十五夜お月さま
ススキがさらさらと音を立てています。
涼しい夜です。
もうすっかり秋だなあ。
旅の僧は良いことを思いついて
傍らのススキをなん本か引き抜きました。
ススキは魔よけになると云われています。
野原の上にはまん丸お月さま。
世の中は小さな箱庭のようなものなのかも知れない。
箱の上には穴がぽつんとひとつ空いていて
夜になるとそこから明かりが洩れてくる。
その穴からたまにお釈迦さまが私たちのことを覗いているのかも知れないなあ。
ふふ…
僧は不思議でした。
自分がどうしてこんな想像をするのだろうかと。
それくらい月の光りはまぶしく辺りを照らし出しているのでした。
その丸さがあまりにも美しいので
僧はしばらくじっとしていました。
いかん、いかん。
月にあてられそうだ。
昔から満月はひとの心を惑わせるとされています。
その妖しい輝きが人を理の枠から外へ連れ出そうとするのです。
けれど今夜くらいはお釈迦さまも大目にみて下さるだろう。
だってこんなに綺麗な月夜なのだから。
僧は古い大きな池のほとりへ急ぐことにしました。
やがて月明かりのもと、葦の原っぱが見えてきました。
葦は丈夫な草です。
どんなに強い風が吹いても決して折れることがありません。
それは葦が風に逆らわないからなのでしょう。
夏はあんなに騒いでいた蛙たちの声も今はもうなく
かわりにスズムシたちがちょっぴり寂しげに鳴いています。
リーン
リーン
リーン…
僧はいつしか幼い頃、母に縁日で買ってもらった小さな鈴を思い出していました。
さあこの鈴をつけておいで。
そうすれば母はいつでもおまえがどこにいても見つけることができるからね。
ほら、さみしくないだろう。
いい音がするよ。
幼い僧が鈴を振ると、透きとおるような綺麗な音色が僧を包みました。
おっかあ。
なんだい。
ううん、なんでもない。
こうして転がしてごらん。
ね、まるでおまえがころころ笑ってるみたいだね。
うん!
あの鈴はどこにやったのかなあ。
気がつくともう葦の原でした。
池の真ん中には大きな丸いお月さまがここにもひとつ浮かんでいました。
まったく見事な月だ。
し~ちゃん
し~ちゃん
お、来たな。
こっちだ。
僧は持っていたススキを猫じゃらしみたいに振りました。
稲の精が葦の穂のうえをぴょんぴょん跳ねるようにして渡ってきます。
器用なやつだなあ。
クスクス…
いつものようにピンクのストールを外套のように広げて、まるで飛ぶように。
し~ちゃん
さいごの葦の穂をボンと蹴って
稲の精は僧の手のひらの上に舞い降りました。
し~ちゃん
うん。こんばんは。
今夜は中秋の名月だ。
だから二人でお月見をしようと思ってね。
いい考えだろう。
稲の精は夜空を見上げてうっとりした目をしました。
はだしの足は真っ黒。
来てごらん。
僧は池のすぐそばまでおりて自分の膝に稲の精を座らせると
手ぬぐいに池の水をしませて足を拭いてあげました。
ひっ!
稲の精は僧の腕にしがみつきました。
あー ごめんごめん。
冷たかったかい。
池に浮かんだ月がほのかに揺れました。
ごらん。貴族たちはね、舟遊びといって舟の上から水面に映るお月さまを愛でて楽しむのだよ。
月は直接見ないほうが良いのかも知れないね…
ふと見ると、稲の精は顔をいっぱい月に向けて目をつむっていました。
ははあ、月光浴だね。
月の光りを浴びると美人になるそうだから。
ふふふ…
そうだ、ここに来る道すがら良いものを拾ったよ。
僧は懐から蜜柑色の丸い粒を取り出しました。
それはギンナンでした。
稲の精はギンナンを見るとプイッと頬をそむけました。
なんだ。きらいなのかい。好き嫌いはよくないなあ。
でも実は私もギンナンはあまり好きじゃないのだよ。
茶碗蒸しの中に入っていたりするとつい箸が止まってしまう。
稲の精はなん度も大きくうなずきました。
じゃあこれはどうだい?
こんどは大きな栗を出しました。
稲の精は目を今夜のお月さまくらい大きく見開きました。
お口もポカンと開いたまま。
そして僧の首もとにひしっと抱きつきました。
そうか、そうか。
好物なのだな。
おまえのことがだんだんよくわかる。
あ、こらだめだ、だめだ。
ナマでは食べられないよ。
あしたになったら蒸して食べよう。
きっと甘くて美味しいに違いない。
稲の精は歯型のついた栗を恨めしそうに見つめました。
ここがいい。おいで。
ここなら池に浮かんだ月も天の月も両方見れるからね。
稲の精は僧の膝のうえです。
なんだか今夜は甘えているね。
僧はそう言いながらも嬉しさでいっぱいでした。
リンリン リーン…とスズムシが優しい音色を奏でれば
ススキが遠くでサラサラ、サラサラ…
夜風もやわらかく二人を包んでいます。
リンリン リーン…
サラサラ…
サラサラ
私は今宵の十五夜を一生忘れないことにしよう。
僧は稲の精に聞こえるか聞こえないかくらいの声でつぶやきました。
稲の精はピンクのストールの衿もとを少し引っ張りあげました。
寒いかい?
稲の精は首を横に振りました。
そして何やらお腹の下でゴソゴソしたかと思うと
小さな手を僧に差し出しました。
なにを握りしめているのだい?
稲の精は握りしめたその手をそっと開きました。
すると稲の精の手のひらには見覚えのある小さな鈴がのっていました。
これは…!!
とたんに僧の目から涙が溢れました。
どうしてこれを…
それは僧が幼い頃、母からもらった鈴だったのです。
もう言葉にさえなりません。
涙があとからあとから出てきて、僧の頬を濡らしました。
し~ちゃん…
稲の精は満面の笑みで僧の顔を見上げています。
おまえはお釈迦さまなのかい?
そんなはずはない、そんなはずは…
十五夜のいたずらでしょうか。
稲の精が鈴を手のひらで転がすと
とても優しい音が辺り一面に響きました。
ありがとう。
ありがとう。
僧は涙を拭きながら、なん度も稲の精にお礼を言いました。
私はおまえに何がしてやれるのだろうね。
どうか教えてくれまいか。
し~ちゃん
し~ちゃん…
稲の精は鈴を僧の手に握らせました。
そして僧の手に頬っぺたを擦り付けると
大きな栗が入った僧の懐をポンポンと叩きました。
そうか。
わかったよ。全部あげるからね。
稲の精はニタァ~と笑いました。
リンリン リーン…
サラサラ…
サラサラ
お池に浮かんだお月さまも
いつまでもいつまでも揺れていました。
お釈迦さまが夜空に開いた小さな穴から二人を覗いて微笑みました。
リンリン リーン…
サラサラ…
サラサラ
なんとも不思議な、不思議な十五夜の夜のことでした。