一章
生活習慣という言葉があるように、生活は習慣で固定される。どんなに不測の事態が起ころうとも、人間とはその習慣に従って行動するようになる。だから、響彩がダイニングキッチンに降りたとき誰もいなかったとしても、彼がとるべき行動は概ね決定されている。
もっとも、誰もいないということは不測の事態の内に入らない。朝の食事、果ては夕食であろうとも、この食事場所に自分以外の存在を認めたことはない。
人はいるはずなのに、食事のときに誰もいない。そんなちぐはぐな現状も、十年という月日は十分人間を習慣づける。
彩は皿にのったパンをトースターに入れて、焼いている間に冷蔵庫から牛乳を取り出してきて、コップに注いで冷蔵庫に戻すのと一緒に鍋に入ったスープをよそる。具のほとんどないコンソメスープと焼きたてのトーストを運んで、テーブルの上に放置されていたサラダと一緒に朝飯をすませる。
朝は大抵簡単なメニューですまされる。彩のおじさんである三樹谷景が朝早くから仕事に出かけることが理由らしい。その理由を彩は知らないし、特に知りたいとも思わないので、この日になってもその理由はわからずじまいだ。一方でおばさんのほうは専業主婦で、今頃は居間でテレビでも見ているのだろう。三樹谷家ではダイニングキッチンと居間兼客間の二か所にテレビが置かれているが、キッチン側は彩が、居間側は三樹谷夫妻が使用するのが常である。
軽い食事をすぐにすませて、彩は学校へ向かおうと玄関に立つ。高校生活も一年と半年ほどが過ぎ、現在高校二年生の十一月。二度目の高校生活も半分以上がすんで、しかし今日から彩の生活は一つの節目を迎えようとしている。否、迎えさせられる。
……それなのに。
こうも変化が見受けられないと、本当に自分の周りが変わってしまうのか、いささか疑わしくはある。あるけれども、彩は特に気にした様子もなくいつものように玄関を開ける。何事に対しても動じないことが、彩の長所だ。
つい――。
開いた玄関の奥へと振り返る。
朝の陽射しが入らない廊下は妙に暗く、元々暗い家なだけに厳粛めいた雰囲気がたれこめている。一応専業主婦と名乗っている三樹谷梢は、実のところ茶道の先生でもある。奥の離れに生徒たちを集めては定期的に茶会を開いているらしいが、彩がその恩恵を受けたことは一度もないので詳しいことは知らない。
――ああ、そうか。
興味なさそうに家を振り返る。
こんなにも、自分はこの家のことを知らなかったのか――。
そして、これからもこの家のことは知らず。知ることもできなくなる。
その事実に、しかし響彩はいつものように無関心にその暗い廊下を見つめるだけで。
「……さようなら」
なんて言葉を残して、三樹谷の家を去った。
どうして響彩が三樹谷の家にお世話になっていたかというと、それは十年前の事故から決定されたことだ。響家はこの辺りでも有名な大富豪で、普通の民家を十件は簡単に呑みこめるほどの土地を所有している。三樹谷の家もその親戚のせいかそれなりに大きな武家屋敷だが、響の家はそれすらも超える洋館だ。もう十年も前の記憶なので細部は怪しいが、概ねの雰囲気は頭に残っている。
十年前、彩は交通事故に遭ったらしい。らしい、というのは今でもその実感がもてないからだ。そして、そのせいで、彩は響家を追い出されて親戚である三樹谷の家で育てられ、十年経った今になって急遽実家に戻ってこいというお達しがきたわけだ。戻ってこいといっても響家は同じ町内で、三樹谷家からは高校の向かい側にあるので、行こうと思えばいつでも行けた。しかし、父親である響崇に勘当されてから実家に戻ることはできず、彩本人も特に戻りたいとは思わなかったので、この十年間一度も実家に戻らなかった。
事故に遭ってからも面会はなく、むしろ勘当されるという状況は、普通ならば到底考えられない。しかし響という上流階級の一族からすれば、家に傷をつけるような問題ごとは排除しておきたいようだった。実際、彩が幼少時代に過ごした響の家でも上流階級然りといった教育をされていた気がする。
「いまさら、だけど」
彩が響の家に戻ることが決定したのは、一週間前。父親である響崇の訃報とともに、長男である響彩はすぐに響家に戻るようにと通告された。十年間放っておかれて、いまさら戻ってこいなどと調子のいいことこのうえない。いまさら戻ったところで、自分が響家の跡取りになるわけでもない。父親から勘当され、十年間も放置されていた人間が、いまさら正当な響家の跡取りになれるわけもない。こういうとき、兄妹というものは便利だなと、他人事のように考える。
「帰りが面倒になるだけか」
響の家は学校の向かい側で、坂道の上に建っている。坂もきついが、三樹谷家以上の距離があったはずだ。それを思えば、引っ越すだけ損な気ばかりする。それでも、まあ仕方ないかと特に動じないあたり、自分の性格も筋金入りだなとそんなことを考える。
「ま、モノは全部運ばれるらしいし、実家に帰るだけだ」
今日の帰りから、彩の家は三樹谷ではなく響になる。帰宅はこの道ではなく、向かいの十年振りの我が家へと続く道だ。そう考えるとこの通学路も見納めなのだが、これといった感慨も湧かない。いつも一人で向かう通学路が、場所が変わるだけで、一人で向かうことに変わりはない。そんなささやかな変化に、響彩という人間は少しの興味も湧かない。
と。
「ん?」
いつもの通学路に見慣れないものを見つけて、彩は足を止めた。
住宅地を抜けた交差点の真ん中に彼女はいた。
道路の真ん中に突っ立っているというのも異質だが、なによりその髪の色が異常だった。夕焼けのような金髪からして、外人だ。髪を染めているかも、という思考は働かない。一目見て、彩は彼女がこの国の人間ではないと直感した。
よく見れば、その肌は雪のように白く、身につけているものは時代錯誤としか思えないドレスで、見事なレースは赤一色で染まっている。その強烈な色だけでも目につくというのに、彩は彼女の素顔を見た瞬間、胸の奥が疼くような錯覚を覚える。
「………………っ」
この感覚は、いったいなんだろう。
胸が、締め上げられるほど、痛い。
この異常に、自分はいったいなにを感じているのだろう。
いつもの交差点。朝の早い時間のせいか、この場所には彩と少女の二人だけ。交差点の中心で、まるで花のように咲き誇る。
それは、可憐で可憐で――。
――――ムネガウズクホドクルシイ。
ざあ、と。
風が吹いた。
一台のトラックが通り過ぎる。
「……!」
はっと気づいたときにはもう遅い。少女は交差点の中央に立っている。もちろん、車は通る。どう考えても轢かれる位置だ。
見通しはいい。トラックにだって、少女が立っていることは見えるだろう。あれだけ派手な恰好をしているのだから、すぐに気づくはずだ。
しかし、トラックのスピードは落ちない。
まっすぐ、少女に向かって突っ込む。
「あ……」
ぶない、という言葉が出ない。
さあ、と。
風が流れる。
トラックはあっという間に彩の視界から消える。
そこには、いつもの交差点が広がっているだけ。
「あれ?」
少女はもういない。
まるで夢であったかのように、跡形もなく。
風で飛ばされたように、赤い花は綺麗に消えていた。
不思議な少女を目にしても、彩の長所は学校に着いた頃には十分に発揮されていて、姿を消した彼女のことなど気にしなくなっていた。
彩はいつも早い時間に登校する。そのせいで、教室には一番に入って来る。今日も例に違わず、彩は一人席に座る。クラスメイトがやって来るまでの暇な時間は、おおよそ自分の席で読書に耽る。いつものように文庫本を取り出して静かな読書の時間に専念する。その白い指が綺麗なページをめくる。
彩の手を覆い隠すように、白い手袋が彩の両手を包んでいる。響彩は、小さい頃からモノを壊しやすい。その性質は十年前の事故以来顕著になってきて、ちょっと触れただけですぐにモノを壊してしまう。別段、乱暴に扱っているわけではない。どうやら触れているだけでモノが劣化してしまうらしい。体質、とでもいうのか、とかく響彩という人間はモノを壊してしまう。
ある人が言うには、彩の破壊の性質は感覚と直結しているらしい。
感覚するモノを破壊する。
それが、彩が生まれもった性質らしい。
そのため、彩はギリギリまで自分の感覚を摩耗させる。
感覚した瞬間から破壊してしまうため、極限まで感覚を意識から外さなければいけない。感覚しないように意識するのではなく、そもそも意識の中に感覚をおかない。モノに触れるだけでなく、身につけている衣服までも彩の感覚の中に入ってしまうため、無感覚の実現には相当な精神集中を要する。長年そんなことを続けていたせいか、今ではそこまで意識しなくても感覚を遮断でき、むしろよほど意識しなければモノを感覚することもない。
彩がいつもつけているその手袋も、今ではお呪いていどの効果しかない。それでも、彩は律儀にこの手袋をはめ続けている。入浴時という例外を除いて、寝る時でさえも手袋を外したことはない。そのせいか、たまに外したときの彩の手など、病的なまでに白い。
ささやかな読書の時間も、時を忘れるには十分だ。ほどなくして他の生徒たちが教室に入って来て、その生徒も彩のすぐそばの席に陣取った。
「よ。響。相変わらず小難しいもん読んでんな」
佐久間は健康的に日焼けした顔をずいと寄せて覗き込む。
「で、今日はなんだ」
「マルキ・ド・サド著『美徳の不幸』」
視線も上げずに彩は答える。うえ、というこれみよがしな声が彩の耳のすぐ傍から上がった。その声は悲鳴に近い。
「また随分と不吉なもの読んでんな。昨日もサドってやつの本読んでなかったか」
「悪徳の栄え」
「そう、それだ。あれは結構かかってたな」
ぱら、とページをめくる。
「二週間。朝とか、暇な時間にしか読まないから」
彩は本に視線を向けたまま読書を続ける。隣から佐久間が身を乗り出して本の中身を見た瞬間、あまりの文字の多さにこの不真面目な男はあからさまに眉を寄せる。
「うえ。字ばっか」
下手物を前にしたように、佐久間は身を引いた。
「よく読めるな。そんなの」
そんなの呼ばわりされて、彩はしおりを挟んでようやく顔を上げた。
「小説なんだから、こんなものだろ。もっとも、この人は極端な部類だけど。といっても、佐久間の読めるのは漫画くらいか」
「おうよ。漫画以外は本と認めねえ」
どこに威張る要素があるのか、妙に誇らしげに佐久間は胸を張る。
佐久間秀徳は、その優等生風の名前とは正反対の不良少年で、同級生はもちろん、上級生も下級生も関係なく、果ては他校の生徒だろうとかまわず喧嘩を売るような男だ。彩とは中学からの付き合いで、中学生というまだ幼い頃は、それはそれは荒れていたが、中学を卒業する頃から少しは大人しくなったようだ。
「そういや、響。おまえ、今日引っ越しだろ」
佐久間には彩が親戚の家にお世話になっていることは話してあり、今日から本当の家に戻ることも話してある。
彩はいつもの、冷めた調子で答える。
「正確には実家に戻るだけ。同じ町の中だから、そこまで大袈裟じゃない」
彩にとって、この事実はそれほど驚くべきことではない。特に話すことでもないのに、佐久間のほうはなおも訊いてくる。
「で、三樹谷の人たちには挨拶してきたか?」
「特には」
してない、という彩の意図を察して、佐久間は急に彩を睨む。
「おまえな、最後までそれかよ。十年くらい一緒にいるんだろ。もちっと愛想ってもんを見せろよ」
この男から、この手の説教を受けるとは思ってもみなかった。彩は喧嘩で見慣れた佐久間の顔に、いつもの冷めた調子で返す。
「愛想もなにも、あっちが避けてるものをこっちから無理矢理近づくのは変だ。俺はそこまで義理堅くない」
「避けてるなんて、そんな相手のことばっか考えても仕方ないだろ。一緒にいる以上は、こっちからぶつかって、それでそれなりの関係ってもんを作るものだろ。おまえの場合、そういう人付き合いってもんを避けてるようにしか見えない」
親みたいに説教をする佐久間。長いこと実の親とは離れ離れに生活して、三樹谷の養父母からも説教なんてされたことはない彩には、その感覚はわからないが。
「佐久間って、人付き合いとか気にしてるほう?」
喧嘩ばかりしている不良少年らしからぬ言葉に、彩は純粋に不思議に思う。
「気にしてるっつーか、そういうもんだろ。自分と誰かがいりゃー、ほっといてもぶつかるもんだ。それがいいほうに転ぶか悪いほうに転ぶかなんて、そんなもんやってみないとわからない。おまえから見れば、そりゃー俺は喧嘩ばっかしてるよ。でも、だからって全員を憎んでいたわけじゃない。お互いが真剣に自分の我を通そうとすれば、喧嘩だってする。おまえも、ちったー、自分のために真剣になってもいいんじゃないか」
自分のために、真剣に、か――。
その感覚が、彩にはわからない。そこまで彩は、自分自身を蔑ろにしているのだろうか。
「ま、次の家ではそうなったらいいね」
なんて、軽い気持ちで返す。
小説を鞄にしまっていると、佐久間はまた訊いてきた。
「十年振りなんだろ。なんでまた急に呼び戻されたんだ」
「前も言ったけど、よくわからない。父さんが亡くなったからかもしれない」
彩が実家に戻って来るようにという響家からの手紙は、三樹谷のおじさんから渡された。その際に、彩の父親が亡くなっていることを知らされた。しかも、葬儀はとっくに終わっていて、身内だけで済まされたという。
――なんて、話だ。実の息子には知らせず、勝手に葬儀を済ませてしまうなんて。
佐久間は急に腕組みをして首を傾げる。
「でもよ、おまえの母親だってずっと前に死んでいるだろ。家とかどうなるんだ」
彩の母親は、彩の事故のときにすでに亡くなっている。聞いた話だと、その事故に母親も巻き込まれたらしい。二人とも助かる見込みはなかったが、彩だけ奇跡的に一命を取り留めたらしい。……母親は、そのまま帰らぬ人になった。
「お手伝いさんがいる。それに、家を継ぐのはきっと妹」
いつものように、どうでもよさそうに彩は答える。
佐久間はますます神妙な顔になって唸るように首を捻る。
「…………なんとも。おまえんとこって、かなり時代錯誤だよな」
一時間目の授業が終わって、彩は廊下の窓から外を眺める。朝からずっと座りっぱなしなので、少しだけ動いておきたかったのだ。窓から見えるのは小さな中庭で、一時間目の授業が終わったばかりなので人の姿はない。
季節は秋から冬へと向かう頃で、窓の外はくすんだ灰色のようで、寒々しい。空が重く、押し潰されそうだ。
暇潰しに外を眺めていただけなので、これといって用事もない。気分転換もすぐに打ち切りにして、教室に戻ろうと廊下を戻る。
――どん。
振り返った途端、なにかが体にぶつかる。
「あ」
見ると、目の前で女子生徒が一人倒れていた。荷物を抱えていたのか、教科書の類が廊下に散らばっている。
「うわー。やっちゃいました」
どこか間の抜けた声で女子生徒は呟く。目の前の状況に動揺しているのかもしれないが、いまひとつ緊張感が欠ける。
「大丈夫か?」
おそらく彩が振り返った瞬間に、角を曲がった女子生徒がぶつかってしまったのだろう。彩はしゃがんでばらまいてしまったものを拾う。
「ありがとうございます。響彩くんのほうこそ大丈夫ですか。わたし、ちょっと急いでいたもので」
女子生徒はやんわりと笑う。あはは、と困ったように笑う仕草など、少女っぽい雰囲気がある。
彩は不思議に思ってこの女子生徒を眺め見た。
「っていうか先輩。なんで俺の名前知ってんの?」
リボンの色から、三年の先輩だ。彩は帰宅部なので上級生に知り合いはいない。彩はこの小さな先輩に心当たりがなかった。
「いやですね。知っていて当然じゃないですか」
子どもっぽく、この女子生徒は訴える。
「わたしたち、知り合いですよ。響彩くんが一年生の頃から、わたしたちは知り合いではないですか」
なんて、当然のように告げる。
「……そう、だったっか?」
そんな人、いただろうか。
彩が一年の頃からって、それはいつ知り合えたのか。部活もやっていないし、入学したばかりで道に迷ったときだろうか。
途端、女子生徒は丸い瞳をじっと彩に向ける。濃紺の瞳が彩の目の奥まで入り込んでくる。
「そうですよ。もしかしなくてももしかして、響彩くんは、わたしのことをお忘れになられてしまわれたのですか?」
――途端。
彩の頭の中でなにかが繋がった――。
「いや、そんなことはない」
拾ったものを手渡して、彩は答えた。
「悪い。夢々先輩。変なこと言って」
にっこり、夢々先輩は嬉しそうに微笑んだ。
「いいんです。ちゃんと覚えていてくれれば、それでいいんです」
――そうだ。
どこかで会ったなんて、そんなことは些細な問題だ――。
彩は周囲のことに対して無関心であるがゆえに、どうでもいいことはすぐに忘れてしまう性質だ。夢々先輩とは知り合いで、いつ会ったのかは覚えていなくても、それだけで十分だ。
「では、わたしは次、美術なので移動します」
ぺこり、とお辞儀して、女子生徒は去っていった。彩の胸くらいの背丈の可愛らしい先輩は、そのまま奥の廊下を曲がって見えなくなった。
お昼の時間になって、彩は食堂の席に座っている。昼食の時間帯のせいで、食堂は大勢の生徒たちで賑わっている。
食堂で生徒たちにもっとも人気のあるメニューはお任せ定食。いわゆる、日替わり定食だ。なにが出るかは頼んでみてからのお楽しみだが、値段とボリュームから食べざかりの生徒たちには人気がある。定食以外にも、麺類、サンドイッチ、カレーなどが用意されていて、生徒たちはみな思い思いのメニューを選んでいる。
そんな中、彩だけ食堂の中の自販機で買ったハンバーガーを前に、早々に席についている。運動部を中心におやつ代わりに利用される自販機のハンバーガーが、響彩にとっての昼食だ。お昼にそんなものを買っている人間は彩くらいしかいない。単に人混みの中に入るのと、並ぶのが嫌だからだ。
一つのテーブルを陣取っていると、思いがけない生徒が彩のすぐ傍までやって来た。
「おまたせしました。響彩くん」
夢々先輩の姿に、彩は不思議そうに首を傾げる。
「夢々先輩。なにか用か?」
むすー、と頬を膨らませる夢々先輩。
「もう、酷いですよ。響彩くん。お昼をご一緒するのに理由なんて必要ですか?わたしと響彩くんは、そのていどのご関係でございましたか?」
この先輩は不機嫌になると変な敬語を使う。普段から下級生である彩にも丁寧な言葉遣いをするが、怒っているときはさらに拍車がかかる。
「…………いや。今のは失言だ。聞き流してくれ」
機嫌を直したのか、にっこり笑って夢々先輩は彩の目の前に座る。
夢々先輩のお昼はハムサンドにサラダという、女子生徒らしい小食なメニューだ。その小さな口でサンドイッチを頬張る姿を眺めながら、彩もハンバーガーの包みを開けて昼食を開始する。
そこにトレーを持った佐久間が到着した。
「あれ、夢々先輩。先輩も一緒っすか?」
「はい。ご一緒させていただいています」
不思議そうに眉を寄せながら、佐久間は彩の隣に座るといきなり顔を寄せてきた。
「おい。響。おまえ、夢々先輩に手ぇ出すなんて、随分積極的じゃねえか」
意地悪っぽく笑う佐久間。佐久間の場合、彩をからかっているのではなく、本気で意地悪しようか思案しているタイプだ。不良かつ健全な男子である佐久間は、女性の好みに対してかなり素直だ。
なので、彩はやんわりと否定しておく。
「別に俺が誘ったわけじゃない」
「じゃあ、先輩から?」
「はい。そういうことになります」
信じられない、という顔を一瞬だけ作って、ならまだ機会があるかと変な笑みを浮かべながら佐久間も食事を始める。
食堂では生徒たちの雑談と、それに混じってテレビから発せられる電子音が聞こえる。食堂にはどこからでも見れるようにと大型のテレビが一つあって、ご丁寧にスピーカーまで隅々に聞こえるようにと配置されている。それでいて流れるのはニュースばかり。学校の方針で生徒たちに時事ネタを知ってもらおうとしているらしいが、そこまで真剣に見る生徒もいない。気まぐれで脇見する生徒が数名いるばかり、というのが現状だ。
「次のニュースです。昨夜未明、明風市波左手町にて大量の血痕が発見されました――――」
そのテレビから、なんとも不吉なニュースが流れてきた。その内容に、夢々先輩はその幼い顔を見る見る恐怖の色に染める。
「とうとうこの町にも来ちゃいましたね。『神隠し』」
ここ明風市では、最近になって奇妙な事件が起こっている。俗に、「神隠し」と呼ばれる殺人事件。
佐久間が口を開く。
「神隠しって、あれっすよね。服とかそういうもんだけ残って、人が消えちゃうってやつ」
被害者は、身につけている鞄や衣服の類を残して、忽然と姿を消す。
――まさに、現代の神隠し。
その奇妙な現象から、その事件はそう呼ばれている。
「しかも、現場は人間一人分の血液がべったり」
彩の言葉に、夢々先輩は恐る恐るといった感じで付け足す。
「正確には、一人分より少ないそうです。でも、大量の血があることには変わりありません」
一カ月だけで、事件はすでに四件に上る。単純に、一週間に一人の割合。それだけの頻度で、これだけ派手に人がいなくなっているというのに、事件は一向に解決の糸口すら見えない。
夢々先輩に合わせるように、佐久間は食事を食べながら口を開く。
「でも、その犯人ってどうやって人殺してるんでしょうね。体はないのに服や血だけ残ってるなんて」
その言葉に、夢々先輩はなにも答えない。佐久間はしまった、という感じに口を閉ざす。重い沈黙。
「――喰ったんだろ」
ぽつり。彩が呟く。
二人のぎょっとした視線が彩に集中する。
彩はかまわず、ハンバーガーを一口。赤いケチャップが、まるで血のように彩の口を濡らす。口の中でわずかな野菜と。
そして。
肉の味が広がる。
「いや、その、なんだ…………」
佐久間が急に言いにくそうに口を開きかけて、そして閉じる。上手い言葉が見つからないのか、佐久間は誤魔化すようにご飯を口の中へ放り込む。肉に手を伸ばそうとして、急に野菜に狙いを変えた。
――沈黙。
その中で。
夢々先輩の真剣な瞳が彩を射抜く――。
学校も終わって、帰宅部である彩は早々に帰路についていた。特に用事もないので、彩は真面目に帰宅する。
「今日からこっちの道か」
朝着た道とは反対側の道を行く。三樹谷家は町に近いため車の通りがいい大通りが多い印象があるが、響家へ向かう道は昔からの割と大きな家々が並び、道幅は狭い。凝った鉄柵やレンガの塀があったりと、なかなかにしゃれた家が多い。今までとは感じが違う。まだ夕方になり始めたばかりで、ピアノの音が聞こえる民家もある。三樹谷家の方面が和風なら、こちらは断然洋風が主流だ。学校を境にこうも雰囲気が変わるものかと、彩はぼんやりと眺めながら歩く。
一応、響家までの地図はもらっている。あまり複雑な道ではなく、ほとんどまっすぐで、響の屋敷にまで向かう坂道に入りさえすればすぐだ。
と。
――女の悲鳴が聞こえた。
「……」
彩は足を止めた。
このまま坂のほうへ上れば、響家までは五分ほど。悲鳴が聞こえたのは、おそらくこの先の、あのトタン屋根の倉庫みたいな建物の奥のほうからだ。
――行ってみるか。
彩は声のしたほうへと向かう。
倉庫を越えると、そこは空き地だった。洋風ばかりの住宅地とは打って変わって、有刺鉄線の柵に緑の雑草が生えて、おまけに土管や鉄筋が放置されている。急に時代が逆行したような空間。そこに、彩と同じような高校生の姿が見えた。
「やめなさいよ!」
叫んだ少女は、彩と同じ東波高校の制服を着ている。リボンの色から、彩と同学年だ。
「うるせえ。おまえは黙ってろ」
一人の男子生徒が少女を突き飛ばす。彩とは違う高校の制服だ。その奥で、その男子生徒と同じ制服を着た三人の男子生徒と、地面に座り込んで頭を抱えている彩と同じ東波高校の制服を着た少年がいた。
「本当にないんです。お金なんて、持ってないんです」
少年は頭を抱えたままそんな言葉を漏らしている。周りの男子生徒たちはそんなことおかまいなしに少年に詰め寄る。制服の袖は肘の辺りで切られて、ボタンも剥がされているような、明らかにガラの悪い連中ばかりだ。
「嘘吐け。今時金を持っていないやつなんているかよ。さっさと財布出せよ」
ああ、と。
見たばかりの彩でも状況は理解できる。
要するに、かつあげだ。
あの少年に喧嘩ができるほどの度胸があるようには見えない。単に、運がなかっただけだ。少女のほうは一人の男子生徒に邪魔されているだけで、特に乱暴なことはされていない。たまたま居合わせただけのようだ。
「…………」
ああ。
つまらない。
中学のときの、佐久間と一緒にいた頃と変わらない。高校生になってからは音沙汰なかったけれど、中学も高校も、結局大差はない。
「なんの騒ぎ?」
堂々と、彩は空き地に入って男たちに声をかける。その声に、そこにいた全員が振り向いた。ガラの悪い眼光が一斉に彩を射抜く。
「ああぁ?」
女子生徒を相手にしていた男が彩の前までやって来る。どうして不良ってやつは、肩を揺らしてガニ股で歩いてくるのか。恐怖よりも、彩はその不格好さに溜め息が出そうだ。
「なんだ、おまえ。おまえも東高?」
背丈は彩と同じくらい。それなのにわざわざ腰を丸めて上目遣いに睨んでくる。そういう表情を作るのに慣れているのか、かなり目つきが悪い。
彩は目の前の男を無視して向こうで固まっている男たちをどうでもよさそうに眺める。
「おまえら、かつあげ?」
「うるせえ。外野は黙ってろ」
途端、目の前の男が声を上げる。同時に、その拳が振り下ろされるのが見えた。
「――――」
ああ。
やっぱり、つまらない。
まるでスローモーションだ。
恐怖なんてない。
元々、彩には感覚なんてものはないから。
ただ現実を受け入れて、一番効率の良い行動に出るだけ。
男のごつごつした拳は、けれど思ったよりも大きくない。所詮、下っ端のレベルということだ。
振り方も甘い。
わざわざ大きく振るなんて、脅かす以外になんの意味もない。
相手を攻撃するよりも、相手を威嚇するだけの猫だまし。
なんて、陳腐。
これは喧嘩じゃなくて、ただの威嚇。
虚勢なんて、みっともないだけ。
この不良は、今までそんなことにも気づけなかったのか。
――つまらない。
彩の顔面すぐ隣を。
風が抜ける。
一歩、かわすだけで。
避けるのはたやすい。
そのまま腕を掴んで。
襟を掴む。
足を払って。
そのまま体を持ち上げて。
――地面に叩きつける。
決着がつくのに、一秒もかからない。
ごん、という生々しいまでの、鈍い音。
「……」
無言で倒れた男を見下ろす彩。
ただ気絶しているだけだ。それだけの加減はできる。人間は壊れやすいから、手加減しなければいけない。もっとも、彩にとっては慣れたことだが。
「てめえ……!」
「やんのか!」
他の不良三人が、攻撃対象を彩に定める。ガラが悪く、目つきが悪い。少し距離をおいて、たった一人の彩相手に三人で取り囲むように近づいてくる。
――ああ、最悪。
このていどの人数で。
このていどのレベル。
――服が汚れる。
彩は一歩も動かず、残った男三人を相手にする。
人を気絶させるにはコツがいる。慣れてしまえば、条件反射でできること。かわすのも同じ。ただかわしただけだと次の攻撃があるから、攻撃されないように反撃するだけ。攻撃の瞬間が、一番隙。だから避けたと同時にカウンター。相手が突っ込んでくるなら、突っ込むほうこうに転ばせる。その場で殴りかかってくるなら、振り切った瞬間に急所を狙う。掴みかかってくるなら、顔面に蹴りをぶち込んでやればいい。
それだけで、たった三人くらい同時に相手なんて、わけない。五分とかからず、四人は完全に気絶した。
「大丈夫?」
座り込んでいた男子生徒に声をかける。男は怯えたように両手で頭を守っていたが、彩の言葉に安堵の声を漏らす。
「あ、ありがとう」
立ち上がろうとして、すぐには立てない。驚きで足が震えているのか、彩は男子生徒が立ち上がるのをじっと待った。
「田板って、いじめられやすいのか?」
よく見れば、その男子生徒は彩のクラスメイトだ。名前は、田板縁。背が低く、体も軽い。男なのに、変声前のように声が高い。
同じクラスだが、彩は今までこの男子生徒と話をしたことがない。クラスの中の付き合いなんて、そんなものだ。同じ学校の中で彩が普通に話をするのなんて、佐久間だけだった。
ようやく腰を上げて、田板は怖ず怖ずと頷く。
「うん。小さい頃から、なにかとちょっかい出されることは多いかもしれない。でも、今日の人たちは初めてだから」
なんて説明をされて、彩はふーんと適当に頷く。まあ、ぱっと見ていじめられそうではある。貧相で、小動物を連想させる。野良犬からすれば、格好の得物だ。
田板は小学生みたいに笑う。
「響くん。ありがとう。あと、間宮さんも、ありがとう」
お礼を言われて奥のほうで突っ立っていた少女――間宮黎深――はバツが悪そうに俯く。
「あたしなんて、全然役に立たなかった」
間宮黎深も、彩と同じクラスだ。佐久間以外でこういう現場に遭遇するのは、彩にとっては珍しい。概ね彩が出くわす喧嘩は、みな似通った、明らかに喧嘩腰のガラの悪いやつらに限っていた。最近は弱いものを狙っていじめをするのが流行っているのか、彩は時代の流れかなんてどうでもいいことを考えていた。
田板は首を振る。
「そんなことないよ。間宮さんが間に入ってくれたから、俺も助かったんだ」
間宮はますます居心地が悪そうに田板から目を逸らす。田板がこの――目の前で気絶している――ガラの悪い四人にかつあげされていて、それを間宮が助けようと間に入っていたらしい。間宮はなんの役にも立たなかった自分自身に嫌悪でもしているのか。女子で男子の喧嘩に割って入ろうなんて、変なことするやつだ、くらいに彩は思った。
「おまえらって、家こっちなのか」
彩が訊くと、二人は頷く。
「響の屋敷って、あの坂の上でいいのか」
二人揃って、頷く。
急に、田板がなにか偉大な発見でもしたように顔を輝かせる。
「そっか、響くんって、あのお屋敷の人なんだ」
なにがそんなに嬉しいのか、田板は本当に小学生のようにはしゃいでいる。
「一緒に帰っていい。俺もあっちのほうなんだ」
彩が頷くと、田板は彩のすぐ隣に並ぶ。間宮もついてきたから、一人の帰り道が一気に三人に増える。
「そうだよね。同じ響だもんね。今までこっちの道で会ったことないから、関係ないのかなって思ってたけど」
今まで話したことなかったが、田板はやけに喋る性格らしい。彩は隠す理由がないので、正直に話す。
「今日の朝まで親戚の家で暮らしてた。明日からは、こっちから学校に通うことになる」
その返答に、田板はさらに輪をかけたように色々なことを話す。
……はっきり言って、彩には大して興味のないことだ。
半分聞き流して、彩は頷きもしないで坂を上る。
「それじゃあさ――」
唐突に、田板は彩に申し出る。
「明日から、一緒に学校行かない?一人より、大勢でいったほうが楽しいよ」
田板の提案に、彩はつい眉を寄せる。
どうしたものか。特に断る理由もないが、承諾した後で今みたいにこちらが黙っていて一方的に話されるのも鬱陶しい。彩はあまり人と関わることを好ましく思わない。
だから、返答も至極どうでも良さそうに。
「好きにしろ」
とだけ返した。
その返事を承諾と受け取ったのか、田板はぱあっと顔を明るくする。なんとも、笑顔が板についている男子だ。彩とはまるで正反対な属性。どんな些細なことでも感情を表に出す存在。傍にいるだけで、彩とは空気が合わない。それでも、彩は無視していればいいだけだ。
「間宮さんも、いいよね」
田板は振り向いて、後ろからついてきている間宮に話を振った。
「あ、あたしに訊かないでよっ」
なんでもない話なのに、妙に不機嫌そうに声を上げる間宮。夕陽のせいか、間宮の顔は真っ赤だ。
「それで、間宮さんは大丈夫?」
なおも訊ねる田板に、間宮はふんと顔を背ける。
「別にかまわないわよ。一人増えるのも、二人増えるのも大差ないし」
田板くんの好きにすれば、なんて間宮はそれきり口を利かない。田板は嬉しそうに頷いて、また彩に頻りに話しかける。彩は、変な女だな、と間宮を流し見るだけで、田板の話には返事もしない。
田板と間宮の二人と別れて、彩はさらに坂の上を目指す。急に民家がなくなって、辺りには自然の形の木々が並んでいる。ここから先は響家の所有地で、おそらく草木の管理も一括して響の一族が行っているはずだ。
坂を登り切って、ようやく門の前までやって来た。門からその巨大な屋敷までいくらか距離がある。十分短距離走のコースになる。屋敷を覆う塀も、いったいどこまで続いているのか、果てのほうが小さく見える。丘の上にどでんと巨大な洋館が聳えて、明らかにここだけ雰囲気が違う。
「……」
あまりの威圧感に、さすがの彩も無言で見上げた。レンガ造りのその洋館は、まさに城のようだ。しゃれた装飾を施した門が目の前を遮り、そしてようやく彩はその少女の姿に気づいた。
……いや、なんというか。
この洋館のせいもあるのか、お手伝いさんと呼ぶよりは、メイドさんと言ったほうがぴったりくる。モノクロのエプロンドレスに、黒のニーソックス、清潔感のある白のグローブをはめている姿は、それ以外の呼称を受けつけない。
少女のほうも彩に気づいたのか、てとてとと彩の前まで駆けよって来ると、両手を前に組んでぺこりとお辞儀する。
「…………ひ、響彩様でよろしかったですか?」
緊張しているのか、妙に高い声で訊ねてくる。彩の肩口ほどの背丈の彼女は、ぎゅっと手を握り締めて、硬い表情で見上げてくる。
「そうだけど」
あまりにも素っ気ない言葉に、けれど少女はぱあっと顔を明るくする。頬は赤く、童顔のせいか瞳はとろんと潤んでいるようにも見える。
「あ、あ、よかったです…………」
なにが良かったのか、少女はそんな言葉を口にする。そうして、自分が変なことを口走ったことに気づいて、少女は慌てて頭を下げる。
「お、おかえりなさいませ彩様。わたしは響家の使用人を務めております、猪戸連と申します」
仰々しく挨拶する少女、連を見て、彩はああと思い出した。
「おまえ、昔もいたな」
連はがばっと顔を上げて、再び勢いよく頭を下げる。
「はいっ。彩様が幼少の頃より、こちらで働かせてもらっております」
響家はこの辺りでも有名な一族だ。坂の上に建つ大豪邸からも想像できるが、その富と権力は計り知れない。子どもの頃から、そんな知識だけはある。そんな有名な家柄であるからか、幼い頃から相当熱心な教育を施されていたと思う。別段勉強が好きなわけではないので、そのことに感謝したことは一度もないが。
「今日からは、わたしが彩様の面倒を見ることになりました。なんなりとお申しつけください」
精一杯の笑顔を貼りつけて、彼女――猪戸連――は硬直したまま彩を見上げる。
どれくらいそうしていたのか、おそらくは十秒近くそうしていたかもしれない、連は気づいたように彩の持っている鞄に手を伸ばす。
「あ、お荷物、お持ちします。どうぞ、お入りください…………」
門を開けて、中へと導く。門だけで、その高さは彩の背丈よりも高い。彩はクラスでも背が高く、大概の家は塀の上から中を見渡せたが、この家ではそれができなさそうだ。門は自動開閉で、彩が中に入ると勝手に閉まってしまう。
隣でメイド姿の連が頻りにどうぞどうぞと彩に道を進める。響家は門から家まで十メートル以上の距離があり、まさしく大豪邸だ。整備された庭があり、まさに時代錯誤。佐久間なんて、この外見だけで奇声を上げそうだ。
彩はその豪華な庭には目も向けず、ひたすら前ばかり見て気ままに歩く。その隣で連が忙しなくしている。どうも、話しかけようか黙っていようか迷っているように見える。彩は彼女を一向に無視して、連も雇われの身で出すぎた真似はできず黙っているというなんとも奇妙な空気が流れている。
ようやく家の前まで辿りつく。門を越えてから家に着くのにこんな手間がかかるなんて、三樹谷の家でもなかった。彩は中に入ろうと扉に手を伸ばす。
彩の脇から連が突然飛び出してきて。
――頭から豪快に扉に激突した。
ごん、という。
リアルな音が聞こえた。
「うぅ…………」
痛そうに。連は頭を押さえる。
「…………」
彩はなにも言わない。
いつも無関心を貫く彩でも、これは流石に驚いた。止まっている扉に頭から突っ込む人間を、彩は初めてこの目で見た。
「はっ、失礼しました。どうぞ…………」
連が扉を開けて、彩は中へと入る。家の中は、外見同様、西洋の洋館然りといった雰囲気がある。玄関だけで一般家庭の一部屋ほどはありそうな広さ。正面の階段はこの豪邸に相応しく横幅があり、手すりには凝った装飾が施されている。
「彩様のお部屋は西側の二階になります」
階段を上がり、廊下を渡って西の奥の部屋まで案内される。
「こちらです」
彩が案内された部屋は、一高校生がもつには豪華すぎるというか、よほどの高級ホテルにでも泊まらなければこれほど豪華な部屋には入れないだろう。部屋の中央に洒落たテーブルが一つと、これまた凝った装飾が施された椅子が二つ。部屋の隅にも同じ椅子が三つほど並んでいる。机はもちろん用意され、個人部屋でタンスが置かれている。奥に扉が一つあり、おそらく寝室は別に用意されている。一体、どこの貴族だろうとも思えるが、響家はまさしく、現代に不相応な上流階級である。
「俺の部屋って、ここになったのか?」
彩はいつもの無関心な目で部屋を眺め見る。その目には、特に驚いたような感じはない。
「あ、はい。彩様のお部屋はこちらだと…………」
「小さい頃は、西館じゃなかったか?」
響家には本館と、隣接する東館、西館、加えて広大な敷地の中に離れが二つある。離れは本館の裏手と、そのさらに奥の森を抜けた先にもう一つ存在している。離れは世話役の人たち用の住居なので本館などよりは小さいが、それでも普通の家ほどの大きさがある。
連はバツが悪そうに俯く。
「鮮様がお決めになったことです。もしもご不満がございましたら、鮮様に直接お話しになってください」
連は机の傍に彩の鞄を置いて部屋を出ようとして、振り返る。
「では、お食事の時間になりましたら食堂においでください。…………あ、もしよろしかったら鮮様にお会いになられますか?」
その提案に、彩はしばし思考する。
食事まで時間はある。ここで暇を潰してもいいが、どうせ会えるなら会っておいてもいいだろう。響鮮――彩の一つ下の妹――と会えるのも、十年振りだ。
「そうだな。会っておく」
いつも通りの調子の彩の返答に、連は嬉しそうに顔を綻ばせる。
「それではわたし、お呼びして参りますから、彩様は一階のリビングでお待ちくださいませ」
言うが早いか、連は彩の部屋を出てぱたぱたと先に行ってしまった。
……彩は、十年振りにこの家にいる。正直、家の構造にそこまで慣れていない。
「とりあえず、一階だよな」
リビングの場所はわからないが、一階と連が言っていたので、まずは階段を下りよう。と、階段の前で連がすまなさそうに立っている。
「…………も、申し訳ありません。彩様は十年振りのお帰りで、響家のお屋敷にはまだ不慣れでございましたよねっ」
ものすごい勢いで頭を下げる連。
「わたし、とんだ粗相を…………」
「いいから、リビングまで案内しろ」
謝る連に、彩はそれだけ返す。
連に案内されて、彩は一階リビングへ行く。リビングは階段の東側で、その少し奥には食堂があるようだ。
「今、お茶をお持ちしますね」
それだけ残して、連はリビングを出て行ってしまう。彩は仕方がないのでソファーに座って待つことにする。リビングも、部屋と同じほどの広さがある。こちらは二部屋に仕切っているわけではないので、より広く感じられる。三樹谷家は和風だったのでソファーはなかったが、彩でもこのソファーがそれなりの高級品であることがわかる。目の前のテーブルも、部屋のものより一回り大きく、洒落たテーブルクロスがかかっている。部屋の周囲にも様々な装飾、つまり絵画や壺など、一般家庭では考えられないようなものが飾られていたが、彩は特に興味も示さず一人ソファーに座って時間を潰す。
そこに。
「お久しぶりです。彩様」
背後から男の声がした。
彩が振り返ると、そこには彩と同じくらいの年の青年が立っていた。彩と同じような顔をしているが、その表情は対照的だ。彩が無関心で暗い表情をしているのに対して、この青年は柔和で慈愛に満ちている。無駄のない細身に、すらりと伸びた長躯。整った髪、顔、表情、彼が持つ全てがこの世の愛情で満ちているよう。
青年は一歩近づこうとして、急にかしこまったように頭を下げる。その、些細な一つ一つの動作でさえ、優雅で優美。
「失礼いたしました。わたしのことは、覚えていらっしゃいますか?」
柔らかな微笑を浮かべる青年に、彩は対照な暗い表情で返す。
「猪戸再。俺と同じ名前だから、よく覚えている。連の兄貴だったか」
青年――猪戸再――はまた特上の笑みを浮かべる。
「覚えていただけて光栄です。さきほどは連が粗相を働いたようで、大変申し訳ありません。妹君様はすぐにおいでになりますので、どうかもうしばらくお待ちください」
慇懃に礼をして、猪戸再は座るわけでもなく、彩から少しばかり距離を置いてその場に立ったまま微笑みかける。
その形式的なやり取りに、彩はさらに表情を暗くする。
「それはいいが、再」
「はい。なんでございましょうか」
「そんな堅苦しい言葉遣いはやめろ。子どもの頃からの付き合いだろ。急に改まる必要はない。昔のままでいいんだ」
途端、再はふっと笑みを漏らす。その表情はさっきまでの完璧なものより、より人間味がある。
「それはありがたい。自分も、そのほうがやりやすい」
再は彩の正面のソファーに腰を下ろす。
「久しぶりだね。十年も経って、すっかり見違えたよ。この屋敷のことは覚えてる?十年振りだと、慣れない感じとかあるでしょ」
使用人としての顔ではなく、十年来の親友として、猪戸再は響彩に話しかける。それでも、彩の対応は素っ気ないことに変わらない。なにも変わらないということは、最初から遠慮もなにもないということだ。
「そうでもない。まあ完全に覚えていたわけではないが、それなりに記録はある。慣れないといえば、新しい部屋に通されたことくらいか」
「……気づいてた?」
再はわずかに口元を吊り上げる。昔と、十年前の彩の記録と変わらない。この再という青年は都合の悪いことを指摘されるとこんな笑みを浮かべる。そのたびに、彩が不機嫌そうに答えるのもいつものこと。
「当然。そもそも俺は本館を使ったことがないんだから。最初から、玄関に通された時点で違和感だらけだ」
「あら、それは申し訳ありません」
別の声がリビングに響く。彩が振り返ると、そこには見慣れない女性がいる。しかし連や再のような使用人の恰好をしていないこと、そしてなによりこの屋敷にいるであろう人物を考えれば、それが誰なのかすぐにわかった。
「鮮、久しぶりだな」
十年――。
彩にとって、十年は人生の半分以上を占める。最後の彩の記録では、彼の妹などまだ小学生にもなっていなかった。それが、いま目の前にいる鮮は高校一年生。成長期の頃に見ていなかったので、その姿は見違えるようだ。
響鮮は、とても美しく成長している。お嬢様然りというか、その立ち振る舞いは自信に満ち溢れ、どこか気品めいたものが感じられる。
鮮は十年来の兄に少しも気負ったところがなく、すらりと答える。
「お久しぶりです、兄さん。でもご理解ください。昔と違って今は人が少ないんです。ですから、みな本館で生活するようにしています。そのほうが再や連も楽ですし、なにより、家族は一緒にいるべきです」
響家には以前まで親戚がともに生活していたので、その巨大な屋敷に相応しくそれなりの人の出入りがあった。だが十年経って帰ってみると、使用人の再と連と、妹の鮮に会うだけで他の人間に一向に会わない。もう他の人間はいないのかと、彩は勝手に了解する。
「『家族』か。それこそ、不自然だ」
その彩の言葉に、鮮はむっとする。
「なにがですか。ちゃんと説明してください」
今の言葉は彼女なりにかなり気に障ったらしい。そんな彼女に、彩はそれ以上に冷たい視線を返す。
「――別の女の腹から生まれた者同士、家族と呼べるのか?」
響彩と響鮮は兄妹であるが、その実、二人はそれぞれ別の母親をもつ。響彩は長男だが愛人の息子、響鮮は彩の一つ下で正妻の娘。この現実が、響家の跡取り問題を悪化させ、家族間はもちろん、親戚の間でも長いこと争いがあった。
「わたしたちは同じ父親を持つ子どもです。血の繋がりはちゃんとあります。だったら、家族と呼んでも差し支えないはずです」
鮮の訴えに、彩はつれない言葉を返す。
「父親、か。勘当されたのに、あいつはまだ俺の父親なのか?」
びく、と鮮は押し黙る。
彩は十年前、事故に遭った直後に父親から勘当されている。そのまま親戚である三樹谷家に半ば強制的に預けられ、実質跡取り候補から外された。そのことを、鮮も知らないわけではない。
「それに、今頃なんだ。父親が亡くなったって、連絡が来たかと思えばすぐに帰って来いって。三樹谷から聞いたぞ。あいつの葬儀はもう終わってるんだろ。父親が死んで、葬儀のために息子が呼ばれるならまだわかる。けど、全部終わってから戻ってこいなんて、それは俺だけ勘当されたままと同じだろ」
鮮はなにも言えず、顔を伏せる。さきほどまでの凛とした表情は消え失せ、そこには十年前の妹の顔があった。
「すみません、兄さん。…………お父様の葬儀には、その、色々とあったんです」
言いにくそうに、鮮はそれだけ口にする。
静かに見つめる彩に、鮮は顔を上げて必死に訴える。
「けれど、今はわたしが響家の当主です。全ての決定権はわたしにあり、だから兄さんを呼び寄せたのはわたしの意思です。お父様がどういう理由で兄さんを外へやったのかはわかりませんが、わたしは家族が離れ離れにいるのはおかしいと思うんです。ですから、全ての問題が解決したあとに、こうして兄さんをお呼びしたのです。――それは本当です」
その。
余りに真剣な鮮の言葉に。
――彩は、ついと目を逸らす。
「わかった――」
その言葉に、鮮はようやく安堵の息を漏らす。
どんな事情があったのか、いまは訊かない。いまはきっと、答えられないだろうから。父親が亡くなって、まだ高校一年生なのに響家の当主になって、葬儀や親戚たちと話をつけるのは大変だっただろう。
――それに。
こんなに辛そうに自分に訴えてくる鮮に。
父親に勘当された自分をまだ兄だと慕ってくれている妹に。
これ以上辛くあたるのは、流石の彩でも気が咎めた。
「それにしても……」
彩は話題を変えようと、言葉を探す。
「やっぱり、跡継ぎはおまえか」
はい、と鮮は頷く。
「これはお父様の遺言です。親戚の方々にも納得していただきました。今後、響家の一切はわたしが責任をもちます」
「で、その親戚の方々は?」
「ここは元々、響家の屋敷です。外の人がいては、無駄な神経ばかり使います。使用人も最低限に留めていますし、兄さんもそのほうが気楽でしょう」
淀みなく、鮮は答える。その強気な色に、彩は十年前の彼女の面影を比べてしまう。あの頃、鮮はまだ小さく、腹違いの兄妹ということであまり言葉を交わしたことはなかったが、それでも彼女の雰囲気は覚えている。いつもなにかに怯えているような、おどおどした印象がある。そんな鮮がここまで強くなるなんて、それほどまでに響家の生活は厳しかったのだろうと、そんな想像が頭に浮かぶ。
「大変だな」
つい漏れた言葉に、鮮は笑みを浮かべる。
そんな二人の会話の間に。
「お姉様、ひどいよ。僕をおいてお兄様と先にお話ししてるなんて」
一人の少年がリビングへと入って来た。鮮は少年に気づいて、優しい笑みを浮かべる。彩も振り返ってその少年を見た。初めて見る顔だ。小学生の中学年の辺りだろうか。髪の色素がやけに薄く、金に近いその髪は外人のようにも見えるが、顔の造りは日本人に近い。髪と同じように、肌は透けるように白く、その割に目が大きい。子どもだからだろうか、彼の表情は妙に大きく見える。
少年の隣で、連がおろおろとこちらを窺う。
「…………あ、あのぉ。わたしが入ってはいけませんでしたか?」
そんな連に、彩は短く答える。
「お茶」
「え…………?」
戸惑うように訊き返す連。
彩は連が手にしている銀のお盆を指差す。
「持って来たんだろ。なら入って来い」
連はリビングに入って来て彩と鮮、そして再にもお茶を勧める。気づけば、再は席から立って壁際に寄っている。主人の前で座っているわけにはいかないのだろう。連は新しくやって来た少年にもお茶を勧めたが、少年は飲まないと子どもらしい返答で断った。
「初めましてお兄様。僕は響奏お母様の最後の子どもの、薫です。お兄様の弟になります。どうぞよろしく」
そう、少年――響薫――は丁寧に頭を下げる。
「歳は?」
彩の質問に、少年はにこり、と極上の笑みを浮かべる。
「十歳」
その返答。
その言葉に。
――彩は異質なまでの違和感を覚える。
しかし、それがなんなのか、彩にもわからない――。
鮮が薫に対して注意するような目を向ける。
「こらっ。薫。違うでしょ。あなたのお誕生日は十二月なんだから、まだ九歳でしょ」
薫は、はっとしたように口元に手をあてる。
「あ。そうでした」
えへへ、と薫は恥ずかしそうに笑う。その仕草は、年相応で可愛らしい。
「兄さん、弟の薫です。兄さんがこの家を出てからしばらくして生まれた子どもです。それで、お母様は……」
そこで鮮は言葉を切る。
その続きを、彩も知っている。響奏は響崇の正妻で、つまり鮮の母親だ。鮮の母親は、彩の母親が十年前に事故で亡くなったときに、亡くなっている。病気のせいだとか、彩は詳しいことは聞いていない。が、どうやら原因はこのことのようだ。
こんなとき――。
普通だったら慰めの言葉でもかけてやるべきなのだろうが、生憎彩はそんな気の利いたセリフは言えない。なので、彩の返答は至極簡潔だ。
「彩だ」
「えっ……」
鮮の驚きの声が聞こえる。無視して、彩は続ける。
「響彩。響水花の息子で、鮮や薫の兄になる」
その答えに満足したのか、薫は満足そうに微笑む。鮮もそれで満足してくれたみたいだ。和やかな空気の中で、彩だけがどうでもよさそうに顔を背ける。
ほどなくして、夕食の時間となる。十年近く、三樹谷家で一人の食卓になれていた彩は、ここ響家で二人の人間とともに巨大な長テーブルを囲んでいる。響は上流階級なので、普通の夕食でもテーブルマナーは守られる。ナイフとフォークが並んでいるところを、彩は十年振りに見た。その完璧さに一瞬気押されたが、席に着くと意外と覚えているもので、自然と手が動いていた。子どものときから、響家の人間と使用人たちの食事はわけてある。だから、今日の夕食でも猪戸再が給仕を行い、連が台所で料理を担当していた。
出される料理はどれもこれもこの洋館に相応しく、一高校生には似合わないほどの豪華さだ。それは料理の枠を超えて、一つの芸術品のようにも見えた。いまの料理は連一人に任されているということだから、彼女の料理の腕は相当だ。今まで彩の前で見せていたドジっぷリが嘘のようだ。
「兄さんに、響家のルールについてお話しておきます」
食事後のティータイムで、鮮はそう切り出した。
「響家の門限は七時となっています。八時には薫が寝てしまうので、それ以降に家の中を歩き回るのも極力控えてください」
食後、薫はすぐに自分の部屋に戻って、今は彩と鮮と後ろで控えている連の三人だけ。再は薫が寝るまでの相手をするために、本館東側二階の薫の部屋にいる。
「午後十時になりましたら、屋敷の明かりを全て落とします。つまり、その時間が消灯時間になります」
三樹谷家も由緒ある家柄だったが、門限などなかった。というより、彩が三樹谷夫妻と会話をしたのも、年に数回ほどで、あまり関わった覚えがない。放任というか、無視されていたというか、そんな感じだ。
実家に戻ってくるなり門限があるなんて、彩は覚悟していたが快くはなかった。高校生にもなって門限なんて、正直やってられない。
彩の心境を読み取ったのか、鮮はすっと目を細める。
「兄さん。理解してくださいね。それに、最近はなにかと物騒です。世俗では『神隠し』なんて、俗な言い方ですけど」
神隠しに巻き込まれた被害者たちは、全員が死亡されたとされている。身元は発見されていないが、路上に残った大量の血液が被害者のものと一致しているからだ。この事件は単なる神隠しと呼ぶには危険すぎる、殺人事件だ。だからこの明風市では夜遅くに人が出歩いていることは、ここ最近なくなっている。門限を決めている家は、ここだけではないのだ。
「……わかった」
気乗りしない調子で、それでも彩は承諾した。
――しかし、それは形だけのことだ。
部屋に戻るなり、彩は連を呼び止める。
「連」
連はまだ屋敷に不慣れな彩のためにと、部屋までついて来てくれた。彩が彼女の申し出を断らなかったのは、鮮の前では訊けない内容があるからだ。
「なんでしょうか。彩様」
そんなことは知らず、連は去り際に呼び止められて振り向く。
「鍵は、もう閉めるのか?」
「いえ、九時になってから、兄さんが屋敷中の戸締りをして回ります。鍵の担当は、兄さんなので」
「夜の見回りとかは?」
連は淀みなく答える。
「十時になってから行います。わたしが西館から、兄さんが東館から。次にわたしが本館を、兄さんが離れのほうを見回ります。異常がなければ、二人ともお休みさせてもらっています」
ふーん、と彩は連から目を逸らして頷く。思案するような仕草に、連は不思議そうに訊ねる。
「あの、彩様。どうして、そのようなことをお訊ねになるのですか……?」
一瞬目を上げて、思考する。余計なことは言う必要はないとも思ったが、下手に勘ぐりされては後々面倒だろう。変に騒がれて鮮の耳に入るのはよくない。
「俺は夜に散歩をする習慣がある」
それでもわからず、連ははあと気のない声を漏らす。
「だから、いつなら屋敷を出られるか、知っておきたかった」
ああ、と素直に頷いてから数秒後、連はようやく気づいて大声を上げる。
「えぇ……!」
彩は面倒そうに連を薄く見る。連のほうはというと、すっかり混乱した様子で上手く言葉がまとまらない。
「そ、そ、そ、それって…………」
だから、彩が代わりにわかりやすく答える。
「他のやつには言うな。特に鮮にはな」
「………………」
困惑したように、連は彩を見る。主人の命令には逆らえないが、しかしそれは困る、といった感じがすぐにわかる。
そんな連に、彩は無遠慮に言い放つ。
「用はそれだけだ」
もう戻っていいとばかりに、彩は連を無視する。
だから、連もそれ以上はなにも言えない。
「…………わかりました」
失礼しました、と連は彩の部屋を出ていく。ぱたん、と妙に乾いた音がした。遠ざかる足音は、もう聞こえない。
夜の空気が、肌に沁みる。日中はそれほどでもないが、しかし十一月の深夜は窒息させられたように凍えている。
時刻は午前零時。
人気はない。
町は、眠っているのではなく、おそらく死んでいる。この静けさは、静寂は、崩壊の前の最期の祈りに似ている。
――人は死ぬ刻、なにを遺すのだろうか。
どんな生命も、死ぬ直前には虚無になる。
どれだけ繁栄した魂も、どれだけ衰弱した屍も、死ぬときは等しく無だ。
そこにあるのは今まで生き抜いた個ではなく、ただ還るだけの意識。自己と、自己でないものが同義となって無に還るだけの、その刹那と永遠。
――死に際に、人はなにを想うのだろうか。
響彩は、好んでこの漆黒の世界を歩く。
夜は、闇は、この世でもっとも不確かな場所だ。
全てが死に絶えたような静寂に、しかし生命の存在は失われない。死と、生が同時に存在していて、それが互いに等価でしかない。
だから、響彩には、夜が似合っている。
全てを「壊す」しかできない存在。すでに「壊れて」いる自身。
死者の夜に、ただ一人、壊れた人形が彷徨い歩く。死んでいるのに生きているなんて、まさしく不確か。だからこそ、響彩は存在していなくて、存在している。その、生と死が等価な世界に、この意識は存在している。
――ああ。
空を見上げれば、月は雲に隠れている。響の屋敷を出るまでは、確かに月が見えていた。今夜は、三日月ほど。新月から、上弦へ向かう、弱い月。黒雲に隠れて、町はさらに暗い。
やっぱり、なにも変わらない――。
響彩は一人、道の上で空を見上げる。
「……」
三樹谷の家にいた頃から、夜の散歩は欠かさない。雨の日は、傘もささずに、雨にうたれていた。なにも感じず、なにも思わず。
すでに壊れているこの身は。
いつ壊れたって、かまわない。
なにも得られず。ただ壊すだけ。
――新月なら、良かったのに。
月の夜は、魔性が疼く。
満月なら、生命でさえも魔を帯びる。
今宵は三日月ほどの弱い月。闇に覆い隠されて、ここはさらに生と死が曖昧になる。生者と死者の境が消失して、過去と現在が同時に流れる。
そんな夜だからこそ、彼は彼女を見つけた。
「あ……」
屋敷に帰りかけて、彩は道の上に人影を見る。
その光景は、どこかと似ている。誰もいない、広い交差点。見通しがいい道の真ん中に、紅いドレスを身にまとった女性が一人、空を見上げる。まるで、過去の満月を愛でるように、愛おしむように。漆黒の闇がうっすらと、彼女の存在を照らす。
時刻は深夜一時。彩は二時になる前に屋敷に戻ろうとしていた。それは三樹谷家にいた頃からの彼なりの決めごとで、丑三つ刻前に帰るようにしていた。
その光景に、彩は硬直してしまった。
――まるで、悪夢。
見通しのいい交差点に、異常なほど赤いドレスを身にまとった女性が一人。
朝の再現だ――。
しかも、異常はそれだけではない。
少女の姿が透けている。
否、その存在がぶれている。
静止しているはずの彼女は、しかしノイズが混じっている。顔も、胴体も、腕も、ドレスも、受信の悪いテレビのように揺れている。
歪んで。途切れて。
ざー、という砂嵐が聞こえてきそうで。
――これを異常と呼ばずに、なんと呼ぼう。
どくん。
と。
心臓が跳ねる。
「…………」
――はぁ、はぁ、……。
息が苦しい。
「…………」
――はぁ、はぁ、……。
心臓が波打っている。
「…………」
――はぁ、はぁ、……。
胸が軋む。
「…………」
――はぁ、はぁ、……。
眼球の奥が熱い。
「…………」
――はぁ、はぁ、……。
腕が疼く。
「…………」
――はぁ、はぁ、……。
体中が熱を帯びている。
「…………」
――はぁ、はぁ、……。
止まらない。
「…………」
――はぁ、はぁ、……。
止まらない。
「…………」
――はぁ、はぁ、……。
止まらない……!
「…………」
――はぁ、はぁ、……。
残像の少女は視線を落として歩き始める。
「…………」
彼女の後を、彩はついていく。
決して気づかれないように。十分距離をとる。
少女は振り返らず、夜の町を一人歩く。それは夢遊病患者のように、あるいは亡霊のように。足は浮いているように音を立てない。滑るように進む少女を、彩は同じく足音を殺して尾行する。
月はまだ雲に隠れていて、辺りは暗い。街灯は次第にその数を減らしていって、だから辺りは明かりが無意味なほどに暗い。
一定の距離で尾行していたはずなのに、角を曲がると残像の少女はすでに次の角を曲がるところだった。
――はぁ、はぁ、……。
急がないと。
――はぁ、はぁ、……。
角を曲がる。また少女は先の角を曲がっている。
――はぁ、はぁ、……。
急がないと。
――はぁ、はぁ、……。
彼女との距離が、どんどん開いていく。
――はぁ、はぁ、……。
急がないと。
――はぁ、はぁ、……。
彼女を見失ってしまう。
――はぁ、はぁ、……。
見失ってはいけない。
――はぁ、はぁ、……。
あの異常を、響彩は見失ってはいけない。
――はぁ、はぁ、……。
気づかれてはいけない。
――はぁ、はぁ、……。
あの異常に、自分は気づかれてはいけない。
――はぁ、はぁ、……。
大丈夫だ。
まだ、大丈夫だ。
彩は、まだ気づかれていない。
気づかれないように、彼女に近づかねば。
気づかれないように彼女に近づいて、そして。
――そして?
そして、なんだというのだ。
響彩は、彼女に近づいてどうしようというのだ。
あれは異常だ。きっと、響彩よりもイカれている。彼女は確かに存在しているはずなのに、確実に存在していない。生と死が同時に存在しているなんて、あれは異常だ。
異常だから――。
異常だから――――――。
――だから。
自分がすることは、最初から決まっている――。
最後の角を曲がって、彩は彼女を見失った。そこは、完全な行き止まりだった。逃げ場もなければ、隠れる場所もない。路地裏の終着地点。明かりもなく、酷い臭いがする。夏場なら、きっと虫がたかっている。腐敗と腐臭が入り混じって、ここは正常な人間が来る場所ではない。
「…………」
彩は闇にじっと目を凝らす。
確かに、彼女がこの角を曲がるのを見たのだ。ここが行き止まりなら、彼女はここにいるはずだ。あの赤いドレスを見失うはずがない。
どこに…………。
――少女が彩の前に姿を現す。
残像が、響彩の体を通り抜ける。
「…………!」
上げそうになった悲鳴を、なんとか飲み込む。
音もなく、感覚もない。亡霊は、彩の肉体を散歩の途中のようにすり抜けた。彩の顔から、女性のぶれた顔が。彩の腕から、女性のぶれた腕が。足から、派手な赤いドレスが出てきた。
彼女は、まるで意に介さず行き止まりへと入っていく。その後ろ姿がひどく美しくて、彩は彼女から目が離せない。
――月が出る。
亡霊の姿が、彼女と重なる――。
月明かりに照らされて、その閉鎖空間の中に彼女の姿を見た。
夕焼けのような金髪、レースのついたドレスは血か炎を連想させる強烈な赤。街灯もないのに、彼女の周囲だけ妙に明るい。
――だから、彩にも見える。
少女の足元に広がる、鮮烈な紅――。
風はなく、この場の空気は酷く淀んでいる。
鼻孔をくすぐる鉄の臭い。
ざらつく酸っぱい味。
呼吸のたびに、鼻と口の中を同時に犯される。
濡れた、紅い感触。
咽かえりそうな、濃厚な空気が、体中に染み込んでいく。くらくらと目眩を起こしてしまいそうなほど、ここは酷い。
「――――もう、いない、か――――――――――――」
彼女の声は、もはやただの音。
意味はなく、意味もわからない。
だから――。
だから――――――。
響彩のすることは、決まっている。
息を止める。
この距離なら、逃がさない。
足音を殺して、気配を消すなんて、響彩には造作もないこと。
彼女まで、あと手を伸ばせば届く位置。
なら、手を伸ばせばいい。
それで、彼女をモノにできる。
女は気づいていない。
一瞬ですむ。
やることは決まっている。
だから。
――オレは、手袋を外した。




