零章
病室の中で目が覚めた。いや、目が覚めたとき病室にいたという認識のほうが正しい。ずきり、と頭の痛みで意識ははっきりと覚醒する。頭の違和感につい手を触れると、そこには包帯が巻かれている。
肌に直接触れる布の感触。それを意識しないように、少年は周囲をぼんやりと眺めた。清潔感溢れるこの空間は、しかし病的なまでに白く、それに病院特有の冷え冷えとした臭いに言いようのない感覚がする。
生者と死者が隣り合わせに眠るこの病院という場所は、それだけで異世界めいている。自分が存在しているのは果たして生きている側なのか、それとも死んでいる側なのか、その感覚が曖昧になる。
少年にとって、それは瑣末な問題だった。自分という存在は、最初から曖昧にできている。自分の生死はもとより、自分が存在しているのかどうかなんて、それは曖昧というよりは空白に近い。
自分はいないもの。
自分はいてはいけないもの。
その存在の、どれもこれもが不適合で、不整合。
この矛盾は、どこからきて。
――そして。
この矛盾に、いつ気づいたのだろう――。
真夜中に目が覚めるなんて、我ながらできすぎていると思った。正確には、午前二時の丑三つ刻。それこそ、劇場で開かれるお芝居みたいだ。
ただ闇ばかり見つめて、しかし少年はなにも感じてはいなかった。漆黒とは、つまり無で、そしてその存在はただただ曖昧。闇に意識をもっているなんて、自分にとってこれほどの舞台はない。
日が昇って辺りが白く輝きだしたとき、少年はこのまま寝てしまおうかと思ったくらいだ。それでも、体は眠りを欲していなかったので、むしろこの窮屈な空間に押し込められているのが我慢できなくて外に出たいくらいだった。少年の体は、嫌になるくらい活動を欲して、いや、貪欲していた。
早朝の見回りでやってきた看護婦が慌てて部屋を飛び出してからしばらくして、やって来たのは白衣を身につけた男性だった。医者だろう、と外見だけで判断できる。疲れ切った顔、やつれた表情、生気が欠落した雰囲気。お前こそ医者にかかったほうがいいとそんなことを思う。
少年だけのベッドに、その医者と看護婦が入って来た。医者は少年のベッドの隣に立って、髑髏のような慈愛の笑みを浮かべる。
「おはよう。彩くん」
少年は無言だった。
医者は相変わらずにこにこと笑みを絶やさない。
「わたしは君の担当医の染衣といいます」
よろしく、と医者は会釈する。
少年はただ、医者のことを見ないようにと、医者のほうを向いているだけ。
まるでかみ合わない空気に、医者は一方的に話を進める。
「気分はどうですか?ああ、まずは君の状況から説明したほうがいいね。彩くん、君は交通事故にあって、ここに運ばれたんだ。覚えているかな?……覚えていなくても心配ないよ。君はその際、頭を強く打ってしまってね。君がここに運ばれてから三日経つ。わたしも、こうやって君が目を覚ましてくれてほっとしているんだ。目が覚めたことだし、これからいろいろと検査することがあるけれど、君の体を治すためだからね、がんばるんだよ」
医者の言葉は、そこで切れた。
少年はなにも言わず、医者のほうを向いているだけで見ようともしない。まるで人形と同じ。いや、空のベッドに向かって独り言をぶつぶつ呟いているだけのような滑稽さ。医者は言葉を失ったように、ただ笑みを浮かべている。
医者は砕けそうな笑顔を顔に張りつけたまま、また口を開く。
「それじゃ、今朝はここまでにしよう。なにか困ったことがあったらそこのボタンを押してください。看護師が来ますから。なにか困ったことや、話すことがあったら、どんな些細なことでもかまいませんから、彼らに言いつけてください。……わたしも、君がよくなるよう、できる限りのことはしますから」
それじゃ、と医者は看護婦を連れて去っていく。がらがら、と扉が閉まる音。こちらと、あちらが、隔離される合図。
きっと、向こう側で医者は溜め息を吐いていることだろう。あの医者は、どこか神経質で、それでいて気が弱そうだ。しかし、少年には関係のないことだし、少年はそこまで他人のことを気遣えるほど思いやりはない。
むしろ――――。
少年は明るくなった部屋の中を見回す。
一人きりの病室。それにしては、いやになるくらい広い空間。狂いそうなくらい白い、清潔さ。まるで、無菌室だ。汚れを外に出さないための、密閉容器。
差し込む陽射しの、あの窓さえなかったら、きっとこの空間は完璧だ。誰にも覗かれず、なにも感じられず。そうすれば、自分はシュレーディンガーの猫になれる。
生きているのか、死んでいるのかがあやふやな、ブラックボックス。その中で、果たして自分は生きているのか死んでいるのか。
――どうでもよかった。
少年は体の訴えを無視して、惰眠に甘んじるためにベッドに身を置いた。柔らかい、というのが最初の印象。皮膚が感じるその印象は、よくも悪くもなく、ただ柔らかいという認識しか湧かない。そこに、普通の人間なら幸福感や、気持ちいいという子どもらしい感情を抱くのかもしれないが、少年は一向にそんな気は起らなかった。
ただ、柔らかい。
それは、単なる記号のよう。
それが、少年が覚醒して初めて意識した、感覚だった。
事件はすぐに起こった。
検査のためにやって来た若い看護婦は悲鳴を上げて部屋に入りもせずに逃げていった。駆けつけてきたのはその若い看護婦とさっきの医者ともう一人の看護婦、――そして野次馬のような看護師の群れだった。
三人は部屋に入って来て少年の傍らに立ち、残りのその他大勢は遠巻きに少年のほうを見ている。
――まるで。
動物園の珍獣になった気分だ。遠巻きの看護師たちは、本当に珍しいものでも見るように少年のことを観察している。けれど、決してそれ以上近寄ろうとはしない。完全に、野次馬だ。ただ珍しいものがいるから、いや、奇妙な生き物がそこにいるから、面白がって眺めている。しかし、自分に災厄が降りかかってこないようにと、近寄ろうともしない。
そんな、普通の人間ならば明らかに不快な光景に、しかし少年はなにも感じない。――むしろ、ああやっぱり、という子どもにしてはできすぎた感情を抱いているくらいだ。
「なにをしたんですか?彩くん」
やって来るなり、医者はそう口走った。
さっきまでベッドという形をしていたモノは、しかし今はその意味を完全に失っている。真ん中から半分に折れて、支えを失って床の上に倒れる。いかな力で打ち砕いたのか、ベッドという存在は無惨なまでに破壊されている。
「ああ、いや……」
気の弱い医者は顔に手を当てて、それで最初のときのような安物の笑顔を浮かべる。
「怪我はないですか、彩くん。見たところ大丈夫そうですが、これから検査で調べればわかることです。部屋には新しくベッドを運んでおきます。すいません。そんな簡単にベッドが壊れるなんて思ってもいなかったのですが、どこか調子が悪かったんですかね」
継ぎはぎだらけの言葉で取り繕って、医者はいっそう笑顔を張りつける。若い看護婦はおろおろとして。ベテランそうなもう一人の看護婦は不満そうに眉を寄せて。遠巻きではこちらに聞こえないようにと内緒話が始まっている。
――ああ、そうか。
少年は記録の中からその情報を引っ張り出して、認識する。
少年にとって、記憶は記憶と呼べるほど形を保てていない。完璧な記録は、しかしそれだけでは不完全な記憶にすぎない。保存された情報は、ただの記号と大差がない。少年は、おそらく自分がこの場所にいる原因以外、おおよそのことは知っている。しかし、そのどれにも自分が体験したという認識が欠如している。
曖昧な存在とは、つまりはそういうこと。
――なんて、失態。
少年は、ようやく自分がこの世界に適合できていない存在であることを、少年の記録から認識した。
小さい頃から、少年はつくづくモノを壊しやすかった。
別に乱暴に扱っている覚えはない。周りの人間と同じように触れて、同じように使っているだけ。同じように扱って、同じように――――。
それでも、少年だけ決定的に違っていた。
――響彩という人間は、とかくモノを破壊する。
その記録を見つけてからは、少年の周囲に対する理解は急速なものとなった。ベッドもそうだが、少年が使うスリッパも、着ている衣服でさえも、その損傷は他と比べものにならない。新しいベッドもその日のうちに壊れて、スリッパも検査から戻って来た頃にはボロボロで、衣服はその日一日だけで五回は取り換えた。
最初のときこそ笑顔を取り繕っていた医者も、この奇怪な現象に驚愕を露わにするようになる。医者はその原因が少年にあるものだと決めつけ頻りにその方法を訊ねてきたが、少年は目が覚めたときと変わらず無言を貫いた。気の弱い医者はそれ以上訊けず、その疲れ切った顔に悲愴の色を浮かべるようになった。
看護師たちのほうも、この気味の悪い少年には近づかなくなった。最初こそ少年の身の回りの世話をしていた若い看護婦は、しばらくして少年の前に姿を現さず、ボタンでも押さない限り会うこともなくなったが、少年は一度もボタンを使わなかったので、結局それきりだ。
少年の、破壊は一向に治まらない。
少年はなにもしていないのに、モノだけが勝手に壊れていく。ベッドの損害が二桁に達してしばらく、少年からはベッドがなくなり、衣服もすぐ破れるからと一日中シーツだけ巻いている生活が始まった。そのシーツも、食事の際に毎回取り換えている。
おそらく、少年の姿は奇怪だっただろう。だが、幸いにして少年があてがわれた病室は少年一人だけで、少年が外に出ることも滅多になかった。
「…………」
日の出ている間は、ただ漠然と窓の外を眺め続けた。
鳥が飛んでいる。庭で患者たちが雑談している。看護師たちが笑ってその相手をする。見舞いに来る人もいる。家族か、知り合いか。少年には誰も会う人がいない。家族も、知り合いも。看護師ですら、医者ですら、少年に好き好んで会う人間はいない。
まるで――。
まるで――――――。
ここだけ異世界のようだ。
世界から隔絶された、孤独な穴。
傷つけることしかできないこの手は、きっと全てを破壊する。
触れたもの。感覚したもの。
その全てを、きっと少年は奪ってしまう。
それは、望もうと、望むまいと――――。
「……」
それでも。
それでも、かまわない。
きっと、自分は最初からなにも得られない。
なにも、得られるものなんて、この世界にはない。
それが、きっと正しいこと。
この、間違いだらけの存在は、ただ情報を保存していくだけの器でしかない。
記憶ではなく、記録していく。
知識や認識の蓄積だけが、自分を留めている。
不確定という存在。
否定を累する意識。
――だから。
少年はシーツに触れた。
ボロボロと、そこに穴が広がる。
少年が意識したところから、脆く、崩れる。
自分は、こんなにも、なにも感じない――――――。
夜な夜な病室を抜け出して散歩をするのは、少年にとってなんの違和感もない。この曖昧で不確かな世界こそ、自分が存在していて心地いい。少年はシーツ一枚で冷えた空気の中を歩く。流石になにも身に着けないのには抵抗があった。しかし、シーツ一枚羽織ったところで、少年を守るものはなにもない。この布切れだって、そのうちボロボロになって消えてしまう。
暗い廊下に緑色の光が灯る。非常口と書かれたそれは、なんて軽薄なんだろう。危険から逃げたいなら、そもそも近寄らなければいいのに。自分という異質な存在がいるというのに、なんて滑稽な話だ。
きっと、他の患者は誰も知らない。ここにこの世界の全てを破壊してしまう危険な存在がいるということを――。
隣人が殺人鬼であっても、知らなければ安心して熟睡できる。毎日挨拶を交わしている相手が食人嗜好の異常者であっても、笑顔を向ければきっと気づかないで通り過ぎる。鴉が漁るゴミの中に人間の死体があっても、袋に隠れていたらなんの疑問ももたずにゴミを捨てる。例えそこが殺人現場でも、血の跡がなければ毎日のように通るだろう。
こんなにも、危険がそばにいるのに。
こんなにも、異常が近くにいるのに。
――こんなにも。
世界は脆く、危うい場所なのに――――。
暗いロビーを抜けて。
少年は、幽い中庭へと飛び出した。
昼間は人々が集まる中庭も、夜には人の気配もない。遠くで梟が鳴いている。人々が寝静まっても、いまだ世界は眠りにつかない。耳をすませれば、ざあっ、と風が木々を揺らす。闇色の森が手招きするように枝を差し伸べる。
中庭を通り過ぎると大きな森があり、その森をさらに抜けると小さな丘がある。もともと高い場所にあるのか、ここから町の景色が見渡せる。
――なんて、小さい。
闇の中でぽつぽつと光る灯かりは、消えてしまいそうなくらい弱い。それでも、ただただ縋るように瞬いている姿は、人間らしいといえばそうらしい。
丘の上には大きな木が一本立っているが、少年は木に背を預けることなく、座り込んで町を眺める。少年の定位置は、感覚が強く染みついているためにそこだけ穴が開いたように草がない。――まるで、蟲に喰われたよう。
丘の上で、少年は一人町を眺める。
なにも感じず、なにも考えず――。
町を見るのではなく、漠然と眺めるだけ。そこに意識はなく、情報が流れ込んでくるばかり。感覚を、可能な限り削り落して、そうやってなにも感じないように意識を殺す。――殺して、殺して、殺して、殺し。
きっと、自分は幽霊なのだ。
屍をもった、亡霊。
だから、この体は脆く、いまにも崩れ落ちそう。
きっと――。
きっと――――――。
この屍は。
――感覚してしまえば。
コワレテシマウ――――――――。
なら、いっそ。
「壊れてしまえばいい」
目が覚めてから初めて口にした言葉。
孤独の丘で、少年は呪詛のように呟き続ける。
幾日幾夜――。そればかり、考える。
感覚を殺すということは、自分を殺し続けるということ。存在を殺し、意味を殺し。自分の全てを殺して、否定し続ける。
――それでも。
体を覆っていたシーツが半分くらいに崩れて無くなる。もはや体を隠すこともできない。地面に触れる感触が、そこに生きるありとあらゆるものを殺し続ける。――そうやって、少年は生き続ける。
ああ、それはなんて――。
――――――醜い。
存在していることは間違い。
生きていることは罪。
殺してしまえば、とても楽なのに。
殺しきれない自分は、なんて生き汚い。
「壊れてしまえば、いい」
闇に吐き出す言葉は、氷のように白い。
今は何月なのか、外は雪でも降りそうだ。きっと白くて、とても美しいに違いない。こんなに寒い夜に、しかし少年はなにも感じない。鈍感なのではなく、寒いという感覚さえも殺してしまっているから。そして、寒さという感覚はその空気すらも殺す。
きっと、死ぬときは痛みなんてないのだろう。
痛みさえも殺して、少年の死は、きっと無だ。
なにも残さない。
なにも遺さない。
この生にすら、最初から意味なんて、無い。
「――勿体ないこと言うね」
声――――。
夜風に紛れて。その声は、確かに聞こえた。
少年は驚愕して振り向く。そこにいたのは、女性だ。まだ人生経験の浅い少年には、女性の年齢はわからない。ただ自分よりも大人で。十分に若いということだけ。
「君は間違いなく完璧なのに、それを壊すなんて」
窘めるように、女性は微笑む。
「…………」
その姿に、少年は一瞬見とれた。
分厚いコートにマフラーを巻いている。コートの中から清潔そうな白い手袋が覗き、片手には大きな旅行鞄が握られている。
「――――」
彼女は、ただ少年を見て微笑んでいる。
それは、今まで少年が見たことのない、優しそうな笑顔で――――。
「……!」
気づいて、少年は顔を背けた。
「無視するなんて、ひどいな」
嘆息混じりに、女性は肩を落とす。その息がとても白くて、少年は彼女と目を合わせまいと必死だ。
――視ることは、感覚すること。
――感覚は、この世の全てを破壊する。
草を踏む音。
コロコロ、と草を踏む旅行鞄。
「……やめろ」
来るな。
近づくな。
これ以上、感覚させるな!
「触るな」
ぴた、と。
すぐ傍まで伸びていた女性の手が止まる。
「――どうして?」
本当に。不思議そうに。
女性は少年を見つめて訊ねた。
「……………………」
長い、沈黙。
停止した時間。
このまま黙っていれば、女性もなにも言わず、少年に触れることはなかったのか。
しかし、少年は恐怖から声を上げてしまった。
「……俺は、おまえを、壊す」
壊してしまう。
きっと、無惨に、完膚なきまでに。
その白い手も。
寒さをしのぐコートも。
その、優しい微笑みも。
「――――なら」
すっ、と、女性は透明な笑みを浮かべる。
「わたしは、君に、壊されない」
その声は、遠くから聞こえるようだった。
こんなにも少年と女性のいる場所は近いのに、その声は世界の果てから聴こえるように、小さく消えてしまいそう。
その声に、少年は触れられず――。
――彼女の腕が、優しく少年を抱きしめる。
ほらね、と女は笑った。
「わたしは、大丈夫だよ」
ぎゅっと。
女性の温もりを、近くに感じる。
「……」
驚いた。
まだ幼い少年には、その意味がわからなかった。
触れているのに、触っている感覚がない。
こんなにも近くなのに、その存在はとても遠くて。
触れることと、触ることは違うこと。
その違いが、幼すぎる少年にはまだ理解できない。
なにも掴むことができない少年は、しかし女性に抱かれている。
――ああ。なんて。
温かいんだ――――。
この感覚は、経験がない。
こんな感情は、初めてだ。
なにも得られなかったはずの少年が、確かに得られたもの。こんな小さくてささやかで、けれど確かに温かい。
――じわっ。
熱い。
熱くて熱くて。
体が、熱くて。
瞼が、熱い。
目を閉じると、つうーっと熱いものが流れる。
――ああ。
初めてだ――――。
少年は生まれて初めて、泣いた。
「すっきりした?」
どれほど泣いたのか、少年は泣き疲れて呆と夜闇を見つめる。いや、その瞳はなにも見てはいない。ただ呆と、意識を忘れているだけだ。
「…………よく、わからない」
本当に、わからない。
こんなに泣いたことなんて、少年は今まで生きてきて初めてだ。泣いた記録なんて、少年の中にはない。
だから、わからない。
泣いた理由も。
泣く、意味も。
「今はまだ、わからなくていいよ。そのうち、わかるようになるから。その涙は、とても大切なものなんだ」
女性は優しそうに微笑う。
「大切?」
少年は咄嗟に訊き返す。
――その言葉が。
あまりにも、意味不明だったから――。
優しく、女性は頷く。
「そう、大切なもの」
「でも、泣くのは弱虫の証拠だ」
少年は記録の通りに答える。
少年にも、親と呼べる存在はいる。しかし、それは社会一般の書類上の話で、少年には真に親だと思える存在などいないが。
少年は、泣くのはいけないことだと教わった。
泣くのは弱い者のすることで、しっかりした人間になるには、泣くのは我慢しなければいけない。
女性は諭すように、じっと少年を見つめる。こんなに近くで、こんなに真剣に凝視されるなんて、今までなかったかもしれない。
「感情で泣くことと、感覚で泣くことは違うよ。君は今、なにも感覚しなかったでしょ。だから、今の涙はとても大切なもの」
そう、彼女は告げる。
「自分のために泣くのは弱さの証。でも、誰かのために泣いたなら、それは想いの証」
――覚えておきなさい。
女性の言葉は、とても不思議な響きを帯びていた。
彼女に言われると、それがまるでこの世界の理のように感じられる。
彼女の、この人の口にする言葉全てが真実であるかのように。
すっ、と。
女性は立ち上がって傍に置いておいた旅行鞄に手を伸ばす。
「今夜はもう遅いから、帰りなさい。体が冷えちゃうから」
女性も、帰ろうとしているのだと少年は気づいた。
これで、今夜の話は終わり。
今日の、出会いは終わり。
「…………また、会える?」
つい、少年はそんな言葉を口にしていた。
……初めてだ。
自分から、誰かと関わろうとするなんて。
――初めてだ。
自分が、こんなにも誰かと別れることを辛く思うなんて――。
「また、会えるよ――」
去り際も。
自然に。
優しく。
女性は、暗い森の中へ雪のように消えた。
「――じゃあ、君は生まれつきモノを壊しやすいんだ」
初めての夜から数日、少年は毎晩女性と会った。会うのは午前零時から丑三つ時の直前まで。場所は森の中の丘の上。待ち合わせは、決めていない。でも、決まって少年はその時間に出かけて、決まってコートとマフラーと、白い手袋をした彼女と出会った。
話す内容は、少年のことばかり。人と話すことに慣れていない少年は、だから毎回女性のほうから少年に自分のことを訊ねられる。
少年が住んでいた場所のこと。少年の周りにいた人たちのこと。――少年の、体のこと。
医者にすら無口を貫いていた少年は、しかし彼女の前ならなんでも話せた。
……不思議だ。
彼女の前なら、彼女になら、こんなにも素直に、自然に、答えることができるなんて。
少年は、自分のモノを壊す力について話した。
感覚するだけで、モノを破壊する。自分の意思ではなく、感覚するだけで壊してしまうこと。それは、少年が物心ついた頃から続いている性質。
女性はしばらく考え込むようにして頷く。
「君の感覚が強いのはそのためだ。破壊の性質は感覚と直結しているから、そういうことだね。今みたいに何でもかんでも破壊しちゃうのは、昔から?」
少年は自分の記録から過去を振り返ってみて、首を振る。
「前までは、こんなに酷くなかったと思う。今はベッドも服も壊しちゃうけど、この病院にいる前まではそんなことなかった」
ふーん、と女性は唇にその白い指を添える。
「記憶ははっきりしているんだ。いや、君の場合、それは単なる記録か。感覚がないから、どんなにはっきり覚えていても、それは記憶ではなく記録でしかない」
女性の口にしていることは、はっきり言ってまだ幼い少年には理解できない。それでも、彼女が言うのだからそうなのだろうと、少年は自然と納得していた。
「それで、今はどんな気持ち?」
その質問に、少年はわずかに答えに困る。
「……よく、わからない。でも、自分がいなくなっちゃえばいいと思ってる」
素直に答える。
どんな気持ちかなんて、そんなものわからない。
感覚を殺してきた少年には、感情というものも欠陥だらけだ。自分がなにを感じて、なにを思って。なにも感じなければ、なにも思えないようなもの。少年は、なにも得られないから、なにも生み出せない。そんな、この世界にとって不必要で邪魔な存在で、異端で罪悪ならば、その存在自体が消えて無くなってしまえばいい。
女性は、とても厳しい面持ちで少年をじっと見つめる。
「――そう。でも、よくわからないうちに、そんなこと考えちゃダメよ。いい、この世界に存在しているものには、必ず意味があるの。君のその性質も、必ず意味があるんだから。その意味を見つけるまで、簡単に自分を壊してはいけないわ」
世界に存在しているものは、どんなものでも意味がある――――。
それは、真実なのか。
幼すぎる少年には、まだ答えられない。
早熟しすぎたこの少年には、その言葉は遥かな幻想のように思えてならない。
――でも。
少年は思う。
この人が言うんだから、きっと真実だ――。
「――――うん。わかった」
素直に頷く少年。
その子どもらしさに、女性は優しく微笑む。
「いい返事。折角だから、ご褒美をあげる」
女性はコートの中から一組の手袋を差し出した。
「手袋?」
それは女性が身に着けているものと同じ、白い手袋だ。
「いつも、それをつけておきなさい。きっと、その手袋があなたを守ってくれる。願掛けしたんだから、絶対よ」
両手に手袋をはめる。
幼い少年には大きすぎて、ところどころで余っている。それでも、少年の小さな手を覆ってくれるその手袋は、とても温かい。
「外しちゃダメなの?」
女性は、あの夜のような透明な笑顔で、少年を諭すように、応える。
「あなたのその力がどうしても必要なときには、それを外してもいいわ。言ったでしょ、全ての存在には、ちゃんと意味がある。あなたが本当に必要だと思うなら、きっとそれは意味があることなんだから」
ただし、と彼女は言い添える。
「忘れないで。必要なときだけだから。もしも遊び半分でその性質に頼ろうとするなら、きっと君はとんでもないことをしてしまう」
その瞳は、少年の心の奥底まで射抜くようだ。
その言葉が、なにを意味しているのかは、まだ幼い少年にはわからない。
――でも。
彼女の瞳は怖いようで――。
とても、綺麗だ――――。
「――うん。わかった」
まっすぐ、少年は応える。
決して。
偽りでも。虚勢でもない。
素直に、少年は頷いた。
「よろしい――」
女性は優しく微笑んで、旅行鞄を握り締める。
あの夜から二度目になる、女性が旅行鞄を持つ姿。
彼女に会って六日目。六回のうち、彼女がその大きな旅行鞄を持っていたのは、最初と、そして今日のたった二度。
「それじゃ、もう行くね」
その言葉に、少年は気づいてしまった。
――もう、彼女は来ない。
今日で、彼女とはお別れ――。
だから、少年は訊かずにはいられない。
「…………また、会える?」
もう、止まらない。
口にした言葉に、少年は驚くことさえ忘れている。
……初めてだ。
自分から、誰かと関わろうとするなんて。
――初めてだ。
自分が、こんなにも誰かと別れることを辛く思うなんて――。
少年の言葉に。
「もう、会えないわ」
女性はきっぱりと答える。
「いつまでも、ここにはいられない。遠くへ行かないといけないから」
――ああ。
なんてこと。
彼女とは、もう会えなくなる。
彼女は行ってしまう。少年の知らない場所へ。
彼女は去ってしまう。少年の存在しない処へ。
それが。
こんなにも。
――なんて。
悲しい――――。
涙は、でなかった。
けれども、無性に叫びたくなった。
その衝動がなんなのか、少年にはわからない。
叫ぶべき言葉すら、少年にはわからないのだから。
――ただ、一言。
行かないで、の言葉さえ――。
少年さえ気づかないその気持ちに、彼女は。
「――――また、いつか逢おうね」
ただそれだけを残して、夜風に消えた。
――最後まで。
彼女は、名乗らなかった。
せめて名前だけでも訊きたかったけど、それすらできなかった。
――それだけが、心の残り。
少年の手には、大きな手袋があるだけ――――。