二章
触れただけで、壊れる。
壁も、床も、天井も。
なんて、脆い。
ただ触れただけで、それは砂の城のように簡単に壊れてしまう。みんな、みんな消えて、ぽっかり穴が開いたように、世界は暗い。
――闇。
――無。
なにも存在しない、曖昧な空間。
無とは、つまり闇だ。
なにも無い、穴だらけの場所。
この世界が、次々と呑まれていく。崩れ落ちて、消える。ああ、なんて簡単に――――。
どろり、――――と、触れる。
粘ついた、液体。妙に、温かい。手の感触に、視線を落とす。
――一面の血の海。
ぷかぷかと浮かぶ。
――人。
――――人。
――――――――――――――――人。
「――――ッ!」
ギリギリ、と胸が締まる。
殺し尽くした感覚が。
殺し切れない感情が。
俺を殺そうとしている。
……気持ち悪い。
体の中で、なにかが逆流してきそうだ。
荒れ狂うそれを、必死で否定し続ける。
じくり、と。
また、痛む。
気が、狂いそうだ。
世界は暗く。幽く。――――そして紅い。
一面の血の海。
ぷかぷか、と浮かぶ。
脚、腕、腹、髪、顔、眼。赤いドレスはさらに紅く染まり、紅い海に金の髪が月のように浮かぶ。そして――――。
そして、ガラスのような瞳が、じっとこっちを見ている。
なにも言わない。
なにも語らない。
気が狂いそうだ。
言いたいことがあるなら、言えばいい。
文句があるなら、散々罵倒すればいい。
――なんで。
――どうして。
なにも言わない。
なにも、無い。
ムカつく。
壊したくて、仕方がない。
……なんなら。
ソノソンザイゴトゼンブ――――――――――――――――。
ずきり、と痛みが走る。
その痛みのせいで、彩の意識は瞬く間に覚醒する。
「…………っぅ」
窓から陽光が差し込む。カーテンが開いている。昨日は開けたままで眠ってしまったらしい。白いレースが外からの風で呼吸のように揺れる。
あまりの頭痛に、彩は奥歯を噛む。手で頭を押さえないのは、感覚しないためだ。目を閉じて、彩の中で世界を闇にする。全ての感覚を遮断して、全てを無にする。
……慣れた行為。一呼吸つくだけで、彩は痛みを感覚しない。
瞼を開けて無関心に辺りを眺める。再度カーテンが開いていることを認識して、自分の周りを確認する。布団の間から自分の手が伸びて、白い手袋が見える。彩は風呂に入るときくらいしか手袋を外さない。昨晩も、彩は手袋を外さなかったようだ。手袋を外して中を確認しようとしたとき、コンコンとドアがノックされる。
「失礼します」
ドアが開くと、ぺこりと連がお辞儀をして中へと入って来る。連は彩が起きていることに気づいて、慌てたように声を上げる。
「さ、彩様。もう起きていらっしゃったんですか?」
よほど驚いているのか、連はぱちぱちと目を瞬かせて固まってしまう。
「ああ……」
彩は、ひどくいつも通りに、連に素っ気なく返す。
連は、さらに申し訳なさそうに重い足取りで部屋の中へと進む。
「着替えはこちらにおいておきますので、お使いください。朝食ができるまで、どうぞリビングでお待ちください」
それだけすませると、連は一礼して彩の部屋を後にする。
「……………………」
彩はすぐ隣の椅子に置かれた制服をぼんやりと眺める。ちゃんとアイロンがかかっていて、新品のよう。三樹谷の家も上流階級ということになるのだが、毎日アイロンしたてというわけではなかった。そもそも、三樹谷夫婦が彩の部屋にやって来ること自体が稀だった。
どうでもいいか、と彩は自分がちゃんと寝巻きに着替えていることに今になって気がついた。昨日着替えたのだろうか、彩にはその記録がない。そもそも、彩は昨晩、いつベッドに入ったのか。それすら、彩は記録していない。
彩が記録しているのは、紅い光景。
――彩は、女を一人殺した。
気づかれないように、まず中心を一突き。背後から女の谷間を貫通して、そのまま左の脇下を抉る。これで心臓は潰れる。
次いで右手のまま左脇下から右の腰まで斜めに裂いて、左手で傾いた体の首から上を切断する。女の首がくるくると回って紅い海の中へ落ちる。そのときにはすでに、女の体を完全に破壊した。首も、右腕も、左腕も、右足も、左足も、胴体はさらに細かく破壊して、紅い海がさらに広がる。
闇の中に強烈な赤と、自分の腕を染め上げる鮮やかな紅、そして紅い海の中でじっと見つめる、女の首。
それが、彩に残っている昨晩の記録だ――。
リビングに下りると、そこにはもう鮮と再の姿があった。鮮は優雅にティーカップを口に運んで、再はソファーの隣で使用人らしく直立している。
「おはようございます。兄さん」
ティーカップをソーサーの上に載せて、鮮は淑女のように微笑する。
彩は特に関心なく、その挨拶に返事をする。
「おはよう。鮮」
「朝はお早いんですね」
目元には気品を残したまま、口元を綻ばせる鮮。彩が早く起きたことを、妙に喜んでいる口ぶりだ。
「三樹谷の家は早起きだったから。それに、早めに行って学校で読書するのが習慣になっているせいもある」
「それは良いことです」
鮮は目を細めて、紅茶を口にする。
「なら、薫も呼んですぐに朝食にしましょう」
再、と鮮は短く再に命じる。使用人である再はその役目に忠実に、恭しく礼をしてリビングを出る。
横目で再を見送りながら、彩は無表情をさらに暗くする。
「寝ているやつは放っておいてもいいだろ」
時刻は、朝の六時だ。まだ小学校低学年の薫はベッドの中だろうと、彩はそう思っていた。しかし。
「薫様はもう起きてますよ。今はお部屋でお勉強をしているところです」
笑顔で再が返してきた。
再が階段を上って見えなくなった頃になって、彩は鮮の前のソファーに座った。
「朝から勉強か。小さいのにご苦労なことだ」
その言葉に、鮮は多少ムッとして、しかし上品に返す。
「他人事のように仰いますけれど、兄さん。兄さんも響家の長男として恥ずかしくないよう、勉学に励んでくださいね」
あくまで淑やかな鮮に、彩は軽い調子で答える。
「その辺なら心配ない。子どもの頃のスパルタ教育が染みついているせいか、悪い成績はとったことがない」
彩の言葉に嘘はない。小学校、中学校、そして現在の高校二年まで、彩は悪い成績をとっていない。というか、かなり優秀の、トップクラスの成績ばかりだ。響の家から離れて、三樹谷の家では特に勉学のことについては小言を言われたことはない。そもそも、関わり合いが希薄だったせいもある。それでも、彩は小さい頃の響家の習慣通り、優秀な成績を得るために勉学に励み、実際優秀な成績をとっている。もっとも、彩に言わせれば、それ以外にすることがなかっただけなのだが。
「まあ、それも追々わかることです」
なんて、鮮も軽く返す。
「兄さんもいかがですか?」
自分のティーカップとソーサーをテーブルに置いて、鮮は彩の前に空のカップを差し出す。彩の返事を待たず、鮮は勝手にティーポットをとって紅茶を注ぐ。
どうぞ、と差し出されたティーカップを、彩は漠然と眺める。ルビー色の水面に、紅茶独特の柔らかい香り。
「…………」
彩は一口飲んで、鮮の無言の視線になにを返せばいいのか迷う。彩にはお茶の違いがわからない。紅茶なんて、小さい頃のまだ彩が響家にいたとき以来ではないか。生憎、三樹谷の家では水道水ばかりで、外食でも水しか飲まない。
「…………」
一息ついて、結局彩はなにも言わない。
本当に、なんて返せばいいのかわからない。
無言の時間は、果てしなく長く感じた。再が薫を連れてきたのはそれから十分くらいだったか。朝の食事も、結局無言で終わった。
朝食を終えて、彩は屋敷を出る。今日が初めて響の屋敷から高校に通うことになるわけだが、彩は特になんの感慨も湧かない。感覚を殺し続けた彩には、そんなことを感じることはない。三樹谷の家にいた頃と変わらず、いつもの調子で坂道を下る。
坂の上は概ね響の所有物で、だから坂道の半分近くは民家がなく、並木道が続いている。十一月なので、先細った木々の枝ばかりが目につく。坂道はけっこう勾配がきつく、行きは楽だが帰りは辛い道になる。
ようやく半分ほど下って民家が見え始めた辺りで、ミラーの下に間宮黎深の姿を見つける。
「おはよう。響くん」
彩を見つけるなり、間宮は気さくに声をかけてくれる。彩は挨拶も返さず、ただじとっとした目で彼女を見返すだけだ。
「間宮、か。田板は?」
「きっと寝坊。あいつ、いつもこうなの」
ふー、と間宮はやれやれといった感じに溜め息を吐く。
「今日くらいは来るかなー、って思ってたのに」
寝坊といったって、彩は毎日クラスの中で一番に登校する。下手をすれば、朝練のある部活連中よりも早い。だから、今この時間だって、普通の生徒ならまだ布団の中にいたっておかしくない。
昨日、別れ際に彩の登校時間を話したからこそ間宮はここにいるわけだが、田板が遅れたって仕方がないことだ。
それでも、彩は自分のいつもの時間を変えることはしない。
「俺は行く」
再び坂を下り始めて、そのすぐ隣に間宮も続く。朝早い時間、鳥の声ばかりで人の気配もない。そんな静かな道の上を、彩と間宮の二人だけが東波高校へと向かう。
「響くんって、朝早いんだね」
自然な流れで、間宮が口を開く。
「…………」
無反応な彩。
間宮は困ったように話題を変える。しかし、そのどれにも彩は反応を示さない。一方的に間宮ばかりが話すという、奇妙な空気。流石の間宮も、会話に困って口を閉ざしてしまう。十分近い沈黙を挟んで、再び間宮が口を開く。
「…………響くんって、喧嘩、強いんだね」
遠慮しながらも間宮はそう切り出した。会話が成立しない以上、彼女にはこのくらいしか彩との接点が見つけられない。それでも、彩は一向に反応を示さない。間宮は俯いてぽつりと呟く。
「……意外」
その言葉に。
「意外?」
ようやく彩が振り向いた。
「あ、その。ええっと…………」
いきなり声をかけられて、話題を振った当の本人のほうが困惑している。
「そんな風には見えないから。物静かで、人と争ったりしなさそうだなあ、って」
もじもじと、彩とは目を逸らして弁解するように言葉を紡ぐ。
彩には、その「意外」という単語が妙に引っかかった。
響彩にとって、喧嘩は日常茶飯事だった。高校生になってからこそついこの前まで音沙汰なかったが、小学校、中学校と、喧嘩が彩にとっての日常だった。
響彩は、あらゆるものに無関心な子どもだった。それは、彩の体質とでもいうべきものに起因するわけだが、周囲の子どもはそんなことを知らず、だから自分たちの輪の中に入ろうとしない彩を異端者として攻撃してきた。
袋叩きに遭うなんて、彩にはよくあることだった。それでも、彩は自分の痛みにも頓着しないから、かつ冷静に周囲を観察する目をもっていたから、大人数の喧嘩でも勝ち残ることができてしまった。結果として、なにかと因縁をつけられて喧嘩をするはめになった。中学では他校の生徒たちの噂にもなり、それこそ毎日のように喧嘩をしていた。
それが、響彩という人間の日常。
彩が好む好まないに関わらず、人と争うことになったし、おかげで強くなった。
――だから。
間宮の言葉は、彩にとって意外だ。
「…………なんていうか、その。すごく――――」
その先の言葉を、彩は聞けなかった。
彩の意識は、目の前の光景に釘付けにされた。
――それは、おおよそ信じられない光景。
赤信号なので、彩たちは足を止めている。
学校まで、あと少しというところ。
歩道の向こうに、あの女がいる――。
「……!」
周囲の音が消えた。
時折走り去っていく車のあいまに、彼女の姿が見える。夕焼けのような金髪と、その白い肌、なによりその顔を彩が見間違えるはずがない。違っていることといえば、女性が身につけているものがドレスではなく、黄色い刺繍が入った冬物のロングシャツに、花柄のロングスカート。以前よりはずっと時代に合った服装をして、女性は電柱にもたれている。
「――――――――」
その光景に。
彩の時間は、完全に止まった。
「――――――――」
いま、この場にいるのは彩と女性の二人だけ。
音はなく、言葉もない。
彩は彼女の姿を認めて、女性もまた彩に気づいている。
彼女には、彩はどんなふうに見えているだろう。彩からは、少女が笑っているように見える。なんて、不釣り合い。怒りも、憎しみも、恨んでいるようですらなく、彼女は純粋に微笑んでいる。
――まるで。
まるで、デートの待ち合わせでもしているように。
なんて、悪い夢。
彼女は、確かに彩を見ていてなお、嬉しそうに笑っている。
――全てが、遠く、遠く。
すぐにでも、この場から逃げ出したい。
けれど、それができないことを、彩はどこかで理解している。
きっと。彩は逃げられない。
あれに出会って。
あれに見つかって。
あれに見つかってしまっては、きっとどんな生き物だって、逃げ切ることはできない。
例え、彩がこの世界で最強の生物だったとしても、あれには敵わない。本能が、あの異常に対して警告している。
だってそうだろう。
あれは、化け物だ。
破壊したはずなのに。
完膚なきまでに破壊したのに、あれはこうして彩の目の前にいる。
彩に破壊されてなお存在できるなんて、本来ありえない。
だから、あれはありえない。
そんなもの、化け物以外のなにものでもない。
――渇く、渇く……。
喉が渇く。
口の中がからからだ。
全力疾走したみたいに、心臓がバクバク跳ねている。
車道の信号が点滅を始める。
変わるな、と。彩は心の中で叫ぶ。
変わるな。まだ変わるな。永遠に変わるな。
時間が、妙に長く感じる。まるで周囲の時間が急にその歩みを遅らせているように。そのまま止まってしまえばいいのに。時間は、しかし彩を嘲うかのように確実に刻んでいく。車道と歩道のライトが赤く染まる。世界が赤い。――――――――世界が、紅い。
歩道が青に変わる。車は一台もなく、間宮は歩き始めて、しかし彩が歩き出さないことを不思議に思って途中で振り返る。間宮がなにか言っているみたいだが、それすら彩には聞こえない。――彩には、あの女しか見えていない。
「…………間宮。俺、用事できた」
きょとん、と間宮は彩を見返す。
「え……?」
その、なにもわかっていない顔が妙に腹立たしい。なにも知らない、異常を知らない、平和な世界に生きている人間の顔が。
だから、彩は怒りを抑えながらもドスの利いた声で返す。
「――先行ってろ、っつったんだ」
びくん、と間宮が身を縮める。
怯える間宮を、しかし彩は見てすらいない。だが、その目はいつも通りの無関心な彩のものではない。男四人を前に一人で喧嘩を挑んだときですら見せなかった、強烈な怒りの色だ。
「…………うん」
消え入りそうな声で頷いて。
「ごめんなさい…………」
間宮は逃げるように行ってしまった。
どうして間宮が最後に謝ったのか、彩にはわからない。いや、その声さえも彩は無視した。彩の視界には、青信号の先の少女の姿しか見えていない。
向かいの少女を見つめたまま、彩は硬直している。十秒、二十秒、あるいは一分か。長い間そうしていたような気がする。時間の感覚が曖昧だ。
ここから東波高校まであと少し。遠目でも校舎が見えるくらいだ。ここは登下校の時間帯に生徒の行き来があるため、朝と夕方に人通りが急に増える。歩道は押しボタン式のため、昼間は車道が優先になる。
朝のためか、車の姿はない。さっきまで何台かは車が通っていたのに、嘘みたいだ。彩と少女は信号が赤になるまでじっと互いを見つめ合っている。
ちかちか、と信号が点滅して赤に変わる。途端、少女は電柱に預けていた背を離して白線の上を歩き出す。
「――――――――」
車は来ない。周囲には人の姿もないので、ここは彩と少女だけの世界。警告を無視して、少女は静かに彩との距離を縮めていく。
なんて、静かだ。
少女は、本当に散歩みたいに平然と車道の上を歩く。赤信号だから、いつ車が来るかもわからない。それでも、そんなことおかまいなしに少女は近づいてくる。
――彩の記録が、眼球の裏側で瞬く。
紅い海と、ガラス色の瞳――。
昨夜、殺したはずの女が、目の前にいる。
夕焼けのような金の髪は、近くで見ると月のような色をしている。瞳は白い肌とは対照的に、夜の闇を落としたような漆黒。その色は少しも不吉なところがなく、むしろ深海のように清んでいる。
まるでアンバランスな美貌。満月の世界の中で一点、漆黒の夜が浮かんでいる。この世界に似ているのに、その性質は全く反対で、完全な異質。まるで、鏡のよう。世界を映し出す鏡であり、世界を反転させる鏡。満月の髪以上に、闇夜の瞳に魅せられる。それは惹きつけられる以上に、吸い込まれそうで――――。
「なんの用だ?」
吐いた言葉は、妙に乾いている。どくどくと汗が滲む。まるで血を流しているように。熱気は咽かえる血の匂いのような気さえした。
少女は、じっとその夜の瞳を向けて彩を見上げる。視線を逸らしたいのに、見つめていたい。喉元に刃でも押しつけられたみたいに、彩は動けない。
「――――驚かないんだ」
意外、と少女は呟く。
少女の声は、ひどく大人びていた。まだ十代の年月しかない彩には感じたことのない成熟した響き。それでいて、その容姿は彩と同期の女子たちと大差がない。その歪さに、余計に頭がくらくらする。吐き出す息にまで媚薬が含まれているみたいだ。
くす、と少女は小さく笑う。
「貴方に、もう一度会いたかった」
打算も、含みもなく。
少女は、少女のままに、彩に告げた。
「――逢って、話をしてみたかった」
心底嬉しそうに、少女は笑う。
まるで初めてのデートではしゃぐ乙女のような素直さ。
くるりと、少女は花のように回る。
「向こうで、二人きりでお話しましょう」
それだけ残して、少女は先を歩く。
「…………」
一瞬思考して、彩は彼女の後に従った。
本能は、響彩という個に危険信号を送っている。けれど、彩は自分の理性に従うことにした。そして、彩自身もそれ以上のなにかを欲している。それを確かめたかった。
少女に案内されて、彩は奥の公園へとやって来た。少女は到着するなり、ブランコに乗って揺れる。その姿は少女をさらに幼く見せる。
「ここって、人があんまりいないの」
この公園の周囲は昔ながらの個人店やいつ取り壊されるかもわからない空きビルがほとんどだ。緑はなく、周りの建物のせいで昼間でも日が当らない。面積に対して遊具の割合が多いのに、ここで遊ぶ子どもはほとんどいない。公園のすぐ隣の道は地元の人には混みやすい大通りを通らないですむ裏道として知られていて、狭い道の割に交通量が多い。交通事故が何件も起きている危ないところなので、近くの大人たちは子どもたちにここで遊ばないように注意している。そのせいで、公園という憩いの場にも関わらず、ここは滅多に人がいない。
「変だよね。公園って、人が集まるところでしょ。なのに、ここにはいつも人が寄りつかない。……なんでかな?」
本当に不思議そうに、少女は首を傾げる。しかし、別段答えがほしいわけでもなさそうで、気楽にブランコをこいでいる。
彩も、その緊張感のなさにいつもの調子を少しずつ取り戻し始める。
「で、話ってなんだ」
乱暴な物言いに、少女はぴたりとブランコを止める。
「その前に――――」
すっと立ち上がって、少女はじっと彩の顔を覗き込む。
「貴方は、あたしに言うことがあるでしょ」
真剣に見つめられて、彩はどきりと言葉を失う。
「昨日、貴方はあたしになにをしたの?」
問われて、彩の鼓動が跳ねる。
昨日――。
言われなくても、わかっている。
彩は、
――この女を殺した。
自分がなにをしてしまったかなんて、十分理解している。
それは、罪だ。
責められて、当然だ。
恨まれて、当然だ。
彩は、それくらい、とんでもないことをしてしまった。
「…………悪かった」
だから、彩は女に謝罪した。
「昨日のことは、俺にも理由がわからない。気づいたら、おまえを殺してた。…………いけないことだって、わかってる。だから、本当に悪かったと思ってる」
柄にもなく、頭を下げる。
こんなことで、許してもらえるなんて、思っていない。
でも、最低限これだけは言わないといけないと、そう思う。
どんなに言葉を重ねても、こればかりは許されない。けれど、悪いと思っている彩自身は真実だから、それだけは認めないといけない。
そんな彩を見て、女は。
「――――意外」
と、言葉を漏らした。
「こんなに簡単に話が通じるなんて、思ってもいなかった。もっとイカれてる人かと思ってたのに、普通じゃない。人殺しさんには見えないわ」
少女の目には、すでに緊張の色はない。半ば驚いたように彩の全身をよくよく眺める。そうしてから、少女は一つ頷く。
「うん。許したげる」
彩は自身の耳を疑った。
「………………え?」
なんて、間抜けな声を上げる。
顔を上げると、そこには少女の笑顔が広がっている。なんというか、本当に嬉しそうだから、彩は目の前の少女が信じられなかった。
「ちょっと待てよ。俺、おまえを殺したんだぞ。なのに、許すって……!」
「うん。ちゃんと悪いことだって思ってるから、だから許すよ。悪いと思っている人を責めることなんて、できないでしょ。あっ、でも、次はないからね。悪いことだってわかってるのにやっちゃったら、それは許せないから」
だから今回だけね、なんて少女は告げる。
「……………………ちょっと待てよ」
どっと、彩の体から力が抜ける。緊張の糸が切れて、彩は後ろのパイプに腰を落とす。
「おまえ、頭おかしいだろ……」
はあ、と溜め息が漏れる。
信じられない。
あんなことをされたのに。なのに、許す、って。
言葉を失った彩に、少女は思い出したように声を上げる。
「あっ。でもぉ…………」
言い辛そうに、少女は左右の指を胸前で合わせる。
「一つ、お願いきいてちょうだい」
彩の返事を待たず、少女は続ける。
「あたし、人を捜しているの。その人を捜す手伝いを、貴方にしてほしい」
彩は顔を上げて、しばし迷う。折角許されたのだから、これ以上、こんな得体の知れない相手と長々関わっているべきではない。それに、こんな女の捜している相手だ、普通の人間だとは、到底思えない。嫌な予感は、確実にする。
しかし、とも彩は思う。彩は少女を殺した。たとえ許されたとしても、それは事実だ。そんな罪を犯しておいて、なんの罪滅ぼしもしないで別れるなんて、薄情すぎる。生憎、それができるほど彩の人間性は堕ちていない。
「お願い、きいてくれる?」
その言葉に、彩は自然と返していた。
「――――わかった」
引き受ける。それで彼女に借りが返せるなら。これで、少女が満足してくれるなら。それでいいんだと、彩は腹を決めた。
ぱあ、と少女は顔を綻ばせる。
「よかった。断られたらどうしようかと思った」
飛び上がりそうなほど喜んでいる少女に、彩は拍子抜けしてしまう。
「断ってもよかったのかよ」
少女に借りがあるのだから、少女のお願いをきいてあげるのは割りと自然なことだと彩は思う。なのに、少女の喜び方はそんなことを考えていないみたいだ。
うーん、と少女は難しい顔をつくる。
「それは、あんまりよくない。体を治すのに一晩かかっちゃったから、あたしも体力がなくて困ってたんだよ。……ああ、それで思い出した!貴方の壊した部分って、ちっとも再生しないんだよ。仕方ないから、無くなった部分を強引に創造する破目になったんだから」
どうしてくれるの、と途端に睨みつけてくる少女。深刻そうな様子ではなく、どちらかというと取っておいたケーキを先に食べられてしまった子どものようだ。
彩も面倒そうに返す。
「知るか。俺にどうしろと」
うーん、と少女は律儀にも考える。
「壊すことができるなら、直すこともできる、とか?」
「ねーよ。俺には破壊しかできない」
そこまで言って、彩はあることに気づいた。
「……って、ちょっと待て!」
つい、叫んでしまった。
「おまえ、なんで生きてるんだよ?」
その質問に、少女はなんでもないように答える。
「だから、貴方に壊されたところを創ったから、こうして生きてるんじゃない」
「ばっ。そんなの、ありえねーだろ。死んだんだぞ。死んだ人間が勝手に生き返るわけがないだろ。いや、どう頑張っても、生き返りっこない」
――生きているはずがない。
彼女は確かに死んだ。
――生き返るはずがない。
彼女を確かに殺した。
覚えている。
鮮明に記録している。
あの感触。
あの感覚――。
それを、彼女も認めている。
確かに死んだ。
確かに壊された。
でも、少女は当たり前みたいにここに居て。
彼女は、当然のように生きて、笑って、怒って、話をしている。
少女は、それが自然な帰着でもあるように、告げる。
「――――だってあたし、人間じゃないもの」
発せられた言葉の、その意味をすぐに理解することができない。
――人間じゃない。
ああ、そうか。
それなら、理解る。
こんなこと、そうでもなきゃ起こるわけがない。
こんな狂った秩序が、成立していいわけがない。
――じゃあ、なんだ……。
どんな生物なら、生き返ることができる?
どんな存在なら、死んでも蘇ることができる?
姿形は人間と同じ。突き抜けるような白い肌に、満月の髪。深夜のような瞳は、この世界の似姿であるのに、まるで正反対。この世界のあらゆる存在に似ていて、決して交わることのない反転世界。
ならそれは、すでに人間とは呼べない――――――。
少女は微笑を浮かべる。
「ここからはちょっと込み入った話。続きは、あたしの家でしましょう」
くるりと回って、少女は歩きだす。公園の出口の手前で立ち止まり、再び彩へと振り返る。
「どうする?お話、する?」
その声は、妙に大人びていた。その声だけで、少女が自分とはかけ離れた存在であるような錯覚を覚える。
いや、これは錯覚だろうか。そもそも、少女と彩の、どこが同じなのか。同じ、公園という場所にいるはずなのに、二つの境界が映し出される。
……彩は自分の内で、感覚を切った。
考えていたって仕方がない。彩はすでに、覚悟を決めたはずだ。少女のお願いをきく。それなりの危険は、承知の上だ。
「オーケー。わかったよ」
両手を上げて、降参のポーズを見せる。
うん、と少女はまた少女らしい笑顔を見せる。
「自己紹介がまだだったね。あたしはアレクシア・ヴェテリス。アレクシアでいいよ」
なんて、少女――アレクシア――は手を差し出す。握手を求めているのだと、すぐに理解できた。
ふう、と彩は溜め息を吐く。
「響彩。生憎、俺はただの人間だから。あんまり、期待するなよ」
差し出された手も握らず、彩はアレクシアの隣を通り過ぎる。
案内された先は、町中のホテルだった。駅まで徒歩十分ほどの、町の中心部だ。アレクシアに通された場所は、ホテルの最上階、つまりスイートルームだった。
「さ。入って入って」
「…………」
気軽に通されたが、彩は正直戸惑った。彩の家は、そりゃあこの町でも超がつくくらい有名なお屋敷だけれども、そんな特殊な家庭だってことくらい、彩本人も自覚している。だから、町中のホテルの最上階、スイートルームを貸し切れる人間が相当な金持ちだってことくらい、彩にだってわかる。もっとも、それが人間だったらの話だが。
アレクシアは構わず、ダブルベッドに腰を下ろす。
「ま。適当に座ってよ」
ぱんぱん、とベッドを叩くアレクシア。
流石の彩も、それは気が引けた。なので、これまた豪華な椅子をひいて、そこに座ることにした。アレクシアは少し不満そうだ。
「じゃあ。続き話すけど…………」
言いかけて、アレクシアは言葉を切る。十秒くらい固まって。
「……………………どこまで話したっけ?」
なんて宣うた。
彩は思わず頭を押さえたくなったが、それはやめた。
「おまえが人間じゃない、ってところだ」
ああそうだった、とアレクシアはぽんと手を叩く。
「うん。あたしは人間じゃないよ」
にっこりと、これ以上ないくらいの笑顔でそれだけ言った。
その、簡単すぎる言葉に、彩は嫌気がさしてきた。溜め息も隠さず、彩は面倒そうにアレクシアを薄く睨む。
「じゃあ、なんだ」
問われたアレクシアは、なおも笑顔で逆に訊き返す。
「貴方は、カニバリズムって言葉、知ってる?」
しばらく考えて、彩は答える。
「食人行為のことだろ。単純な食事や儀式として行われたこともあって、別の言葉でアントロポファジーともいう」
うんうん、とアレクシアは頷く。
「詳しいね。あたしは貴方たちからはカニバルって呼ばれていて、要するに人喰種のこと」
瞬間、彩の体に緊張が走る。
――人喰種。
その意味するところを理解して、彩は身構える。
彩の様子に気づいて、アレクシアは慌てて手を振る。
「安心して。確かに貴方たちから見ればカニバル、っていう大まかに分類されているけど、正確にはその中でも神人という部類に入って、無闇やたらに人間は食べないから」
彩の心でもよんだのか、アレクシアは付け足す。
「それ、本当か?」
「この辺りは詳しく話そうかな。カニバルはおおよそ二つに分類されて、最初から人喰種のものを神人、元々は別の種族で後からカニバルになったものを魔人と呼ぶ。魔人の多くは貴方たち人間で、学者、魔術師上りが多いかな。で、この違いは結構大きくて、魔人は元々カニバルじゃないから、細胞や精神構造があたしたちとは最初から違うの。だから、肉体に大きな負担がかかって、どんどん劣化しちゃう。そのために、魔人は人喰を行う」
人喰種には神人・魔人の二種類が存在する。アレクシアは神人で、生まれたときからカニバル――。
「神人とはそこからそもそも異なるの。神人は確かに人喰種だけど、その系統は世界の系統樹に直接属するから、食事という行為に必然性はない。つまり、人喰は絶対必要なことではないし、あたしみたいに自制することもできる」
系統樹、という言葉に彩は引っかかりを覚える。アレクシアはなおも続ける。
「系統樹の説明をするね。系統樹っていうのは、貴方たち風にいえば進化論のこと。貴方たちの知識を借りると、まず生命でもなんでもない有機体が一つの活動を示すようになって、それが魚になり、陸に上がって爬虫類や鳥、哺乳類と派生していった。それが進化を繰り返して、貴方たち人間が生まれた。この一連の生物の種の流れが系統樹で、貴方たち人間は、というより大半の生命は、自己が存在するためあるいは種が存続するために生きている。つまり、生きていくことが目的なのね。それに対して、世界から直接生まれた生物種が存在する。それらを総じて幻想種と呼び、あたしたち神人もその一種。幻想種の役割は生まれた瞬間に決まっていて、つまり世界が必要とした役割がそのそもそもの存在理由になる。そして神人に与えられた役割は、人間を殺すこと」
その言葉に、彩はぞくりと嫌なものを感じる。
「人間を、殺す、って…………」
人間を殺す。それが役目。
生まれたときから、人を殺すことを使命としていて、それが自分の存在理由。
神人がそういう存在で、つまりアレクシアはそのためだけにここにいる。そんな、そんなこと、簡単に了解できるはずがない。けれど、彼女は彩に考える余裕を与えてはくれない。
「生物界のピラミッドって知ってる?」
彩の答えを待たず、アレクシアは続ける。
「生物は捕食されるものがその数が多くて、捕食者になるほどその数を減らしていく。つまり、弱い者ほど数が多くて、強いものは少なくなる。これはおおよその状況で一定になる。多少そのバランスが崩れても、生物界はその安定な状態に落ち着くようにできている」
そのくらいのこと、彩だって知っている。
ぴん、とアレクシアは指を立てる。
「で、問題なのが、今この世界で最も繁栄していて、それでいて世界から分離した人間という種。人間は捕食者なのにその数が多くて、しかも世界との接続もほぼないと言っていい。これは世界にとっての危機。世界は自分が制御できない存在を敵と見なすわ」
それは普通の生物界でも同じことだけどね、とアレクシアは肩を竦める。
「その増えすぎた、力を持ちすぎた人間の勢力を調整するために、人間より強い存在を世界は欲した。世界そのものはこの世でもっとも弱い存在だけど、その分、数は多いから集合として強いものを生み出すことに成功した。――それが神人。神人の役割は人間を殺してその勢力のバランスを保つこと。人喰としての性質は、神人を生み出す際にできてしまった副産物」
本当は必要ないんだけどね、とアレクシアは最後に付け足す。
増えすぎた力を抑制するための、絶対的な力。生物界のピラミッドの話で言えば、増えすぎた人間を生物界が安定になるように調整するための役割が、カニバルということになる。
なんとなくわかるような気もするが、すぐには頷けない。そもそも、そんなに世界が危機とするほど、人間は増えすぎているのか。いや、この場合、数という物質的な問題ではなく勢力という質的な問題か。人間は、確かに自然の上で生きているというよりも、その自然を利用して繁栄しているといったほうがいまは合っている気がする。ただ、それが世界の危機かどうかは、やっぱりわからない。
考えがまとまらないうちに、アレクシアは首を傾げる。
「これで説明するところはしたけど、わかった?」
その問いに、なんと答えられるだろう。
わかったことはどれくらいか、それすら彩自身わかっていない。彼女の話したことの、どこまでが真実なのかと考えだしたら、きりがない。
「――ああ、大体」
とりあえず、頷いておく彩。
きっと、自分は彼女の言ったことのほとんどを理解していない。けれど、最低限わかったことは、アレクシアは普通じゃない、ってことくらい。それは話を聞いてみた感想としてではなく、実感としてだ。それだけが、いまの彩が信じられること。
それでも、と彩は口を開く。
「ところで――」
訊きたいことは残っている。
公園のときに話に出た、人捜しのこと。引き受けたはいいが、どんな相手なのかをきいてもいない。せめて容姿だけでも知っておかなければ、捜しようがない。
彩の言葉を遮って、アレクシアは手を突き出す。
「待って」
彩は言いかけた言葉を呑みこんだ。一体なにを言われるのだろう。そう緊張していると。
「ちょっと寝るね」
途端、アレクシアはぱたんとベッドの上に横になった。
「はぁ?ちょっと待て……!」
あまりにも急すぎる。だって、一方的に話されて、終わったらお休みって、そりゃないだろ。
アレクシアの傍へと近寄ると、彼女はもう眠っている。彩はたまらず溜め息を吐く。
「…………おい」
早すぎだ。まだまだ、訊きたいことが山ほどあるっていうのに。言われたことだって、ほとんど理解できていないっていうのに。
でも、こうなってしまったら仕方がない。彼女が起きるまで、待つしかない。彩は再び椅子に腰を下ろす。
カチカチカチカチ…………。妙に時計の音がよく聞こえる。
ただボーっとしているのもつまらないと部屋の中を歩き回ってみたが、それだって一時間、二時間と続けていればやっぱり飽きる。スイートルームなんていっても、響の家と比べてしまえば大したことはない。豪華に見えてもそれは外見だけで、よくよく観察すれば穴が目につく。質でいえば、三樹谷のところにも劣る。けれど、それはあくまでこの部屋だけを見ての判断だ。アレクシアの話では最上階のフロア全部を貸し切っているわけだから、全部が自分の部屋だと思えばそれなりに豪華な気分にはなる。もっとも、現在の持ち主は彩ではなく、ダブルベッドの上で目を閉じている彼女なのだが。
「…………」
歩き回っていた足を止めて、つい、彩はアレクシアを見下ろした。
眠っている、という表現はどこかそぐわない。時計の音が聞こえるほど静寂しているのに、彼女の寝息は少しも聞こえない。本当に、息をしていないんじゃないかと思えてくるが、確認するのはやめておく。
……感覚しては、いけない。
普段は意識しないようにしているが、時折この体質を非常に鬱陶しく思う。
気になることがあっても、極力気にしてはいけない。気にかける、ということは感覚するということ。
――感覚は、全てを破壊する。
だから。
だから、全てを無にする。
感覚を殺して。――感情を殺して。
自分の痛みも。――他人の痛みも。
感覚しなければいい。だから、覚えた。呼吸一つで、響彩は感覚を遮断できる。全ての配線を切断する。この世に、この世界に接地している箇所を全て、断絶する。
浮いているような、感覚。
漂っているような、感覚。
――どこにも存在しない、意識。
自分で、自分すら認識できない自己。
果たして、響彩という人間は存在しているのかいないのか。
――くだらない。
それすら、考える必要はない。
思考もなく。
意思もなく。
無とは、闇で。
闇とは、無だ。
感覚を遮断するとは、その瞬間から自分ではなくなるということ。
「――――ただ、それだけのことだ」
目を開けた。
カチカチカチカチ…………。また、時計の音。
彼女は、まだ眠ったままだ。まるで人形のように、見事なまでに静止している。これが本当に、生きているのかさえ疑いたくなる。
でも――。
穏やかな眠りにも見える。
だから、邪魔したくなかった。
時計を見れば、もうお昼だ。お腹は空かない。椅子をひいて、腰かける。静かな、午後のひととき。
「そういや、今日、学校サボリだな」
いまさら、連絡する気も起きない。鍵もないから、外にも出られない。食事は、まあ一食くらい抜いたって死にはしない。彩は静かに、時計の音だけを聴いた。
いつまでも時計の音を聞いていたかった、というのは割と本当のところだ。けれども窓の外の色が暗がりを帯びてきて、流石に遅いかと思ってからまたしばらく経って、ベッドの上の人形が寝返りをうった。
「うーん…………」
寝ぼけているのかと思ったが、次の瞬間、むくりと上半身を起こす。たった一度の寝返りだけで、彼女の髪は酷い有様だ。
「ふぁ……」
まだ寝ぼけているらしい。眠そうな瞼を数回瞬かせると、ようやくアレクシアは覚醒したようだ。
「おはよう。彩」
なんて、寝癖頭で笑うアレクシア。
彩はテーブルの上のくしを放り投げた。
「おはよう、じゃない」
アレクシアが髪を整えている間に、テーブルの上の時計を確認する。もう、八時を過ぎている。
「いま何時だと思ってる」
問うと、アレクシアはうーん、と唸って。
「いま何時?」
惚けたように首を傾げる。
「夜の八時。あれから十二時間近く経つ」
そっか、とまるで気にした様子もない。
少しは気にしてもらいたい。こっちは十二時間もなにもできず、ずっと部屋の中にいたのだから。まあ、こんな平穏な時間もそれはそれで満喫できたわけだが、それは顔に出さないでおこう。
アレクシアはけろりとして呟いた。
「…………お腹空いた」
そっちか、と彩は溜め息を漏らす。
アレクシアはベッド脇の引き出しからメニュー表を取り出して、受話器を取る。
「ルームサービス頼むね。彩も食べるでしょ」
腹は鳴らなかったが、彩もそれなりに空腹だ。いつもなら夕食を終えている時間だし、なにより彩は昼飯を抜いている。
「ああ。頼む」
アレクシアは適当に注文して受話器を置く。ほどなくして料理が運ばれてきたわけだが、その量の多さに、彩は唖然とした。元々彩は小食なせいもあるが、目の前に広げられた量は、どうみたって四人前くらいはありそうだ。
「いただきます!」
「…………」
はしゃぐアレクシアに、無言の彩。アレクシアのほうを見ると、ものすごい勢いで料理がなくなっていく。
「…………よく食うな」
男の彩が唖然とするくらい、彼女の食べっぷりは見事なものだ。用意された皿が次々と空になっていく。
食べながら、アレクシアは答えた。
「だって、お腹空いたんだもん」
ジュースを飲んで一息ついてから、アレクシアは口を開く。
「本当は食事だって必要ないんだけど、体を創ったからちょっと栄養補給」
その言葉に、彩は悪い気がした。なので、それ以上の言及は控えることにした。それで、彩は別の話題を口にする。
「なあ」
「ん?」
「人捜しのことだけど」
結局、アレクシアからはその話を聞いていない。夕食の後にでも行くのだろうかと思って、彩は訊ねる。
「この後、行くのか?」
うーんと一瞬考える素振りを見せて、アレクシアは即答する。
「人捜しは明日」
拍子抜けしている彩に、アレクシアは続ける。
「時間としては申し分ないんだけど、あたし眠いし。今日はもう寝る」
「……さっき眠ったばかりだろ」
半日近く眠って、起きたと思ったら飯を食って、そしてまた寝るなんて、明らかに体に悪い。少なくとも、彩にはそんな生活できそうもない。
アレクシアはなんでもないように答える。
「まだ本調子じゃないの。明日のいまくらいなら、たぶんいいから」
そう言われてしまっては、彩にはなにも言えない。料理がなくなると、彩はここにいる理由がなくなったので立ち上がる。
「じゃ、俺は帰る」
扉へと向かう彩に、アレクシアは驚いたように声をかける。
「帰っちゃうの?」
「当たり前だ。帰らないと、家の奴らが怪しむ」
ぽん、とアレクシアは納得したように手を叩く。
「あ、そっか。彩には家があったんだ」
その反応にまた溜め息が出そうになったが、その気力もない。どうやら、アレクシアが人間ではないということが、別な意味で理解できてしまった。どうも、普通の人間の感覚や常識というものが欠落している気がする。
彩は帰り際、振り返って彼女に手を振った。
「じゃ」
するとアレクシアのほうもぶんぶんと手を振って彩を見送ってくれた。
「うん。また明日」
彩は妙にむずがゆくなって、すぐに前を向いて歩きだす。また明日、なんて。あまりにも簡単すぎて、彩には気持ち悪いくらいだ。
彩が響の家に着いたのは九時で、彩はすぐに自分の部屋に籠ってしまった。夕食はとっくに終わっているだろうし、家の中をふらふらしていたら鮮あたりになにを言われるかわかったものではない。響家の現当主であり、当主に相応しく規律に生真面目な鮮のことだ、なにを訊かれるかなんて、想像したくもない。
彩は連に、今日はもう休むとだけ伝えておく。鮮がなにか言ってきたとしても、連に止めてもらうつもりだ。そのおかげか、十時を過ぎても鮮がやって来る気配はない。夕飯もいらないと言っておいたから、連や再がやって来ることもなかった。
深夜零時――。
夜の散歩の時間だ。
屋敷を抜け出した彩だったが、今夜は気分が乗らない。いつもの予定を大幅に切り上げて、一時には屋敷に戻ってきてしまった。
彼女のことが、まだ気になっているのか――。
――くだらない。
彩は寝巻きに着替えて、素早くベッドに潜った。