タマ、箱の中から見張る
タマは、春子の家で暮らしている猫だった。
タマには、いくつか大事な仕事がある。
ごはんを食べること。
昼寝をすること。
春子を見張ること。
そして、家の中に現れるあやしいものを調べ、家を守ること。
春子はそれを知らない。
春子はタマを見るたびに、
「タマちゃん、今日もかわいいねえ」
などと言う。
違う。
ただかわいいだけではない。
タマはこの家の警備をしているのである。
ある日の昼過ぎ。
春子の家に、大きな荷物が届いた。
春子は箱を開け、中から新しいタオルを取り出した。
「あら、いい感じね」
春子は満足そうだった。
タマは、タオルにはあまり興味がなかった。
問題は、そのあとである。
春子が空になった箱を、床に置いた。
タマのひげが、ぴくりと動いた。
箱。
それはただの紙の入れ物ではない。
四方を囲まれた、すばらしい隠れ場所。
敵から身を守り、春子を観察し、必要な時だけ飛び出せる完璧な場所。
つまり、要塞である。
タマはゆっくり近づいた。
箱の中をのぞく。
少し小さい。
いや、かなり小さい。
だが、問題ない。
タマは猫である。
猫はだいたい、入れると思った場所には入れる。
入れない場合でも、入る気持ちだけは強い。
タマは前足を入れた。
次に頭を入れた。
肩がつかえた。
「……にゃ」
タマは少し考えた。
入り方が悪かったのだ。
もう一度、角度を変える。
前足。
頭。
肩。
お腹。
しっぽ。
ぎゅう。
入った。
ただし、かなりはみ出していた。
箱の横が少しふくらみ、タマの背中も少し丸まり、しっぽだけが外へ出ている。
春子がそれを見て笑った。
「タマちゃん、それ狭くない?」
「にゃ」
狭くない。
ぴったりである。
むしろ、ぴったりすぎるほどぴったりである。
タマは箱の中で丸くなろうとした。
しかし、丸くなるほどの広さはなかった。
仕方がないので、半分だけ丸くなった。
タマは満足した。
ここはいい。暗くて、狭くて、春子の足音もよく聞こえる。何より、自分が守られている気がする。
タマは箱の中から、じっと部屋を見張った。
春子は台所へ行った。
タマは見送った。
異常なし。
春子が戻ってきた。
異常なし。
春子が洗濯物を畳み始めた。
異常なし。
春子がタマの箱を見てまた笑った。
少し失礼だが、異常なし。
その時だった。
台所の方で、かさり、と小さな音がした。
タマの耳が、ぴんと立った。
何かいる。
タマは箱の中から、台所のすみをじっと見つめた。
白い床。
棚の下。
細いすき間。
そこから、黒くて光るものが、すばやく動いた。
タマの目が細くなった。
敵である。
しかも、前に見たことがある。
黒くて、つやつやしていて、足が速い。
春子が見たら叫ぶやつだ。
タマは箱の中で、さらに身を低くした。
ただし箱が狭いので、あまり低くならなかった。
春子も音に気づいたらしい。
「ん? 何の音?」
春子が台所の方へ歩いていく。
タマは箱の中から見守った。
春子は棚の下をのぞいた。
その瞬間。
黒くて光る虫が、ささっと床を走った。
「きゃあああっ!!」
春子は大きな声を出して、台所から逃げ出した。
タマは目を見開いた。
やはり敵だった。
春子は完全に負けている。
ここは、自分が出るしかない。
タマは箱から飛び出そうとした。
しかし、箱が体に引っかかった。
「にゃっ」
タマは箱ごと少し前へ進んだ。
ずり。
黒い虫がまた動く。
ずり、ずり。
タマは箱に入ったまま、敵の方へ近づいた。
これはこれで安全である。
要塞ごと前進する。
なかなかいい作戦だった。
だが、黒い虫は速かった。
箱の要塞では追いつけない。
タマは決断した。
要塞を捨てる時が来た。
「にゃっ!」
タマは思いきり体をひねった。
箱が横に転がり、タマはその中から飛び出した。
そして、黒い虫へ向かって走った。
黒い虫は棚の下へ逃げようとした。
タマは前足を伸ばした。
ぱしっ。
外れた。
黒い虫は向きを変える。
タマも向きを変える。
すばしっこい。
なかなかの相手だった。
タマは低く構えた。
しっぽが少し膨らむ。
春子は廊下の向こうから、恐る恐るこちらを見ていた。
「タマちゃん、だめ、近づかないで!」
だが、タマは聞かない。
春子を守るのが、家の警備係の仕事である。
黒い虫がまた走った。
その瞬間、タマは飛びかかった。
「にゃっ!」
今度は、前足が届いた。
ぱしん。
黒い虫は動かなくなった。
タマはしばらく、その場でじっと見た。
敵は沈黙している。
勝った。
タマは胸を張った。
見事な出撃だった。
要塞から飛び出し、春子を脅かす黒い敵を撃退した。
これほど立派な仕事は、なかなかない。
タマは黒い虫をくわえた。
そして、廊下にいる春子のところへ歩いていった。
「にゃあ」
見よ、春子。
これがタマの手柄である。
タマは自信満々だった。
春子はタマの口元を見た。
次の瞬間。
「いやああああっ! タマちゃん、だめええ!」
春子はさらに逃げた。
さっきより勢いよく逃げた。
タマは立ち止まった。
なぜだ。
敵はもう倒した。
春子を守った。
それなのに、春子はまた逃げた。
しかも、かなり本気で逃げた。
タマは少し考えた。
どうやら春子は、黒い虫が動いていても、動いていなくても苦手らしい。
難しい人間である。
タマはその場に、黒い虫の残骸をぽとりと落とした。
もう見せる必要はない。
春子には、少し刺激が強すぎたのだろう。
タマはくるりと向きを変えた。
そして、転がっていた箱のところへ戻った。
箱は横向きになっていた。
タマは前足で押した。
少し動いた。
もう一度押した。
箱が元の向きに戻った。
タマは中に入ろうとした。
前足。
頭。
肩。
お腹。
しっぽ。
ぎゅう。
入った。
やはり、少し狭い。
だが、狭いからこそ落ち着く。
タマは箱の中で丸くなった。
春子はしばらくして、ティッシュペーパーとビニール袋を持って戻ってきた。
顔は少し青かった。
それでも、春子は黒い虫の残骸をそっと片づけた。
「もう……タマちゃん、びっくりしたじゃない」
「にゃ」
びっくりしたのは、こちらも同じである。
春子はタマを見る。
タマは箱の中から、堂々と春子を見返した。
今日はよく働いた。
家に現れた黒い敵を見つけた。
要塞から出撃した。
敵を撃退した。
春子に報告した。
春子は逃げた。
最後のところだけ、少し予定と違った。
春子はため息をつきながら、床を拭き始めた。
「タマちゃん、虫をくわえちゃだめよ。お口に入れるのもだめ。危ないこともあるんだからね」
タマには、春子の言葉の細かいところまでは分からない。
けれど、春子が心配していることは分かった。
怒っているというより、驚いて、困って、心配している。
タマは箱の中で、少しだけ目を細めた。
黒い虫は敵である。
見つけたら撃退する。
それは変わらない。
ただ、春子に見せに行くと、春子がものすごく逃げる。
それは今日、よく分かった。
春子は掃除を終えると、タマの箱の前にしゃがんだ。
「タマちゃん、おうちを守ってくれたつもりだったのかな」
「にゃ」
当然である。
春子は困ったように笑い、タマの頭をそっと撫でた。
「ありがとう。でも、次は呼んでね」
呼ぶ。
なるほど。
タマは考えた。
次に黒い敵が現れたら、春子を呼ぶ。
春子は叫ぶ。
自分が出撃する。
春子はまた逃げる。
たぶん、そうなる。
それでも、家を守るのは大事な仕事だ。
その夜。
春子は箱を片づけようとした。
「これはもう捨てようかな」
タマはすばやく箱の上に乗った。
「にゃ」
だめだ。
それはただの箱ではない。
今日、黒い敵を見つけた要塞である。
春子を守るために出撃した、記念すべき場所である。
春子はタマを見た。
タマは箱の上で胸を張った。
しばらく見つめ合ったあと、春子は苦笑した。
「じゃあ、もう少し置いておこうね」
タマは満足した。
春子も、少しずつ分かってきたらしい。
その夜、タマは箱の中で眠った。
やっぱり少し狭かった。
でも、狭いからこそ安心する。
春子は電気を消す前に、タマを見て小さく笑った。
「おやすみ、タマちゃん。今日もおうちを守ってくれてありがとう」
「にゃ」
タマは小さく返事をした。
この家の平和は、今日も守られた。
黒くて光る敵は倒された。
箱の要塞も残った。
春子は何度も逃げた。
だが、それもまた、春子らしい。
タマは箱の中で目を閉じた。
ただ、春子はまだ知らなかった。
タマが明日から、台所のすみを見つめるた
びに、春子が少しだけびくっとするようになることを。
この家には、見えない敵が多い。
少なくとも、タマはそう思っているのだった。




