この世界、波乱万丈につき
僕と直貴の交際は、そう上手くいくものではなかった。
甘く考えていた訳では無いのだが、予想以上に困難なものだった。
まず第一に、僕はゲイではない。だから、この手の恋愛は苦手だった。
「あ、また彰さん負けた。本当に弱いですね」
「…次は勝つよ」
……ピローン…
「あ、負けた。…本当どんだけ弱いんスか」
僕たちの部屋に(というか僕の仕切り側に)置いてあるテレビで、僕と直貴はテレビゲームをしている。
戦闘ゲームなのだが、直貴が強すぎるため、僕は未だに完敗している。
「あー、疲れた!彰さんとやっても、全然対決にならないんだもん」
直貴は伸びをして、嫌味を言ってきた。
僕は顔を反らし、
「…だったら一緒にやろうなんて言わなければ良かっただろ」
少し怒りめに言った。
直貴は、小さく笑い、
「拗ねるんだ?…かーわーいーいー!」
僕の首元に抱き付いてきた。
「…バカにしてるのか?…大体"可愛い"なんて言われても何も嬉しくないし」
僕は彼の腕を強引に押し返し、立った。
直貴は「素直じゃないなぁ」と言い、僕の後を追うように、立った。
「…つ、付いて来るなよ!?トイレだからな」
振り向いて僕が言うと、直貴は即答した。
「トイレ?…あぁ、じゃあ俺も」
………は?
「あのなぁ、何も真似しなくても良いんだぞ?お前は一人でゲームでもやっとけば…」
「別に真似じゃないよ。俺は、彰さんと一緒に入りたいな~…って思ってるだけで」
「………調子乗りすぎだぞ」
腕にしがみついてくる直貴を軽く小突き、僕は部屋を出た。
ドアを閉めた後、直貴がドアを軽く殴る音が聞こえたが、僕はそのまま部屋に背を向けた。
『せっかくの休日なのに』
直貴が今朝、僕に言った言葉だ。
今日は珍しく部活が無いらしく、仕事も休みの僕に彼は多分デートに行きたい、と誘ってきたのだろう。
だけど僕は、その期待に応えてあげられなかった。
「ねぇ…、彰さん。本当に行っちゃうんですか?」
僕の後ろに抱き付きながら、直貴が訊ねる。
「あぁ。社長から連絡が入ったからな」
僕は動きにくい体勢のまま、ベッドの上に置いてあった仕事用の鞄を手に取った。
直貴は、耳元で少し悲しそうな吐息を吐き、
「……結局何処にも行けませんでしたね」
僕を抱き締める力を強めた。
若干喉元が苦しくなったが、僕はそのまま部屋のドアの前へ歩きながら、
「…しょうがないだろ。仕事が入ったんだから。…それより、この手、いい加減放してくれない?呼吸出来なくなりそうなんだよね」
直貴の腕を引き離そうとしながらそう言った。
――僕のその何気なく言った言葉と、腕を離そうとした行動に、直貴は傷付いた。
「…彰さんは、やっぱり俺の事なんかどうでも良いんだ…」
「……え?」
直貴の声があまりにも小さく、聞き取りにくかったため、僕はもう一度聞き返した。
……悪気なんかなかった。
「……彰さんは、やっぱり俺の事を"恋人"として見てくれていない。…彰さんの目に映る俺は"恋人"なんかじゃなくて、所詮"義兄弟"止まりだったんだ…!」
直貴はそう言うと、俺の首元から手を離し、走って部屋を出て行ってしまった。
「――っ!!直貴っ!!!」
慌てて後を追ったが、直貴は既に、外へと飛び出して行ってしまった。
「…………くそっ」
僕はその場にしゃがみこみ、何度も何度も床を拳で叩いた。
結局出社したものの、社長は『緊急の用事』と言って、ただ単に社員を早く集めたかっただけらしく、次の出社日…月曜日の仕事分担の打ち合わせをしただけで解散となった。
その後、直貴に仕事終了のメールを送ったが、返信は返ってきていない。
――午後8時を少し回った時。
家族皆が、ソワソワしながら直貴の帰りを待っていた、その時だった。
………プルルルルッ
家の電話が鳴った。
「きっと直貴だ!!」
と言い、お父さんが受話器を取った。
「もしもし、直貴か?こんな時間まで何やって――」
お父さんはそこまで言って、言葉を切った。
僕とお母さんは顔を見合せ、お父さんの方を見る。
お父さんは、少し青ざめながら、
「………直貴…が?」
と言い、その後は「はい」「はい」とだけしか言わなかった。
受話器を置いて、その場に立ち尽くすお父さんに、お母さんが心配そうに声を掛けた。
「…誰から?直貴はどうなったのですか?」
お父さんは涙目になりつつ、静かに言った。
「……直貴は、家の近くの交差点で、信号無視の車に跳ねられて、今病院に搬送されたって…」
「……っ!!」
「…なんですって!?」
お母さんはショックのあまりか、その場に倒れた。幸いソファーの上に倒れたのだが。
お父さんは上着を羽織り、お母さんを抱き抱え、僕に
「直貴は矢沢病院にいるらしい。急いで行くぞ!」
と言った。
僕は強張る身体を必死に動かしながら、その言葉に頷き、車に乗った。
「意識はまだ戻っていませんが、このまま順調にいけば、明日の朝にでも戻るでしょう」
医師から告げられた言葉にお父さんは涙を流し、何度も医師に頭を下げた。
お母さんは病室の近くのソファーに横たわり、ぐったりしていた。
……全部、僕のせいだ
僕はお母さんの隣に居るのが辛くなった。
お父さんは此方を振り返り、
「彰、直貴の様子見に行ってあげなさい」
僕の目を見ながら、そう言った。
僕は黙って頷いたが、正直直貴に会うのは辛かった。
自分のせいで事故にあったなんて考えると、胸が締め付けられる。
僕は直貴の病室のドアを開けた。
直貴はドアを開けて左手の、一番奥のベッドに寝ていた。
……綺麗な顔
こんな酷い状態の彼に対して、こんな事しか思えない僕は、なんて最低な人間なんだろう、と思った。
僕は優しく直貴の頭を撫でた。
頭にはネットが巻かれているため、直に触る事は出来なかったのだが。
「……ごめんね、直貴…」
僕はそう言って、彼の寝ているベッドへと、顔を沈めた。
僕が朝の気配に気付いたのは、午前6時30分を少し過ぎた頃だった。
雀の鳴き声や、自動車の騒音等で目覚めた訳ではなく、耳元が何故か異様にくすぐったかったために目覚めた。
顔を上げてみると、そこには…
「おはよう、彰さん。彰さんの寝顔、凄く可愛かったよ」
「…直貴」
上半身を起こした直貴が、微笑みながら此方を見ていた。
僕は身体を起こし、伸びをした後、くすぐったかった耳を触った。
「……ん?」
少し濡れている。
直貴は、小さく笑い、
「彰さんがあまりにも可愛かったから、喰べちゃった」
と、言って僕の手を握った。
「……なっ、た、喰べ…っ!!」
真っ赤になっている僕を見て、直貴は声を潜めて聞いてきた。
「…ねぇ、お父さん達、居る?」
僕は辺りを見回した。
そう言えば、さっきから二人の姿が見えない。
僕が周りには居ない事を確かめた後、直貴に
「昨夜は居たんだけどね。今は居ないみたい」
と、告げた。
直貴はそれを聞いて、ホッとしたような顔をして、僕の目を見ながら言ってきた。
「そっか。…なら今、彰さんにキスしても良いよね?」
「……え?」
突然の質問に、僕は直ぐに返事を返せなかった。
そんな僕の様子を見て直貴は、ニヤッとして僕の肩を掴み、彼の身体の方へと引き寄せた。
唇が触れるか触れないかというような至近距離。
そこで直貴は動きを止めた。
不思議に思って、自然と瞑っていた目を開けると、何故か直貴と目が合った。
彼は僕の顔をまじまじと見て、その後呟いた。
「………可愛い」
「………っ!!??」
直貴の息が僕の唇に触れる。
無意識のうちにビクッと動いた僕の身体を優しく抱き締め、直貴は目を閉じた。
吊られるようにして僕も目を閉じる。
そして――
「……っ、んっ」
優しく包み込むような口付けをされる。
直貴の手は、右手は僕の後頭部、左手は僕の背中へと回っている。
「……っは」
そっと彼の唇が離れていき、呼吸が自由になる。
大きく息を吸う僕を見て、直貴はまたもや「可愛い」と言い、頭を撫でてきた。
…これで終わりだろう。…そう思ったのだが、直貴はこれだけでは終わらせてくれなかった。
ベッドの横の椅子から立ち上がろうとした僕の腕を引き寄せ、またもや唇を重ねてきた。
「……んっ、ん」
呼吸がしたいあまり、隙間を作り、少し空気を吸っていたのだが、直貴にバレ、隙間を埋められてしまう。
しまいに――
「…んっ、く…ふっ…んんっ!!」
僕の歯列の合間を縫って、彼の舌が入ってきた。
「んんっ…!!!」
必死に抵抗する僕に対し、彼は優しく、ゆっくりと僕の口内を犯し始める。
生ぬるい感触が、僕の身体中に行き渡る。
下の部分なんか、彼は一度も触っていないのに、妙に僕の下の部分が熱い。
彼もその事に気付いたのか、そっと僕の舌に絡めながらも、僕の口内から舌を抜いていった。
「……ぷはっ!」
苦しかった。
僕はヘトヘトになり、またベッドへと突っ伏した。
彼は先ほどから気になっていたであろう僕の下の部分を、じっと見ている。
僕は敢えて声を掛けてみる事にした。
「…どこ、見てる…んだ?」
直貴の、あの熱烈な口付けのせいで、息切れをしながら。
直貴は、少し目を反らし、
「い、いえ…。別に…」
と、言葉を濁した。
…此方は判ってるのに
こういう時だけ、何故だか直貴が非常に可愛らしく見える。
僕は判りきっている答えを言った。
「此所だろ?…まさか舌だけでイっちゃうとは思わなかったな」
「…っ!!…彰さん、エロい」
直貴は顔を赤くし、もぞもぞと呟いた。
「……直貴?」
名前を呼んであげると、彼は肩をビクッと動かした。
「…彰さんが…あんな事言うから…」
久しぶりに照れた直貴を見た気がする…
「直貴…――」
――ガラガラ…
僕が直貴の頬に触れようとした時、病室のドアが開いた。
「彰、まだ居たんだな。…って、直貴!!身体を起こしていて大丈夫なのか!?」
お父さんだった。
「…彰さんが一晩中隣に居てくれたから、もうすっかり良くなりました」
直貴は微笑みながら言う。
お父さんは、優しい笑みを浮かべ、
「そうか。良かった。…彰、ちょっと話があるんだが…。少し時間良いか?」
直貴への労りの言葉と共に、僕を呼び出した。
「………っ」
僕は生唾を飲み込んで、病室を出ていこうとするお父さんの後を追った。
空は少し雲架かっていた。
日の光は差し込みにくくなっており、全体的に暗かった。
「急に呼び出して悪いな」
場所は屋上。お父さんは手すりに凭れながら僕に話しかける。
「…別に良いけど。何かあったの?」
僕はお父さんの後ろ姿をじっと観察する。
「あぁ。ちょっと聞きたい事があってな」
お父さんはそう言うと、此方を振り返った。
緊迫した空気が流れる。
お父さんが口を開いた。
「…お前、直貴の事故の事、何か知らないか?」
「…………っ!!!!!」
…知っている。と、いうより僕のせいで直貴は…
僕が黙っていると、
「直貴がどうして家を飛び出して行ったのか…それが謎なんだ」
「……それは」
僕が直貴をデートに誘ってあげれなかったから…
お父さんはシャツのポケットから煙草をとりだし、ライターで火を付けながら、
「俺は直貴が飛び出した理由が確実に事故と繋がっていると考えている」
僕の目を見てきた。
…ここで目を反らす訳にはいかない。恐らく僕の反応を探っているのだろう。
僕はお父さんの目を見たまま答える。
「そうかもしれない。…それに直貴が飛び出して行った理由は僕に関係があるかもしれない…」
お父さんは目を見開いた。
僕は言葉を次ぐ。
「僕が直貴を拗ねさせたから…」
「……喧嘩したのか?」
煙草の火を消し、お父さんは訊ねてくる。
僕は首を横に振り、
「喧嘩なんかじゃないよ。…だけど少し似てるかもしれない…」
そっと目を反らした。
「そうか……」
お父さんはそう一言呟き、屋上から建物内に入るドアを開けながら付け足すように言葉を紡いだ。
「…とりあえず今は直貴の傍にいてやってくれ。彼奴もそう望んでるはずだ」
「………っ」
錆びた鉄が擦り合うような音の後、分厚い扉が閉まる音が聞こえた。
空はまだ暗雲がかかったままだ。
正午を少し過ぎた頃。
僕は直貴のベッド脇に居た。
「雨、降ってきましたね」
「あぁ」
窓の外はどしゃ降りだった。
「…傘、持ってます?」
不安げに見つめてくる直貴に、僕はカーテンを閉めながら、
「いや。まさか降るとは思わなかったから…。…まぁ、夜には止むだろ」
携帯の気象予報アプリを開いた。
直貴は僕が触っていた携帯を取り上げ、
「携帯ばっかり見てないで、もっと俺の事も見て下さいよ!」
叫んだ。
「……えと」
突然の発言に僕が戸惑っていると、
「雨なんかに負けませんから!」
「………え?」
意味が判らない言葉を発する直貴。
「雨なんかに彰さんの心を盗られたくないんです!」
「おまっ…、雨に嫉妬してるのか?」
「ダメですか?」
「いや、別にダメって訳じゃないけど……」
驚いた。
直貴がここまで嫉妬深いなんて。
「…気持ち悪いですよね」
「え、あ…いや……」
どういう言葉を掛けるのが正解なのだろう?
僕が視線を反らすと、
「良いんです。気持ち悪がられても。…俺が彰さんの事を本気で愛してるという事さえ判れば…」
直貴は呟いた。
「……っ」
僕がスーツの袖で顔を隠すと、直貴は優しい笑みを浮かべながら、
「何赤くなっちゃってるんですか。…可愛い」
見上げてきた。
「可愛いとか言うな。…僕だって男なんだよ」
「男でも可愛ければ可愛いって言っても良いんですよ」
「……ふざけるな」
僕が再び窓の外を見ると、空はすっかり晴れきっていた。
椅子から立ち上がり、机の上に置いてあったカバンを手に取った。――と、
「…もう行くんですか?」
直貴が麗しい瞳で見上げてきた。
「あぁ…、まぁ。晴れたしもうそろそろ4時過ぎるし…」
僕が左腕にはめた腕時計の時間を見、言うと、
「…ひどい」
酷く落ち込んだ声で呟かれた。
「……」
二度も彼を傷つけたくはない。
「………っ!!!」
気付けば僕は直貴を抱き締めていた。
「…一人にさせる事はなるべく避けたい。…だけど僕も、ずっとここに居る訳にはいかないんだ。…許してくれ」
耳許で囁く。
「……彰…さん」
涙ぐんだ声で直貴が呟く。
気のせいだろうか。直貴の回した腕の力が強くなった気がしたのは。
僕はそっと直貴の身体から手を離し、
「じゃあ、もう行くね。…寂しくなったら電話でも入れておいてくれれば、時間があれば出るから」
今度こそ本当に椅子から立ち上がった。
直貴は静かに頷き、
「俺、この怪我急いで治します。それで、一生彰さんの事を守ってあげます。…約束しますから…」
僕は頭を掻き、
「そんな事、退院してから言えよ」
小さく笑って病室の扉を閉めた。
心地よい風と共に僕の歩調は一定のリズムで運ばれていく。
空を仰げば、うっすらとだが三日月が見える。
雲はすっかり晴れていたが、ふと真上を通った飛行機が引いた細い飛行機雲が目立った。
「……綺麗だ」
何時の間にか、そう口にしていた。
車はもう両親が乗って行き、無くなってしまったので、電車で帰るほかなかった。
改札を通って電車に乗り込み、降りた先は見慣れた景色が広がるホーム。
……直貴、何時退院してくるかな?
そんな事を考えていると、シャツの胸ポケットに入れてあった携帯電話が小刻みに震えた。
…社長か?
取り出して見てみると、そこには見慣れた文字。
――直貴
僕は急いで通話ボタンを押した。
「もしもしっ…、直貴か!?」
僕の大声に驚いたのか、電話越しにも直貴の驚いた表情が見える。
『もしもし、彰さん。…急に電話しちゃってすみません』
直貴の声は、落ち着きを取り戻した。
「いゃ、別に構わないけど…。どうした?僕、何か忘れ物でもしたっけ?」
『…いや、そうじゃなくて……』
直貴の声は少し口ごもった。
『ただ…、彰さんの声が聞きたくて』
「……っ!!!」
"恋人"というものは、こんな感じなのだろうか。
「…今さっきまで一緒に居たのに?」
『…すみません。俺…我慢出来なくて』
「いゃ、謝らなくても良いんだけどさ…」
僕は家のある方向へ歩きながら直貴と通話する。
「………ありがとう」
『………っ!!??』
「そんなにも僕の事を想ってくれてるなんて、僕って幸せ者なんだなぁー…って思って」
言っていて何だか恥ずかしい気持ちになる。
『…彰さん』
「……ん?」
『好きです』
「…うん」
『愛しています』
「僕もだよ」
『……』
「…直貴?」
声が聞こえなくなったのと同時に僕が歩く足を止める。
暫くして――
『…退院したら、甘えても良いですか?』
少し小声で呟く。
「…あ、甘え……良いけど」
僕は多少戸惑いながらも了承する。
『……やっぱり彰さん、可愛い』
「かっ、可愛い!?…大人をからかうなよ」
『大人?あまり年齢変わりませんよね?』
「いや、変わるだろ。お前は学生、僕は社会人なんだぞ」
僕は歩を進める。
『…う~ん。この際、あまり年齢なんて関係無いと思うんですよね。可愛い人に可愛いって言って何が悪いんだ、って感じです』
……そういう事じゃなくて
「僕は男なんだよ。可愛いなんて言われるより、カッコ良いって言われた方が嬉しいんだけど…」
『そんな事言われても、可愛いモンは可愛いし…』
…と、あれこれ会話しているうちに、僕は家の前へと着いた。
「今、家に着いたから。今日はここでお別れだ。…暇があったらメール入れてくれれば見る事くらいはするよ」
門を開けながら僕は言う。
『………もう、終わりですか?』
直貴の寂しそうな声。
「あぁ」
僕の短い返事。
『…じゃあ、メール凄く送りますから』
「えっ…、それは困るな」
『嫌です!!…彰さんとずっと繋がっていたいから…』
直貴はそう言い、
『では、電話での会話はこれくらいにしておきます。……メール、返信は返さなくても良いですが、ちゃんと一度目を通しておいてくださいね?』
「え……あ、あぁ。うん」
『じゃあ…』
「じゃあ…」
一応会話が終わった。
……疲れた
直貴と話すと、何か妙に緊張する。…理由はよく判んないけど…
鍵は開いていた。
「ただいまー」
中に入ると、真っ先にお母さんの声。
「おかえりなさい。遅かったわね」
「あぁ…、ちょっと色々あって」
靴を脱ぎ、リビングへ向かう。
「あ、そういえばさっき社長から電話が入ったわよ」
「…?何か言ってた?」
僕がスーツを脱ぎながらお母さんの方を振り返ると、
「明日、残業してくれないかって言ってたわよ。…何かやらかしちゃったの?」
ニヤニヤしながら此方を見てくる。
「…身に覚えは無いけどな」
僕は一つため息をついて、部屋のある階段の方へと向かう。
「あ、ご飯用意してあるから」
「…有り難う。また後で食べるよ」
僕はそう言い残し、階段を上がって行った。
午後3時を回った頃。
枕元に置いてあった携帯電話がバイブ音と共に光った。
「…ん、直貴……」
知らない間にそう呟いていたのは、昼間に直貴がメールをすると言っていたのを思い出したからだ。
手に取って、開くとやはり直貴からのメールだった。
件名;起きていますか?
本文;こんな時間にすみません。
彰さんが帰った後、何もする事が無くなったので、あのまま寝ちゃって…
起きた時間が今なんですけど(汗
…起きていたとしても、返信は不必要です。
…ただ、俺が耐えきれなくなって、送るだけですから。
彰さん、愛しています。
世界で一番。
もっと傍に居て、貴方をこの肌で感じていたい…
……俺が退院したら、甘えても良いですか?
…本当に大好きですから
おやすみなさい。
内容はこんな感じだ。
「………可愛すぎんだろ」
僕は暫く画面を見ていたが、睡魔に勝てず携帯電話を閉じ、そのまま朝まで寝落ちした。
「…九条くん、取り敢えずまずはその携帯電話の電源、切ってもらえないかな?」
「…う、はい」
駅前にある割と大きなフラワーショップの前。
僕は朝っぱらから早速怒られていた。
「電源切りました」
昨夜から直貴からのメールが異常な程に来ている。社長と大事な話をしようとしているこんな時にまで…
恐る恐る社長の顔を見ると、社長は小さくため息をついて、
「まぁ良い。…こんな所で話す話でもないし、一応中に入ろうか」
店の奥にある「関係者以外立ち入り禁止」の札が掛かったドアを開けた。
ここにはこの店で働く人たちのロッカー諸々がある。勿論僕のロッカーも。
「……で、話って何ですか?」
「…うむ。今日キミは、残っていけそうか?」
「あぁ、その話なら…」
社長は部屋の隅に置いてある長い革のソファーに腰を埋めた。
「今夜、特に用事も無いですし大丈夫ですが…」
僕のその言葉を聞き、社長は満足そうに頬を緩めた。
「そうか、なら良い」
「……あの、僕何かやらかしましたか?急に残業なんて…」
僕がずっと気になっていた事を訊くと、社長は一気に真剣な顔に戻った。
「いや、別にそういう訳では無い。…詳しい事は夜に話す。閉店時間の後、また此処に来てくれ」
「……はい」
社長はそれだけ言うと、
「では、他の所も周りに言ってくるので」
と、僕に背を向けた。
………改まって、どんな話をするのだろう
接客中も僕の頭の中は、その事でいっぱいだった。
そして閉店時間。
「お疲れ様でした~」
「お疲れー」
皆が荷物をまとめて帰っていくところを店先で見送り、僕は再び『関係者以外立ち入り禁止』の札が掛かったドアを開けた。
部屋は電気が点いていなく、暗い。
僕はドアの横にあるスイッチを押して電気を点けた。
――と、目の前に大きな人影が見えた。
「……社長?」
恐る恐る声を掛けてみると、大きな影は此方を振り返った。
「やぁ、九条くん。待っていたよ」
社長は優しく微笑しながら此方に近寄ってくる。
「あっ…、いつ頃からそこにいらしたのですか?」
「ついさっきだ。従業員が帰っていった時に来た」
…なるほど。だから僕は社長が来ていた事に気が付かなかったのか。
今更ながら、社長は何時も裏口から入ってくる。なので表口から出ていく従業員たちとすれ違う事もないのだ。
…さぁ、そろそろ本題を切り出してもらいたい。
「…で、社長。お話とは?」
僕が社長の顔を覗きながら訊くと、
「……うむ。まぁ座りたまえ」
社長はソファーに向かい合うようにして、椅子を置いた。
「……有り難うございます」
僕はソファーに座った社長の正面にくるように椅子に腰をおろした。
「…では、本題といこう」
社長は辺りを一度見回してから口を開いた。
張り詰めた空気。
息が吸いにくい。
「……九条くん、キミはこの"高棚フラワーショップ"が"高棚カンパニー"の持つ会社の1つだと言うことをしっているかね?」
「はい、勿論」
僕の勤めているフラワーショップ…"高棚フラワーショップ"は、日本全国に様々な種類の会社を持つ"高棚カンパニー"の中の一つだ。
そして今目の前に居る社長……高棚一雄社長は、その"高棚カンパニー"を立ち上げた張本人、日本の各企業のトップだ。
社長が高棚フラワーショップによく現れる理由は、僕に此所を紹介してくれた親戚が社長と何らかの関係があったかららしい。
「うむ。なら良い」
「………何がですか?」
話が全く読めない。
社長は一つ頷き、重々しく口を開いた。
「…九条くん、私はキミの事をとても優秀な社員だと思っている」
「それは…、有り難うございます」
「…我が高棚カンパニーにはキミのような優秀な人材が欠かせない」
「…と、申しますと?」
社長は一呼吸おいて、
「……九条彰、キミを本社へ迎え入れたい」
「………っ!!!???」
…本社!?
「ほっ、本社って…高棚カンパニーにですか!?」
「うむ。キミにはそこで、日本全国にある各企業の総取締役を務めてもらいたいと思っている」
……総取締役
全国各地に様々な職種の企業(中には大企業までも含む)を持つ高棚カンパニーで、それらの企業を全て取り締まれと…!?
「そんな大役、僕には到底…」
「何も慌てた話ではない。ゆっくり考えて決断を下してくれ」
僕の言葉を遮るようにして社長の落ち着いた声が重なる。
「……っ」
言葉が出ない。
「本社の場所はまた折尾って伝える。…まぁ、決断は早いうちにした方が楽だとおもうが。…では、私はこれで。また近々会おう」
社長は一方的に言葉を告げて、部屋を出ていってしまった。
部屋には僕がただ一人、何もする事が出来ず呆然と立ち尽くしたままだった。
『もしもし、彰さん?大丈夫ですか?長い間連絡が取れなかったから心配したんですよ?』
「…ごめん、ちょっと色々あって」
『忙しいみたいですね』
「うん、でもこれからもっと忙しくなると思う…」
ベッドに寝転がりながら僕はため息をついた。
『…何かあったんですか?』
直貴の声は心から僕の事を心配しているんだと感じさせてくれる。
「…本社に移動になったんだ」
『本社ッ!?本社って…高棚カンパニーですかッ!?』
直貴の声が明るくなった。
「…うん」
対称に僕の声は暗い。
『おめでとうございますッ!!高棚カンパニーなんて、日本の何処に行っても通じるような大手じゃないですか!!』
弾んだ声。
「……うん」
『本社では、何処の部署に入る事になったんですか?』
「……部署はないよ」
『…え?』
「…全国各地の企業の総取締役になったんだ」
直貴の声が一瞬聞こえなくなった。
そして直ぐに、
『おめでとうございますッ!!!総取締役なんて…!やっぱり彰さんは凄いですよ!!頑張ってくださいねッ!!』
………直貴
「…何でそんなに喜ぶんだ?」
『何でって…、そんなもの彰さんの地位が上がったんですよ?喜ばない方がおかしいですよ』
「…本社に行くのに?」
『本社だからこそじゃないですかッ』
「……本社に行ったら仕事が増える」
『頼られてるって事ですよッ』
「………判ってない」
『…?』
「直貴は何も判ってない!!」
『なっ…、どういう意味ですかッ!!??』
「…仕事が増えて忙しくなったら、直貴に会える時間が少なくなる」
『……っ!!!』
「もういい。寝るから。…おやすみ」
『ちょっ…待ってくださいッ!!』
「…何?」
『…俺の事、想っててくれたんですか?』
「…恋人なんだろ?」
『…っ!!彰さんッ』
「何?」
『大好きッ』
「………っ!!!」
『仕事の事、大丈夫ですよ。俺、早く退院して本社で働いてる彰さんに会いに行きますから!!』
「本社に学生は入れないぞ?」
『俺、何処かの会社でバイトしますからッ』
「………バカ」
『彰さんに会えるなら、力仕事でも何でもします』
「軽々しくそんな事言うな。…身体壊したらどうするつもりなんだ」
『……大丈夫ですよ。俺、ケガしませんから』
「…現役のケガ人がよく言うよ」
電話越しに直貴が笑ったのが判った。
「直貴の声聞いたらなんか安心した。…判ったよ、直貴が言うように本社に言ってみる事にするよ」
『俺も彰さんの声が聞けて嬉しいです。…はい、本社での仕事、頑張ってくださいね』
「有り難う。じゃあもう夜遅いから、おやすみ」
『はい。彰さん、愛してますよ。おやすみなさい♪』
「………っ!!!」
会話の最後の最後まで直貴は……
僕は携帯電話を枕元に置き、部屋の電気を消した。
「おはようございます」
『うむ、おはよう九条くん。こんな朝早くにどうしたのかね?』
今、僕は店先で社長に電話をかけている。
「はい。…昨夜の事でお話があって…」
僕が話を切り出すと、社長の声は明るくなった。
『本社に来る事、考えてくれたのかね?』
「………はい」
『そうかそうか。…ならそっちのフラワーショップには私が直々にキミの転勤の事を話しに行くとしよう』
「…有り難うございます」
『うむ、では今日、迎えに行くから待っていなさい』
社長は上機嫌のまま電話を切った。
……いよいよ本社への移動だ。
信頼されている――嬉しい反面、やはり直貴と離れる事が寂しくも思ってしまう。
………これって、直貴の事が好き…って捉えても良いのかな?
僕は社長が来るのを待つ間、次々に来るお客様の接客をしていた。
正直僕は、あまり花について詳しくない。フラワーショップに勤めておきながらそれはなんだ、と思う人も居るかもしれないが、別に好き好んでフラワーショップに就職した訳じゃないんだから、しょうがないだろう。
…まぁ、こう開き直るのは良くないと思うが。
……なので、今回の移動は案外僕にとって好都合のものだったのかもしれない。
「本社だと、色々な会社があるし九条にあった会社も見つかるだろうな」
同期の友達が、客足が引いた頃に声を掛けてくる。
「うん。そうだな。…好きな職業に就ければそれだけで…」
僕は手元にあったブンゴウメを彼――柳瀬に渡した。
「…どういうつもりだ?」
彼は顔をしかめた。
彼もまた、花についての知識は浅いようだ。
だけど僕は知っている。…このブンゴウメの花言葉の意味を。
「…ブンゴウメ。花言葉は"変わらぬ友情"」
柳瀬の顔が明るくなった。
「僕はキミと離れる。…だけどキミと僕の友情は決して壊れる事はない」
「……九条」
彼はブンゴウメを暫く見つめた後、優しげな笑みを浮かべた。
「本社に行ってもまた会えるよな?」
「あぁ。必ず」
「連絡するからな?」
「楽しみに待ってるよ」
そうこう話している間に、太陽の光を反射し目映い光を放っているリムジンが僕たちの前に停まった。
中から出てきたのは高棚社長。
社長は手を挙げ、
「やぁ、九条くん。私は今から店長に軽く挨拶とするよ。…キミはもう乗りたまえ」
リムジンを見遣った。
「………っ」
僕と柳瀬は顔を見合せた。
柳瀬は静かに頷き、
「行ってらっしゃい。気を付けろよ」
僕の肩を押した。
僕は少し戸惑いながらも、
「今まで有り難う。本当に感謝してるから…。これからも末永く宜しく」
これが別れではない事を伝える。
彼もそれを察したのだろう。
「あぁ。これからも宜しくな」
窓越しに微笑んだ。
胸ポケットの携帯が鳴る。
送信者はもちろん…
「誰かね?」
「弟です。…腹違いの」
直貴だ。
「出ても良いんだぞ?」
「いえ…。後でかけ直しますから」
あれほど勤務中には電話をかけてくるなと言ったのに…
僕がため息をつくと
「随分お疲れのようだね。…だが、これからが忙しい」
社長は少しはにかんだ。
「……精一杯、尽くさせていただきます」
僕は苦笑しながら頭を下げた。
結局本社に着いたのは午後1時を過ぎた頃だった。
秋だというのに太陽は頭上で熱気を放っていた。
「暑いですね…」
「うむ…。まぁ、建物の中はクーラーを効かせておる。…先ずは私の部屋まで着いてきてもらいたい」
社長はハンカチで額の汗を拭いながら僕の方を振り返った。
社内は確かにクーラーが効いていた。心地よい風が僕の頬に触れる。
口には出さなかったが、本社はやはり広い。
入ってすぐのところには大きなロビーが広がっており、沢山の社員たちが行き交い合っている。
「私の部屋は此方だ」
社長はエスカレーターを通り越し、いかにも高級そうなエレベーターのボタンを押した。途端にドアが開く。
「早いですね」
「…まぁ、このエレベーターを使うのは私と秘書の成川君くらいだからね」
気付けば僕の隣には秘書らしき女性の姿。
「………なるほど」
僕は少し頷き、エレベーターが"6階"を指すのを待った。
ドアが開き、秘書が"開くボタン"を押す。
「どうぞ」
「有り難うございます」
僕は社長の後に続いて出た。
「…まぁ、入りたまえ」
社長室へは社長自らが僕を招き入れ、部屋の中央に置かれたソファーへと座らせてきた。
「まずは取り敢えず…、本社へようこそ、九条君!!」
社長は声を大きくし、僕を握手で歓迎した。
「え…、あぁ。有り難うございます」
対応の仕方が判らない…。僕はあまりこういうの慣れてないからなァ…
秘書が素早く胸元に抱えていた書類を此方に差し出し、
「此方が契約書です」
機械的な声で告げる。
僕は契約書を受け取り、内容を見た。
「今日から九条さんには各企業の総取締役を務めてもらいます」
秘書はにこりともせず、淡々と内容だけを告げる。
「…今日からって言われても……」
書類から目を離し、社長の方を見ると、社長は優しく笑んで、
「大丈夫だ、安心したまえ。…私が一から教えてやろう」
僕の肩をポンッと叩いた。
「……宜しくお願いします」
僕は会釈し、開けていた書類を閉じた。
勤務内容を伝えられたが、今までフラワーショップで接客業をやっていた僕にとって本社での仕事はあまりにもハードなものだった。
「明日から動いてもらう事になるだろう。…頑張るのだよ?」
社長にはそう言われたが…
「責任重すぎるだろ…」
とてもじゃないけど僕には向いていない仕事ばかりだった。
まず出社したら自室(総取締役専用の部屋を用意してくれたらしい)の机に置いてある書類に目を通す。
それには各企業の売れ行きと売り上げ金額、売れ残りの量などが書いてあるらしい。
書類に目を通したらPCを開き、各企業のデータをまとめる。
データをまとめ終わったら、昼食タイムがもうけられるらしい。…どれだけ時間が掛かるんだよって話だよね……
昼食を食べ終わったら仕事だ。
今度は社長室へ行き、ファイルを受け取る。
これには各企業からの新商品のアイデアがまとめられているらしい。
本社の手元にある残金、そして企業の手元にある残金を確認し、可能な限り良い案は採用する。
(…その際、本社の会計課へ書類を持っていく事と、会計課から企業の会計課へ連絡を入れてもらうのを忘れないようにする)
どうも商品完成には、総取締役は関わらなくても良いらしいので、一応これで僕の仕事内容は全部だ。
たまに会議も行うらしいので、その時は司会も頼まれたのだが…
「…………無理だ」
満員電車に揺られながら僕は帰途を急いだ。
――時間は夜11時過ぎ。
直貴からの連絡はあれ以来来ていない。
………怒ってるのかな?
そう思い携帯電話を開いてみるものの、勇気が出せず中々自分からかけ直す事が出来ない。
電車から流れるように降り、改札を通ると間もなく自宅だ。
灯りが点いていた。
…まだ起きてたんだ
「ただいまー」
ドアを開けても返事は返ってこない。
……風呂かな?
…それとも寝てる?
靴を脱ぎ、リビングへ上がると―――
……パァァァンッ!!!!
「………ッ!!??」
「「「おかえりなさい!!!」」」
クラッカーの激しい音と共に、お父さん、お母さん、直貴が声を揃えて此方を見てきた。
「えっ…、あっ…た、ただいま」
あまりにも急な出来事に僕は戸惑うばかりだ。
お父さんは苦笑しながら、
「驚きすぎだろ。…本社、どうだった?」
訊ねてきた。
「色々大変だったよ…」
僕はお父さんにありったけの事を話した。
「…そんな責任重大な仕事をするのね……」
お母さんは僕の分のご飯を用意しながら呟いた。
「…うん。もう毎日が疲れそうだよ」
僕がため息をつくと、
「彰さんなら大丈夫ですよッ」
隣に座っていた直貴が微笑んできた。
「…ん、ありがと」
……………ん!?直貴???
僕はここでやっと気がついた。
「いつの間に退院してきたんだ!?」
直貴は、やっとか…と不満げに呟きながらも、
「電話入れましたよね?だけど彰さん出なかったから、いっそこのまま彰さんが帰ってきた時に脅かしてやろうって思いまして…」
「…悪趣味な」
直貴は強く、しかし両親に気づかれないように僕の手を握りしめ、
「俺、退院してきたんですよ?…これからはたっぷり甘えさせて下さいね?」
小声で僕の気持ちを揺すってきた。
「……判った」
赤面になりながらも僕は答える。
本社へ移動し、様々な難点も待ち受けるこの状況…。だがしかし、直貴が戻ってきてくれた事によって、僕は今までの数百倍も仕事に精を出せそうだ。