守りの手
呼吸の仕方も忘れたように浅い息を繰り返し、なんとか立っていたキリエの耳に新たな騎馬の足音が聞こえた。
これ以上の敵が押し寄せれば、護衛は支えきれない。降伏して自分だけを連れ去ってくれと懇願すれば、命までは取られないだろうか。
咄嗟にそんなことを考えながら目を凝らしていると弓弦の音が響き、それは護衛に襲い掛かっていた男の肩に突き刺さった。
「あっ」
苦しげな悲鳴を上げて男が馬から崩れ落ちる。林の奥から駆け寄ってくるのは数騎の騎馬で、輝く銀色の甲冑を付けていた。
「王国騎士団だ!」
襲撃者たちは顔を見合わせて逃走しはじめた。背を向けた男に向かって容赦なく矢が飛んでいく。それは正確無比に男たちの足を地面に縫いとめた。弓矢の的になることを免れた男達も素晴らしい勢いで駆けてきた騎士に追い詰められていく。近づいてみれば五人に過ぎない騎士だったがあっという間に状況は一変した。力強い援軍を得て、護衛たちは戸惑いながらも難局を乗りきったかと剣を下げる。それぞれに荒い息をつきながらもキリエのもとへと集まってきた。少年もまた駆けつけた騎士とラージに挟み撃ちにされて避けきれず、地面に膝をついている。
「逃げた二名を捕えました。」
「林の中に不審者は見当たりません。」
立ち尽くすキリエ達の前で騎士達はきびきびと報告をし、一気に襲撃者たちを捕縛した。縄をかけられたのは十名。護衛達が数えた襲撃者の数と一致していた。
救世主のごとく現れた彼らの長であると思われる男が、キリエを振り返った。
「お怪我は?」
護衛達は大なり小なり傷ついているが、幸いにしてキリエに大きな怪我はない。キリエが首を横に振って自分は無事だと示すとと、彼はほうと息をついて頷いた。
「危ない所をありがとうございました。あなた方は、王国騎士団の方ですか。」
まだ震える声で問いかけると、彼は大きく頷いた。その甲冑に刻まれた白い紋章や、盾や剣の柄に施された模様は王国騎士団のものだ。王都では間近に見る機会も多かったので間違いない。助かった。そんな思いがある一方で、頭の片隅にひっかかるものがあった。
「詳しい話は落ち着いたところで。まずは皆さんの怪我の手当てと、それから馬車が駄目になってしまっていますから、もし迎えをお願いできるのであればその依頼を出さないと。」
キリエがひっかかりを突き止める前に彼はてきぱきと指示を出してしまう。確かに傷の手当は必要だが、キリエは急な展開についていけないまま、手際よく事態の収拾にあたる騎士達を見ていた。
「迎えを呼びましょう。幸い我々の馬は無事ですし。ヤンに行かせましょう。」
下がり眉の男は比較的軽傷の青年をコチへ送り出し、急ぎ迎えを寄越してくれるように依頼した。
「皆、怪我は?」
まだ互いや、あるいは騎士の手を借りて手当をしている護衛達に歩み寄れば、彼らは笑顔を浮かべて見せてくれた。
「このくらいの怪我、いつものことですよ。」
「そんな顔しないでください。大丈夫ですから。お嬢さんこそ、足を引きずってるじゃないですか。騎士様に見ていただいたら。」
「馬車から下りるのに少しぶつけただけよ。平気。皆のおかげよ。」
優しい言葉をかけてくれる護衛の一人一人の無事を確認してから、キリエは縛られた襲撃者達に視線を投げた。縛られていても恐ろしく、近づく気にはならない。もっとも恐ろしいと感じた少年だけはかなりの重傷を負っていたせいもあって縛られはせず、止血のためにぐるぐる巻きにされている。指を失った手はもちろんだが、黒い衣類のせいでよくわからなかった背中の出血が酷かった。今は青い顔で横になっている。顔を覆っていた布を奪われた彼は思った通りに若く、十代の半ばくらいに見える。今は閉じられている彼の目に宿っていた強い力。怒りのようなもの。あんな風に恨みを買う記憶がキリエにはない。なぜ命を奪うことも辞さないとばかりに自分に襲い掛かってきたのか、分からない分だけ不安に感じる。恐怖も覚える。しかし、その若さを目の当たりにして、キリエは悲しみも確かに感じていた。十代の若さでどうしてこんなことに巻き込まれているのか。ラージと打ちあえるのだから、剣を始めたのは今日や昨日の話ではないはずで、つまり彼はもっとずっと幼いときから、殺伐とした世界に身を置いてきたことになる。純粋に自分の意思で足を踏み入れたのではないだろう。
「ちょっとよろしいですか。」
後ろから声をかけられて振り返れば、騎士の隊長だった。
「少し、こちらへ。」
襲撃者たちに声が届かないように配慮したのか、彼はキリエを皆が留まっているところから離れた木陰に誘う。護衛達の脇を通り過ぎると無言で後ろにラージがついてきた。
振り返って自分についてきたのがキリエだけでないことに気づいた隊長は少し驚いたようだった。
「失礼。警戒されてしまったかな。王国騎士を騙る悪者ではないのですが。」
騎士は両手を開いて悪意がないと示して見せた。ラージは何も答えないがキリエの傍を離れるつもりもないようで黙ってそこに立っていた。
「彼も一緒では問題がありますか。」
キリエとしてもラージがいてくれる方が心強い。いくら王国騎士とはいえ、知らない男には違いない。今先ほどの衝撃も冷めやらぬまま彼と二人で向き合うのは怖かった。
「いえ、信頼のおける方であれば構いませんよ。迎えを待つ間に少し事情をお聞かせいただくだけですから。」
騎士は兜をかぶったままなので日陰に入ると顔の殆どが隠れてしまう。表情の見えない相手と話すのは、酷く話しにくかったがキリエは問いにできるだけ正確に答えた。
「それで、騎士様方はどうしてここに?」
彼らが駆けつけてくれなければ、どうなっていたか分からない。感謝はしているが、あまりにも都合よく現れたように感じる。先程のひっかかりはこれだ。この田舎道には滅多に王国騎士の巡回など訪れない。
「運が良かったのですよ。そこの村まで所用で訪ねていたところに、街道で馬車が襲われていると村の人が飛び込んできて。それで慌てて駆けつけた次第です。」
「偶然、ですか。」
それはまさしく幸運だ。キリエは釈然としないながらも頷いた。まだ手足が震えている。頭も正常に働かず、納得できる答えなのかどうか吟味することができなかった。
コチまで急いで戻った護衛が馬車やコチに常駐している騎士を引き連れて戻ってくるまで皆は一塊になってその場に留まった。キリエは震えが止まらず、ずっと自分の腕を抱いていた。護衛の男たちが代わる代わる声をかけてくれるが、笑み返して安心させようとしても上手に笑えない。この場のクロード商会一行の主は自分であるという強い思いがなければ疾うに気を失って倒れていただろう。
***
迎えの馬車が見えた途端に気が緩んだのかキリエはふらりとよろめき、下がり眉の男とラージに両脇を支えられた。支えられたまま馬車に乗り込んだキリエの隣にラージが乗り込む。一行の中でラージが一番腕が立つ。当然の采配だ。そんなことにも気づかないまま、キリエは夏だというのに冷え切った体を自ら抱きしめて俯いていた。ラージが座った側だけがわずかに温かく、無意識にそちらに手を伸ばして彼の腕に触れた。守られているという実感を与えてくれる確かな温もりに助けられ、キリエはなんとか気持ちを落ち着かせようと深呼吸を繰り返した。
(あの人たち、私を狙っていた。)
今日の襲撃者はキリエを狙っていた。たまたま襲った一団に女がいたから攫おうとしたような偶発的なことではなく、キリエ・クロードその人を狙っていた。キリエを探し出せ、引きずり出せと叫んでいた。そしてあの少年は目の前のラージを無視するように執拗にキリエに向かって剣を振るって来た。
殺されると思った。
短剣を弾き飛ばされたときには、本当にもう駄目かと思った。人間、死ぬと思った瞬間には一歩も動けないどころか、声を出すこともできないのだと知った。
思い出すだけで息が詰まりそうになる。無理に考えるのをやめて自分の呼吸に集中する、吸って、吐いて、吸って、吐いて。大丈夫、ちゃんとまだ生きている。そう思った次の瞬間には、乱暴に壊された馬車と、そこに身を横たえて絶命していた馬が脳裏に蘇った。
(馬車の中に残っていたら、扉を踏み破った馬の脚に蹴り飛ばされて命はなかったかもしれない。)
蹴られたのはキリエではなくラージだったかもしれないし、他の護衛だったかもしれない。もし彼らが目の前で蹴り飛ばされていたら。あるいはあの騎士達が現れずに護衛が先に力尽きていたら。そこまで考えてぞっとする。
商隊に加わっていれば盗賊に襲われることもあるし、野生の動物が追いかけてくることもある。目の前でそういうものと護衛の剣士たち戦うのも見たことがある。血が流されるのを見るのも初めてではない。怖くないわけではないが、それだけで卒倒するほど不慣れな景色ではなかった。しかし、今日の襲撃では初めて知る種類の感情があった。今までに感じたことのない重苦しく粘ついた思い。それは純粋に自分のために他の誰かが死ぬかもしれないという恐れだった。
(たとえば、今この手の中にあるラージの腕が冷たくなっていくのだとしたら。私は、とても耐えられない。)
「ああ。」
キリエは後悔に呻いた。自分が誰かに疎まれ、狙われているのは分かっていた。だからこそ、このコチ行きだったというのに、どんな相手が狙ってくるのか判断を誤ったのだ。若い娘の嫉妬程度のことだと、どこかで高を括っていた。日一日と無事に旅が進むたびに気が緩み、今日などもうコチに帰り着いたも同然と思っていた。
(私は馬鹿だわ。)
キリエは空いている手で目を覆った。この道は慣れた道。大きな街道を行けば遠回りでも安全だった。人目も常にある街道なら同じように襲い掛かられたとしても、周りの人が助けに入ってくれたはずだ。それなのに自分が少しでも早く帰ろうと危険な道を行かせたのだ。騎士団がいなければどうなっていたか分からない。もっと自分の置かれた立場を深く考えるべきだった。キリエの認識不足が、今日六人の仲間の命を危険に晒した。
世間を騙した寸劇は成功して、人々を惑わしているのだ。キリエの中身は何も変わっていなくても、他人から見ればキリエはいまや有名人で、未来の公爵夫人だ。フォード公爵家に対する人質として使いやすいと思う者もいるだろう。人質交換が上手くいかなくても彼らがキリエを見捨てれば、随分な醜聞となりフォード家にとって代わりたい者には格好の攻撃材料になる。若い娘の妬み嫉みなど可愛らしいものではない。キリエは政治の駒として意味のある役割を演じている。個人として狙う意味のある人間になったことを自覚していなければいけなかったのだ。
いつの間にかキリエの演じるべき舞台は夜会の場だけにあると勘違いしていた。いつ誰がどんな目で自分を見るのか、分かっていなかった。きっと浮かれていたのだ。煌びやかな世界を垣間見て、足元を見るのを忘れていた。
今は泣いてはいけない。まだ安全な場所についていない。しっかりしていなければ。キリエは唇を噛みしめ、うめき声を漏らした。頭の中は恐怖と自己嫌悪でぐちゃぐちゃだ。
「もう、怖くない。」
ラージがぽつりと言った。
ラージは静かにキリエの震える膝を何度かぽんぽんと叩く。キリエが十代の頃に商隊が襲われては泣いていたときにしてくれたのと同じように、静かに。キリエは手の温かさに逃げ込んでしまわないように益々強く歯を食いしばった。まさに自分を守るためにここに来て、自分のせいで危険な目に遭ったラージに、こんな情けない後悔の涙を見せるわけにはいかない。自分はもう守られて旅するだけの見習いではない。
キリエは涙の衝動が収まると、ようやくと顔を上げた。奥歯を噛みしめすぎて顎どころかこめかみまで、じんじんと痛む。それを堪えて、ようやく何とかいつも通りに動くようになった喉から声を絞り出す。
「ラージ、ありがとう。」
身を守ってくれたことも、言葉少なに励ましてくれたことも。その思いを込めれば、伝わったのかラージは一つ頷いて見せた。
「意地っ張りだな。」
ぼそりと言われて、キリエは何とか笑った。確かに今、泣き出したくて仕方ないのに必死に我慢している。まだ膝が震えているし、突きつけられた自分の甘さに叫びだしたいとも思う。しかしそれは、キリエが抱えなければならないものだ。危険に巻き込んだのはキリエなのだから、ここでラージに慰めてもらうのは筋違いというものだ。
キリエはぎこちなく笑ったままラージの静かな鳶色の瞳を見返した。
「意地じゃないわ。見栄を張ってるのよ。その方が私らしいでしょ。」
ここで泣き崩れるのはあまりに情けない。その返事にラージは少しだけ目を細めた。笑ったのか、咎めたのか。その意味はわからなかった。ただ彼はコチまでの残りの道中、キリエにずっと腕を貸してくれていた。




