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九章

 もう一歩、(さい)は二段目に足をかける。左右の足が段差に乗ったいま、不意に襲撃をかけられたら回避は困難だ。

 彩が対峙する敵は正面にいる。だから、不意打ちなどできようはずもないのだが、彩の相手だけは例外だ。なんの前触れもなく、シドは両者の距離を()にする。そのカラクリはまだ彩にも見えていないが、気づいたときには、シドは至近距離に迫っている。

「…………」

 目の前の敵へと、彩は油断なく視線を向ける。シドは憤怒の色のままに、彩を見下ろしている。数秒ほど間をおいても、シドが動く気配はない。

 彩はさらに一歩、前に出る。決して油断はできない。さらに数秒ほど様子を窺ってから、彩はもう一段目に足をかける。

 風はない。道の外に広がる枯れた草は、微風もなく静止している。物音もなく、対峙する二人以外に、ここには誰もいない。ただ、枯れた草原が、死んだ花畑が、彼らの行く末、結末を見守っている。

 まだ、始まってもいない闘争。どちらからも、一度とて攻撃はない。戦闘の間合いに入るべく、彩がまた一歩、シドとの距離を詰めるのみ。

 十段のうちの、五段目に彩はいる。数秒の間、呼吸を整えるまでもなく、戦闘に臨む意識のままに、彩は六段目に足をかける。

「…………」

 半分を切った。彩はじっと、シドを見る。シドもまた、上ってくる、向かってくる彩を、憤怒の眼で見下ろしている。

 あと半分、上り切った先に、彩は相手と同じ足場に立つ。そう意識した途端に、手袋を外した右手がぴくりと反応する。わずかな動きだったため、シドには気づかれていまい。

 そのわずかな反応のみから、彩は自身の身体状況を把握する。――つまるところ、緊張しているのだ、と。

 巨大な敵に向かおうとする自身の緊張と、早く駆け出したいという肉体の躍動。強張る身体(からだ)、それを押しのけようとする内側の熱。戦いを前にして、体が自然と(たかぶ)っている。その熱気を、彩は抑えつけながらもう一歩を踏み出す。

 ――戦いにおいて重要なモノは、冷静な判断力。

 そう、いままでの経験から、(ひびき)彩は心得ている。

 彩が相手にするものは、常に理不尽の塊だ。何の理由もなく、脈絡もなく、適当な因縁をつけられて、戦いを強制される。一対多、五人くらいならまだいいほうで、多いときは四十人を一度に相手にしたときもある。

 そんな理不尽を前に要求されるモノは、黙って相手の能力を計り、流れを読むこと。一度に複数人を相手にすることはできない。それがなんの取り柄もない、ただの人間の限界だ。だが、一人一人を相手にするのなら、それほど苦ではない。休憩なしの勝ち抜き戦、あとは自分の体力が()つかどうか。

 彩のいままでこなしてきた喧嘩は、常に相手のほうが多い。だから、まともな勝負をしていたら最後まで体力が()たない。だから、なるべく少ない手数で相手を戦闘不能にすることを覚えた。適度な力加減、適切な方向で、急所を決める。始めの頃こそ何度も手を誤り、惨敗することも多かったが、小学校高学年にはコツを掴み、中学生になると要領も覚え、ほぼ一撃で相手を倒すことができる。

 とはいえ――。

 常に一撃で済むとは限らない。響彩が苦戦する強敵は、喧嘩の中盤や最後になって現れることがある。

 下手に間合いを詰められない相手。彩の動きすら読み、彩の裏をかこうとする相手。そういう相手にこそ、彩は意識を集中させる。一発でも相手からの攻撃を受ければ、その後の戦いに支障がでる。ゆえに、間合の計り間違えはせず、隙を作らない。攻撃を受けるにしても、それは必要最低。攻撃をしかける上で必要なら、相手からの反撃も止むを得ない。

 相手を撹乱(かくらん)する、ヒット・アンド・アウェイ。相手がブレた瞬間に、急所を打ち抜く。

 相手が強敵であっても、響彩は勝ち抜いた。それは、彩の中で普段の戦闘スタイルと強敵相手の戦闘スタイルを意識しているからだ。雑魚(ザコ)が相手なら、体力の消耗は最低限に抑え、多くても三手で終わらせる。相手が強敵なら――――――――響彩は全力で相手をする。

 彩がいま相手にしようとしているのは、紛れもなく強敵。しかも、未だ間合いや攻撃方法が不明。どんなに距離が離れていても一瞬でその差を無意味にし、次の瞬間にはその剛腕が壁すら打ち抜くほどの威力を発揮する。

 ――意識は、どこまでも冷静に。

 彩が知っていることは、相手の能力が未知だということ。人間の間合いでは計れないということ。一撃で肉体を打ち抜くほどの破壊力を有するということ。

 まだ、彩はこの相手を倒す方法がイメージできない。その流れから瞬間までが、想像できない。喧嘩慣れしている彩には、ほとんどの相手に対して()ただけで倒し方が思い浮かぶ。その予測を理不尽に打ち砕くのが、響彩にとっての強敵。

 だから、強敵を相手にするときは、全力を投じる。意識は、どこまでも冷静に、どんな些細な情報でも逃すまいと、観察を怠らない。筋肉は、常に彩の意思に沿って動くように、緊張で強張らないように、抑えきれずに暴発しないように。

「……」

 浅く息を吐き、彩はもう一歩、踏みしめる。

 体の内側から、熱い。熱を感じているわけではない、体の些細な反応から、そう理解しているだけ。

 いまさら熱を鎮めようとしたって、無駄だ。身体(からだ)を落ちつかせようと深呼吸なんかしたら、その一瞬の隙をつかれる。……相手を前にしたら、切り替えるだけ。意識一つで、肉体まで丸ごと切り替える。

 それが、響彩の戦闘スタイル。喧嘩の中で、大勢の敵に囲まれている中で、彩が生き残るために身につけた(すべ)

 あらゆるモノを破壊する感覚。ゆえに普段は意識しない感覚も、このときばかりは別の意識にすり替える。相手を感覚せずに、周囲の能力を理解し、周囲の状況を理解する。意識は常に冷静に、相手を観察し、自身を把握する。能力差を覆すために策略を巡らし、その策謀を練るために敵の能力と周囲の環境を記憶、保存する。

 さらに一歩、彩は段を踏む。残り、一歩。あと一歩で、階段は終わる。あと一歩で、彩はシドと同じ足場に立つ。

 決して逸らさぬ視線の先に、シドは変わらぬ姿で彩を見下ろしている。二メートル近い、巨木のような体躯(たいく)。黒のロングコートに、彩とは対照的に黒のグローブを身につけ立ちはだかるその姿は、まさに闇そのものだ。

 階段を上ってくる彩を見下ろす表情は、依然、憤怒を(たた)えている。この男に許された感情が怒りのみとばかりに。

 彩は意識を研ぎ澄ましたまま、しかし少しもかまえることなく、階段を上ってきた。相対するシドも、激情を滾らせたまま、しかし彩に向かってくることなく、かまえることもない。

 それも、残りあと一歩。この一歩を彩が踏み出せば、両者は同じ場所に立つ。彩とシドは十メートルの距離を開けて、睨み合う。その距離が、シド相手にはなんの意味もないことを、彩は身に染みて知っている。

「………………」

 その一歩を、彩はすぐには踏み出さなかった。躊躇(ちゅうちょ)したわけではない。改めて、己の意識に集中する。

 肉体(からだ)はすぐに動くのか?相手の動きに反応できないようではいけない。最後の一歩の踏み位置を誤っただけで勝負がつきかねない。階段を上る彩のほうが圧倒的に不利なのだ。段差を上る間に攻められなかっただけでも幸運といえる。この最後の一歩で相手が来ないと何故言える?その一歩を見定めろ。相手までの距離とその空間を記録しろ。次に自分がいる場所を保存しろ。肉体(からだ)はすぐに動くのか?相手の動きに反応できるのか?硬直してはいけない。決して油断なく。意識はすでに切り替えている。深呼吸など必要ない。

 次の一歩、それだけ。

 彩はその一歩を、


 ――――――――――――――――、


 空気が引き裂かれる音を聴く。

 ただの一突き。槍のような一撃。

 その破壊力は厚さ四十センチメートルの鉄筋コンクリートを容易く貫通するほど。その威力の前では、人間の肉体(からだ)など紙にも等しい。心臓は、一瞬で握り潰され、理解する前に絶命する。

「――――」

 彩の体が路面を転がる。

 シドは虚空を貫いた自身の右腕を無視して、彩の姿を追う。

 彩は転がる勢いに任せて、シドから距離を取る。すぐに立ち上がれるように、路面に手を添えて。

 彩がシドの攻撃をかわすのは、これで三度目。今回もいままで同様、まるで気配がない。彩が階段を上り切った、次の瞬間、十メートル離れた位置にいたはずのシドは、彩のすぐ目の前に出現していた。彩がかわせたのも、ほとんど反射で、単に運が良かったにすぎない。なぜなら彩は、まだシドの攻撃手段を理解していないのだから。

 両者の視線が交わされる。見上げる彩と、見下ろすシド。互いに、敵の位置を確認する。


 ――――――――――――――――、


 振り下ろされた右腕は路面に激突する直前で停止する。

 彩は階段とは反対の方向へと転がり、その勢いを利用して立ち上がる。回避により、両者の距離は再び十メートルほど離れる。

 今度のシドの攻撃は、十分目で追えた。すぐ目の前に姿を認識してから、低い位置にいる彩目がけて右腕を振り下ろすまでの猶予。立った状態からすぐに突かれるよりは、時間がかかる。おかげで、彩はシドから距離を離すことができた。

 といっても、まだ安心するわけにはいかない。状況は、彩が階段を上り切ったときまで戻っただけ。十メートルの距離など、シドなら一瞬で(ゼロ)にする。

「――――――――」

 シドは右腕を上げ、彩のほうへと体を向ける。かまえはしない。しかし、まるで納得できない理不尽を前にしたように、右腕を怒らせ、激情に顔を歪める。

「何故かわす」

 その声は、地獄の底から吐き出される鬼のそれだ。怒気に染まったその音だけで、周囲の空気まで刃物と化したよう。

「――四度」

 なおもシドは言葉を吐き出す。シドは階段を上がったすぐの位置で、彩はそこから十メートル離れた位置。()しくも、彩がこの場に立ったときとは、互いの位置関係は入れ換わっている。

「私の(わざ)が四度も外れるなど、これまでなかった。これは偶然ではなく必然という(たぐい)のものだ。ただの人間風情にここまで翻弄されるなど、あってはならない」

 そう口走ってしまう自身にさえ耐えられないとばかりに、シドの激情は抑えがたいものとなっている。事実、これはシドにとって信じ(がた)い悪夢なのだろう。魔術を極め、人間を捨て、ついには世界そのものに挑む。そんな彼が、たかが人間、(おのれ)が低俗と見下した人間如きに、(ことごと)く自身の業がかわされるなど、許し難いこと。

 彩は不敵に、挑発するように口の()を曲げる。

「おまえのその妙な動き、もう見えてるんだよ」

 それは、事実ではない。ただの挑発だ。彩はまだ、シドの動きを見切れたわけではない。相手の接近に気づいて、反射的に避けているにすぎない。状況は、まだ彩に有利ではない。

 だが、敢えて彩は挑発する。その挑発に、少しでもシドに隙ができるなら、その隙を彩は見逃さない。改めて、彩は次の相手の出方を窺う。

 ほう、とシドは声を漏らす。

「――我が秘術を()せるか?人間風情が」

 その怒りは、しかしこのとき、別のものへと変質する。

 さきほどまでの激情とは違う。認められない理不尽を前にして激高している、その抑えきれない怒りを吐露したものとは、明らかに異なっている。

 それは、赤々と燃える炎が淡いブルーに変わる気配。外見はその威力を失ったように見えて、その内側ではさらなる灼熱が滾っているかのよう。

 その見えない気配に、彩の皮膚が反応している。

 頭の中で、警報が鳴り続ける。あれは、危険だ。ここから先は、響彩の理解の外側にある。

 その気配を、響彩は知らない。いままでに経験したことのない、彩の記録の中には存在しないモノ。

 シドは緩やかに自身の右腕をかまえる。それは彩がいままで見たことのないかまえだ。目前、肩と水平に伸ばした腕には力がない。ただ掲げただけの腕は、それだけではなんの危機感もない。

 だが――。

 ――ぞわり。

 腕が持ち上げられると同時に、周囲の気配まで励起する。(よど)み、沈んでいたモノが、その腕に引き上げられるように、一つの形を成す。

 シドの憤怒の眼光が、(ギラ)と彩を射抜く。

「貴様を敵と認めよう。その身に刻んだ秘術の全てを尽くして挑むがいい」

 それが、二人の戦いの真の幕開けとなる。


 その爆音に、彩は反射的に振り返った。彩の後方、五十メートル先で白煙が上がっている。その状況を子細に観察しておきたかったが、生憎(あいにく)、彩にはそんな余裕などない。

 素早く、彩は対峙すべき相手へと視線を戻す。突き出された右腕には、相変わらず攻撃の意図が見えない。地面と水平に持ち上げられた腕、緩く開いた掌、それだけの所作に、一体どんな危機があるというのか。相手は、その場から一歩とて動いてはいない。

 ――だが。

 その光景は、彩の常識から外れていた――。

 シドの右手、その前方に張られた、光の壁。その厚みはわからない、右の掌を中心に道幅ギリギリまで広がる光の幕。光は絶えず色を変え、模様を変え、向こう側の景色を歪めている。

 その光が、再度、シドの右手を中心に(わだかま)る。

「……ッ!」

 咄嗟に、彩は地面を蹴る。

 放たれた光の魔弾は、バスケットボールより一回り大きい。ピッチングマシーンから放たれたように、その弾丸は直前まで彩がいた場所――胸部の中心――を通り過ぎ、遥か後方の道に激突、路面を粉砕した。

「――どうした?人間」

 眼光を怒らせたまま、シドが口を開く。光の壁に遮られても、その地の底から吐き出されるような低い声は確かに彩の耳に届く。

「反撃したらどうだ?かわすばかりで、それでは逃避と変わらぬ。命じたはずだ、貴様の身に刻んだ秘術の全てを尽くせ、と」

 彩は相手の挑発を完全に無視した。彩は、常に冷静に戦況を把握することを心がけている。仮に挑発に乗るにしても、それは利用するに価値があると判断した場合だけだ。

 だからいま、彩は相手の言葉に必要以上に注意を傾けない。――それ以前に、そんな余裕を見せられる状況ではなかった。

 光の防壁――。

 光の弾丸――。

 目の前の現実が、これまで彩が生きてきた常識とはかけ離れ過ぎている。

 彩がこれまで経験してきた戦いなど、所詮は悪ガキどもとの喧嘩でしかない。拳や蹴りがほとんど、鉄パイプや金属バットなんかは良く見かける、ナイフは時々いるくらい。だから、彩も相手が凶器を持っている、くらいでは動じない。

 だが、銃の類は彩も初めてだ。しかも、こんな大砲並みの、かつ、得体も原理(カラクリ)も知れない兵器なんて、どう対処すればいいのかまるでわからない。

 ……わかるわけもない。

 シドは魔人だが、元は魔術師。掌の上に火を起こすことも、割れた硝子を時が巻き戻るように修復することもできる、奇跡の担い手。しかも、シドは人間だった頃、故郷で最高位の魔術師だった。その彼の秘術が、魔術の心得のない一高校生に理解されるわけもない。

 ――だが。

 彩は泣きごとを言わない。戦闘放棄など、もっての他だ。原理は、確かにいまの彩では解読不能だ。それでも、現象だけなら把握できる。

 あの光の弾丸は、まさしく砲弾と考えていいはずだ。地面を砕いた威力から、直撃すれば複雑骨折、内臓破裂なんて簡単だろう。一発ももらうわけにはいかない。

 しかし、彩は光の弾丸単発には、それほど脅威を感じていない。二度の攻撃を経験し、彩の目で十分追えることを確認できた。あの速度なら、あと四メートル、ギリギリ六メートルは近づけるだろう。

 もちろん、彩の警戒はそれだけでは解けない。戦術が変わってから、シドの攻撃はまだ二回しかない。相手は、これまでの彩の常識を悉く覆す相手だ。他の隠し玉を持っている可能性もある。そもそも、この弾丸を連射できないなど、誰が保証できるものか。

 さらに、彩が考えるべきはもう一つある。

 ――あの、壁。

 光を集めて放たれた弾丸で、地面に穴を穿つ威力がある。あの光の壁がただの飾りなんて、とても考えられない。弾丸を生成するための単なる装置でしかないというのも、楽観的過ぎる。

「…………」

 彩は、ここで初めてかまえる。肘を曲げ、両方の拳を相手に向ける。

 シドは憤怒の表情のまま、あまり変化がない。口を閉じたまま、ただじっと彩の姿を見ているのみ。だが、これだけあからさまにかまえれば、相手とて意識しないわけにはいかない。

 光が揺らぐ。攻撃の前兆。

「――――」

 冷静に、彩はかわす。

 シドの攻撃パターンは、少しも変わらない。光を中心に収束させ、そして放つ。弾丸を放つ直前の揺らぎも、狙いも、軌道も、弾丸の大きさも、速度も、これまでとなにも変わらない。

 ――球種はこれだけか?それとも様子見か?

 彩は、警戒を解かない。

 こんな一方的な状況でも、彩は反撃の一手を考えている。反撃と言っても、それは賭けに近い。だからこそ、その一手を成功させるため、彩は決して油断しない。なおかつ、身体(からだ)が硬直してタイミングを外してしまわないように、適度に力を抜いている。かまえたといっても、それほど拳に力は入れておらず、むしろ脚はクッションを持たせて動きやすくしている。

 平生(へいぜい)の呼吸のまま、彩は大きく前に出る。両者の距離は、四メートル。シドの弾丸を、ギリギリかわせるかどうかというライン。

「………………」

 彩は緩くかまえたまま、相手を睨む。

 本当にギリギリの距離だ。攻撃の初動を見て、かわす。それが可能な、最低必要な間隔。

 彩は、動かない。格闘技では、ステップを踏んで相手の動作に対応できるようにする人もいるが、彩は立ち止ったままただじっとシドを睨むばかり。対するシドも、同様。光の壁の向こう側、顔に怒りの色を張り付けたまま、相対する彩を睨み返している。両者、ともに静止し、沈黙している。互いに口を閉ざし、黙したまま、視線だけで闘志をぶつけ合う。

 まるで永遠のような沈黙を、最初に破ったのは光輝の壁だった。

 シドが掲げた右の掌、それを中心として、光が揺らぐ。渦を巻き、吸い込まれるように光が収束していく。砲撃の前兆。これまでと、寸分違わないその挙動。波の不規則性はあろうとも、その一連の流れは全くの同一。

 彩は動かない。決して、攻撃を前に足が竦んだわけではない。不屈を訴える闘志の瞳は、いまだ色褪せず、それどころかなお一層、激しく燃えるよう。

 その(かす)かな予兆を、彩は()る。視野が捉えたと同時に、彩の足は滑る――前へと向かって。

 光の壁から、もう何度も繰り返されてきたバスケットボール大の弾丸が放たれる。大きさも、初速も、これまでと同じ。当たれば肉体(からだ)の中身など、一瞬で撹拌(シェイク)される。

 がくん、と。

 彩は前のめりに倒れる。前に滑り出した足から、踏み止まることなく、身体(からだ)が傾いで、地面に向かって落ちていく。

 もちろん、彩は誤って足を踏み外したわけではない。武道における受け身の一種で、本来は相手に突き飛ばされる勢いを利用して距離を取るための技だ。それを、彩は砲撃からの回避と、間合いを詰めるために利用した。見慣れない人間からは前転のように見えただろう。砲撃の前兆を正確に見極め、その瞬間、タイミングに的確に足を崩し、一寸の狂いなく、そして迷いなく前に出たからこそ、彩は敵の攻撃をかわせたのだ。

 だが、ここまではまだ彩の賭けの範囲ではない。――本当の賭けは、ここから。

 受け身から素早く起き上がり、彩は迷わず地面を蹴り、さらに前へと飛び出す。その最中、彩は壁の中央に開いた穴を確かに見て取った。

 砲撃の直後に、光の壁に開く穴。その現象自体は、これまでの攻撃でも、彩は確認している。そして二度の攻撃(サンプル)から、穴が(ふさ)がるまでの時間は、およそコンマ五秒。

 この瞬間を狙うなら、砲弾を放った直後のカウンターしかない。だが今回、彩は受け身を取ってからの反撃だ。よほど繋ぎを上手くやらなければ、間に合わない。

 彩は迷わず、地を蹴った勢いに乗って右手を突き出す。無駄のない正拳突き。その拳は吸い込まれるように、空洞の真中(まなか)へと飛ぶ。

 穴は徐々に狭まり、その隙を埋めようとしていく。それより先にと、拳は速度を緩めない。拳が、ギリギリ通るくらいの大きさまで穴は小さく(すぼ)まる。なのに、彩の拳が到達するまで五センチメートルの距離がある。たったそれだけの距離。だが、絶望的な隔たり。

 ようやく、彩の拳が届いたときには、穴の直径はさらに縮まり三センチメートルほど。指先なら入っただろうが、拳ではもはや不可能。それでも、彩は拳の振りを緩めない。むしろ、なお諦めないとばかりに、速度を上げる。わずかに伸びた拳、それが、縮んだ穴の淵に挟まれる。

「……ッ!」

 それは、純粋にして壮絶な痛み。突き飛ばすような、弾き飛ばすような痛みが、拳から肘、肩まで突き抜ける。そのあまりの痛み、あまりの反動に、彩の体は吹き飛ばされそうになる。

 ――そう。

 彩はなお拳に力を込める。

 痛みを、感覚する――。

 反動に拮抗し、いや、衝撃すら押し返して、彩は前に出る。踏み止まった足を軸にして、伸ばした腕を押し込んでいく。

 手袋を外した右の拳が、その痛みを感覚する。その感覚は、痛みの根源を破壊する。閉じようとした穴が、その淵から崩れ出し、拳が通るだけの隙間を開ける。

「……!」

 その間隙(かんげき)を彩は視認し、そのまま拳を捻じ込もうと前に突き出す。

 ――バリィ。

 と。

 彩の身体(からだ)が遥か後方へと吹き飛ばされる。踏み止まることさえできず、彩は路面の上を転がる。転がることで勢いを殺せたのは、体に染みついた経験の賜物だ。

「……っ」

 彩は片膝をついて体勢を整える。相手からの反撃に備えて起き上がりながらも、胸の内では今の現象のことを冷静に分析しようとしている。

 ――弾かれた?

 確かに、彩の右手は光の防壁に穴を開けた。そのまま内部、五センチメートル近くまで侵入できたのは、見誤りではない。

 だが、弾かれた。そう、それは確かに弾かれたのだ。突き進んだ拳が何かに触れ、途端、彩の身体は十メートル近く吹き飛ばされた。

 ――中にも壁がある、か。

 目では確認できなかった。しかし、あの感触に、彩は敵の布陣の構造を理解する。――光の壁は、一枚だけではない。最低でも二枚、もちろんそれ以上に張っている可能性もある。

 彩の見ている前で、外側の壁が修復していく。コンマ五秒とはいかないが、二秒のうちに、穴は完全に消滅してしまった。

 ――ふざけてる。

 彩は立ち上がる。

 光の壁は、彩が予想した通り防壁でもあるらしい。しかも、触れただけで弾き飛ばしてくるような悪辣な性質(タイプ)。自動修復までできるうえ、仮にいま見えている壁を突破しても奥にはまだ壁がある。何重の備えがあるかわからないし、奥の壁もきっと自動修復機能をもっている。

 賭けによってわかったことは、戦況は絶望的だということ。

 彩の破壊をもってしても、塞がりかけた穴をわずかにこじ開けることしかできない。しかも、外側の壁に意識が集中しているから、奥の壁に触れた瞬間、破壊もできずに弾かれてしまう。

 だが、それ以外にもわかったことはある。

 前提として、あの壁は破壊可能だということ。わずかだろうが修復しようが、確かにあれは彩の感覚で破壊できる。

 なら、勝機(チャンス)はある。もとより逃げることが許されない勝負だ。可能性があるだけ、マシと考えるべきだろう。

 そのうえで、彩はあの壁の攻略法を思案する。

 壁に触れればダメージはあるが、戦闘不能になるほどの威力ではない。軽めの蹴りか、一際重い拳か、そのくらいのダメージだ。起き上がったときの体の鈍りから、そう推定する。

 さっきは穴の開いた瞬間を狙ったから攻撃が浅かったが、隙間の有無に関係なく突っ込んだらどうなるか。あるいは、体ごとぶつかったらどうか。彩の破壊が感覚によるなら、別に手袋を外した右手にのみ頼る必要はない。小さい頃なんて、着ている服さえ壊していたのだから。

「それだけか?」

 低く、シドが声を漏らす。

「この程度も破れぬか。魔術はすでに潰えたか。それとも、そもそも貴様は純血ではないのか」

 シドの語る言葉は、彩には意味不明だ。もっとも、まだ勝負の決め手をもたない彩にとって、相手の口上に耳を傾けている余裕などないのだが。

 だが、次のシドの言葉だけは、さすがの彩も聞き流せなかった。

「かわまぬ。我が行く手の障害となるならば――――消えろ」

 途端、シドの右手を中心に光の壁が波打ち始める。それが、さっきまでとはレベルが違うことを、彩は即座に把握する。さざ波ていどの揺らぎよりも、遥かに大きい。その明らかな変化は、次弾の威力を想像させる。

 高まった波が渦を巻いて収束し、その光度を増したエネルギーが、直後、弾丸となって解放される。直径の段階ですでに彩の身長を超え、スピードはこれまでの弾丸よりも速い。

「……っ」

 彩は全力で回避に移った。小さい弾丸でも地面を砕く威力だ。あんな大きな弾丸をもろにくらったら、粉砕骨折を通り過ぎて、体そのものがバラバラになるだろう。

 彩は地面に向かって飛び込む。滑り込みの要領で回避したが、それでも足先がわずかに(かす)る。

「……!」

 それは、激痛。ただ掠っただけなのに、膝から下が吹き飛ばされたような痛み。

 彩は痛みに()えながら、地面を転がる。実際、彩の感覚があったから、彩は痛みだけですんでいる。もしも痛覚を無視していたら、足そのものが吹き飛んでいたかもしれない。

 彩が体を起こすのと、その爆音は同時だった。彩は振り返り、その圧倒的な威力を目撃する。

 瓦礫(がれき)が、彩のいるところまで舞い落ちる。拳大の破片を、右腕一本で払いのける。煙幕が晴れると、そこから道が消滅していた。それほどに、その被害は酷い。道の淵ぎりぎりまで巨大なクレーターが広がり、深さはきっと彩の身長などゆうに超えている。

 はっ、と彩は自嘲気味に息を漏らす。

 ――本気で、ヤバいな。

 あの巨大な弾丸が直撃したら、彩の体は粉々になるだろう。いくら彩の感覚が破壊してくれても、あの威力を消し切るのは、無理だ。そんなの、突っ込んでくる自動車を丸ごと消しきるようなレベルだ。

 彩とシドの距離は、十メートル。それだけの距離でも、今の弾丸を避けるのはギリギリだった。避けられる位置まで退がるのが、普通の人間のすることだ。

「…………」

 彩は一歩、前に出る。壁が静止したままなのを見て取って、さらに前へ。これで、彩とシドとの距離は八メートルまで縮まった。

 退がるなど、彩にはもっての他だ。距離を置いてしまったら、彩は反撃の機会を失う。そうなったら、一生決着はつかない。勝ちたいのなら、彩はどうあっても前に出るしかない。

 光が波打ちを始める。それは直前の攻撃ほどに、大きな波。次弾の威力を想像して、彩は駆け出した。自殺行為に見えるかもしれないが、それは違う。十メートルを切ったこの距離では、すでに彩は避けきれない。なら、その弾丸が放たれる前に、彩が攻め込めばいいだけのこと。攻撃が放たれるより先に壁を崩せるか、彩の破壊によってシドからの攻撃を止めることができるのか、それは賭けだ。

 全力で駆け抜けるつもりだった。恐怖に竦んで足を止めるなんてことは、許さない。賭けた時点で、彩は足を止めるわけにはいかなかった。

 彩はその異変に気づいた。だが、気づいた直後にその一手は放たれた。

 まるで、光の洪水だ。中心から生じた波は光の壁の端まで広がり、途端、決壊した。その光の幅は、道を覆うほど。避けようとして避けきれるものではなかった。

 その猛攻は、十秒近く続いた。道幅ギリギリまで、三十メートル近く伸びた光の海は、一瞬にして蒸発してしまったように消えた。

 だが、その猛威による傷痕は、確かに残っている。道は光の熱に灼かれて煙を上げている。光の通った路面が、ガスバーナーで炙られたように焦げている。

 その、()けた道の上に、彩は立っていた。両手を顔面の前で交差して、直撃を防ごうとしたらしい。だが、衣服は()け焦げ、煙と異臭を上げている。

「………………」

 彩は、突っ立ったまま動かない。口から規則的に呼吸を繰り返しているが、それだけで精いっぱいといったところ。

 ふん、とシドは眼光を鋭くしたまま、吐く。

「まだ立つか。どうやら、只人(ただびと)でないことは確かのようだ」

 異端の類か、とシドはさほど興味を示さずに呟く。

「いずれにせよ、私にとっては無価値なモノだ。――次で終わらせる」

 その宣告は、すでに彩など相手にしていない。己が為すべきこととして、ただ言葉にしただけに過ぎない。事実、シドは彩のことなど眼中になく、その結末に必要な手順のみを踏む。

 光輝は、再び波打つ。シドの正面で大きく揺らぎ、だがそれは規則的に共振するように膨れ上がる。その一撃はあの巨大な一撃と同じように、なんの狂いもなく、放たれようとしている。


 彩の意識は、まだ消えたわけではない。両手は顔の前で交差したままだが、腕の隙間から相手の様子は見て取れる。だが、その意識は崩落の一歩手前にしがみついているだけで、見えてはいるが、もう見てはいなかった。

 普通の人間なら思考すら吹き飛んでいてもおかしくないのに、身に染みついた癖なのか、彩の思考は勝手に状況を分析していた。

 まず、敵の状況――右手を彩に向けてかまえている。相変わらず手を差し出しているだけの恰好だが、もはや疑うまでもなく、それは脅威を内包している。それが証拠に、光の壁は波打ち、さざめいている。排水溝に水が吸い込まれるように、右の掌を中心に渦を巻いている。七色に輝くその渦は、それが美しいだけ(かえ)って不吉に見えた。巨大な渦、深淵に繋がる(うろ)、それは見間違えようもなく、最期を(くだ)す一撃の前兆。

 対して、彩の状況――体中が熱にやられている。こんなに熱いのに、体は少しも動かせる気がしない。熱病に侵されたよう、とでもいうのだろうか、彩にとっては馴染みのある状態だ。つい最近も、こんなふうにボロボロになったことがあったか。公園であのふざけたカニバルにやられたときよりも、今の状態は酷い。

 いい加減、瀕死という状態だろうに、よく自分は立っていられるな、なんて彩の思考は他人事のような評価を下す。同時に、彩だからこそまだ生きてられるのだろうと、そう冷静に分析している自身もいる。

 だが、それで彩の肉体(からだ)が普通の人間とは違う、なんてことはない。あくまで彩が身につけているのは破壊する感覚だけで、それ以外は一高校生に過ぎない。

 壁を破壊する腕力はない。視認できないほどの高速で動けるわけでもない。魔術なんて、わけのわからないものも使えない。

 視えるものも、聴こえるものも、感覚できるものも、何も特別なものはない。彩が()ることのできる世界など、ただの人間の範疇でしかない。

 ――次、あんなのくらったら、もう終わりだな。

 体がバラバラに砕けるか、仮にそうならなくても、中身はその過負荷に耐えきれまい。防御してしきれるレベルではないし、避けたくても動けないのだから、今の彩には打つ手がない。

 決して諦めたわけではないのに、彩の冷静な部分、これまで喧嘩で培ってきた経験は、すでに戦略の立案を放棄している。これ以上、どう戦ったらいいのか、どう動いたらいいのか、どうやったら生き残れるのか…………まるで思いつかない。

 だからなのか、彩の思考は急に動きを止めた。代わりとでもいうように、彩の記録が勝手に回り始める。

 ……アレクシアを見送ったとき。

 あのとき、彩は後から追いかけると言った。彼女が「もう帰って」というのを遮って、「後ろから追いかける」とそう口にした。

 その、彼女の顔が、ずっと映っている。

 まるで一時停止を押したみたいに、その不安そうな、辛さや悲しみを耐えるような色ばかり、彩に突きつける。

 ――なんだよ。

 そう、胸の(なか)で吐く。

 わけもわからず、無性に腹が立った。

 彼女との思い出は、それだけではなかったはずだ。ほんの少し時間を戻せば、彼女と二人だけで街を歩いた思い出があるはずだ。靴を買ってやったとき、一緒に昼食を食べて嬉しそうに笑った顔、ころころと衣装を替えてはしゃいでいる姿。空が白み始めるまで公園で時間を潰していた、そんなささやかな思い出だって、彩にとっては大切なもの。

 ……なのに。

 わざわざ、彼女が辛そうな顔をしているときを映さなくたっていいだろう。それが最後だからか?最後に見た、彼女の顔だからか?

 ――ふざけるな。

 誰が、あれが最後だなんて決めた?少なくとも、彩は決めていない。彩は、あとから追いつくと、そう約束した。そう、約束したんだ。なら、彩はそれを守らないといけない。それが、彩の決めたことだから。

 ――そうだろう?

 そう、自分に問いかける。応える声など、あるはずがない。

 ――おい。

 それでも、内の声を止められない。たったそれだけ思考するのにも、相当体力を削っている。

 もう一度、自身を叱咤(しった)しようとしたが、それすらままならない。思考もできず、声も上げられず、流れる記憶も次第に白く褪せ――いや――遠退いていく。

 彼女の顔が、その辛そうな、不安や痛みを耐えるようなその顔が、白く(かす)んでいく。それは遠く、(もや)がかかるように、かき消えていく。……自分の意識のほうが遠退いているとは、気づかないままに。


 集約された魔力――光――はその一撃を放つのに十分な量まで達した。ゆえにシドはその弾丸を解放し、その予測しきった結末を目にしようとしていた。

 この一撃は本来、大魔術クラスの布陣を破壊するための対兵器、あるいは対防御結界のための攻撃だ。人間一人を相手にするのなら、最初のほうに繰り出した小弾で十分。

 溜めにも時間のかかるこの業を、シドは最後に選んだ。足は止めたし、ダメージも与えたが、その上で回避と防御の可能性を排除するために、シドは完全なる抹消を決定した。

 放たれる一撃は、彩を呑み込み、道を粉砕し、枯れた花畑にもその被害をもたらすだろう。それだけの威力があることを、担い手であるシドは良く知っている。

 ――目の前に空白が現れた。

 轟音はなく、衝撃波もなく、その圧倒的な熱量が消滅したことで生じた風だけが、感じられる全てだった。

 何が起きたのか、シドは理解できなかった。ただ、目の前で彩が防御のために組んだ腕を、眼前から解いているのが見える。まるで、シドの放った弾丸を()ぎ払ったように、左腕が地面と水平に伸びている。

 ……左手の手袋が、なくなっている。

 その現象はシドには理解できず、また容認し得ないものだった。もしもシドの攻撃に抗するために魔術を使ったのなら、その衝突が起こったはずだ。さらに、そんなふうに魔術を発動したなら、元魔術師のシドが見逃すはずがない。

 ――だが。

 なにもなかった。

 彩が魔術を使った形跡もなければ、魔術同士の衝突もない。まるで視えない大蛇に丸呑みにされたように、シドの放った一撃は完全に消え失せていた。

「貴様、なにをした?」

 憤怒の表情のまま、シドは問いを口にする。

 こんな現象、認められるわけがない。かつて、シドがまだ人間であったときですら、こんな理不尽はなかった。

 動揺はない。恐怖もない。そんな軟弱を、シドは許さない。シドがまとっている感情は、憤怒ただ一つ。怒りだけが彼に許された感情であり、怒りこそが彼の存在だ。ただ一つの目的のためにあらゆるものを削ぎ落とし、人間を捨てカニバルとなり、余計な感情も思考も排した、その果ての存在たる彼が、それ以外の色など見せるはずがない。

 彩は、応えない。口を開くどころか、シドの声などまるで相手にしないように、ぴくりとも動かない。

 その静止した彩の姿を見て、シドはさらに激昂する。無視されたから、ではない。人間如きに、この一撃をもって粉砕しようとした矮小なる存在如きに問うてしまった自分自身が、許せない。

 シドは元魔術師だ。数多くの秘術を、様々な異能を目にしてきた。自分が初めて目にした業であろうとも、これまでの知識や自身の才覚で判ぜられなくてどうする?

 シドは過去、自身に与えられた異名などに興味を持たない。ただ、魔術師が目指すもの――世界の起源――のために歩み、研鑽を続けた自身の矜持にのみ殉ずるだけだ。

 再度、シドは魔力を集約する。これまでと変わらぬ手順、それにすら、彩は反応を見せない。シドは激昂のまま、その巨大な一撃を放った。

 再度、弾丸は消滅した。彩の左手が、再び薙ぎ払ったように体と交わっている。

 二度も同じ現象を目にしているのに、シドはそれを理解できなかった。もしも、相手がシドの攻撃を完全に消滅できるなどと認めてしまったら、シドは打つ手を失う。

 ゆらり、と。

 彩が足を前に出す。そのまま、緩慢な、普通に歩くよりもさらに遅い速度で、シドに向かって歩を進める。

 シドは動揺しない。恐怖もない。ただ、怒りをさらに滾らせて、自身の敷いた布陣にさらに魔力を投じる。

 いくら相手の接近が遅いとはいえ、距離と溜める時間を考慮して、シドはバスケットボールほどの弾丸を発射する。巨大なものほどの威力はないが、直撃すれば人間一人には十分だ。

 弾丸が小さかったために、シドは彩の動きを観ることができた。だが、その動きはただ左腕を払っただけで、魔術の気配などありはしない。

 ……なのに。

 シドが放った弾丸は、完全に消滅した。

 おそらくは、ただ触れただけ。大きさを比べても、弾丸のほうが彩の拳よりも遥かに大きい。そもそも、巨大な弾丸では彩の身体(からだ)と比しても圧倒していた。それでも、弾丸は跡形もなく消えてしまった。ただ触れただけでその存在を丸ごと抹消してしまうなど、シドの理解も知識も超えている。

 そんな極めつけの異能を発揮しているにも関わらず、彩は歩みを止めない。決して速い足取りではないが、前進したままあんな業が使われていては、いずれ終点に達する。

 シドは連弾する。もはや、一片の手加減も許されない。これは、全力をもって対峙しなければならない。

 胸と右足を狙った弾丸を、彩は左腕の一振りをもって消し去る。続きざま、顔面を狙った弾丸も、彩は左腕で払う。

 シドは連射を続け、それを悉く彩は左腕で消去していく。弾丸の大きさはさらに小さくなり、砲弾ていどだが、その分、速度を上げることで対応している。だが彩も、歩く速度を裏切るように、左腕は的確に弾丸を防ぎきっていく。

 一瞬の乱れも許されない乱舞。攻め手も受け手も、少しもリズムを乱さない。連射はさらに速度を上げ、消去だけでなくステップを踏むように回避も入れる。その激しい攻防が繰り返される中、両者の距離は次第に、確実に縮まっていく。

 ついに、互いの距離は三メートル。

「……!」

 シドの口元が憤怒に歪む。

 光の壁がその発光の模様を変える。掌を中心とした円だけでなく、壁全体が、まるで亀裂が走ったように歪み、波打つ。

 壁は崩壊し、光は洪水となって彩を襲う。この技は弾丸と違い、誰も標的としていない。ただ、接近し過ぎた敵を片っぱしから押し流すための全体攻撃。壁一枚を犠牲にするが、後方に配した何重もの壁が直後の反撃を防御する。また、数分もすれば最奥にて壁が再構築されるため、その犠牲はほとんど意味がない。

 先ほどは彩の足を止めた光の洪水。どうだとばかりにシドは凝視し、その様を目にして愕然と見開く。

 彩は左手を前へ突き出し、さも受け止めるように掌をシドへ向ける。伸ばされた左腕、そこを中心に光が割れる。カニバルとして強化されたシドの視力は、確かにその光景を目にする。シドの洪水は、その手に阻まれて彩まで届いていない。

 ――ありえぬ。

 シドは驚愕を禁じえない。

 シドは元魔術師だ。魔術を防ぐならば、相手も魔術を発動しているはずである。もちろん、カニバルのような超常や特異的な異能もいるだろう。だが、そういった連中でさえ、対魔術の気配なり流れなりは存在し、シドがそれに気づかないはずがない。

 ……そのはずが。

 シドは、なにも感じない。なにも理解できず、ただ彩の左腕の周りから魔力が消滅していることしか知ることができない。

 一体どういうカラクリか。だが、シドにはそれより先の思考すら許されない。

 一瞬身を引いたかと思うと、彩は飛び出すように前へと出た。胸の重心に全身を乗せ、滑るようにシドとの間合いを詰める。

 もちろん、シドは彩の動きに気づいていた。未知の技に自身の技を防がれて動揺し、判断に遅れるなど、カニバルのシドはそんな軟弱ではない。

 シドの敷いたこの布陣に、隙はない。攻撃の際にも防御壁を失うことはなく、その防御壁は常に何重にも備えている。一枚破ったとしても二枚目が、その奥にもまだ壁が、と。ゆえにシドは絶対の自信をもってその場に静止していた。

 彩の左腕は光の洪水を裂き、彩の行くべき道を開けていく。彩は滑ように前進し、壁の直前でもう一歩を踏む。踏み出す直前、壁に触れる手前、表層の一枚目が、過負荷のせいか、彩の左手を中心にして大穴を開ける。その余波か、二枚目にもすでに歪みが生じ始める。

 軸足を移し、彩は躊躇(ためら)わず跳び込む。触れずに二層目を破壊し、三層目は触れた瞬間に崩壊。四層目を砕き、五層、六層…………。

「……ッ」

 ついにシドは右手を引いて回避に動く。左へかわしたところに、直前までシドのいた場所へ彩が左腕を突き入れる。視線が交錯する寸前に、シドは左の掌底を空に放つ。放たれたのは、魔力の塊。それは圧縮された風の一撃となり、ガラ空きの彩の身体(ボディ)に直撃し、彼を吹き飛ばす。

 シドは態勢を整えるようにわずかに後退したのみで、すぐに足を止める。視線の先では、彩が起き上がるところだ。距離をとるために弾いただけだ、それほど威力はない。魔術の心得があれば簡単な防御魔術で相殺でき、それほどダメージは負わない。だが、彩は防御すらとれなかったらしく、時間をかけて立ち上がる。静止するまでもいくらかふらつき、シドを正面に捉えるまでは完全に隙だらけだった。

 それでも、シドは手を出さない。いや、彩が起き上がって完全に体勢を整えてなお、シドは一歩も踏み出せずにいる。

 ――一体、奴はなにをした?

 魔術を探究し続けたシドにとって、それは致命傷とでもいうべき謎だ。

 世界に至るため、あらゆる魔術を蒐集(しゅうしゅう)し、身につけ、研鑽した。様々な魔術を比較、検証し、あるいは混合し、さらなる高みへと至ったものもあれば、凡俗に堕したものもある。

 異能と呼ばれるものも、彼は方々を渡り歩き、耳にし、目にした。目にしたならばその人外を解体し、解剖し、その原理、摂理を記録し、研鑽への糧とした。

 シドはこのとき、黙考した。久しく、神魔の王という存在を識ってからというもの、魔術の研究は止まっている。だが、目の前の異物は、長く生を経たシドですら初めてだ。


 これは、我が目的に値するか――?

 ――(いな)


 その黙考は、しかし永くは続かない。即座に結論を降し、シドはそれを発動した。

 神魔の王こそ、この世界の(シン)に位置する存在。それさえ手に入れれば、いや、その存在と同化し、それそのものになりさえすれば、シドの目的は達成する。

 ならば、魔術の研鑽がなんになろう。

 理をつきつめ、学を重ね、智を築いた果てに、その大いなる門に至るのか。全ては、仮説と実験の繰り返し。それを何度繰り返す?何年、何百年、何万、何億か?

 シドは終点を望む。先の見えない暗闇の迷路を彷徨(さまよ)い続けるなど、許容できるはずもない。

 ゆえに、シドは人間だけでなく、魔術師さえも見限ったのだ。もとより、カニバルであるこの肉体など興味はない。ただ時間を得るためだけの、仮初。

 その意味を、シドは彼女を目にし、その存在の在り方を()ったときに、実感し、悟ったのだ。

 ……そう、シドは魔術師さえも捨てた。その、見捨てる直前の可能性の中に、いま、シドはいる。

 生命は個の視点で世界を観測する。客観などという概念を人間は記述しようとするが、その対象として自身を主観と定義してしまった時点で、生命の観測する有象無象は、詰まるところ主観という概念で世界を観測し、記述する。

 ならば、この世の時の流れ、時間という事象は、個々の主観によって形成されていると言えまいか。私の時間、君の時間、誰かの時間…………。そういう、数多の時間がこの世界の上には転がっている。それは個々の観測行為によって、そして個々の意識の中で記述されるため、その無数の時間には確固たる境界が存在する。

 この世全ての時間を掌握しようとするのは困難でも、己の概念に定義を与えることならば容易い。その一点、あるいは一境界面、その記述を書き換えることで、この世界そのものに干渉する。いや、魔術師の思想に従うなら、それは所詮、生命の観測に影響しているに過ぎない。

 だからいま、シドは誰にも観測されない。自身と、それ以外の他者との間の時間の境界、断絶を書き換える。それは大魔術さえも凌駕する超常の代物。まさしく、世界へ挑むに相応しい秘儀。

 シドは前進を開始する。(たたず)む彩に向かって、臆することも警戒することもなく、緩やかに歩を進める。()く必要などない、この瞬間、シドは誰にも観測されないのだから。もっとも、完全に停止した空間を形成するのは困難だ。だが、無限に(ゼロ)に近づくだけで事足りるのであれば、それで十全であろう。シドが地を踏む、その足音が彩に届くよりも、シドが彩に到達するほうが速い。ゆえに、シドの接近は彩には知られない。

 シドは右腕を上げる。狙うは心の臓腑。その魔槍の剛腕は、これまでも数多の生け贄を捧げている。その生け贄の一つに、いま、目の前の相手も加えようと、突きつける。

 獲物を抉るまで、残り三十センチメートル。あと一歩、肩を突き出すだけですんでしまうような距離。その致命的な距離ならば、この奇怪な相手であろうとかわせまい。

 そう、確信とともに踏み出そうとした、瞬間――。

 シドは()た。

 ――(おの)が魔槍を迎え撃とうとする、左の魔手を。

 反射的に、シドは右腕を引いた。その、当初そこにあるはずだった場所を彩の左手が突き上げる。まるで、気配なんてありはしない。だが――いや、だからこそ――シドはそのまま後退に徹した。

 そこは、シドが構築した異界のはずだった。なのに気づけば、周囲の時間は通常の流れに戻っている。いつの間にか、シドの異界は抹消されていたのだ。

 世界へと至ろうとする異界だ。シドが研鑽の果てに開いた極めつけの超常の魔術。それを音もなく、気配もなく消し去るなど、一体どんな異物だ。

「――――貴様、何者?」

 声には沁みついた怒気が滲んでいたが、もはやシドの心情は平静ではいられない。その自身の動揺にすら、シドは叱咤できずにいる。

 これまでの、光の弾丸や洪水を消したのとは次元が違う。時間の断層を書き換えるということは、シド以外にシド本人を観測することはできない。だから、その異界の中にいながら異界を破るということは本来不可能だ。

 対魔術により、異界そのものの構築を妨害するならばわかる。だが、シドの魔術は確かに発動していたから、それはない。

 仮に、自己防衛の結界を内に張っていたとしよう。だとしても、それも結局は対魔術に他ならない。シドの異界を砕いた瞬間に、その呪が成立し、気配はシドにも知れる。

 ならば、この現象はどう仮定したらいい?

「――――――――」

 シドは小さく息を吐いた。それは自嘲とか失笑と呼ばれる類のものだろう。だが、憤怒に染まりきった彼のその吐息は、どこか歪だった。

「……極めつけの異端。なるほど、――――調律者か」

 自身の吐いた言葉の意味を、シドはこれ以上思考しない。シドの定めた目的は、この世界の起源。この世界の始まりと終わりを記述した、全知全能。なら、それ以外のモノなどシドには必要ない。その崇高なる目的を邪魔するならば、シドは全力をもって排除するまでだ。

 シドは右手を突き出しかまえとする。応えるように、彩も左腕を前へと伸ばす。

 シドはこれまでの戦闘を思い返す。といっても、戦略の参考になるのは、壁を突破された瞬間くらいだが。

 触れる直前、あるいは触れる瞬間にシドの技を悉く抹消する彩の異能だが、それが完全無欠でないことを、シドも気づいている。

 何重にも張った壁を、破壊するごとに彩の速度は落ちていった。動きが鈍り、どうやら反応も悪くなるらしい。もっとも、それはほんの一時的なことで、しばらくすれば回復するのは、シドの防壁と同じらしい。

 さらに、彩の異能はどうやら左腕に集中しているらしい。彩の胴に魔力をぶつけたとき、それは消されることなく衝突し、彼をシドから遠ざけた。

 ――ならば。

 シドは身体全体に魔力を(はし)らせる。

 シドはカニバルとなったが、あくまで世界へ至るために時間を欲したのみで、それ以外をこの肉体に求めていなかった。だが、シドは改めてヒトとは違う自身の肉体構造を利用する。

 並外れた身体能力、拳は易々とコンクリートを撃ち抜き、脚力は大型バイクにも匹敵しよう。

 そこに魔力による加速を付加すれば、助走なしで最大加速まで跳ね上がり、余剰の魔術は彼を補佐し、守護するだろう。

 ――そう。

 勝負を決するのは、己が拳――。

 どちらが先に、相手にその一撃を入れるか。その一瞬で、全てが決する。そのために、両者は戦略を練り、一瞬の狂いなく、そしてその刹那の機転によって、征するのだ。


 勝敗を決する一歩を踏み出したのはシドだった。彼は身体(からだ)に紫電をまとい、その余波が空気を、そして大地を打ち鳴らす。

 対する彩は、迎え撃つ腹なのか、ぴくりとも動かない。そもそも、彼の視界は正しく相手を捉えているのか、それすら怪しいほどに、彩からは覇気が感じられない。左腕を伸ばしてかまえとしているが、それもだらんとしていて、非常に危うい。

 そんな彩の姿を目にしていても、シドは一切手を抜かず、全力で臨もうと目を怒らせ、その覇気を示すように紫電は暴れている。

 空気に、あるいは地面に散った紫電が、安定を求めて彩に襲いかかる。だが、彩は一切の防御を見せない。(はし)った電流で筋肉が反応するが、彩はまるで頓着せず、苦痛の色すら見せない。

 シドは魔術によって爆発的に速度を上げている。その余剰としての紫電は、決してただの飾りではない。シドの右側に流れていた紫電が、まるで収束するように渦を描く。その中から、二つの弾丸が彩に向けて放たれる。

 今まで反応を見せなかった彩が、その軌跡を認識したようにさっと左腕を払う。彩の顔面を左側面から狙っていた電流の弾が、その一振りでかき消える。そして、もう一つの弾丸。それはわずかに遅れて彩の胴、左半身に向かって飛び込んでくる。これもまた、彩は左腕を振り下ろすことで消去する。時間差(タイムラグ)があったから、その連撃にも彩は反応できた。

 ……この期に及んで、あっさり防がれるような攻撃をシドがしてくるだろうか?

 二撃を防いだことで、彩の身体(からだ)は左半身を大きく後方に逸らす恰好になっている。向かってくる相手からは視線を外し、向いているのは側面だが、横を向いた体は完全にガラ空きだ。

 シドは突き出していた右腕をフックのように曲げ、ガラ空きになった彩の胴、胸、心臓を狙う。シドの剛腕は狡猾な蛇のように、ヒトの中枢にかぶりつこうと迫る。

 ――その魔手は、(シド)の視界の外から現れた。

 彩の右手は、左手同様、手袋を外している。そしてその右手は、ちょうどシドが突き出した右腕の真下にあった。

 彩は羽虫を払うように右腕を持ち上げる。そんな、攻撃とも反撃とも、まして防御にもほど遠い所作だったが、彩の右腕はシドの右腕を、肘から砕いて、その先、指先に至る剛腕を完全に消し去った。

 その異常を目にしていながら、シドは止まらない。驚愕も動揺も焦りもなく、そんなものはわかりきっていたとばかりに………。

 ――突き出す、左の剛腕。

 振り払った彩の右腕は外を向き、次の攻撃を防ぐ位置にはない。さも、その隙を突くとばかりに、シドの左腕は下段から突き上げられる。

 …………その攻防は、時間としては五秒もかからなかっただろう。

 一瞬にして刹那のその交錯の末に、両者は乾いた道の上にいる。両者ともに、すでに腕を上げてはいない。決着の果てに至って、時が止まったよう。その空白を埋めるように、道の外側で枯れた花が風になびいて揺れている。

 あれだけの激しい攻防の後だというのに、両者は一つも呼吸を乱さない。なお立ち続けるその様は、倒れた瞬間に敗北が決定してしまうかのよう。

 どさり、と何かが落ちる音がする。身体(からだ)が崩れ落ちるような音なのに、両者は少しも反応せず、互いに背を向け合い、相手のことなど見ようともしない。

 音がしたはずだが、道の上には何もない。あるのは、左右の足を揃えた下半身が一組だけ。その上には胴があり、腰と腹部までは繋がっていて、その先、胸部の位置にはもう一つの、胸より下を失った胴が、背後に浮かんでいる。

 最後の攻防、シドが突き上げた死の剛腕。それが衝突したのは、彩の左手だった。一寸の狂いなく、両者は衝突し、そして彩の感覚はその剛腕すらも破壊し尽くし、消し去った。

 その衝撃に負けないように、彩は左肩からタックルを決めた。その衝撃が、感覚が、シドの腹部から腰、太腿までも抹消した。最後に残った二本の足は、支えるモノを失って地面に倒れ、役目を終えたように消えてしまった。

 そして上半身、両腕を失い、もはや肩と胸の一部と、首だけになったシドが、振り返らないまま口を開く。

「……何故かわす」

 シドの放つ死の槍は、ついに彩に届かなかった。その理由を、原因を、シドは最期に至るまで突きとめられなかった。

 そのシドの抱えた難題に、彩は当たり前のように答えた。

「おまえはいつも、心臓を狙っていたから」

 そこを狙ったことに意味などありはしない。所詮はただの儀式。神魔の王を迎え入れるためのささやかな生け贄。人間を、生命を捧げるのに、その場所こそが相応しいと…………。

「――――――――」

 そうして、シドは唐突に理解した。人間を捨て、カニバルとなった自分は、その生け贄として人間を選んだ。矮小として切り捨てたはずの存在に、結局自分は振り回されていたのだという事実。その(いまし)めから超越したはずが、その泥沼の中でもがき足掻き続けていたことに、この期に至って、シドは()ったのだ。

 シドは小さく息を漏らした。

「それが、私の敗因か――」

 表情は、憤怒のままに。その怒りは、永遠に取れないように。その激情こそが、彼という存在であるかのように。

 時の経過につれ、シドの肉体(からだ)は消えて失せていく。胸も肩もなくなり、残るのは首が一つ。完全に消えてなくなる前にと、シドは思い出したように問うた。

「貴様、名は?」

 ただの人間如きに、シドは問いなど発しない。そもそも、自分が見捨てた存在になど、話しかけることすらしなかった。シドがそこから得るものなどなにもないのだから、それは彼の中で当然の行為だった。普段は、路傍の石ころと同等。必要とあらば、生け贄としての役を与えよう。それは、彼から一方的に授けるもの。その判断に、やつらの意思など不要だ。

 それでも、シドは問う。問わずにはいられない。この、シドと渡り合った存在が、一体何者なのか、を。

 彩はただ「響彩」とだけ返した。それ以上は語らない。シドは、それを聞いただけで十分と、頷くように目を閉じる。

「なるほど、貴様が私の終焉か。……響彩」

 お互いに振り向きもしない。だが、それで十分とばかりに、両者は沈黙のまま時を流した。

 一分近くそうしていただろうか。ようやく、彩は振り返る。…………そこには、誰もいない。跡形もなく消え去ったその光景。しかし、彩は驚かない。何も語りはしなかったが、その光景を記録しようとでもいうように、一分近く黙したまま、振り返ったまま静止していた。

「…………」

 息を吐き、彩は前へと向き直る。目の前に広がる、無限に続くような乾いた道。道の周囲には枯れた花畑、行く先には砂塵(さじん)でも舞うように、視界が悪い。

 それでも、彩がこの道を進むことはすでに決まっている。もう振り返る必要もない、彩はようやく前へ進み始めた。


 時間は、彩とシドが戦闘を開始する前まで(さかのぼ)る。

 彩と別れ、シドの脇を通り過ぎたアレクシアは、彩よりもずっと先にこの荒野のような道を歩いていた。どこまでも続く道、生気のない花畑、空も荒涼(こうりょう)とした砂塵の色で、こんな場所が永遠に続いたら、それだけで正気な人間は発狂してしまう。

 その荒廃した光景を目にしながら、アレクシアはただ歩き続けた。シドに会って幾ばくか動揺してしまったが、アレクシアの向かう先に捜し求めていた相手がいるはずだ、気を引き締める必要がある。

 三十分近く歩いた頃だろうか、不意に、周囲の空気に甘い香りが混じる。花のような、蜜のような、心を溶かし、魅了する香り。

 その香りを感じたと同時に、周りの景色まで様変わりしていく。目に見えて、その変化は劇的だった。砂塵が晴れるように蒼天が広がり、暖かい、南国のような風に揺り起こされて、紅いヒヤシンスのような花が一斉に咲き誇る。

 そこはいままでの道幅よりも広く、一つの広場になっていた。といっても、ただ円く空間を取っているだけで、ベンチもなければ噴水もない。憩いのための休憩所すらない、ただの平地。

 だが、そんなことは瑣末なことでしかない。いや、ここにぽっかりと無地の場所があることによって、周囲に咲き誇る花々が輝くというもの。いままでの殺風景が嘘のように、視界いっぱいに花々が踊り、暖かな風に運ばれる蜜の香りはどこまでも甘い。

 なにも知らずにこんな場所に放り出されたなら、誰もが正気を失い、恍惚(うっとり)とこの美しい光景に見入っていただろう。甘い香りは麻薬のように、脳を犯して心を絡め取る。

 もちろん、アレクシアはこの庭園の美しさに誘惑されることなく、広場の中心に立つ一人の少女の姿をはっきりと目にしていた。

 体つきは小学生から中学生の間ほど。身につけているのはどこの舞踏会へ向かうのかと思わせるほどの立派なドレスで、目を覚ますように鮮烈で眩い赤。肌は透き通るように白く艶めいている。その肌と競うように髪は絹のように輝く銀色で、少女の腰のあたりまで伸びている。柔和に笑うと、少女特有の肉付きのいい頬が目を惹く。だが、何より彼女を惹きたてるのは、ドレスよりも、銀の髪よりも、愛らしい頬よりも、ルビーのように輝く赤い二つの瞳。

「ようこそ、アレクシアお姉様」

 少女はドレスを左右から両手でつまんで、(しと)やかにお辞儀をする。その丁寧で優しい物腰に、対するアレクシアは硬い表情で相手を見返すだけ。

「――――アンリュエッタ・シュスタフォーテス」

 自身の名を呼ばれた少女は満面の笑みを浮かべる。

「覚えていただけて光栄ですわ」

 少女――アンリュエッタ――から視線を外し、アレクシアは周囲に目を向ける。いままでの荒廃した風景とは違い、ここだけは美しい花々で満ちている。南国のような風、楽園と見紛うような甘い香り。その蟲惑的な景色に、アレクシアはただ目を(すが)めるだけ。

「ここが、貴女の城?」

 アンリュエッタは微笑を漏らしてアレクシアに応える。

「素晴らしいお庭でしょう?ここが一番素敵なの」

「ええ、確かに綺麗に色づいているようだけど」

 アレクシアは視線をアンリュエッタへと戻す。その瞳には糾弾するような鋭利な色があった。

「一体、何人食べたの?」

 かくん、とアンリュエッタは意外そうな顔をして首を傾げる。

「さあ、覚えていませんわ。それほど多くはないはずです。まだこの周りしか飾れないんですもの」

 口調こそ不服そうではあるが、アンリュエッタの口元には笑みが浮かんでいる。まるで舞台の飾りつけに胸膨らませる少女のような無邪気さ。

「お城全部を飾りつけるには、まだまだ足りませんわ」

「城を埋め尽くすまで、続けるつもり?」

 美しく咲き乱れる花畑を眺めていたアンリュエッタは、きょとんとアレクシアへと向き直る。そして、至極自然に、その表情を笑顔で埋める。

「当然ですわ。――だって、それがわたしに与えられたお役目ですもの」

 そんな、当たり前の返答。だが、それが何を意味しているのか、アレクシアは重々理解している。

 だから、アレクシアは笑わない。ただ、そうね、とだけ漏らしてその先を続ける。

「それが、貴女の存在理由だものね」

 ――アレクシアが神魔の王で、カニバルを殺す存在であるように。

 ――アンリュエッタは神人で、人間を駆逐する存在。

 そう、望まれた存在。世界に求められて、そして生まれ落ちた者同士。

 途端、アンリュエッタの表情が消える。これまでの笑みが消失して、そこに現れたのは陶器のような空白。

「そんな冷たい言い方をなさらないでください、お姉様。わたしたちは姉妹ではありませんか。お姉様がお生まれになったから、わたしという妹は生まれたのです。そう世界が求めたから、いまのわたしがいるのです」

 世界は、決して完璧ではない。どちらかが傾けば、それを持ち上げるために反対側に重りを乗せる。その調整の仕方はとてもお粗末で、事前に確認しないままお皿に重りを乗せるようなもの。

 だから、世界はアレクシアを創った。

 そして、アンリュエッタを生み落とした。

 人間という種を滅ぼさないようにという神魔の王に対して、その抑止力としてのカニバル。そうやって、互いに互いを殺し合わせることで、この世界の均衡をとっている。

 にっこり、と――。アンリュエッタは再び笑顔を作る。

「もちろん、お姉様のお役目はわたしも存じております。けれど、それはとても悲しくて辛いことではありませんか。こんなに近しい間柄なのに、手と手を取り合うことができないなんて」

 同じように世界に求められた存在でありながら、その役割は対極にして相容れない。それを知っていながら、アンリュエッタの声は悲痛を訴える。

 わたしは、とアンリュエッタはなおも言葉を続ける。

「お姉様と一緒にいたいのです。決して離れ離れにならないように。永遠に、わたしの傍にいてください。そうすれば、わたしはお姉様と一緒に、この美しいお庭をいつまでも見ていられます。この素敵な香りに囲まれ、お姉様に抱かれながら、世界のことなんて忘れて」

 アレクシアに両手を差し出し、そしてその腕で自身を抱くアンリュエッタ。彼女の瞳は少しも揺らぐことなく、そして一瞬とて逸らさずにアレクシアをまじまじと見つめる。その純粋さにはどこにも嘘偽りなどない。

 そう強く訴えられても、アレクシアは自身の役目を忘れないように、その問いを目の前の人喰種(カニバル)へと投げる。

「それじゃあ、貴女は自分の役目を捨てることができるというの?」

「あら、もちろんですわ」

 何の迷いも未練もなく、動揺すら見せず、アンリュエッタは即答した。

「わたしのお城が一面、美しく彩られたなら、お役目なんて捨ててしまいますわ。わたし、そこまで世界に忠実じゃありませんもの」

 微笑を漏らすアンリュエッタ。その純粋な笑顔だけ見れば、素直に頷いてしまいそうになる、魔性。

 だが、アレクシアは惑わされない。彼女は神魔の王と呼ばれる存在。甘い誘惑にも、美しい蟲惑にも、彼女の心は揺らがない。

 アンリュエッタ・シュスタフォーテス――――アレクシアの直後に世界より生まれ落ちた人喰種。神魔の王とのバランスをとるために創られた存在であるがゆえに、彼女はこう呼ばれている――最強のカニバル――と。

 そう、とアレクシアは改めて決別を口にする。

「なら、あたしは自分の存在理由を全うするしかないわ」

 世界の調律など、いい加減なものだ。神魔の王ではカニバル側の勢力が危ういと判じて最強のカニバルを創ったのに、今度は彼女の存在で人間のバランスが崩れかねないとアレクシアを呼び起こす、――――なんて。

 だが、アレクシアは不平を言わない。そもそも、彼女に選択権などないのだから。この時代に呼ばれた以上、自分の役割を果たすまで、アレクシアは自分の城に帰ることもできないのだから。

「お考え直しになってはくれませんの?」

 アンリュエッタの表情が消える。その突きつけられた絶望を認められないように、信じられないように、アンリュエッタは空っぽの瞳でアレクシアのことを見ている。

「わたしは、ただお姉様と一緒にいたいだけなのです。同じ(はら)から生まれた、近しい姉妹なのに、傷つけ合うことしかできないなんて、あんまりじゃありませんか!ただ、わたしは、ただ…………!」

 それ以上、言葉が続かない。アンリュエッタは顔を伏せて、(はばか)ることなく涙を流す。顔を両手で覆い、指の隙間から嗚咽が漏れる。

 その純粋な涙、悲しみ、慟哭を前にしても、アレクシアはぴくりとも反応しない。口を閉ざし、表情を鋭くしたまま、ただアンリュエッタと対峙する。

 その無慈悲、決定的な断絶に、アンリュエッタは顔を覆ったまま口を開く。


「――――――――酷いお姉様」


 アンリュエッタはもう泣いてなどいなかった。悲しみはもう枯れ果ててしまったように、その声には狂喜が滲んでいた。

 アンリュエッタは顔を上げる。確かに彼女は、もう泣いてなどいない。すでに、微笑みさえ浮かべている。その感情の切り替えの早さは、どこかゾッとさせるものがある。

「でも、わたしは諦めませんのよ」

 だって、とアンリュエッタは胸元で両手を組み、まるで祈るように瞳を閉じる。

「お姉様と一緒にいたいというこの気持ちは、嘘偽りではなく、造り物でもないのですから」

 世界に求められ、創られた少女。けれど、この感情だけは造りモノではないと。世界に操られているわけではない、自身の本心なのだと。……そう、彼女は(うた)う。

 ――ざあぁ、と。

 風が舞い上がる。いや、それは羽ばたき。花畑から、同じ原色の赤で彩られた蝶が一斉に飛び立つ。まるで、大地から天に向かって真紅の花弁が舞い散るよう。

 その原色の中心に立ち、アンリュエッタは神託を受けた聖女のように、静かに瞼を上げる。その奥に輝くのは、ルビーのような――血の滴を垂らしたような――純粋なる赤。

「わたしの、本心なのですから――」


 蝶の群れがアンリュエッタに集まっていく様を見て、アレクシアは即座に決断を下した。どちらにせよ、アクレシアがカニバルを倒す方法はただ一つ。

 神魔の王――あるいは、カニバルの毒と呼ばれている。彼女の中を流れている血潮は、人喰種を滅ぼす猛毒だ。相手の口に自分の一部を喰わせれば、それで片がつく。アレクシアからカニバルの口に手を突っ込めば、相手は本能的にその肉に喰いつき、そして自滅する。

 アレクシアは蝶の群れの中を駆け抜けるが、一向に攻撃はない。当然だ、不用意にアレクシアを傷つけてしまったら、その猛毒を真っ先に浴びるのは攻撃した本人なのだから。

 アレクシアは右手を上げ、アンリュエッタの口に向けて手を突き入れる。…………そうするはずだった。

 ――さああぁ、と。

 アンリュエッタの身体(からだ)がかき消える。いや、身体(からだ)が次々と赤い蝶へと変じていく。彼女の紅い唇、白い頬、赤い瞳も、銀の髪も、赤いドレスも、白い肌も。アレクシアの腕から逃れるように、次々と空に向かって舞い上がる。

「……っ」

 アレクシアは振り向き、仰いだ。辺りを無数の蝶の群れが取り囲んでいる。あまりの数とこの至近距離で、羽音がクリアに耳につく。さらに、その強烈な原色に目眩(めまい)を起こしそうになる。

「この……!」

 その本能的な怖気(おぞけ)に、アレクシアは咄嗟に竜巻を創造した。

 アレクシアを渦の中心として、彼女の周囲で灰色の突風が吹き荒れる。その強烈な遠心力に巻き込まれて、蝶の群れは風の渦に閉じ込められ、風は赤く色づく。

 アンリュエッタを捕縛することはできたが、このままでは決着がつかないことをアレクシアも気づいている。神人は世界から直接エネルギーを汲み上げることができるため、体力は無尽蔵に近く、肉体(からだ)の損傷も瞬時に治癒してしまう。特に幻影城にいるのなら、(あるじ)ならばその効率は格段に上がり、他のカニバルはその供給を阻害されてしまう。

 全てが全て、アンリュエッタのためにお膳立てされているようなものだ。竜巻の中に閉じ込めたていどでは、一向に勝負はつかず、むしろアレクシアのほうが先に体力の限界にぶつかる。

 次の手を打たなければと思考していたアレクシアに、不意に鋭い痛みが走る。

「……っ」

 アレクシアは反射的に手を胸元へと引いた。直後、左右の腕にさらに刺すような痛みが走り、アレクシアは(うめ)いた。

「……!」

 堪らず、アレクシアは竜巻を放り投げ、渦の中心から跳んで距離をとった。その選択は誤りではなかった。跳んだ直後に、なにかが飛来してくる音をアレクシアは聞いた。だが、全て回避できたわけではなく、肩と頬をわずかに掠る。

 距離をとろうと後退した、はずなのに、周りはすでに赤で囲まれている。振り仰ぎ、再度竜巻を起こそうかと思案しているところに、無数のそれが降り注ぐ。

「ぐ……!」

 くぐもった悲鳴を上げながらも、自身に突き刺さったモノを目にして、アレクシアはようやくそれがなんであるかを認識した。

 それは、大きめの釘のような形をしている。だが、釘とは違って全体が白く、引き抜くための頭が存在していない。見方によっては巨大な針のようなモノ。

 体中に突き刺さったその白い釘を、アレクシアは不快感から引き抜きたかった。が、蝶の群れからの攻撃の手は止まず、そんな余裕はない。仕方なく、アレクシアは回避を再開し、次こそは竜巻をぶつけようと意識を集中させる。

 だが、周囲は視界を埋め尽くすような蝶の群れ。そこからはひっきりなしに白い釘が降り続ける。反撃はおろか、回避すら間に合っていない。攻撃全体のうち、一割か二割ほどはアレクシアの肉体(からだ)に刺さり続ける。

「…………っ」

 アレクシアは焦る。

 アンリュエッタからの攻撃は、大したことはない。白い釘を受けるたびに不快な痛みが走るが、その見た目ほどのダメージしかない。

 だが、本体が姿を見せないままでは、一向にアレクシアの反撃は届かない。竜巻を起こしても、それは相手には少しも損害を与えない。やるのなら、蝶一匹一匹にアレクシアの血肉を呑み込ませないといけないが、それすら、一体どれほどのダメージを与えられるか。何万、いや、何億、もしかしたら何兆という蝶の群れに、それはあまりにも微々たる反撃でしかない。

 …………どうすれば。

 回避を続けながら反撃の手段を考えていたところ、がくん、とアレクシアの動きが落ちる。

 ――なに?

 全く予期しない不意打ちだった。アレクシアの身体(からだ)が、彼女の意思に反して急に動きを止めたのだ。

 あまりにも唐突で、アレクシアは無理矢理体を動かそうと力を込める。すると、鈍い反応ではあったが、体は動きを再開する。

 ――だが。

 そのわずかな隙を、アンリュエッタは見逃さない――。

 ごおぉ、と。

 風の塊が、いや、蝶の群れがアレクシアの身体(からだ)を吹き飛ばす。持ち上げられた身体(からだ)は遥か後方へ、そのまま叩きつけられる。

「かは……っ」

 その衝撃に、アレクシアは息を吐き出す。何事かと目を開けたところに、灼熱の痛みが走る。

「…………!」

 あまりの痛みに、アレクシアは目を強く閉じる。左右の掌、その中心に、これまで以上に太い釘が刺し込まれる感触。目を開けてみると、それはもはや杭ほどの大きさだ。左右から打ちつけられた彼女は、どうやら白い十字架に(はりつけ)にされているらしい。

「なに……?」

 攻撃された、ということはわかる。だが、目の前の光景は本来ならあり得ないものだ。

 アレクシアの体内(からだ)にはカニバルの毒が流れている。カニバルがそれに触れればたちまち肉体(からだ)は崩れ、死滅する。当然、カニバルから生成されたものなら、全て同じ効果を受ける。

 ならば、この白い釘のようなものはなにか……?

 彼女の肉体(からだ)に深々と刺さっておきながら、少しも劣化を起こさない。

「……!」

 アレクシアの脳裏に不意に理解が訪れる。まさかそんなことが、と自身に疑念を投げても、目の前に起きていることは、それ以外の考えを受け付けない。

 そんなアレクシアの衝撃に応えるように、目の前で蝶の群れが密度を増し、その中からアンリュエッタが姿を見せる。

「いかがかしら?お姉様」

 微笑みながら、アンリュエッタは訊ねる。

「アンリュエッタ、これは……!」

 アレクシアは身体(からだ)を前に出そうとしたが、杭に打ち抜かれてそれもできない。痛みに耐えつつ身を引いて、抑えた声でその解答(こたえ)を口にする。

「…………人間の骨ね」

 これまでアンリュエッタが喰ってきた人間は、悉く彼女の一部となっている。人間の肉がこの蝶の群れを造り出したように、この白い釘や十字架も人間の一部ということ。

 アンリュエッタは嬉しそうに「ご名答」と微笑む。

「でも、ただの骨ではないんですのよ。少し前にわたしのお城に無断で入って来た魔人がいらしてね。お姉様のところにもいらしたと思うのですけど」

「……ゾイル・バックヤード」

 以前、アレクシアの前に現れたカニバル。何人もの人間を操り人形にして彼女の前に現れたが、彩によって戦闘不能にされた魔人。

 だが、アンリュエッタは彼の名前は知らないらしく、「そんなお名前だったかしら?」と呟いてから話を続ける。

「その方は元々魔術師のようだったから、頂いた魔術を使ってみたの。そしたら、綺麗にわたしの牙と人の骨を混ぜてくれるの。硬度はわたしの牙と同じ、でも人の骨でコーティングしているから、お姉様の毒を浴びても腐らずにすみます」

 嬉しそうに微笑むアンリュエッタ。

 対するアレクシアは、口惜しさのあまり歯噛みする。相手は最強のカニバル。それは、人喰種(カニバル)として最強であるということ。周囲を飛び回る蝶一匹一匹が彼女そのものであり、すなわち口だ。蝶に触れられたらたちまち肉を喰われ、人間一人なんてものの数秒で跡形もなくなる。

 その貪欲なまでに旺盛な食欲。だが、人喰種(カニバル)として生粋(きっすい)であるがゆえに、神魔の王であるアレクシアは何よりの天敵。その牙一つ突き立てただけで死滅してしまうから、如何にアレクシアが本調子でないとはいえ、この勝負はアレクシアにとって圧倒的に有利になるはずだった。

 ……なのに。

 カニバルの毒は、カニバルにしか効果がない。それを無効化されてしまい、そのうえ封じこまれようとしている。

 単に攻撃されているだけでなく、身体(からだ)そのものに入り込み、あるいは溶け込むことで、アレクシアの動きを封じようとしている。だから、さっきアレクシアの動きは急に鈍ったのだ。事実、磔にされた今、アレクシアは思うように動けずにいる。このていどの拘束など、本来はすぐに振り解いているはずなのに……。

 アンリュエッタは身を乗り出し、アレクシアの頬へとその白い指先を伸ばす。

「これで、わたしたちずっと一緒ですね。もう、お姉様はわたしを殺してしまうことはない。永遠に、このお城の中で、わたしとともに暮らせるのです」

 アレクシアの両の頬を、アンリュエッタの両の指がそっと撫でる。まるで慈しむように、愛おしむように、何度も何度も…………。

 アレクシアに険のある目で睨まれているのに、アンリュエッタは少しも微笑を崩さない。そんな言外の訴えなどまるで見えていないかのように、アンリュエッタの赤い瞳はアレクシアの顔を凝視し、次いで、その視線を胸元へと落としていく。

「さあ、お姉様。――衣装直しを致しましょう?」

 緩やかに、アンリュエッタの手がアレクシアの首へ、衣服へと、触れる。

「そんなみすぼらしい恰好ではなく、お姉様にはお姉様に相応しい、素敵なドレスをご用意致しますわ」

 ほら、とアンリュエッタは片手を自分の胸へと当てる。まるで誇るように、その真紅のドレスを強調する。

「わたしのこのドレスも、お姉様にお揃いと思って用意しましたの。だから、お姉様にも真っ赤なドレスを着ていただきたいのです」

 その前に、とアンリュエッタはもう一つの手でアレクシアのトップを掴む。アレクシアは反射的に下へと視線を向けかけたが、ずいと近寄ったアンリュエッタの顔に視界を奪われる。

「こんな衣装は脱いでしまって、体を白く飾って差し上げましょう。そうしたら、その上からドレスを被せるの。なんて素敵なんでしょう!」

 もう一本の手も、アレクシアのトップを握り締める。本気で引き千切ってしまいそうなくらい、アンリュエッタの顔には躊躇いがない。もう五センチメートルまで迫った赤い瞳が、アレクシアの顔をじっと凝視している。

 途端、アンリュエッタの表情が消える。その突然の変化の理由を、アレクシアは理解できなかった。かくん、と折れるようにアンリュエッタは振り返る。

「…………………………………………ダレ?」

 あまりにも無機質で無感動な声。その視線の先を追うように、アレクシアも首を動かした。


 (まる)い広場の外、黄土の道の上に彼の姿を認めて、アレクシアは息が止まるほどに驚いた。最後に別れてから酷くボロボロで傷だらけになっている。でも、それ以上になにより、また彼を見ることができて、アレクシアは反射的に叫び声を上げた。

「彩……!」

 彩は、生きている。生きて、ここにいる。それだけで、アレクシアの胸はいっぱいだ。


 ――かくん、と。


 少女の姿をしたカニバルがアレクシアの声に反応して振り返る。

「お姉様のお知り合いですか?」

 アンリュエッタは、無機の瞳のままアレクシアを凝視する。ただじっと、赤い瞳をぴたりと固定した様は、まるで人形に見つめられているかのよう。

 その、静止した迫力に、アレクシアはなにも言葉が浮かばない。かまわず、アンリュエッタは、でも、と再び彩のいるほうへと首を動かす。

「どう見ても、人間ですよね?」

 キリキリと、アンリュエッタは語りを続けながらアレクシアのほうへと首を回す。

「神魔の王であるお姉様に人間の知り合いがいるなんて……………………そんなこと、ありえませんよね?」

 かくん、と。

 アンリュエッタは満面の笑みを浮かべて首を傾げる。それは問いではなく、同意を求める強制力。

 その先を予感して、アレクシアは慌てるように口を動かす。

「そんな、あの人は……!」

「ああああああぁぁぁぁ」

 アレクシアの言葉を、アンリュエッタは自身の声を重ねて封殺する。そのまま、アレクシアを磔にした十字架を蝶たちに運ばせ、後方へと追いやる。

 くるり、とアンリュエッタは彩を正面から見下ろす。

 ……みすぼらしい恰好。服はボロボロで汚れていて、顔も傷だらけで汚らしい。そもそも、人間が幻影城に迷い込むこと自体が間違っている。

 ――お姉様と二人きりの時間を邪魔するなんて……!

 一目見ただけで、それ以上に子細に見る必要などないと、アンリュエッタは微笑のまま、まるで独り言のように呟く。

「そうか、どこからか迷い込んでしまったのですね」

 ぱん、と両の手を合わせる。それだけで、いくらか気持ちが落ち着く。でも、目の前の汚点がこのまま存在し続けることには、耐えられない。

 ……だから。

 アンリュエッタはにこりと、極上の笑みを浮かべたまま口を開く。

「なら、仕方ありませんわ。――――――――いただきます」

 ザアアアアア、と。

 蝶の群れが地上の彩に向けて殺到する。人を喰い殺す血色の霧が吹きこんでくるよう。ぱっくりと巨大な口を開き、彩を呑み込みにかかる。

 彩は、ただ視線を上げた。今まで見ようともしていなかったのに、いや、意識から外していたものを、彩はようやく視界に入れる。

「……?」

 その異変に、他でもないアンリュエッタが気づく。

 蝶の群れは、間違いなく彩のもとへと向かっていく。誤って幻影城に迷い込んでしまった人間を丸呑みにしようと、その血色の凶器を振りかざす。

 なのに――。

「…………?…………どうしてですか?」

 アンリュエッタは笑みを消し、ただ無機に問いを投げる。

「どうして、食べられないのですか?どうして――――わたしが食べられているのですか?」

 蝶たちが。赤い蝶たちが。彼女の一部たる蝶の大群が――――。

 ――――次々と無くなっていく!

 噛みついても噛みついても、喰われるのは蝶のほう。歯を立て、牙を剥き出し、くちゃくちゃと蠢いているのに。触れた瞬間、触れる前に、蝶たちは消えてしまう。

「貴女も知らないの?アンリュエッタ」

 愕然とするアンリュエッタの耳にアレクシアの声が届く。アンリュエッタは目の前の光景など忘れて、くるりと背後へと振り返る。両の手を貫かれ、磔刑に処されているアレクシアはやはり痛みを耐えるように苦痛の色を浮かべているが、彼女の口元は不敵に笑んでいた。


「――彼は、響彩。

 あたしを殺した人間よ」


 アンリュエッタは無言だった。表情も変わりはしない、色を失ったまま停止している。

 ――いや。

 返す言葉が、まるで浮かばなかった。あまりにも致命的な内容に、驚愕を表すことさえ不可能だった。

 だって、そうだろう。

 神魔の王――。それは魔人も神人も等しく殺す、破滅を告げる使徒。魔人や神人が人の社会に入り込めないというのに、それは平然と人の間に紛れ込み、昼も夜も関係なくカニバルを屠りに来る、最悪の悪夢。

 カニバルの毒をもっているだけではない。神魔の王は元々、カニバルを調律するために、世界が神人を基盤として()み出した存在。神人同様、世界から直接エネルギーを汲み上げるため、その体力はほぼ無尽蔵。身体能力だって、人間を軽く凌駕する。そんな存在を殺そうとするなら、滅ぼすつもりでかからないといけない。

 ……それを。

 殺した……?

 ありえない。……そう(わら)ってしまいたいのに、できない。

 くるり、と。

 アンリュエッタは男のほうへと向き直る。襲いかかる蝶の大群。それが、彼に近づくたびに消滅していく。

 ――まるで。

 誘蛾灯に誘われる蛾――。

 彩は一歩、前に進み始める。赤い蝶は彼の進行を止めることもできず、彼にぶつかる前に、あるいは彼に牙を突き立てた瞬間に、消えてなくなる。

「どうしてかしら?あなたは美味しくないのかしら?」

 アンリュエッタは表情を消したまま、一人呟く。

「なら、仕方ありませんね」

 ふわり、と。

 蝶の群れが彩から距離を置く。彩の頭上に留まったその赤は、彩に道を譲ったように見えるかもしれない。

 だが、そうではない。かしゃかしゃ、かちゃかちゃ、と。羽音とは別に硬質なモノがぶつかり合う音が混じる。

 彩は頭上を振り仰ぐ。直後、彩は横へ跳び、白い釘の一斉射撃を回避する。平地の上に、その鋭利な凶器が突き刺さる。

 もちろん、それでアンリュエッタの攻撃が終わったわけではない。蝶の群れから断続的に白い釘が降り続ける。当然、彩は回避に出る。発射される音を聞き、その軌道を目視して、なんとかかわそうとする。しかし、あまりの数に、全てを全てかわすのは不可能だ。

 ――だから。

 彩は左腕を振り回し、釘の射撃を消していく。ただ乱暴に振り回しているのではない、的確に、必要最低に受け防いでいる。そのうえ、彩は前進を止めてはいない。

「しぶとい人」

 アンリュエッタのほうが、しびれを切らすほど。

 蝶の群れは彩の周りにいるだけではない。もともと、この円い平地から見渡せるだけの範囲に潜んでいたのだ、その数はこの広場を覆い尽くせるほど、空さえ朱に染め上げるほど。

 かしゃかしゃ、かたかた、と。

 蝶の群れから音がする。彩への攻撃は続いているのに、その音は次第に大きくなっていく。

 かし……。

 音が一瞬途切れたことに、彩は気づいた。だから、彩はアンリュエッタからの攻撃を防ぎつつも、その正体に視線を向けた。

 ――赤い空から、煌めくシャンデリアが降り注ぐ。

 直径三十メートル近く、高さは直径の倍ほどか。白い釘を寄せ集め、抱え込める限界まで達したら一気に突き落とす。それが、アンリュエッタの必殺の一撃。

 これだけの大きさ、あの落下速度、どんなに走っても、もはや回避は不可能。さらに、彩の回避を妨げるように、小さな射撃は続いている。

 彩は防御を続けながら、シャンデリアの先端に移動する。最もエネルギーが集中する部分、最も圧を感じる部分。

 ――そう。

 感覚する――。

 彩は左腕を宙へと突き上げる。もはや小射撃もシャンデリアの一撃の前では吹き飛ばされ、彩まで届かない。最期の一撃が、彩に向かって振り下ろされる。

 彩は視覚する。彩は聴覚する。彩は触角する。――――彩は感覚する。

 形が消えていく。音が消えていく。風が消えていく。――――悉くが、消えていく。

「……どうして…………」

 失せた表情のまま、アンリュエッタは呟く。

 一つ一つは小さいからと、白い釘を束にしてぶつけたというのに、目の前の男はそれさえも消してしまった。一体どんな業なのか、触れただけでなにもかもを消滅させてしまうなんて、どんな異能か。

「………………」

 彩は左腕を下ろし、視線をアンリュエッタに向けて固定する。

 びくり、とアンリュエッタの瞼がわずかに見開く。今まで少しも動揺を見せなかった彼女の、これが初めての反応。

 彩は前進を再開する。アンリュエッタは反射的に身を引いたが、それ以上の後退を意志の力で踏み止まる。

 ――どうして退かなければいけないの?

 ここはアンリュエッタの幻影城。この場所の主は彼女で、ここで最も有利なのは彼女自身。

 アンリュエッタは自分の身体(からだ)を蝶へと変じていく。相手の異能がどれだけ不可解でも、所詮は人間。長期戦に持ち込めば、カニバルであるアンリュエッタのほうが遥かに有利。世界に近い場所から直接エネルギーを汲み上げられる彼女は、ここでは最強なのだから。

 アンリュエッタの姿が消えてしまっても、彩は直前まで彼女のいた場所から視線を離さない。まるで、彼女の姿が見えているかのように。

 彩は走り出す。そんな彼を迎え撃つように、赤い蝶の群れが彩の周囲を取り囲む。近づきすぎず、一定の距離から白い杭を乱射する。

 釘よりも遥かに大きな杭。だが、今度は彩も振り向かない。走り続けたまま、まるで意識から外したように腕に、背中に、腹部に、脚に、その猛攻を受けていく。

 突き刺さり、だが次第に溶けるように、気化するように消えていく。だが、一度受けた傷は消えない。彩の感覚は痛みの(もと)は破壊できても、生じた傷を治すことはできない。衣服に開いた穴が徐々に濡れていき、赤黒い染みを広げていく。

 それでも、彩は走るのを止めない。円い平地の中央、直前までアンリュエッタがいた場所へ。

「…………」

 彩は立ち止り、周囲に目を向ける。

 どこまでもどこまでも、見えるのは赤い赤い蝶の群れ。大量の蝶が(そら)で舞っている、揺らめく赤い空。その光景だけでも異様だが、彩の耳にはその膨大な羽音が嫌でも入ってくる。虫嫌いでなくても、このおぞましさには耐えきれまい。

 それだけではない。その隙間から漏れる、硬質な音。飛来してくる白い杭。肩に当たり、背中に当たり、脚に当たる。頭や胸への攻撃だけは回避するが、それ以外、急所に当たりさえしなければ全て無視する。

「………………」

 ただ、視界にだけ集中する。いや、さらに聴覚も意識して、姿を消した彼女を捜す。

 蝶の群れ。赤い、赤い。さわさわ、と。羽音。赤い蝶。乱舞する。サワサワ。肌にまとわりつくように。視界いっぱいに、蝶、蝶、蝶。視界が赤く揺れている。白い杭。ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ。視界が歪む。目眩を起こしそう。血色の原色。羽音が取り囲む。そのおぞましさ。もはや生理的な嫌悪しか感じない。サワサワ。羽音が肌にまとわりつく。耳元で羽音が囁いている。首筋を蝶の羽が撫でるよう。だが、蝶たちは近づかない。近づいた瞬間、自分のほうが消されるとわかるから。だから、視界を埋め尽くすだけ。赤く、赤く。聴覚を狂わせるような無限の羽音。白い杭。痛みは感じる。だから杭は消えていく。だが、意識は視覚と聴覚に集中させる。赤い視界。その隙間から覗く砂色の空。サワサワ。羽音。かしゃかしゃ。骨がぶつかり合う音。赤。赤。赤。赤。空白。赤。赤。空。羽音。骨。杭。羽。羽。骨。羽。骨。羽。杭。囲む赤。隙間。視界。視線。じっと。無機の瞳。

「……!」

 彩はそこに視線を固定(ロック)する。蝶の群れ、赤い視界から、その気配が浮かび上がる。

 視線だけでなく、さらに聴覚にも意識を向ける。サワサワという羽音の他に、ぐらりと揺れる風。それは、後方に身を引いた感触。

「――見つけた」

 そう、口にする。

 ざわり、と。

 羽音が揺れ、何かが彩から距離を置く。

 逃がしはしない、と彩は駆け出した。蝶の群れに突っ込んだ彩の前で、赤いドレスが揺れる。赤い蝶の隙間から砂色の空が見えるように、白い素肌が彩の視界に入る。そして見上げた先に、ルビーのように輝く無機の瞳が見下ろしている。

「……ッ」

 アンリュエッタは息を呑んだ。

 意識して姿を現したわけではない。なのに、自分の前で自身の手がはっきりと見えている。白い五本の指が左右に、それを、目の前の人間も見えているようにこちらに視線を向けている。

「……!」

 なにかを叫ぼうとして、しかしそれすらできない。言葉を忘れてしまったように、口はなにも紡がない。

 生理的な恐怖、それがアンリュエッタの身を引かせる。

 ――その判断が、正しかった。

 だが。

 その判断は、あまりにも遅かった――。

 彩は左腕を伸ばした。赤い蝶の群れ、塊に向かって、躊躇いなく。伸ばした掌は、なにかを掴もうと開く。

 直前までアンリュエッタのいた場所を、その左手はかいた。なにも掴めてはいない、ただ(くう)が引き裂かれただけ。

 ――なのに。


 ぞり――。


 なにかが、削げる、感触。

 それ以外はなにもない。むしられた髪は宙を舞わない。引き裂かれたドレスはその(きず)だけを曝している。抉られた肌――肉――からは一滴も(こぼ)れない。

 掠ってもいない。ただ空気が引き裂かれただけ。

 だがその余波は、最強の人喰種(カニバル)にまで及んでいた。

「……………………………………………………………………………………ぁ」

 彼女は視線を落とした。自分の(まと)った赤いドレス。それがお腹の中心、おへそから胸元、首まで一直線に引き裂かれている。

「…………ぁ…………あ……………………あっ」

 破れたドレス。その中から覗いたモノ。

 彼女自身の白い肌が見えるはずだった。神人は世界から直接エネルギーを吸い上げる。世界と繋がった肉体(からだ)は老いることなく、いつまでも完璧であり続ける。

 それが…………。

 肌は切り裂かれ、いや、肉を抉られ、見えるのはトンネルのように歪な赤黒い凹み。それは彼女の胸の下から上っている。

 誘われるように、彼女はその白と黒の境界に指を這わせる。胸の(あい)を通り、視界の届かない首にまで、それは伸びている。

 そのまま、顎を、下唇、上唇、鼻…………。あれ………………?……鼻が…………無い……。

 衝撃は、まだない。まるで導かれるままに、彼女の指は勝手にその(あと)をなぞっていく。

 目の淵を通過し、額を通り。自分の髪に触れたのは、もうほとんど生え際の辺り。

「ぁあぁああ、ぁぁああああっ、あああああああアアアアあああああああああアあアあアアアアアアアアアアアアァァアアアアアアアアアァァアアアアアアアアアア――――――ッ!」

 アンリュエッタは絶叫した。身を()くほどの痛みからではない。傷つけられた己の肉体。醜く歪んでしまった自分自身を()ってしまったがゆえの、深い絶望――――――。

 アンリュエッタは絶叫したまま、蝶の群れに囲まれる。

「待っ……!」

 彩は手を伸ばし、アンリュエッタを追おうとした。

 ――が。

 ガラッ、と――。

 世界が揺れる。大地だけでなく、空気が、空までも、ひび割れるように悲鳴を上げている。

「……っ」

 彩は倒れないようにと足を止める。その間に、アンリュエッタを守護する蝶の群れは、彼女を平地の外側、花畑のほうまで運んでいく。

 ……と。

 円い平地に沿ったところから、花畑に亀裂が(はし)る。花畑が砕ける様は、分厚い氷が崩壊するみたいだ。その深淵の海に呑まれるように、花畑は崩落していく。

 ガラガラガラガラ…………。

 花畑が呑まれ、周囲には闇が広がっていく。その亀裂は花畑だけでなく空にまで至り、砂色の空も割れ砕け、そのまま奈落へと崩落を始める。

「くっ……!」

 揺れは続き、震動は時間が()つごとに酷くなっていく。その大揺れに耐え、彩は平地の奥へと歩き始めた。向かう先にいるのは、白い十字に磔にされたアレクシア。早く彼女のもとへ行きたかったが、あまりの揺れに走ることもできない。

 一歩、一歩、確実に。もどかしいほどに遅々として、彩は彼女との距離を縮めていく。

「アレクシア……!」

 まだ距離はあるのに、彩は耐えられず、彼女の名を叫ぶ。周囲では世界が崩落する音が響き、彩の声が届いているかは怪しい。

「アレクシア!」

 だから彩は、なおも彼女の名を呼ぶ。もう、彼女の姿ははっきりと見える。磔にされて、どんな目に遭っているのか、彩には子細に見て取れる。

 なのに、彼女との距離はなかなか縮まらない。走り出したいのに、それすらできない。

 ――早く、彼女(アレクシア)を助けないと……!

 本気で、彩はそう思う。皮肉に嗤ったりしない。破壊するだけしかできない彩でも、今だけは真剣にそう思っている。

「彩……!」

 彩の声に応えるように、アレクシアも彩の名を呼ぶ。――呼んで、くれる。

 だから――。

「アレクシア!」

 彩もまた、彼女の名を呼ぶ。いくらだって、呼んでやる。

「彩!」

 ようやく、彩は彼女の前まで来た。揺れはなおも続いている。花畑はほとんどが闇に呑まれ、空も漆黒しか残っていない。彩とアレクシアがいる場所とて、安全ではなくなっている。この平地まで至る道も、ここから続いている道も、すっかり崩落して、残っているのはこの円い空間だけ。その唯一の場所さえ、そこかしこで崩落の兆しを見せている。

「アレクシア……」

 それでも、彼女の前に立った彩は、一瞬だけそんなことを忘れていた。

 彼女にまた逢えた――。

 彼女はここにいる――。

 それを思い知っただけで、彩の(なか)はいっぱいになった。

「待ってろ。いま、そんなモノ壊してやるから」

 彩は十字架の背後に回って、アレクシアの手が張りつけられている部分に裏から触れる。石膏(せっこう)のような十字架も、彩が触れると乾いた土のようにボロボロと崩れていく。左右の縛めがとれて、アレクシアの身体ががくんと前に屈み込む。

「アレクシア……!」

 大丈夫か、と声をかけようとすると、彼女はくるりと振り返って彩に笑いかけた。

「大丈夫だよ、彩」

 その笑顔だけで、彩は安堵する。

 アレクシアも戦ったんだ、決して無傷ではない。でも、それはお互い様。また逢えて、彼女の笑顔がまた見れるなら、それだけで彩は安心できる。

「彩……」

「アレク……」

 お互いが、何かを言いかけた。だがその言葉は、ともに続かなかった。

 ぐらり、と。二人の足場が崩れた。ひび割れた足元は、そのまま無明の闇に呑まれるように落ちていく。

「……!……アレク……」

 足場の崩落に一瞬気を取られ、顔を上げ直した彩は愕然として声を詰まらせた。

 崩れ続ける足場に引きずられて、彩も落ちていく。目の前に倒れてくる十字架を払い除けると、そこにアレクシアの姿が見えた。

 ――アレクシアは、落ちてこない。

 ――彩だけが、この無限の闇に落ちていく。

「アレクシア……!」

 叫ぶ。手を伸ばす。

 崩落は止まらない。どんなに手を伸ばしても、アレクシアとの距離は開くばかり。

 彼女も、彩の名を呼んでくれたような気がした。だが、その声は彩には届かず、あっという間に二人の距離は絶望的なまでに開いていき、最後には点すら見えずに消えてしまった。


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