第六話:店長、一八五センチの孤独
土曜、午前十一時。 店内の賑わいは、まるで沸騰直前の鍋のよう。 私、店長・佐藤は、売り場の真ん中で、一人「電柱」になりきっていた。
「店長、ちょっといいかしら。あの棚の、一番奥にある『減塩醤油』。私の手じゃ、どうしても届かなくて」 小柄なご婦人に袖を引かれれば、私は「承知いたしました」と二つ返事で膝を伸ばす。 一八五センチ。このひょろ長い腕をスッと伸ばせば、棚の奥で埃を被りかけていた醤油のボトルも、まるでもぎたての果実のように容易く手に入る。
「あら、助かるわ。あなた、脚立がいらないわね。便利だわぁ」 便利。 その言葉を背中に受けながら、私は苦笑いを浮かべる。 便利、重宝、棚の守護神。 この店において、私の身長は「個人のアイデンティティ」ではなく、「動く高所作業用什器」としてのスペックでしかない。
私は再び、人混みの中を歩き出す。 一八五センチの視界は、普通の人とは少し違う。 まず、人の「頭頂部」がよく見える。 「あぁ、あのお客様、今日は分け目が少し右に寄っているな」 「あそこの学生さんは、寝癖がひどい。朝までレポートでも書いていたのか」 そんな、誰も必要としない情報が、私の脳内にリズムよく蓄積されていく。
さらに、棚の「上」の汚れもよく見える。 「おやおや、カレー粉の棚の上に、一ミリほどの塵が。田中くんに掃除を命じなければ」 高い視点は、細かいことに気づきすぎてしまう。それは時に、平穏な心にさざ波を立てるのだ。
「店長ー! 助けてください!」 遠くから、またもや田中の抜けた声が響く。 今度はなんだ。豆腐の生首か、それともキャベツの脱走か。
「どうした、田中くん。そんなに喉を鳴らして」 「いえ、あの、電球が……! 精肉コーナーのスポットライトが切れちゃって。今から業者の人を呼んでたら、お肉が美味しそうに見えなくなっちゃいます!」
精肉コーナー。 そこは、肉の赤みを美しく見せるための「演出」が命の舞台だ。 一本のライトが消えるだけで、霜降りの和牛はたちまち「昨日から売れ残った肉」のような、寂しい表情を見せ始める。
私は脚立を探したが、あいにく今は山崎さんが惣菜コーナーの換気扇掃除で独占中だ。 「……仕方ない。私がやろう」 「えっ、店長。脚立なしでいけるんすか?」
私はライトの下に立った。 一八五センチ。腕を伸ばせば、指先は二メートル四十センチに達する。 あと、ほんの、数センチ。 私は、つま先立ちをした。 色白で細い、私の脚が、プルプルと震える。
「……あ、あと、一、一ミリ……」
その時、背後からクスクスという笑い声が聞こえた。 振り返ると、買い物をしていた女子高生のグループが、私をスマホで隠し撮りしながら囁き合っている。
「見て、あの店長。もやしが頑張って背伸びしてるみたいじゃない?」 「ウケるー。てか、白すぎ。ライトに照らされて、自分が発光してない?」
もやし。発光。 私の心に、冷たい風が吹き抜ける。 一八五センチという巨体は、目立つのだ。何をしていても、どこにいても。 失敗すれば笑われ、成功すれば「便利」と言われ、その内面にある「脚本家としての繊細な魂」に気づいてくれる者は、この店には一人もいない。
私は、孤独だ。 高い場所からすべてを見渡し、誰よりも早くトラブルに気づくが、私自身の「手の届かない寂しさ」に手を貸してくれる脚立は、どこにもないのだ。
私はなんとか電球を交換し終え、眩い光の下で、白すぎる自分の手を見つめた。 その時だ。
「店長……さん?」
聞き慣れない、透き通った声が足元から聞こえた。 見上げれば(いや、実際にはかなり見下げれば)、そこには一人の少女が、不思議そうな顔をして私を見上げていた。
彼女の視線は、私の手元ではなく、私の「目」を真っ直ぐに射抜いていた。
私を見上げていたのは、まだ小学校に上がったばかりのような、小さな女の子だった。 彼女は、私が交換したばかりの、燦然と輝く精肉コーナーのスポットライトと、私の顔を交互に見ていた。
「おじちゃん、すごい。お空に手が届きそうだね」
その言葉は、リズムを刻む私の脳内に、澄んだ鐘の音のように響いた。 「お空」か。 便利、重宝、もやし、脚立いらず。そんな散文的な評価ばかりを受けてきた私の肉体が、彼女の目には、天へと繋がるハシゴのように映ったのだろうか。
「……あいにく、お空まではまだ数千メートル足りないがね。でも、お肉を美味しそうに見せる魔法なら、今さっき掛け終わったところだよ」 私は、落語の登場人物を演じる時のように、少しだけ芝居がかった仕草で、眩いライトを指し示した。
少女は「わあ」と声を上げ、キラキラとした目で、スポットライトに照らされた国産牛のロースを見つめた。 「お肉、キラキラしてる。おじちゃんが魔法をかけたから?」 「そうだよ。この光がないと、お肉も眠ってしまうからね。君が今夜、美味しいハンバーグを食べられるように、私が起こしてあげたんだ」
少女は満足げに頷くと、お母さんの呼ぶ声に導かれて、跳ねるような足取りで去っていった。 私は、再び一八五センチの視界に戻る。 高い場所から見えるのは、埃や人の欠点ばかりではない。 少女の小さな頭のてっぺん、跳ねるリボン、そして彼女が夢見る「美味しい食卓」への期待。そんなものまで、私は高い特等席から見守ることができるのだ。
「店長ー、またぼーっとして。さては、今の女の子の言葉に感動しちゃいました?」 田中が、ニヤニヤしながら台車を引いてやってくる。 「うるさい。私は、スポットライトの反射効率について考察していただけだ」 「はいはい。でも、店長が背を伸ばすと、なんだかこの店の天井が少し高くなった気がしますよ。……あ、これ、褒め言葉っすからね」
田中は、照れ隠しのようにガタガタと音を立てて去っていった。 天井が高くなった、か。 悪くないリズムだ。
私は、店長室へ戻る道すがら、あえて背筋を限界まで伸ばしてみた。 一八五センチ。 確かに、この店で私は一人だけ、違う空気の層を吸っている。 トラブルが起きれば真っ先に目立ち、パートさんたちのわがままを受け止める巨大な防波堤になり、高い棚の奥にある「忘れられた商品」に光を当てる。
それは、孤独かもしれないが、一人の「演出家」としては、これ以上ない舞台装置ではないか。
私は店長室のデスクに座り、お気に入りの万年筆を取った。 ノートを広げ、今日のリズムを書き留める。
タイトルは……『天井に近い男、あるいは一八五センチの特等席』。
脚本の中の「佐藤店長」は、背が高すぎて雲の上に頭を突っ込んでしまい、神様とシフトの相談をする。 そんな不条理な新作落語の一節を書き殴っていると、不思議と胃の重みが消えていた。
ふと顔を上げると、窓に映る自分の姿が見えた。 色白で、ひょろりと長くて、どこか滑稽な男。 だが、その男が背を伸ばすことで、ほんの少しだけ、このスーパーの空気が広くなる。
「……さて、次は第七話だな。台風が来る前に、コロッケを揚げに行かねば」
私は、自分の長い脚を誇らしく思いながら、再び「お空に近い」視界を携えて、戦場へと戻っていった。




