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本日、胃痛につき。〜185センチ店長のバックヤード寄席〜  作者: ジェミラン
第1週:現場は戦場、店長は中間管理職

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第七話:嵐の前の日曜日

日曜、午前八時。 空は低く、鼠色の雲が、今にも街を飲み込もうと垂れ込めている。 テレビの予報は、大型台風の接近を、まるで終末の予言のように繰り返し伝えていた。


「来るぞ、田中くん。心の準備はいいか」 私、店長・佐藤は、一八五センチの身を震わせ、シャッターが開く前の静寂の中で呟いた。 「店長、大げさっすよ。水とパンと電池は、昨日までにほとんど出し切りました。今日は、雨風をしのいで、静かに閉店を待つだけですよ」 田中が、あくびを噛み殺しながら答える。


だが、私は知っていた。 この「嵐の前」には、理屈では説明のつかない、スーパーマーケット特有の「狂気」が宿ることを。 そしてその狂気は、往々にして、黄色くて、丸くて、サクサクとした「あの揚げ物」の姿をして現れるのだ。


午前九時。開店。 自動ドアが開いた瞬間、雪崩のように客が流れ込んでくる。 彼らの目的は、保存のきく缶詰でも、断水に備えたミネラルウォーターでもなかった。 彼らは一目散に、惣菜コーナーへと突き進む。


「コロッケ! コロッケはある!? 五個入りを三パック!」 「こっちもよ! 野菜コロッケ、カレーコロッケ、全部ちょうだい!」


「……始まったか」 私はインカムを握りしめた。 「山崎さん、聞こえますか。第一波です。油を最大出力で。黄金色の円盤を、次から次へと発射してください」 「言われなくても分かってるわよ店長! こっちのフライヤーは、もう火炎瓶(モロトフ)みたいな熱気よ!」 バックヤードから、山崎さんの勇ましい声が返ってくる。


ジュワッ、パチパチ、ジュワーッ。 心地よい、しかし殺気立ったリズム。 パン粉の海を泳ぎ、高温の油で鍛えられたコロッケたちが、次々とバットの上に並べられていく。 だが、並べたそばから、客の手が伸び、トングがカチカチと鳴り、パックが飛ぶように売れていく。


なぜ、台風の日にコロッケなのか。 ネットの噂か、生存本能か。 あるいは、サクサクとした食感で、外の暴風雨の音をかき消したいという、人類のささやかな抵抗なのか。


「店長! レジが、レジがコロッケのバーコードで埋め尽くされてます! 画面が黄色いです!」 田中の悲鳴がインカム越しに刺さる。 私は一八五センチの長身を活かし、売り場の隅から隅までを見渡した。 どのお客様のカゴにも、茶色の油紙に包まれたコロッケが潜んでいる。 まるでお守りか、あるいは不発弾のように。


私は惣菜コーナーへ駆けつけ、自らもトングを握った。 「山崎さん、私がパック詰めを代わります。あなたは揚げることに集中を!」 「助かるわ店長! でも気を付けて、今の油は、私の怒りと同じくらい熱いわよ!」


私は長い腕を駆使し、リズミカルにコロッケをパックに収めていく。 右、左、中央。三枚並べて、蓋をパチン。 シールをペタり。 一八五センチの店長・佐藤、この時ばかりは機械的な正確さで、コロッケの山を捌いていく。


だが、売れる速度が、揚げる速度を凌駕し始めた。 ケースの中が空になる。 客の視線が、バックヤードの入り口に集中する。 「まだ!? 次のコロッケ、まだ揚がらないの!?」 その催促は、もはや怒号に近い。


私は油の匂いに包まれ、視界が黄色く霞んでいくのを感じた。 耳の奥では、フライヤーの音が「コロッケ、コロッケ」という連呼に聞こえ始める。


パン粉をまぶし、油に沈め、浮かび上がらせ、並べる。 その終わりのない円環(サイクル)の中で、私の意識は少しずつ、日常の境界線を超えていった。


「……あぁ、見える。空から、巨大なコロッケが降ってくる。台風の目は、実は巨大なジャガイモだったんだ……」


「店長! しっかりしてください! 意識、飛ばさないで!」 田中の声で我に返った時、私の手元には、山崎さんが揚げたてのコロッケを差し出していた。 だが、その時。 外の風の音が、一段と激しさを増した。


ガタガタ、ピシャリ。 窓ガラスが震える。 いよいよ、本番がやってくる。 だが、店内の「コロッケ熱」は、嵐を前にして最高潮に達しようとしていた。


店内は、もはやスーパーマーケットというよりは、激戦地の炊き出し会場の様相を呈していた。 外では雨が横殴りに叩きつけ、看板が悲鳴を上げている。だが、その暴風音さえ、店内に響く「揚げ物の音」と「トングの合唱」にかき消されていた。


「揚げろ、揚げろ! 芋を潰せ、粉を振れ!」 山崎さんの叫び声が、バックヤードにこだまする。 私、店長・佐藤は、もはや意識の半分を「コロッケの精霊」に明け渡していた。一八五センチの体は、ただひたすらにパックを閉じ、シールを貼るためのクレーンと化している。


「店長、見てください! 駐車場が……駐車場が、コロッケの色になってます!」 田中の錯乱した報告が入る。見れば、激しい雨に濡れたアスファルトが、街灯に照らされて、揚げたての衣のような黄金色に光っている。 「あぁ、綺麗だ、田中くん。世界は今、巨大なフライヤーの中に沈んでいるんだよ」 「店長、目が! 目が完全に据わってますよ!」


午後八時。閉店。 外の嵐はピークを迎え、ついに自動ドアに「準備中」の札が掛かった。 惣菜コーナーのケースには、一粒のパン粉さえ残っていない。 山崎さんはフライヤーの火を止め、戦士のような面持ちでエプロンを脱いだ。


「終わったわね、店長。……今日は、通算で二千個は揚げたわ」 「……お疲れ様でした、山崎さん。あなたの右腕は、今、間違いなくこの街の救世主です」


私は一八五センチの体を、折れそうなほど深く折り曲げ、泥のように疲弊したスタッフたちを見送った。 最後の一人が帰り、私は真っ暗な店内に一人残る。 警備上の確認のために店内を巡回するが、鼻腔にこびりついた「油の匂い」が、空腹と吐き気の絶妙な境界線を攻めてくる。


私は休憩室のソファに倒れ込んだ。 目を閉じれば、瞼の裏に浮かぶのは、美しい円弧を描くコロッケの山。 次第に、私の意識は深い、深い、ジャガイモの地層へと潜り込んでいった。


夢を見た。


私は、一八五センチの巨大な「衣」を纏い、黄金の油が波打つプールサイドに立っていた。 観客席には、これまでに私を悩ませてきた「一ポイント夫人」や「賞味期限の紳士」たちが並び、手に手にソースを持って私の飛び込みを待っている。


「店長、飛んで! 最高のリズムで、サクサクに揚がって!」 少女の声が聞こえる。 私は覚悟を決め、優雅なフォームで油の海へとダイブした。


パチパチ、ジュワーッ、ジュワッ。


体が熱い。だが、不思議と心地よい。 私の手足はジャガイモになり、心臓はひき肉になり、脳はコショウの刺激で研ぎ澄まされる。 一八五センチの巨大なコロッケとなった私は、重力から解放され、嵐の空へと舞い上がった。


空には巨大な「お掃除ロボット」が浮遊しており、私をキャッチしようと待ち構えている。 私はそれを鮮やかにかわし、台風の目へと突入した。 台風の正体は、やはり巨大な、皮を剥かれたばかりの男爵イモだった。


『佐藤店長よ、お前のストレスを、この油で揚げて流すがいい』


ジャガイモの神様が語りかける。 私はその懐に飛び込み、サクサクの衣を脱ぎ捨てた。 中から出てきたのは、真っ白で、ひょろひょろとした、脚本を書くのが大好きな一人の男だった――。


ハッと目が覚めると、外は驚くほど静かだった。 台風は通り過ぎ、窓からは澄んだ月光が差し込んでいる。


「……あぁ、夢か」 私は一八五センチの体を伸ばし、バキバキと音を立てる関節をさすった。 白衣にはまだ、油の匂いが染み付いている。 だが、不思議と気分は晴れやかだった。


私は店長室のデスクに向かい、ノートにペンを走らせる。 これで第一週、七つの物語が揃った。


タイトルは……『嵐の日のコロッケ、あるいは黄金の昇天』。


私はノートを閉じ、深く息を吐いた。 明日からは第二週。また新しい「おかしな日常」が始まる。 深夜の半額シール争奪戦、AI疑惑の新人、迷子の大人たち……。


「……やれやれ、これじゃあ、ネタには困りそうにないな」


私は店内の明かりを消し、静まり返ったスーパーを後にした。 足取りは軽く、リズムは快調。 一八五センチの店長の影が、月明かりのタイルに長く、美しく伸びていた。

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