適切な対価
「もうしばらく起きているようなら、少し話をしようか。」
キリエはアンドリューからの誘いを受けた。彼は執事に何事か指示すると、着替えてくるからと先に去っていく。
「キリエ様、御案内します。」
執事に連れられて同じ本屋敷のアンドリューの書斎へ通された。
「飲み物をお持ちします。しばらくお待ちください。」
執事が去った後、比較的小さな書斎をぐるりと見回す。ぎっしり詰まった本棚に大きな文机。ここでも来客を迎えることがあるのか背の低い卓を囲んでソファが配置されている。一つだけある大きな窓からは風に揺れる庭の木々の頭だけが黒く見えた。今夜の月は随分と痩せている。
「どこでも好きなところにかけて。」
声をかけられて振り返り、アンドリューを見つけたキリエはすぐに目を逸らした。それから、いや、逸らす必要はなかったのだと思い直して顔を上げる。急に目を逸らされたアンドリューは不思議そうにキリエの様子をうかがっていた。
制服でも盛装でもない彼の姿を始めて見たのだ。シャツにズボンという至って普通の服装に丈の長い毛織物の上着を羽織っている。その大きな上着と、二つ三つあけられたシャツのボタンのせいで、彼が既に夜着姿なのかと錯覚して思わず目を逸らしたのだが、よく見ればくだけた部屋着だった。アンドリューだって寝る前くらい、楽な服装をするだろう。キリエはゆっくりと息を吐いて気を取り直した。
「何か?」
「いえ。なんでもありません。」
ちょうど女中がお茶を運んできたので、それにあわせてキリエも席に着く。
「部屋はあれで問題ないだろうか?」
向かい側に腰掛けたアンドリューが問いかけてくる。
「ええ。十分すぎるほどです。ありがとうございます。」
「困ったことは?」
「驚いたことは色々ありましたけれど、困ったことはありませんでした。夕食のときもユリシーズ様にいろいろと気を配っていただきました。」
キリエが答えている間に部屋を出て行った女中を見送っていたアンドリューの視線が、ユリシーズという単語でキリエの元へ返ってきた。
「ユーリはうまくやってくれたかい?私はあまり家にいられないので王都の屋敷のことはおじい様とユーリに任せっぱなしで。特に内向きのことはユーリに頼りきりなんだ。」
「ええ。前公爵様や公爵夫人と夕食を御一緒させていただけるとは思っていなかったものですから緊張してしまって、ユリシーズ様にお気遣いいただいて正直助かりました。もちろん、前公爵様や公爵夫人にも温かく迎えていただいたのですけれど、やっぱり雲の上の人と思うとどうしても。」
ほんの少し、急なことで困ったのだぞというキリエの不満とも愚痴ともつかない気持ちが伝わったのかアンドリューは口元に小さく笑みを浮かべて答えた。
「あなたにも伝えておけば良かったか。屋敷に出入りする全員に事情を話しているわけではないから、いつ誰に見られても不審に思われないようにあなたを私の婚約者として扱うように頼んでいるんだ。婚約者が家に来ているのに、家のものと別に食事を取らせるのは、あんまりだろう?」
「ええ。考えてみれば、そうですわね。」
確かにキリエが最初に考えたように、彼女だけ与えられた部屋で食事をしていたらお飾りの婚約者に対する随分な冷遇に見えたことだろう。と、するとあの贈り物も同じことかと思い当たる。
「お部屋に納めていただいていたドレスや小物も、そういうことでしょうか。とても驚きましたわ。」
「いや、まあ。」
アンドリューが曖昧に頷く。さすが師団長殿は羽振りが良い。いつか決まるであろう本当の婚約者が羨ましいほどだ。
「今日はこちらを着させていただきましたけれど、私に合わせて仕立てていただいたのではないですか。」
出迎えのときに来ているべきだと女中たちに説得されて着替えた服を示すと、アンドリューは今度ははっきり頷いた。
「それは、そうでなければならないだろう。あなたに着てもらうのだから、そのつもりで用意した。それもとても良く似合っている。」
さりげなく織り込まれた褒め言葉にキリエはどう返したものか、一瞬言葉に詰まってからやや小声になって礼を述べた。
「ありがとうございます。お見立てが宜しいのだと思います。」
戸惑うキリエの様子を慮ったのかアンドリューは微笑んでその礼を受け止めるに留めてくれた。追撃の褒め言葉が続かないことにキリエはほっとしてこっそりと息をつく。見立てではなくキリエ自身の素材が良いなどと歯の浮くような社交辞令を返されたら身悶えしてしまっただろう。一級品のドレスと自分を並べて自分の素材のお蔭で服が引き立つなどと言えるほどキリエは厚顔ではない。
キリエは冷静さを取り戻して準備してあった話の筋へ立ち戻る。
「折角ですけれど私には過分な贈り物に思いますので、いくつかは袖を通さずに取っておきます。良い品ですからいつか本当の奥様に来ていただいたほうがよろしいと思います。私より小柄な方なら仕立て直せば合わせられるでしょう。」
婚約者のふりを続けるための支給品。そう考えてもあれは少々多すぎる。キリエは稼ぎを上げることが大好きだが、仕事に対して不釣り合いな報酬をもらうのは危険なことだと良く知っている。特に気に入ったものは大事に取っておきたいとでも言えば、着ない服があっても不自然でもあるまい。
「いや、どれでも遠慮なく使ってほしい。婚約者への贈り物という側面があるのは否定しないが、それ以上にあれは私の罪滅ぼしでもあるんだ。あなたには王都に来て以来、外出や買い物も自由にできずにつまらない生活をさせてしまっただろう。その上、これからはこの家からほとんど出られないだろうからね。」
「そういうことなら一生手に取ることなど無かったような最高級品を並べて眺める機会があるだけで十分です。これほど広いお屋敷に住まわせていただいたら当分退屈の心配はありません。お庭を散策するだけで何日かかることか。それに何よりお仕事は続けられますから退屈ということはありません。」
キリエの趣味は仕事といっても過言ではない。毎日契約書をめくり、仕入、輸送、支払と途切れることなく手続きを進めていくことには静かな興奮さえ覚える。特に、最後にどれほどの利益が出せたかをはじき出す瞬間は何者にも変えがたい喜びがある。
「ふむ、あなたに贈り物をするのは難しいな。」
アンドリューはキリエが本気で語っているのを感じてため息をもらした。本当に困っている様子のアンドリューに向かってキリエはにこりと微笑む。
「もういただいております。余計なことは気になさらないでください。」
「しかし、私の気が済まないのだよ。ドレスの数着であなたの一年の時間をどうにかできるとは思えない。」
アンドリューからはキリエを自分のお飾りの婚約者として、ある意味さらし者にしているという負い目が消えない。そして身を危険に晒させている。つい最近まで故意に隠し事もしていたのである。この案で行くと決めてからずっと打ち消しきれない、もっと良い策はなかったのだろうかという鬱屈とした思いがキリエに対する後ろめたさに繋がっている。
しかしキリエはアンドリューの心配をあっさりと蹴散らして見せた。
「既にもっと素晴らしいものをいただいております。だって、王国中からただ一人、私を見出していただきましたわ。王国騎士と私どもが志を同じくすると仰ってもいただきました。これ以上の栄誉はありません。」
キリエの輝く瞳を見れば本心かと問うまでも無い。アンドリューは、どうしたら彼女の犠牲に報いることができるかと思い悩んでいた自分がいかに愚かだったか思い知らされた。彼女が何を求め、何に価値を見出すのか。先日目の当たりにしたばかりであったのに心から理解していなかった。高価な装飾品を揃えれば満足してくれる女性ではない。彼女は誇り高い商人である。贈り物をただ受け取ることよりも自ら手に入れることを望むだろう。彼女が何より求めるものは、働く場所だ。アンドリューがキリエに対して申し訳なく思う理由である彼女へ任せた責任こそ、本当に彼女が欲しているものなのである。これ以上、キリエに対して申し訳ないと考えるのは彼女の覚悟に対して失礼だ。
アンドリューは大きく息を吐いた。
「分かった。」
それから、しみじみとした調子で付け加えられた言葉はアンドリューの心の底からの本心であった。
「本当にあなたを見つけ出すことができて私は幸運だったね。これまでにも何度も神に感謝したが、まだ足りなかったようだ。」
「では贈り物は、教会になさってくださいませ。クロード商会は正式な契約に基づく報酬だけをいただきます。」
深夜の書斎で女は男から贈られたばかりのドレスを身に纏い、二人で向かい合っているというのになんとも色気のない応えである。しかも片方は国で一番人気の漆黒の貴公子だというのに。しかし開いたままの扉の外に控えていた女中は、何かに感じ入ったようにぐっとこぶしを握り締めていた。
「ところで、アンドリュー様。一つ確認しておきたいことがあるのです。」
「どうぞ。」
「皆さんが、それはとても温かく迎え入れてくださったのですけれど、私の目から見ると本当に本当のアンドリュー様の婚約者を迎えているように接してくださるのです。」
キリエの困惑顔の訴えに、アンドリューは首をかしげた。ゆるく束ねた長い髪が肩の上を流れて開いたままのシャツの襟元から鎖骨にかかる。なんということのない動作からも濃厚な色気を漂わすのは、本当に止めてほしいと思いながらキリエは彼から目を逸らした。
「それが、何か問題だろうか?先ほども言った通り、家に出入りする全員が全てを知っているわけではない。ときどきで付き合い方を変える方が難しいから本当の婚約者として接してもらう方が良いはずだが。」
「ええ、それは分かるのですけれど。あんな風に歓待されてしまうと心苦しいですわ。」
キリエの言葉にアンドリューはちょっと眉を寄せた。
「あなたが困るほどの歓待?」
「ええ。敬愛する主のもとに待ちに待った花嫁が来た、というような多大な期待を感じたのですけれど。気のせいでしょうか。」
表情が、視線が。とても演技とは思えなかった。キリエの言葉にアンドリューはソファに背を預けて天を仰いだ。片手で目を覆って唸り声を漏らす。自分のいない家で何が起きているのか、なんとなく理解できた。
「なるほど。分かりました。そうか。そうですか。」
二回目のそうですかに諦めに似た感情が乗っている。長く勤めてくれている者がアンドリューの結婚を切望していることは彼自身よく分かっている。危険の伴う仕事を続けているからこそ、早く身を固めて子を成してほしいという思いも強いらしい。あの舞踏会のおりも、一同の気合の入れ方は目を見張るものがあった。これで結婚しなかったらしばらく家ではひどい扱いを受けるだろうと覚悟したものだ。仮初だろうがお飾りだろうが、アンドリューが特定の女性と正式に付き合うのは成人以来ほぼはじめてだ。期待が高まっているということだろう。キリエをフォード家に迎え入れるにあたり、執事や女中たちからどんな娘が来るのかとしつこく聞かれたが、目的は完璧な準備を整えるためだけではなかったようだ。両手に余るほどの贈り物を揃えたアンドリューの好意的な態度から、脈があると判断したに違いない。
「申し訳ないが、今すぐにそれをどうこうすることはできそうにない。私がこんな年まで身を固めないものだから、どうしても期待がね。」
いくらアンドリューでも人の心を操ることはできない。古参の女中の目からお坊ちゃまの奥方への期待の光を消し去るのは容易なことではないのだ。
「そうですか。皆さん、事情は分かった上での、あの表情なのですね。」
キリエはなんとも言えない気持ちになる。あのうちの坊ちゃまをよろしく、という期待にこれから毎日耐えていかなければならないらしい。これだけの美男が三十五歳まで独り身でいればあれこれ心配にもなるというものだろうが、期待を一身に負うキリエにはアンドリューが家人を待たせていた二十年の歴史が重い。
「贈り物、やっぱりいただこうかしら。」
ぼそりとつぶやいたキリエに、アンドリューは王都で流行の菓子を手に入れることを約束した。
***
キリエが安全な場所に辿り着いたのと同じ日、コチの拘留所からは大怪我を追っていた暗殺者が脱走した。利き手の指を二つ失い、背に負った傷も癒えない間の逃亡だった。走る力もないかと思われたが、その後、小さな暗殺者の行方は杳として知れなくなった。




