極章
十一月も終わりに近づき、師走と呼ばれる月がやってくる。十二月は、またの名を極月という。寒さも極まれる、本当の冬の到来。
日に日に気温が下がっていく中、響彩はいつも通りの恰好で登校する。最近は、マフラーとかセーターを身につけてくる生徒の姿もあるが、彩はそういったものを持っていない。感覚を遮断している彩には、寒いなんてものも無縁だ。
日照時間は短くなり、そのせいで朝の起床が遅くなる、なんて人間もいるらしい。彩はというと、いつもと変わらない、四時の起床。妹の鮮が起きるのは五時で、五時半までは読書で時間を潰す。
五時半にリビングに向かうのは、鮮とのティータイムに付き合うため。正直なところ、ティータイムの良さを知らない彩にとって、鮮との優雅なお茶の時間など苦痛にも似た一時でしかない。
にもかかわらず、彩が律儀にも鮮との時間に付き合うのは、半ば強制的な鮮の命令によるものだ。親戚の三樹谷家から響の屋敷に戻って早々、一週間もの間高校を無断欠席、そのうち数日間は家にすらいないという暴挙をやらかした彩への、これは必然の罰である。
『このていどですむのだから、兄さんには感謝してもらいたいです』
なんて、鮮の言葉通り、彩は感謝しなければならない立場にある。なので、いまの彩の生活があることを感謝しつつ、彩はリビングに向かう…………ということにしている。
「おはようございます。兄さん」
リビングに入ると、すでに鮮はソファーに座ってカップを持っている。彩と同様、制服に着替え、朝食さえ済ませればいつでも登校できる姿だ。
「おはよう。鮮」
鮮と向かい合うように、彩もソファーに座る。鮮の背後で控えていた再が、彩にもティーカップを差し出す。水面はルビー色で、最近の中では色が濃い。口にしてみると、確かに香りも強いようだ。毎朝、毎晩、鮮のお茶に付き合うようになって、彩もいくらかお茶の違いがわかるようになってきた。
鮮はお茶のおかわりをもらって、カップをソーサーの上に乗せる。
「そろそろ十二月ですけれど、兄さんは寒くないのですか?」
リビングの隅にあるハンガーラックには、鮮用のコートとマフラーが用意されている。黒のロングコートに、ダークレッドのマフラーだ。
「大丈夫だ。もともと、鈍感なほうだから」
しれっと答える彩に、鮮は呆れたように口を開ける。
「鈍感なほう、って……。ならなおさら、お体には気をつけてください。これ以上、学校を休まれるようでは困ります」
なんてことを仰った。
……鮮とのお茶の時間が嫌なのは、こういうこと。
いつまでも、彩の無断欠席のことを話題に出してくるのだから、彩も辟易する。最初のほうなど、挨拶より先に「今日は学校に行けますか?お体のほうは大丈夫ですか?」だから、たまったものではない。
彩が不服そうな顔をしても、まるで意に介さず、鮮はさらに続ける。
「成績はよろしくても、出席日数不足で補講などあっては、響家の恥です」
「…………大袈裟な」
彩の漏らした言葉に、鮮は目元を鋭くする。
「決して大袈裟ではありませんよ。兄さんは、そういう意識が足りないんです。――ご注意ください」
後半は自身の苛立ちを抑えるように、お嬢様然とした優雅な調子でまとめた。彩の訴えなど端から取り合わないのだから、彩はいつものように頷いた。
「……わかったよ」
朝食までは、あと五分。やっと、残り五分まできた。早くこの時間が終わってくれないか、彩がここまで時間を意識するのは、鮮とのお茶の時間だけだ。
朝食も終わって、ようやく彩は響家から解放された。夜になれば結局屋敷に戻らないといけない、ということは、いまは考えない。幸いにも、鮮とは通う高校が違うのだ。それを救いと考えなければ、やってられない。
坂を下ってミラーの前までやってくる。そのミラーから響の屋敷までは響の私有地みたいなもので、他の住民が暮らしているような家屋は見当たらない。
その、ちょうど区切りとなる場所に、間宮黎深はいつものように立っていた。
「おはよう。響くん」
「ああ」
気さくに挨拶してくる間宮に、対する彩は一言返すだけ。しかも、そのまま素通りするように、彩は立ち止まらずに坂を下っていく。
そんな冷たい彩の態度にも、間宮は顔色一つ変えずにあとを追う。何度も繰り返してきたことだから、間宮ももう慣れたものだ。むしろ、無言を貫いているにも関わらず根気強く話しかけ続ける間宮に彩のほうが根負けしている、というのが正しいかもしれない。
「響くんって、コートとかちっとも着ないよね。寒くないの?」
自然と並んだ間宮は彩の上半身をしげしげ眺めてそんなことを口にした。彩は正面を向いたまま間宮の問いに応じた。
「寒くはない。そういうの気にしない性質だから」
「あたしは無理。この時期はコートが手放せない」
間宮は体の前で両腕を縦に畳んで、自分に押し付けるようにする。分厚いダウンコートを着ているせいで、身を縮めると余計に膨れて見える。
「こういうときって、陸上部は辛いわぁ。外の運動場でやってるんだけど、もう寒くて寒くて仕方ないの」
本気で寒そうに体を震わせて見せる間宮。最近は彩のリアクションが低いせいか、やたらオーバーな挙動が目立つ。
「だから、部活でもこのコートを着ていくわけ。そうしないとマジ耐えきれない」
「部活のときも着てるのか?」
「始まる前までよ。練習が始まったら脱ぐわ。でも、脱いだらやっぱり寒いでしょ?だから始まる少し前に個人個人で簡単な準備運動ぐらいはしておくの。コート着たままね。そうしておくと、少しは暖かいの」
でも寒いんだよねぇ、と間宮はあっさり愚痴を漏らす。
「冬くらいは体育館を使わせてもらえないかな、って先輩たちにかけあったんだけど、先生たちがオッケー出さないんだって。もともと中でやっている部活があるから、スペースがとれないとかなんとか」
数秒身を縮めた間宮が突然体を伸ばして跳ね上がる。勢いに乗って「もー」なんて叫び声までつけて。
「だから、今日もこの寒空の下で朝練です」
なんて、天を仰ぎながら宣うた。朝の早い時間なので、こんな間宮の姿を見ているのは彩だけだ。
「そんなに寒いのが苦手なら、朝練くらい、サボればいいだろ」
彩は帰宅部なので実際のところはどうかは知らないが、部活動というものは放課後にやるのがメインだと彩は思っている。間宮のところのように朝練をする部活もあるだろうが、それは生徒たちの自主性に任されるというもの。なら、朝練を休んだってかまわないはずだ。
そうもいかないの、と間宮が真面目に応える。
「みんなちゃんと来てるんだから」
「でも全員じゃないだろ?」
「全員じゃないけど。でも、みんな頑張ってる中サボるのは、あたしは嫌なの」
どうも間宮の返答は、彩には理解しがたい。果たして間宮の言っている『みんな』とはどこまで指しているのだろうか。
が、彩はそれ以上は追及しない。『みんな』というのをある種のキーワードのように、特に意味もなく使う人間もいるのだと、そう彩は了解している。なら、そんな相手は彩の思考とはかけ離れている。ただ、そういう人間もいると、それだけで十分だと彩も心得ている。
最近はこんなふうに、間宮が一方的に話をして、時折彩が口を挟むことで、一応会話の形になっている。それが傍目から見ても正しく会話に見えているのかは彩も知らないが、なんだかんだ通学時間は消化してしまう。
今日だって、これだけの会話のはずが、気づけば東波高校はすぐ目の前。あとは目の前の信号を渡るだけなのだが、そこで彩は足を止める。それも当然で、つまり歩行者用の信号機が赤を示している。
すぐ隣の間宮が覗き込むように彩を下から見上げる。
「響くんって、意外とこういう信号、ちゃんと待つよね」
「意外ってなんだよ」
これまで間宮とできるだけ顔を合わせようとしなかった彩も、この言葉にはつい振り向いてしまった。
割と低い声音で返したはずなのに、対する間宮はしてやったりみたいな顔をして平然と応えてきた。
「響くんって、かなーりマイペースだから。絶対人に合わせない、自分のやりたいようにやる、って感じがするんだよね」
でもちゃんと信号を待つのもマイペースなのかな、なんて、あっさり掌を返して間宮は自問する。
彩は間宮から顔を逸らして溜め息を吐く。
……また引っかかっちまった。
間宮はよく「意外」という言葉を使い、そのたびに彩が反射的に振り返ってしまう。その発言自体には、それほど深い意味はないのだろう。なのに、彩は毎回反応してしまう。最近では、彩を振り向かせるためにわざとやっているのではないかと、そんなふうに思う。
信号は、かなりの間、変わらなかった。時間としては三分くらいだろうが、それでもただ待たされるというのは退屈だ。せっかちな生徒ならかまわず突っ走っていただろう。学校の前だから信号があるだけで、この道の交通量はあまりない。だから、間宮の発言も不自然というわけではない。
だが、いずれ信号は変わる。青になり、車なんて一台も見当たらない中を、彩と間宮は渡る。学校の前にも、人の姿は一つも見当たらない。
教室に着くと、間宮はすぐに部活へと向かっていった。いつもいつも、彩は目も合わせないというのに、間宮は律義に声をかけて出ていく。こういう感覚は、心底彩は相容れないと思う。思うが、これといって間宮を突き飛ばす理由もないので、響の家に戻ってから始まった新しい習慣を、彩はずっと続けている。
ようやく解放されたとばかりに、彩は軽く息を吐いてから読書を始める。これは三樹谷の家にいた頃からの習慣で、こちらのほうがよっぽど性に合っていると、最近頓に思うようになってきた。
誰もいない教室、いや、人気のない校舎の中で、一人本を読む。ただでさえ冷え切っているのに、暖房さえいれない。普通の人間なら寒さのあまり、ただじっと読書をしていようなんて気にはならないだろう。だが、感覚を遮断する彩はそんなこと、少しも気にしない。白い手袋がさらに色を添えるようにページをめくる。ここまで静かで凍てついていると、そんなささやかな動きがよく聞こえる。
そんな平穏をいつまでも、と望んではいても、それは決して永遠には続かない。次に入って来た生徒は間宮と違い、「寒い寒い……」と零しながらも、しかし彩の姿を認めた瞬間に口を噤む。黙り込んだまま、彩を一瞥してから暖房を入れる。このまま教室に居続けるか、沈黙に耐えきれずに出ていくかは半々といったところだが、今日は他の生徒たちが早めに来たので、教室の中はすぐに雑談で満ち始めた。
それでも、彩は読書を続ける。騒音の中でも意識を自分の中で閉じることができるので、長年培った感覚遮断の技も、無駄ではない。周囲さえ、そんな寡黙な彩とは距離を置いているから、まさしく彩の望むまま。
なのに……。
「よお。響」
佐久間は彩の前の席に鞄を置いて、後ろの席の彩に体を向ける。
佐久間秀徳――。この男も間宮と同様、彩の寡黙も無視も意に介さず話しかけてくる希有な一人だ。
「新しい本か?なに読んでんだ?」
目聡く、佐久間が以前とは違う表紙に気づいて彩に指摘する。そして、目聡いばかりに彩が答えるよりも先に、その題名を理解して、目の色を変える。
彩は顔も上げず、口を開く。
「マルキ・ド・サド著『食人国旅行記』」
「うわー!やめろー!それ以上はやめろー!」
途端、佐久間が声を上げる。とび退くように、佐久間は彩から距離を開ける。がたがたと、前の机が音を立てて揺れている。
何度も荒い呼吸を繰り返し、ようやく落ちついたのか、佐久間は低い位置から彩のほうに目を向ける。
「……ったく。おまえが学校に来るようになって、良かったんだかなんだか」
彩は少し前、一週間ほど学校を休んでいた。一週間ぶりに学校に出てきたら、しかし周囲からは特に反応がない。
彩に声をかけるような人間がいないということで、彩からすれば別段不思議なことでもない。唯一、佐久間だけが無遠慮にかまってくるくらい。その佐久間も、初日の朝は彩に事情を聞いてきたが、彩がいつもの調子なのでそれ以上はつっこんでこない。
ページをめくり、彩は顔も上げずに佐久間に応じる。
「佐久間の気にすることじゃない。単なる俺の嗜好だ」
納得したのか、諦めたのか、曖昧な素振りで息を吐く佐久間。だが、数秒ほどして頭を捻り出す。彩は目だけ上げ、佐久間の姿を一瞥すると、簡潔に指摘する。
「……佐久間。言っておくが『考え』の思考じゃない。『好み』の嗜好だ」
言葉の意味が通じたか、は定かではないが、一応に納得して佐久間は眉を寄せる。
「おまえな。俺にもわかる言葉使えよ」
「単にお前の語彙が乏しいだけだろ」
彩の言葉に、再び頭を捻り出す佐久間。「語彙」という単語が理解できていないのだろう。彩はそれ以上、佐久間にかまうのを止めて、読書に没頭する。
今朝から読み始めた『食人国旅行記』は、まだ冒頭部分、ヒロインが攫われたところだ。
この本の大まかな内容は、後ろのほうで簡単にまとめてあるので、彩も知っている。生涯を誓い合った二人が思わぬ不幸のために離れ離れになり、再会を果たそうと放浪する話だ。終始、男の視点で書かれるが、果たして二人は、最後には再会できるのか。
「…………」
チャイムが鳴る。ホームルームが始まる。周囲の生徒たちが自分の席に戻ろうと、少し騒がしい。しかし、ホームルームが始まると、途端に静かになる。
彩は本を閉じ、鞄にしまう。担任の話など、本を読みながらでも十分聞きとれるが、ちゃんと聞いているふりをしておかないと、注意されると面倒だからだ。
授業の時間は、意味があるはずなのに、至極退屈だ。彩からすれば、授業の内容は小学校高学年くらいに独学でやった内容ばかりで、だからいまさら他人から教えられても、面白味もなにもない。まだ、自室の本を読んでいたほうが有意義だ。指定された教科書ていどでは、響彩を満足させる内容は皆無だ。
そんな退屈な時間を半分以上消化して、いまは昼食の時間。食堂に行けば、生徒たちが列をなして各々好きなメニューを注文している。
彩はといえば、自販機のハンバーガー一個で事足りる。早めに席を取っていると、五分ほどして一人の少女が彩のもとへとやってきた。
「おまたせしました。響彩くん」
三年生の夢々先輩。女子の中でも小柄な人で、今日のメニューはクリームスパゲティとサラダ。
夢々先輩は「いただきます」と手を合わせて食事を始める。彩は無言のまま包みを開けて、ハンバーガーに食いつく。
「あれ?お友達は?」
いつもなら、夢々先輩の少しあとにやってくるはずの佐久間が、今日はいつになってもやって来ない。不思議に思って、夢々先輩は彩に訊ねる。
「佐久間は、今日は購買部のほう。なんか、限定パンがあるからって」
東波高校には食堂の他に購買部が存在している。食堂のすぐ隣の建物にあり、同じ日に両方を周ることはできない。人気メニューはすぐになくなってしまうからだ。
食堂でお任せ定食と呼ばれる人気メニューがあるように、購買部でも月に一回、限定メニューが販売される。当日購買部にまで行かないとわからないが、生徒たちの間では相当人気のようだ。佐久間のように、普段は食堂でも限定の日だけは購買部のほうへ行く生徒もかなりいる。
納得したように、夢々先輩が頷く。
「購買部の限定は人気ですからね」
「佐久間のやつ、四限サボってたから。いくらなんでもやりすぎだ」
「あははは。すごいですね、そこまでするなんて」
いつもは四限が終わるまで机の上で眠っている佐久間も、今日は三限が終わった瞬間に教室を出ていったほどだ。ついでに「夢々先輩を一人占めするなよ」なんてわけのわからないセリフを残していった。
サラダを飲み込んでから、夢々先輩は彩に訊ねる。
「響彩くんは、購買部に行かなくてもよろしいんですか?」
「人混みは、苦手なんで」
彩は即答する。食堂でさえ、列に並ぶのを嫌って自販機のハンバーガーで済ませる彩だ。購買部で、しかも限定の日となれば、人の数はいつも以上だ。そんな中に入って行く気など、彩にはない。
「そうなんですか」
「夢々先輩は?」
「わたしは、こちらのメニューが気に入っていますから」
そう、嬉しそうに食事を続ける夢々先輩。なんとも、笑顔の似合う人だ。その柔和な表情と小柄な姿は、つい先輩という立場を忘れてしまう。
彩はハンバーガーを食べきって、口の周りをティッシュで拭く。夢々先輩はまだ食事を続けている。沈黙を埋めるように、彩は口を開く。
「――それに」
なんて続けたらいいのか逡巡して、彩は思いついたままに言葉を紡ぐ。
「限定って、興味ないから」
そんな何気なく言った言葉に、しかし夢々先輩は途端、スパゲティを運ぶ手を止めた。ぱちぱち、と目を瞬かせて、目の前の彩をまじまじと見つめる。
「…………なんか、顔についてるか?」
その不可解な反応に、彩もなんて続けたらいいのかわからず、困惑する。
いいえ、と夢々先輩はやんわりと応える。
「意外だな、って。そう、思っただけです」
「意外?」
前にも、似たようなことを別の誰かから言われた気がする。
いったい、周囲は響彩のことをどう思っているのだろうか。あまり周囲と関わりを持たないから、そんなこと、彩は知らない。
そんな彩のことなど知らず、夢々先輩は「はい」とにこやかに頷く。
「響彩くんは、特別という言葉がとても合う方だと思っていますから」
なんて、夢々先輩はしれっと口にした。
その返答に、彩はさらに反応に困る。
「特別、ねぇ……」
響彩という人間は、特別だろうか。
家はこの辺り一帯で超のつくくらいに有名な洋館。その実、小さい頃に事故に遭って以来、親戚の三樹谷の家に居候することとなった。実家に戻れたのも、つい先日、父親が亡くなってからだ。家にはもう、父親も母親もいなくて、妹と弟がいるだけ。家を継ぐのは、彩ではなく、一つ下の妹のほう。
……ざっと身辺を漁っただけで、確かに響彩という人間は特別だ。
しかし、普段の学校生活の中で、その事実を知っているのは佐久間だけだ。夢々先輩にも、この手の話はしたことがないはず。
――一体、夢々先輩は何を以って、響彩を特別な人間だと称しているのだろう。
はい、と夢々先輩はこれまた笑顔で大きく頷く。
「だって、一週間も学校をお休みになられて、その後なんのおかわりもなく学校に復帰していらっしゃるんですもの。かなりの大物とお見受け致します」
彩は喉が詰まるのを感じる。正確には、二秒ほど呼吸が止まった。きっと、なにか口にしていたら吐き出すところだ。
確かに、彩は一週間、学校を無断で休んだ。そして久し振りに学校に来た日でも、周囲の生徒たちはもちろん、教師からもなにも言われない。彩が睨みを利かせれば、相手のほうから距離を置いてくれる。
……なんで三年生の先輩からその話が出るのだろうか。それもいまさら。
色々思うところはあるが、一つだけ、彩は目の前で笑顔を作っている先輩に訊ねておきたいことがあった。
「…………先輩。俺のこと、貶してる?」
「まあ、とんでもございません。わたし、響彩くんのことを称賛しておりますのに。響彩くんはわたしのこと、そんな目でご覧になられておられるんですか?」
むむむ、と眉を寄せて彩に人指し指を突きつけてくる夢々先輩。
夢々先輩は、不機嫌になると変な敬語を使う。いつものことなので、彩はやんわりと受け流す。
「……………………いや。その気持ち、有り難く頂いておくよ」
「はい。どうぞお受け取りください」
にっこりと、夢々先輩は機嫌を直して食事に戻る。
彩は背もたれに寄りかかって、周囲をぼんやりと眺める。昼休みの食堂、生徒たちで溢れ返り、そこかしこで雑談が聞こえる。いや、それぞれがなにを言っているのかは、彩にも聞き取れない。ただ、こんな風景を眺めていると、いまの自分の居場所を妙に意識してしまう。
暇を持て余して、彩は誰も見ていないテレビへと目と耳を向ける。高校の食堂にしては不釣り合いな大画面と音響、なのに、流れるのはニュースばかりだから、誰も注目しない。
「――そういえば」
彩はテレビのほうを向いたまま口を開く。
「ここんとこ、神隠しは起きてないな」
一応、夢々先輩に向かって話しかけているつもりだが、別に振り向いてくれることは期待していなかった。だから彩はずっとテレビのほうを向いていたのだが、律義な相手は彩の言葉にちゃんと応えてくれた。
「そうですね。事件が起きなくなったのはいいことです」
でも、と夢々先輩は口調をわずかに固くする。
「犯人が捕まったという話もないんですから、まだまだ安心してはいけませんよ、響彩くん。気を抜いて夜に出歩いたりしたら、悪い人に攫われてしまうかもしれませんからね」
そう、先輩らしく彩を窘める。
夢々先輩には、彩が夜に散歩をするということは話していない。きっと、彩が急にこんな話題を振ったから、その裏の意味を予想して釘を刺したのだろう。
「――大丈夫」
そんな夢々先輩の気遣いを知ってなお、彩は珍しく口元を緩めた。
「もう、神隠しなんて起きないから――」
テレビから視線を外し、正面から夢々先輩のほうを見る。食事に時間をかける夢々先輩でも、さすがに食べ終えていた。彼女はじっと、まるで彩の真意を見抜こうとするように、ただ彩を直視していた。
「いやに自信満々ですね、響彩くん。そのご自信は一体どこからくるんですか?」
「勘だ」
「勘ですか」
ああ、と彩は即座に頷いてみせた。彩の不敵な笑みに、夢々先輩もまた不敵に笑い返す。しばし無言で笑みを交わし合い、ついに夢々先輩のほうから終止符を打った。
「響彩くんは、本当に面白い人ですね」
ごちそうさまでした、と夢々先輩はすぐにトレーを持って立ち上がる。彩もハンバーガーの包みをゴミ箱に捨てて彼女のあとを追う。食堂を出るまで、出てからも、二人は無言だったが、互いに意味深な笑みを崩さない。
その後、彩は真っ直ぐ自分の教室へ、夢々先輩は用事があるらしく、途中で別れることになった。その別れ際に、夢々先輩はじっと彩の瞳を見て口元だけ微笑を浮かべていた。
午後の授業も、やはり彩には退屈な時間でしかない。内容などはBGM代わりに聞き流し、当てられれば適当に答えておく。あっているか間違っているかはあまり気にしていない。要はテストで点数が取れればいいだけのことだから。そんなスタンスでも、響彩の解答は完璧らしく、今まで問題にされたことはないが。
授業が終われば、帰宅部の彩はすぐに学校を出る。といっても、すぐに響の屋敷には向かわない。三樹谷の家にいた頃は、用事もないのに寄り道など、したことがなかった。真っ直ぐ帰って学校には持って行けない分厚い本を読むか、駅前まで出て新しい本を買ってくるか。中学までは勝手な因縁をつけられて喧嘩を強制されたり、なんてこともあったか。
だが、最近の彩はこれまでの信条を捨ててしまったように、寄り道ばかりしている。
その向かう先は――。
「今日は…………人がいない日か」
東波高校から少し奥に行ったところにある、誰もいない公園。それほど広くない敷地に無理矢理遊具を詰め込んだようなところで、それなのにここで遊ぶ子どもは滅多にいない。公園の前の道が大通りに通じていて、地元住民が裏道として利用しているため、狭い道の割に交通量が多いのがその原因だ。そんな危ない場所に子どもを遊ばせる親は、この辺りにはほとんどいないらしい。
ほとんど、というのは、そういう事情があっても時々人の姿があるからで、だがほとんど人がいないということも、彩は知っている。
知識とか状況の推察からでなく、実体験として、彩はそれを知っている。それだけ、彩は頻繁にこの公園に寄り道している。頻繁というか、もう毎回下校時には、と言い直してもいいくらいに。
彩はもう定位置になったベンチへと腰かけ、鞄から本を取り出す。十二月のこの時期に外で読書など、周囲からはさぞ奇異なものと映るだろう。だが、彩はそんなことは気にしないようにして、いつもの読書に集中する。
寄り道を始めたばかりの頃こそ、読書などせず、公園に来る人間を見ていることに専念していたが、その時間があまりにも無駄だと気づいてからは、こうして読書をするようになった。
一応、人の気配は気にしないといけないから、喧嘩で培ったあの感覚――意識するが行き過ぎない、絶妙な感覚――で読書をしている。喧嘩でもないのにこの感覚を使うのは初めてだが、別にこだわりがあるわけではないので、彩は本に視線を落したまま人の出入りを聞いている。
といっても、ほとんど人がこない場所だ、その感覚が役立つときはあまりない。仮に人が来たとしても、近所の子どもたちかお年寄りばかり。わざわざ顔を上げるまでもなくわかるから、彩が視線を上げることは一度もない。
それでも、彩はこの寄り道を止めない。これからだって、彩は目的が果たせるまでは、この無駄な時間を続けるつもりだ。
――無駄とわかって。
続けている――。
いい加減、無駄だということは理解している。理解しているのに、どうしても足がこちらの方へ向いてしまう。そして公園に着いてしまうと、仕方ないかとベンチに腰掛ける。
それを、続けている。
……お百度参り。
なんて単語が思い浮かんで、つい苦笑を漏らす。
まだ一月も経っていないが、きっと彩は彼女に会うまで、この無駄な行為を続けるだろう。
――アンリュエッタの幻影城が崩落したあと。
目を開けると、彩は響の屋敷の、自分の部屋のベッドの中にいた。連や鮮に訊くと玄関を通った様子はなかったらしく、二人に会ったときにいつ帰ったのかなどとやかく訊かれたが、彩自身もどういうカラクリで戻ってきたのかわからない。
足場が崩れ、暗い暗い闇の中へただ落ちていた。何も見えなくなり、目を開けているのか閉じているのかもわからず、気づけば、というわけだ。
その後から今に至るまで、彩はアレクシアに会えていない。最後に見たのは、幻影城崩落のとき、彼女は落ちずにその場に留まっていたということ。
彩ですら、勝手に響の屋敷に飛ばされていたんだ、一体アレクシアはどこにいるのか、見当もつかない。
それでも、彩は知っている場所を捜し回った。駅前や、駅に至るまでの各通り、アレクシアの服や靴を買った店、最後には閉鎖中のホテルにまで忍び込んだが、収穫はゼロ。
散々捜し回った彩の最後の手段は、この公園で待ち続けること。なんとなく、ここが彼女と巡り合う可能性が一番高い気がする。夕飯に間に合う時間まで張り付いて、帰りがけに響家に向かう坂の前の空き地を覗く、それがここのところ続いている、彩の寄り道。
捜し回るあてもなく、でもなにもしないのは耐えきれず、結局、寒空の下で待ちぼうけているしかない。別れ際に約束したわけではないから、本当にまた会えるのかはわからない。これで会えなかったら、本当に無駄だ。
……でも。
会えるような、気がしている。根拠はなくても、それを不安に感じたりはしない。毎日毎日、ただ時間を使い潰しても、今日はここまで、と立ち上がるだけ。
それを、続けている。焦りもなく、苛立ちもなく。きっと会えるだろう、なんて、らしくない楽観。
だから、急ぎもしないし騒ぎもしない。ただ、いつものようにベンチに腰掛け、読書を続ける。おかげさまで、ここ最近の本の消化スピードはやたらと速い。
また、ページをめくる。
と。
――キィ……。
そんな音が聞こえた。
小さくて、微かな音。いくら人気がなくて、深閑としていたからって、ややもすれば聞き逃してしまいそうな、そんな高くて弱い音。
ハッとして、彩は顔を上げた。そんな微かな音、小さな気配に、彩は即座に反応した。迷うことも間違えることもなく、彩はその音の先に目を向けた。
反射的に立ち上がった彩は、隣のブランコへと振り返った。隣といっても、八メートルは離れている。その距離で、ブランコが微かに、揺れた音。
だが、彩はその音どころか、誰かがブランコに座った、その気配さえ気づいていた。喧嘩で培った感覚は、こういうときでもちゃんと機能してくれた。
「…………」
その姿を目にして、彩は固まってしまった。
肩まで伸びた夕焼けのような金の髪、白のブラウスに、ブルーのロングスカート、座っている姿勢だからよく見えないが、きっとブラウンのブーツを彼女は履いている。もう何週間と経っているはずなのに、その姿はちっとも変わらない。
それが、彩の記録に残っているもの。
彼女が、思い出にしてくれたもの。
「――――」
まるで、スローモーションのように緩やかに。だけど、目の前で見ているものは確かに現実で。過去の止まった絵画を見ているわけでもなく、幻のように色褪せて消えてしまうこともなく。確かに、響彩の前に、彼女は存在している。
「…………」
彩は本を閉じて、ベンチに放り投げる。視線は、ずっと正面、ブランコに座る彼女に合わせたまま。
一歩、一歩……。まるで確かめるように、着実に進んでいく。
ゆっくりで、もどかしいのに。なのに体はガタガタで、駆け出すこともできない。たった八メートルしかない、短い距離。それが、こんなにも長い。だが、その長い道程は決して苦ではない。近づくたび、次の一歩に力が入るよう。
あと、五メートル。四、三…………。
次を踏み出そうした瞬間、彼女はブランコから跳んで地面に着地する。勢いをつけなかったから、一メートルも跳んでいない。なのに、ポーズを決めるように両手を地面と水平に伸ばしているのは、なんというか、彼女らしいといえば彼女らしい。
背筋を伸ばし、腕を下ろして、彼女は自然と彩のほうへと振り返った。
「や。彩」
まるで毎日の挨拶のような気軽さ。だけど、彩にとって彼女のその笑顔は何よりも破壊的で、そして魅力に溢れていた。まぶしくて、まぶしすぎて、直視しているのが辛いくらいだ。
だが、彩も負けてはいられない。意地を張って、やり返すように、彩も昨日以来に見えるよう装った。
「よ。アレクシア」
たったそれだけの、カッコつけ。だがその一瞬は、まるで永遠のようにジリジリくる。
アレクシアは目を大きく開けて、まじまじと彩を見つめる。その真っ直ぐな視線と、なによりこの奇妙な沈黙に耐えきれず、彩のほうが根負けしてしまった。
「…………ずっと、待ってた」
「うん。知ってた」
あっさりと、アレクシアは笑った。
少し悔しくて、彩は一呼吸おいてから口を開く。
「知ってたんなら、もっと早く出てこいよ」
さすがのアレクシアもいつまでも笑顔を続けられなくて、うー、なんて声を漏らす。
「これでも頑張って早くしたんだよ。身体を創るのって、結構大変なんだから」
そんなとんでもない内容を当のアレクシアはあっさりと口にするが、ただの人間であるところの彩は、そう簡単には流せない。
「……もう、大丈夫か?」
真剣な口調で問うと、アレクシアは誤魔化すように手を振った。
「大丈夫、大丈夫。……本当はね」
口元は緩めたまま、しかし眉は寄せるなんて器用な顔を作って、アレクシアは白状する。
「身体より、服を創り直すほうが大変だったんだ。なるべく元通りになるように、結構集中したから」
アレクシアはその場で一回転してみせる。さも、褒めて褒めてと言っているように、その綺麗になった恰好を彩に見せつける。
その子どもっぽい仕草に、彩はつい吹き出してしまった。
「……なんだそりゃ」
身体を元通りにすることのほうがよっぽどすごいのに、なのに彼女は服を直したことのほうを自慢する。アレクシアの能力なら、そんなもの、大したことないだろうに。
だって、とアレクシアは口を尖らせる。
「彩から貰ったモノだから。やっぱり、大切にしたいじゃない」
そう、彼女は当然のように語る。
なんとか笑いを堪えようとした彩だったが、思いのほかあっさりと笑いは鎮まってくれた。たったこれだけの台詞で正気になれるなんて、我ながらどうかしてると内心で自嘲する。
彩は真っ直ぐアレクシアを見て、アレクシアもまた彩を直視する。そうやって、真面目に向かい合った二人は、ともに先の言葉を失ったように沈黙する。だが、その沈黙は重くはなく、むしろ心地よく思える。
……不思議な感覚。
話の先を失って。なのに不安はなく。この沈黙が、静寂が。身に沁みるように、しっくりくる。
なんだろう……。
通じ合った瞬間。通じ合っている二人。通じ合う、このひととき。
そんなことを、実感しているからだろうか。だとしたらそれはとても単純で。
――でも。
それは、悪いことじゃない――。
なんて、素直に納得できている自分がいる。
つい、微笑が漏れる。それを受けて、アレクシアのほうから口を開く。緊張を見せないように、一度息を吸って。
「彩には、感謝してる。ありがとう。…………本当は、あたしがあの子をなんとかしなくちゃいけなかったのにね」
そう、アレクシアは笑う。苦笑ではなく、真っ直ぐ、感謝と呼んだ感情を本物にするように。
彩は、反射的に身を強張らせる。……その呼び名に、反応してしまったがゆえに。
「あいつは、結局どうなったんだ?」
アレクシアが捜していた存在。
アンリュエッタ・シュスタフォーテス――――。それは最強の人喰種と呼ばれる、人類にとって最凶の悪夢。
その神人に傷を負わせたのは、他でもない彩自身。だが、アンリュエッタにどれほどのダメージを与えたのか、彩は知らない。
頭から腹部に至るまで、肉を抉るように引き裂いた一条の傷。普通の人間なら重傷の部類だろうが、彼女は神人。世界と直接繋がり、それは永遠の体力と治癒力を保持しているということ。これまで彩が経験してきた『普通』では測れない相手。
彩の不安に、アレクシアはなんでもないように、あっさりと答えた。
「生きてはいるみたい。でも傷が深かったから、無事ってわけでもない。――彩が壊した部位は、直らないし」
なんとなくわかったような気もするが、彩がはっきりと理解できたのは、最初の文言。
「それじゃあ……!」
まだ、生きている。
神隠しと呼ばれている失踪――殺人――事件。その元凶が、まだこの地球上にいる。相手は人喰種で、人を殺すために世界から生まれ落ちた怪物。
大丈夫、とアレクシアは彩の言葉と、何より思考を遮る。
「今回のことで、あの子の勢いも大分落ちたみたい。これ以上はなにもしなくて良いの」
本当に、なにも不安などないかのように、アレクシアは笑ってみせる。
なにを根拠に、とも思ったが、彩は踏み止まる。
彼女は、神魔の王と呼ばれる存在。カニバルが人を殺しすぎないように、その勢力を調律するのが役目。それが、世界が彼女に課したモノ。それを為すために、彼女はこの世界で目を醒ます。
だから、アレクシアは識っているのだろう。知らなくても、識っている。
「……なら、良かった、のかな」
半信半疑なところはあったが、彩は頷いた。そこまで理解しているのだから、彼女のことを信じようと、そう彩は思うべきだと、自身に言い聞かせる。
なら、この話はもういいと、切り替えるように彩は別の話題を振った。
「アレクシアは、これからどうするんだ?」
気楽に、努めて気楽に、口にしてみた。
……なのに。
うん、とアレクシアは途端、雰囲気を返る。外見は柔らかなままだが、だが発した言葉が、一つ一つが、どこか重い。
「今日は、そのことも話したくて、彩に会いに来たんだ」
ドクン、と。
彩の内側で鼓動が跳ねた気がした。一瞬呼吸が乱れる、その違和で、彩はそれに気づく。そんな彩の状態など知らず、アレクシアは真っ直ぐその言葉を続ける。
「――あたし、この町を出ないといけない」
頭が、真っ白になった。
返す言葉も浮かばず、言葉を出すことも忘れて、そもそも彼女の発した言葉を理解することから遅れている。
完全に、空白だ。そんな空っぽの状態だったから、次の彼女の言葉で、ようやく彩はその真意を理解することができた。
「この町は、もう大丈夫だから。だから今度は、別の場所に行かないといけない」
別の、場所……。
この町の危機は去ったから、彼女はこの地を去る。波左手町から、明風市から、響彩のいるところから。――彼女は、いなくなってしまう。
たったそれだけ、だけど、その一撃は、なによりも彩を打った。
「……それって、どこだ?」
振り絞った言葉は、たったそれだけ。
彼女は、ただ首を横に振った。
「わからない。あたしは世界に言われた場所へ行くだけだから」
彩の思考が、今度は反転したみたいに、急に熱くなった気がする。
――そんなんでいいのか?
そう自問するように。
――こんなんで納得できるのか?
そう急きたてるように。
なのに、彩の思考からはまともな言葉が浮かばない。今度はオーバーヒートを起こしたみたいに、彩は結局動けずにいる。
「――――あたし、ね」
彩の動揺に被せるように、アレクシアは続きを口にする。
「考えてみたんだ。なんのためにこの世にいて、こんなこと続けてるのか、って。いままでは、世界がそう言うから、そう決められているから、って、そんなことばっかり思ってた。ううん、思うこともなかったんじゃないかな」
生まれた瞬間に、役目を決められた存在。いや、この世に存在する意味を予め決められていた彼女。
だから彼女は、これまで自分の存在になんの疑問も持たなかった。なにかを考えることさえ、許されてはいなかった。
ただ、その役目だけに忠実に。
それが、変わってしまったのは――――。
「彩に逢ってからだよ。あたしがこんなふうに、色々感じることができて、色々考えるようになったのは」
まるで大切な宝物を優しく包み込むように語る彼女に、彩はなんて返せただろう。
――それは、彩にとって罪だった。
――彩の存在こそ、罪悪の象徴のはず。
なのに。
彼女は、この出逢いを慈しんでくれる――。
だからね、とアレクシアは続ける。
「考えてみたんだ。自分の役目を自分なりに。誰に決められたわけじゃなくて、あたしが決めた、あたしの存在理由を」
彩は吐露した、自分が存在する理由がほしい、と。
彼女は応えた、理由なんていらない、と。
理由がないから、意味が曖昧だから、価値が定かでないから、人は自分の定義を決められる。そう、口にした彼女。彼女は、すでに決まっている。自分が何者で、なんのためにこの世に生まれて、存在しているのか。
そんな彼女が、自分の決意を口にする。自分が決めた、自分だけの意味を。
「――あたしは、彩のために生きている」
揺れることなく、アレクシアはそれを綴る。
「彩を守るために、あたしはカニバルを追っている。世界中の人たちを、なんて大それたことはピンとこないから。……あたしは、彩に逢うために生きてきた。そしてこれからも、彩のために生きていくんだ、って」
それは、世界が決めた役割からすれば、ほんの小さな決意かもしれない。だが、彼女はそんなことを思っていないし、むしろ自分の決めたことに胸を張っていられる。
世界中なんて、誰ともわからない不特定多数よりも――。
ただ一人、はっきりと思い描ける存在のために――。
だから、とアレクシアはその次を口にする。
「あたしは、次の場所に行こうと思う。今度こそ、あたし一人でやれるんだって、あたし自身が実感したいから。彩に助けられなくても、一人で大丈夫なんだって、証明しないといけないから」
だから、とアレクシアは自身の決めたことを、改めて口にする。
「あたしは、一人でこの町を出ようと思います」
小さな子どもが背伸びするような言い方だったが、彩は少しも笑わなかった。その決意はどこまでも真剣で、揺るぎないものなのだと、彩は知ってしまったから。
なにより――。
――彼女の決意を、彩自身も守ってやりたいと、そう思ってしまったから。
だから彩も、少しでも軽く聞こえるように、余裕を装って返してやった。
「たまには、この町にも来いよ。なんの用がなくても。俺は、いつでもアレクシアのことを待っているから」
いつでも。いつまでも……。
そんなセリフは、いまさらだ。
だって、彩はずっと彼女のことを待ち続けていたのだから。これから先、何年だろうと、何十年だったとしても、彩は待っていよう。
泣き出しそうになるのを笑顔で隠して、アレクシアは弾むように頷く。
「うん」
「また駅前に連れてってやる」
「もう行ったよぉ」
「一日だけで制覇できると思ってるのか?まだまだ行っていない場所はいくらでもあるんだぞ」
「そうなの?」
「ああ。それに、夜に通ったあの道にだって、結構いろんな店が入ってるし」
「へえぇ」
「そっちも連れてってやるし、アレクシアの靴を買ってやった通りだって、全然見てないし」
「……もう」
声を震わせながら、懸命に彼女は唇を尖らせる。
「そんなにたくさん言われたら、この町から出られなくなっちゃうじゃない」
アレクシアのふざけ気味の口調に、彩は危うく硬直しかけた。
もしも、彼女がこの町からでなかったら……。
ずっと、自分の傍にいてくれるなら……。
……論外だ。
すぐに、軟弱な自身の思考に叱咤する。
響彩は、彼女の決意を守ると、そう決めたんだ。それは、どうあっても揺らいではいけない。……彼女の決意を揺らがせてはいけない。
だから、彩は悪ふざけがすぎて詫びるように苦笑を漏らす。
「……悪い。でも、それだけこの町にはいろんなものがあるんだって、それだけは忘れないでくれ」
口元が震え出しそうだった。あまりにも、らしくないセリフだ。響彩という人間は、この世界のあらゆるものから距離を置いて、どんなものにも興味を持たないはずだった。誰とも関わらず、不用意に近づくものをはねのけてきた。
だが、そんならしくないセリフも、嘘偽りがないから性質が悪い。
彼女と一緒に歩いた様々な場所。彼女と一緒に眺めた多くの景色。彼女と一緒に過ごした、かけがえのない時間――――。
その思い出に包まれているからこそ、この町は割とマシに見えた。
うん、とアレクシアは大きく頷いた。
「忘れない。この町も。――彩のことも」
涙を堪えようとした彼女は、結局、抑えつけることができなかったようだ。目から溢れたものは頬を伝って、止まらない。荒い呼吸を繰り返すみたいに、何度も何度も洟をすする。
それでも、アレクシアはずっと笑っている。その崩れない笑顔はとても綺麗で、そのあまりの美しさに彩のほうが崩れてしまいそうだ。
涙を拭い、呼吸を整えると、アレクシアは、ねえ、といつもの声で彩に呼びかける。
「目、閉じて」
「目?」
何の脈絡もないから、彩は反射的に訊き返す。
そう、とアレクシアは頷く。
「両方とも。あたしがいいって言うまで、絶対開けちゃダメだよ?」
真顔で繰り返す彼女を見ていて、ようやく彩もピンとくるものがあった。だから彩は、素直に頷いて、両目を閉じる。
「これでいいか?」
「うん。そのまま、ちょっと待ってて」
じっと、彩は待つ。
意地悪して途中で目を開けてやろうかとも考えたが、結局、自粛しようと結論した。アレクシアが自分の意思で進むことを決めたんだ、そのスタートを彩の気紛れで台無しにしてしまうのは、ちょっと酷い。
彩は平生のように、感覚を切った。もう彩は、彼女がなにをしているのかわからないし、時間の流れも気にしない。
こんなときでも、彩の感覚遮断は完璧らしい。普通なら、相手がなにをしているのか気になって耳に意識を向けたり、時間の経過をやたら気にしたりするのだろう。
だが、彩は一向に意識をぶらさず、体を静止させたままでいる。いまの彩なら、一分の経過も一時間の経過も関係ない。きっと声をかけられるまで、飽きることなく突っ立っているのだろう。
周囲の喧騒も気にせず、この人気のない公園に他に人が立ち寄ったとしても、一向にかまわない。もう十二月だというのに、コートも着ないでこの寒空の下、読書に集中できるのだから、大したものだ。
だから、彩にはどれくらい時間が経過したのかもわからない。それでも、耳元で彼女の「もういいよ」という声が聞こえて、彩はゆるりと目を開けた。
――彼女は、もうそこにはいなかった。
驚きは、あまりなかった。まるで予感していたみたいに、目の前の現実を受け入れている。
いや、受け入れるしかなかったのかもしれない。彩は、送り出すと決めた。だから、彼女が行ってしまうのは、当然といえば当然。
結局、どっちが自分の本音なのかも、よくわからない。だが、あまり驚いていないというのは、本当だった。
自然、彩は自分の首元に手を伸ばした。……首に巻かれた毛糸のマフラーは、夜のような黒だった。
「……こういう知識はあるんだよな」
苦笑もせず、彩は呟いた。吐いた息が白くて、改めて冬がやってきたのだと理解する。
マフラーなんて初めてだったが、存外、体を温めてくれるらしい。首から上が、ほんのりと熱を帯びているのがわかるていどに。
……俺の感覚遮断も、鈍ったか。
その愚痴は、口にしない。この熱と、肌に残る感触を、彩だって大切にしたいから。
マフラーから手を離し、彩は空を見上げて白い息を吐く。
「――ありがとう」
彩もまた、彼女との出逢いを感謝する。
いままで彩は、誰かに近づくことを恐れていた。誰かに近づいて、触れてしまって、そして壊してしまったら。それを、何よりも恐れていた。
……でも。
触れる恐怖よりも、触れられない恐怖を……。
――そして。
触れられない恐怖よりも、触ってしまう恐怖を――。
だから、彩は彼女の痕には触らない。そうやって彼女を、彼女の決意を壊してしまうのは、なによりも恐い。
――その恐怖を教えてくれて、ありがとう。
また、いつか逢おう――――。
彩は、待っている。
いつでも。いつまでも…………。




