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本日、胃痛につき。〜185センチ店長のバックヤード寄席〜  作者: ジェミラン
第2週:混沌は加速する

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第八話:深夜の半額シール・サバイバル

午後、六時、五十五分。 スーパー『エブリデイ』の惣菜コーナー。 そこは今、深海のような、あるいは嵐の前の荒野のような、異様な「静寂」に包まれていた。


私、店長・佐藤は、一八五センチの体をさらに細く、鋭く研ぎ澄ませ、右手に「赤い魔力」を宿したラベルプリンターを握りしめていた。 私の背後、三メートルの距離。 そこには、買い物カゴを「盾」のように構えた数人の男女が、等間隔で立っている。 彼らは、互いに目を合わせない。 けれど、その意識の全ては、私の手元にある「半額」の二文字に集中していた。


通称、ハンター。 閉店間際、鮮度の限界と、財布の限界の狭間に現れる、夜の勝負師たちだ。


「……店長、始まりますね」 横でパック寿司の整理をしていた田中が、小声で囁く。 「田中くん、私に話しかけるな。彼らは、私のわずかな呼吸の乱れから、シールの『角度』や『タイミング』を読み取ろうとしている」 「店長、考えすぎっすよ。ただの割引じゃないっすか」 「違う。これは、私と彼らとの、一対多の『果たし合い』なんだ」


私は、ゆっくりと一歩を踏み出した。 一八五センチの長い脚が、タイルの床を滑るように移動する。 背後で、カゴの取っ手が「カチャリ」と鳴った。 一斉に、彼らの重心が前に移動する。


私はあえて、本命の「三元豚のトンカツ」ではなく、隣にある「ひじきの煮物(小)」に手を伸ばした。 ラベルプリンターのトリガーを引く。 『ピッ』 赤いシールが、ひじきの上に舞い降りた。


その瞬間、一番右側にいた、登山用のリュックを背負った男が動いた。 電光石火の速さで手を伸ばし、ひじきを奪い取る。 だが、その男の目は、すでに次の一手――「エビチリ」へと向けられている。


(……甘いな、リュックの若者よ) 私は心の中で呟いた。 ひじきは、いわば「撒き餌」だ。 本命の獲物を前にして、カゴの中を重くするのは得策ではない。


私の背後に忍び寄る影は、今や五人に増えていた。 一人は、第一話でもお目見えした「一ポイント夫人」。彼女は今、ポイントではなく、絶対的な「安さ」という名の果実を求めて、紫色の指先を震わせている。 もう一人は、仕事帰りと思われるスーツ姿の男。その目は充血し、獲物を狙うハイエナのようなギラつきを見せている。


私は、トンカツの前で足を止めた。 ハンターたちの呼吸が、一瞬、止まる。 一八五センチの私の影が、棚の上のトンカツを覆い隠す。


(さあ、誰が来る。誰が、この黄金色の豚を、半分の価値で手に入れる?)


私はわざと、シールの設定を確認するふりをして、数秒の「タメ」を作った。 落語でいうところの「間」だ。 客席が、次の言葉を、次の展開を、喉を鳴らして待つ、あの緊張感。


シールの機械をカチカチと鳴らす。 スーツの男が、一歩、間合いを詰めた。 夫人が、カゴを少しだけ持ち上げた。


「……店長、そろそろ七時ですよ」 田中の無情な時報。


私は、トリガーに指をかけた。 赤いシールが、排出口から顔を出す。 その瞬間。 私の背後の「静寂」が、爆発した。


空気が爆発した、と感じたのは錯覚ではなかった。 私が「三元豚のトンカツ」にシールを貼った瞬間、周囲の酸素が数パーセント薄くなったような、猛烈な吸気音が聞こえた。


一番に動いたのは、スーツ姿の男だった。 その手は、まるで獲物を捕らえる鷹の爪のように鋭く、迷いなくトンカツへと伸びる。 だが、その指先がパックに触れる寸前、横から紫色の残像が割り込んだ。


「失礼、これは私の今夜の『主菜』よ」 一ポイント夫人だ。彼女は、スーパーの床に固定されているのではないかと思えるほどの安定した足腰で、スーツの男の進路を遮った。 だが、夫人の手もまた、獲物には届かない。 第三の勢力、リュックの若者が、長い腕を活かしてサイドから回り込んだのだ。


「……待ちなさい、若いの。ルールを忘れちゃいけないわ」 夫人が、低く、重みのある声で制する。 ルール。そう、この深夜の戦場には、明文化されていないが、絶対的な「法」が存在する。 『シールを貼る店長の腕に触れてはならない』 『パックを奪い合う際、物理的な接触は避けること』 『そして、店長の「サゲ」を邪魔しないこと』


私は、ラベルプリンターを腰のホルダーに収め、ゆっくりと振り返った。 一八五センチの視界から見下ろせば、三人のハンターが、一つのトンカツを囲んで三角形の陣を敷いている。


「皆様。……お見事でございます」 私は、落語の口上の時のような、深く、響く声を出した。 「このトンカツ、確かに半額となりました。ですが、この一枚の肉を巡って、この街の平和が乱れるのは、店長として、いや、一人の物語作者として忍びない」


ハンターたちが、私を睨む。 「店長、四の五の言わずに。誰が先に触れたか、判定しなさいよ」 夫人が焦れたように言う。


「判定、でございますか。……それでは、こういたしましょう」 私は、おもむろに横の棚から、もう一パック、全く同じ「三元豚のトンカツ」を取り出した。それは、先ほどまで私の足元、死角に隠しておいた『最後の一枚』だ。


「えっ……! まだあったの!?」 驚くハンターたち。 私はそのパックにも、流れるような動作で『半額』のシールを貼り付けた。 そして、二つのパックを、右と左、別々の方向にスッと滑らせる。


「右は、明日への活力を求める、戦うサラリーマンの方へ。 左は、この街の経済を司る、気高き夫人へ。 そして、若者よ。君には……」 私は、少しだけ賞味期限の近い、最高級の『特選メンチカツ』に、半額どころか『七割引』のシールを叩きつけた。


「君の若さには、この脂の乗ったメンチが相応しい。……いかがかな?」


一瞬の静寂。 そして、三人は互いに顔を見合わせた。 スーツの男が右を、夫人が左を、そして若者がメンチを。 争うことなく、まるでダンスを踊るような滑らかな動作で、それぞれの獲物をカゴに収めた。


「……ふん。店長、今日は一本取られたわね。あなたのその『演出』、嫌いじゃないわよ」 夫人が、満足げに鼻を鳴らして去っていく。 スーツの男も、深く一度だけ会釈をし、レジへと向かった。


嵐は去った。 残ったのは、空になった惣菜の棚と、呆然と立ち尽くす田中だけだ。


「店長……。かっこよすぎっす。でも、あのメンチカツ、七割引なんてルールありましたっけ?」 「ないよ。私の独断だ」 私は、胃をさすりながら、力なく笑った。 「脚本家として、最高の結末(ハッピーエンド)を書くためには、多少の『特損』は必要経費なんだよ」


私は、色白の細い指で、ラベルプリンターの電源を切った。 深夜のスーパー。 蛍光灯の光の下で、私の長い影が、空っぽの棚に落ちている。 一八五センチの、少しだけ誇らしい、けれど相変わらず胃の痛い、店長の背中。


店長室に戻ると、私はノートに今日のリズムを書き留める。 タイトルは……『深夜の審判、あるいは半値の調和』。


「……さて、明日は第九話か。AIみたいな新人が来るんだったな」


私は、自分の長い脚をゆっくりと休ませながら、深夜の静寂に身を浸した。

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