第九話:新入バイト・AI疑惑
月曜、午後一時。 スーパー『エブリデイ』に、その「個体」は現れた。 名前は、一条くん。二十歳の大学生。 履歴書の写真は、まるで証明写真機の見本のように左右対称で、非の打ち所がない。
「本日よりお世話になります、一条です。指示を仰ぎます」
第一声を聞いた瞬間、私の背筋に、冷蔵庫の冷気とは違う、もっと乾いた、デジタルの風が吹き抜けた。 私、店長・佐藤は、一八五センチの視界から彼を見下ろした。 無駄のない立ち姿。一切の揺らぎがない視線。 そして、何より驚くべきは、その「肌」だ。 色白の私とは違う。それはまるで、工場のラインから出たばかりの、高級なプラスチックのような質感だった。
「……あ、あぁ。よろしく、一条くん。まずは、レジの研修から。あそこにいる田中くんに……」 「承知いたしました。マニュアルは昨夜、完全に暗記しております。実演に移行します」
一条くんは、私の言葉が終わるか終わらないかのうちに、音もなくレジへと移動した。 その歩き方は、一ミリの無駄な上下動もない「平行移動」だった。
一時間後。 レジコーナーから、驚愕の沈黙が伝わってきた。 私は、棚の隙間から、一八五センチの潜望鏡を出すようにして様子を伺う。
「ピッ。ピッ。ピッ。……合計、三千四百八十二円。五千円お預かりします。お釣り、千五百十八円。ご確認をお願いします。ピッ」
速い。 レジを打つ速度ではない。スキャナーにバーコードを当てる角度、お釣りを渡す際の指の角度、そして何より「瞬き」の回数。 一条くんは、客と一切の世間話をしない。 けれど、その接客は決して不快ではない。あまりにスムーズすぎて、客の側が「自分の動作の方が遅い」と錯覚し、急かされるように去っていくのだ。
「……店長、あいつ、やばいっすよ」 休憩に戻ってきた田中が、震える手でコーヒーを飲んでいた。 「一条くんか? 優秀じゃないか」 「優秀とかそういうレベルじゃないっす。僕、わざと横で『昨日、彼女と別れてさー』ってボソッと言ってみたんですよ。普通、少しは反応するじゃないですか」 「それで、一条くんは?」 「一秒だけこっちを見て、『田中さんの交際状況の変動は、業務フローに影響を及ぼしません。レジを打ちましょう』って。声のトーン、完全にスマートスピーカーでしたよ」
私は、胃のあたりに微かな痺れを感じた。 これは、これまで対峙してきた「人間臭い」トラブルとは異質だ。 落語は、人間の「業」や「弱さ」を笑う芸だ。 けれど、一条くんには「業」がない。 ミスをしない。腹を立てない。そして、笑わない。
午後四時。 事件は、あの「一ポイント夫人」が来店したことで起きた。 いつものように、理不尽な理由でポイントの加算を迫る夫人。 対するは、無機質な精密機械、一条。
「だからね、この一円を切り上げて一点にしてって言ってるのよ!」 「規約第十二条に基づき、端数の切り上げは不可となっております。次の方、どうぞ」 「ちょっと! 無視しないでよ! 私が誰だか分かってるの!?」 「お客様は『お客様』です。個体識別情報の登録は必要ありません。次の方、どうぞ」
夫人の顔が、紫色のストールよりも深く赤らんでいく。 感情の激流と、無表情の防波堤。 一八五センチの私は、その光景を脚本のト書きのように脳内に書き留めながら、慌てて二人の間に割って入った。
「奥様、奥様! 新人の不手際、失礼いたしました。一条くん、ここは私が……」 「店長。私の対応に、規約上の瑕疵は認められません。なぜ交代が必要なのですか?」
一条くんの瞳が、私を射抜く。 その瞳の奥には、感情の輝きではなく、ただ「最適解」を探す検索エンジンのような光が宿っていた。
私は、息を呑んだ。 こいつは、本当に人間なのか? あるいは、本社が密かに投入した、最新鋭の「店員型アンドロイド」の試作機なのではないか。
私の「AI疑惑」は、確信へと変わり始めていた。
「一条くん。少し、一席……いや、面談をしよう」 私は、レジの嵐が去った後、一条くんをバックヤードの隅へと呼び出した。 一八五センチの私の影が、彼を完全に飲み込む。だが、彼は眉一つ動かさず、軍人のような直立不動を崩さない。
「一条くん、君の仕事は完璧だ。正確、迅速、非の打ち所がない。だがね、このスーパー『エブリデイ』は、生身の人間が交差する場所なんだよ。時には『無駄』や『笑い』という名の、潤滑油が必要なんだ」
「潤滑油。機械の摩耗を防ぐための物質ですね。具体的にどの業務に塗布すればよろしいでしょうか」
「比喩だよ! 比喩!」 私は思わず頭を抱えた。 「いいかい、先ほどの夫人の件もそうだ。規約を読み上げるのが正解じゃない。時には『困った顔』をしてみたり、『おやおや』と相槌を打ったり……。そういう『揺らぎ』が、客の怒りを鎮めることもあるんだ」
「……『揺らぎ』。理解不能です。感情をシミュレートしろ、という命令でしょうか?」
「命令じゃない、接客の『粋』を教えたいんだ」 私は、落研時代に培った秘策を繰り出すことにした。 人間なら誰しもが持っている、抗えない生理現象。笑い。 私は一条くんの目の前で、渾身の「小咄」を披露することにした。
「いいか、一条くん。あるところに、お豆腐が大好きな男がいてね……」
私は一八五センチの体を駆使し、身振り手振りを交え、表情を百面相のように変えながら、古典落語のクスグリを全力で叩きつけた。 横で見ていた田中が、堪えきれずに吹き出す。山崎さんも「店長、何やってんのよ」と笑いながら通り過ぎる。
だが、一条くんは。 彼は、私の顔をじっと見つめていた。その瞳は、まるでQRコードを読み取るスキャナーのように無機質だ。
私がサゲを言い終え、沈黙が流れる。 一条くんは、おむろに口を開いた。
「分析完了しました。店長。今の発言には、論理的な矛盾が三箇所、生物学的に不可能な挙動が一点含まれています。……これが、『笑い』を誘発するためのプロトコルですか?」
「……あぁ、そうだよ。完敗だ」 私の胃が、キリキリと音を立てて縮んだ。 やはり彼は、本社が送り込んだ最新鋭のアンドロイドか、あるいは感情を実家に忘れてきたサイボーグなのだ。
だが、その時だった。 バックヤードの入り口で、ガシャン! と大きな音がした。 品出しをしていた伊藤くんが、うっかり「特売の醤油」のケースをぶちまけてしまったのだ。 床一面に広がる、真っ黒な醤油の海。
「あわわ……すみません! すぐ片付けます!」 慌てふためく伊藤くん。 私は「怪我はないか!」と駆け寄ろうとしたが、それよりも速く、影が動いた。
一条くんだ。 彼は、迷いのない動作で清掃用具のロッカーを開け、モップと吸水シートを掴んだ。 そして、床に膝をつき、醤油を拭き取り始めた。
その時、私は見た。 一条くんの、白いシャツの袖口。 そこには、小さな、手書きの「名前」が書いてあった。 『いちじょう がんばれ』。 お世辞にも上手とは言えない、けれど温かみのある、子供のような筆跡だ。
「……一条くん、その袖の文字は?」
一条くんの手が、一瞬だけ止まった。 「……妹です。重度の知的障害があり、数字や文字が苦手なのですが。私がアルバイトを始めると言ったら、昨日、必死に書いてくれました。……汚れるといけないので、捲っていたのですが」
一条くんは、再び無表情に戻り、醤油を拭き取る作業を再開した。 「……妹の書いたこの文字は、規約にもマニュアルにもありません。非常に、非効率なノイズです。ですが、消去することができません」
私は、一八五センチの体をゆっくりと屈め、彼と同じ高さで床に手をついた。 「……一条くん。それが『粋』だよ。それが、君だけの『揺らぎ』だ」
一条くんは、顔を上げなかった。 けれど、その醤油を拭く手元が、先ほどまでの「平行移動」とは違う、少しだけ力のこもった、人間らしいリズムを刻んでいた。
「店長。清掃完了まであと三十二秒。……その後、マニュアル外の業務として、伊藤さんの精神的ケア、および休憩を推奨します」
「……あぁ。承知したよ、一条くん」
私は、店長室へ戻り、ノートを開いた。 胃の痛みはまだあるが、その痛みはどこか、温かいスープを飲んだ後のような余韻を持っていた。
タイトルは……『精密機械の袖口、あるいは醤油の海の新月』。
脚本の中の一条くんは、最後には店長よりも上手に落語を喋り、客全員をAI化してしまう。そんな冗談のような物語を書きながら、私は確信していた。 明日、彼がレジに立つ時、一ポイント夫人への対応は、ほんの少しだけ「規約」を超えたものになるだろう。
一条くんはAIではない。 あまりにも真っ直ぐに、誰かのために完璧であろうとした、不器用な「人間」だったのだ。




