御用達商人ガート・フィッツジェラルド
女性たちの輪は自然と解けて解散となった。そうはいっても今日のキリエはとにかく注目の的である。一人になる機会をそうそう見逃してもらえるものではないらしい。冷たい葡萄酒で喉を潤していると若い男性が寄ってきた。長い睫に縁どられた垂れ目が印象的な優男だ。キリエはさりげなく距離を取りながら彼に向かい合った。
キリエが彼のことを見知っていたら距離をとるどころか、そのまま逃亡していたに違いないが、残念ながらキリエはその顔に見覚えがなかった。
「やあ、キリエさん。お目にかかれて光栄だ。ご挨拶させていただけるかな。ガート・フィッツジェラルドです。」
思わず、ひく、と頬が引き攣った。その名前には嫌というほど聞き覚えがある。フィッツジェラルドといえば王家御用達の大店。数代に渡って名のある貴族と娘を縁付かせており、社交界へも出入りしている名家である。平民相手を中心とするクロード商会とは客層がややずれているとはいえ、あちこちの商売で利害が衝突する相手である。キリエが彼らのいないところで「貴族に阿る狐のような輩が偉そうに」と罵ったこと数知れず。聞かれていないのは分かっていても少々気まずい。
それより何よりアンドリューとキリエの結婚はまさに彼らが今の地位を築いてきたやり方だ。当然、警戒されていることだろう。腹を探られるのはうまくない。会いたくなかった相手だ。
「フィッツジェラルド社のガート様。次代のフィッツジェラルドを担う方と以前から伺っておりましたわ。こちらこそお会いできて光栄です。」
実際にキリエの元に届いていた噂では現在の当主ノーマン・フィッツジェラルドの大物ぶりに比べると次代を担うガートは小粒の感が否めないというものだったが、ここはそんなことを正直に告げる場ではない。キリエは名乗られた瞬間の動揺を誤魔化すように少し大げさに微笑んで挨拶した。ガートもまた余裕とどことない優越感を見せて笑み返してくる。
「ふふ、私もクロード商会のキリエといえば、商会の未来を背負って立つ人材と聞いていたよ。好敵手になってもらえるだろうと期待していたのだが、このようなことになって驚いたよ。いやあ、しかし、お会いして納得がいったな。これほど美しい方だとは。」
「まあ、嬉しい。」
お世辞の応酬は社交の嗜みだ。褒め言葉は見え透いた嘘であっても素直に受け取ることにして、キリエはにっこりとほほ笑んだ。
「今や、あなたはウラッカで一番のお相手に見初められた国一番の幸せ者だ。クロード会長もお喜びだろうね。」
祝福の言葉の向こう側に、あてつけめいた悪意があることをキリエは見逃さなかった。うまく取り入ったものだと思っているに違いない。フィッツジェラルドは伯爵家には娘を嫁がせているが侯爵家、公爵家には直接の縁戚はない。既に適齢期を逃し警戒もしていなかったキリエにアンドリューの花嫁の座を射止められて、さぞや悔しい思いでいるのだろう。
「ええ、行き遅れの私のことを心配しておりましたから。ようやく肩の荷が下りるとほっとしたようですわ。」
「おやおや、行き遅れとは。でも、今のあなたならば、最高の出会いを待っていたのだと声高らかに言ったところで誰も反論はしないだろう。フォード家に敵う家柄など畏れ多くも王家しかありはしないのだから。さすがに王家では御用達でなければならないから、そういう意味ではご家族のために一番良い家に嫁がれる。噂通り賢い方だ。あなたにもっと早くご挨拶にうかがうべきだったな。」
クロード家は御用達ではないというところをさりげなくあげつらったガートは給仕にグラスを預けながら、自然とキリエの方へ近づいてくる。これ以上、後ろへ下がれば壁際に追い込まれてしまうキリエは、次の逃げ場をどこに確保しようかと視線を走らせた。大きな夜会に相応しく、場はどうにも混み合っている。そんな彼女の迷いの隙をつくように、ガートはキリエのすぐ隣までやってきた。近づいた分だけぐっと声を低めて彼は続ける。
「広大にして豊かなフォード領の取引を握るとなれば、クロード商会は安泰でしょう。普通の女性であればとても耐えられない屈辱も耐え忍んで家のためにお飾りの正妻の座を射止めたのですから、滑り落ちないように精いっぱい努力なさることですね。御夫君を快く送り出して差し上げれば、サイス領の取引も任せてもらえるかもしれませんよ。」
キリエは失礼千万な男を睨むように見上げた。あからさまな侮辱だ。身売りをして正妻の座を射止め、それによっとフォード領の利権を買ったなどと、キリエに対してもクロード商会にも、そしてフォード家に対しても無礼極まりない言葉を見逃しにはできなかった。お前達とは違うのだと大声で言い返してやりたい思いをすんでのところで堪えた。
「何をおっしゃっているのか、分かりかねますわ。私は家のために身を売った覚えはございません。」
キリエの答えを強がりと思ったのかガートはふふっと笑った。優男然とした顔にそぐわぬ卑しい笑顔だとキリエは思った。
「おや、では巷の噂は真実を言い当てているのかな。あの師団長が一目惚れだとか、これまでどれほどの美女が言い寄っても動じなかったものを。一体どんな出会いだったのか是非お聞かせ願いたいですね。そもそもあなたもクロード会長もこうした場には滅多に出向かれない方だ。私とも今日初めて顔を合わせるほど。それがフォード家の大舞踏会の招待状を贈られるとは舞踏会以前にお知り合いになる機会があったのでは?あなたのような男爵令嬢を招いても目立たぬようにあの舞踏会を盛大なものになさったというお話も聞いていますよ。」
ガートはねちっこく探りを入れてくる。周りは素知らぬ顔をしながらも耳をそばだてていることだろう。
「私をお招きいただいた事情はどうぞアンドリュー様にお聞きになってください。私では分かりかねますわ。」
キリエに対してどれほど無礼な態度を取ろうとも、アンドリュー相手に同じことはできまいとキリエが突っぱねると、ガートはまた嫌な笑みを浮かべた。
「何も知らせないとは。アンドリュー様も罪なことをなさいますな。商家を隠れ蓑に何をなさろうとしているやら。」
ガートの言葉にキリエは背筋を凍り付かせた。扇で口元が隠れるような姿勢をとっていなければ咄嗟に噛んだ口元を見られてしまっていただろう。ガートは一体何を知っているというのだろう。
「ガート様のおっしゃりようが分かりませんわ。」
こうなれば知らぬ存ぜぬで通すしかない。声も手足も震えないように必死に堪えながらキリエがつんとして言い返すとガートは笑みをそのままに少し顎を逸らせた。
「ええ、あなたはきっとご存じないのでしょう。無垢なお嬢さんでいらっしゃる。あなたに罪はない。」
若い娘には褒め言葉でも年増と呼ばれる年ごろを迎えた女には皮肉でしかない。キリエはガートを睨み据えた。
「お知りになりたいのならば、ご自分で婚約者殿にでもお父上にでも尋ねてみられると良いでしょう。」
余裕ぶった口ぶりでガートはキリエを見下ろした。彼はもしかすると本当にキリエは何も知らないと思っているのかもしれなかった。実際、コチでキリエが聞かないことを選択すれば、ほぼ何も知らされないままここに立っていた可能性もあるのだ。
「何を聞けと言うおつもりなのでしょう。アンドリュー様も父も隠し事をするようなことはないと思いますけれど。」
首を傾げて見せれば、ガートはますますと卑しい笑顔を見せた。目の奥に昏い光が灯って見えた。
「何を尋ねるべきか、ここであなたにお教えした方がよろしいですか?」
(しまった。)
キリエは笑顔を強張らせた。力を入れ過ぎた手の中で扇が僅かに軋みを上げて我に返る。ガートは王国騎士団の状況を知っているのかもしれなかった。多量の補給を必要とするはずなのに自分たちに注文が来ない。そうなれば騎士達の動き、特に商人との接触に敏感になるのは当然だ。ここで、御用達の話を大声で切り出されてしまえば芝居は台無し、秘密裏の補給も不可能となる。
いけ好かない態度に腹を立てて、普段の通りに言い返したのが仇になった。もっと驕って単純に良縁が羨ましいかとひけらかして煙に巻いてやれば良かった。しかし、一度口にしてしまった言葉は決して戻らない。ここで下手に知りたくないと言えば、キリエが秘密を既に知っていると取られ、知りたいと言えば口に出されたくないことを言われてしまうかもしれない。
キリエの伸ばした背筋をつうっと汗が流れ落ちた。
最良の返答を、今すぐに弾き出さねばならない。頼れと言ってくれたアンドリューは今この時に隣にいない。




