「どちら様?」


 天から声が降ってきたと、ソレは錯覚した。

 見上げようと、顔を上げる。崩れた顔は、(おびただ)しい蟲が(うごめ)くばかり。個々の蟲が勝手に視野を形成し、ぼやけた映像しか認識できない。

「わたしの庭に招待した覚えはないのだけれど」

 その少女は、あの日と変わらぬ姿で、そこにいた。

 ほっそりとした体つき、雪化粧を纏ったような白い裸体、(きぬ)を思わせる銀の髪は腰まで垂れる。小学生から中学生の間と思われる体つき、傷一つない顔には赤いルビーのような無機質な瞳。

 ――その、真紅の、血のような二つの点が、這いつくばるソレを見下ろしている。

 ソレは声を上げることも忘れて、ただ少女を求めた。伸ばした腕は先から崩れて、蟲の死骸(しがい)がボタボタと落ちる。

「それで、わたしになにかご用?」

 その声に、ソレは身震いする。

 あの夜と同じ。――あの、雨の夜と同じ。

 余計なものなどない、純粋な音。精神に、(たましい)に命じられる、絶対不可避の命令。この命令を破ることなど、できはしない。

 もはや声すら出せないのに、命じられるままにソレは言葉を(つむ)ぐ。

『見つけました』

 さらに、ソレは手を伸ばす。少女に触れることさえできずに、指は崩れ、腕は折れて、できそこないのようにのたうちまわる。

『見つけました……!』

 喉を振り(しぼ)り、彼女に返答する。顔はすでに形だけで、もうソレは人の顔をしていない。顔一面に無数の眼が蠢き、弱った蟲から腐って落ちる。(あし)はすでに無く、ローブの半分以上を引きずっている。擦り切れたローブは波打つように(かす)かに揺れる。

『見つ、』

 ――すっ。

 ソレは言葉を失った。

 差し出されたモノは、少女の足。

 白く、大理石から削られた彫刻のような(きら)めきを放っている。少女の容姿に相応しく、小さな爪が五つ、綺麗に並んでいる。人の身ではありえないほどの美しさに、まさにそれは至高の芸術品。

 少女の優しい声が、甘い空気とともに流れ込む。

「わたしのモノになるなら、キスしなさい」

 ――ぞくり、と。

 ゾイルの意識が、急速にクリアになっていく。

 ――自分が今、何の前にいるのか。

 ――自分が今、何を要求されているのか。

 思考が、戻る。

 ゾイルは、さっきまで夜の街を彷徨(さまよ)っていたはずだ。真冬の夜に、人の肉を求めてただ歩き続ける。

 この体を維持するために。この意識を維持するために。――この、存在を維持するために。

 それが、どうだ。

 ……ここは、どこだ?

 冬の寒さもなく、夜の暗さもなく。あるのは、春の暖かさ、南国のような風、花畑にでもいるかのような甘い香り。

 ――ああ。

 ()っている――――。

 ここを、()っている。

 自分のような、魔術師上がりのカニバルでは到底手にすることのできない、辿(たど)りつくことのできない、世界(ばしょ)

 ――そう。

 (しん)の――。

 (しん)の、カニバルでなければ持ち得ない、場所(せかい)――――。

 理解し、認識して。――ゾイルの身体(からだ)に、緊張が、(はし)る。

 少女の声は、なおも続く。

「わたしのためだけに尽くせると、誓えるなら、キスしなさい」

 ゾイルの視界は、はっきりとその足を(とら)えた。少女の顔など、恐ろしくて見ることもできない。もしも顔を上げたら、彼女の許可なく顔を見ようとしたら、きっと自分はただではすまない。

 その磨かれたような白さに、ゾイルは猛獣(もうじゅう)(きば)を連想した。弱者を無惨(むざん)なまでに喰い千切る、鋭利な凶器。爪が、ではない。少女の足そのものが、肉食獣の牙なのだ。

 ――そこに、しろと?

 ここに、口づけをする。

 忠誠の証に。

 ――いや、違う。

 これは、不義(ふぎ)代価(だいか)

 少女を裏切り、彼女を策略に(おとしい)れようとした、罪の清算――。

 獅子(しし)に服従するのか、(わし)に服従するのか、いまこの場で決めよと、そういうことなのか。

「さあ、どうかしら?」

 さいごの問い。

 断頭台に差し出された頭を上から見上げ、罪人の返事(こたえ)を待つ。

 ……彼の応えは、最初から決まっていた。

 震えながら、彼は首を前に差し出す。この震えは、もう彼自身、どうすることもできない。無理に伸ばすために蟲が次々と死滅していくが、もはや止めることも引き返すことも、できはしない。

 両の手は神を崇めるように揃えて地につけているが、果たして、それはいまも手の形を留めているだろうか。息絶えた蟲たちのためにドロドロになり、わずかな生き残りによって醜く蠢いている。

 目の前にあるのは、死。問われるのは、絶望。応えの先に、あるものは――――。

 彼は、少女の白い足に(くちびる)を当てる。

 ――彼の運命は、最初から決まっていた。

 暖かい風が、少女の前を通り過ぎる。目の前にあるのは一本の道と、その周囲を囲む色取り取りの花々。

「――あなたの命に免じて、許してあげましょう」

 それ以外に、なにも()い。

 くるりと(まわ)る、風を纏いながら。

 風に揺れるのは、真紅のレース。彼女の白さをさらに際立たせる、真っ赤なドレス。これから舞踏会にでも行くように、少女は踊る。

「ああ――」

 感極まったように、少女が熱っぽい息を漏らす。彼女は頬を朱に染めて、天を(あお)ぐ。雲の()い、クリーム色の空。甘い空気に、少女は熱い吐息を漏らす。

(いと)しい、愛しいわたしのお姉様。どうぞいらしてください」

 周囲の花々から、一斉に(ちょう)が舞う。原色のような赤い羽を羽ばたかせ、少女の周りで乱舞する。

 くるくるくるくると、少女は踊る。

 そこにあるのは一本の道と、どこまでも続く花畑。――――――血で染め上げた、蝶の群れ。

 主役は、赤いドレスを纏った白い少女。少女は手を広げ、空を見上げたまま踊りに(きょう)じる。

「――――わたしの〝お城〟に」


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