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本日、胃痛につき。〜185センチ店長のバックヤード寄席〜  作者: ジェミラン
第1週:現場は戦場、店長は中間管理職

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第五話:賞味期限の魔術師

金曜、午後五時三十分。 外は夕暮れ、買い物客の波がピークに達し、レジの「ピッ、ピッ」という電子音が、まるで店内の脈拍のように速くなっていく時間帯だ。


私、店長・佐藤は、一八五センチの長身を最大限に引き伸ばし、レジの混雑状況を俯瞰していた。そこへ、インカム(無線)から悲鳴のような声が飛び込んできた。


「店長……応援、お願いします。三番レジ、動かなくなりました。……お客様が、『時計』を持ち出されて……」


時計? 私は嫌な予感を胸に、人混みをかき分けて三番レジへと急行した。 そこには、銀髪をピシッと整え、三つ揃えのスーツを着こなした初老の紳士が、まるで裁判官のような厳格さで立っていた。その手には、懐中時計。そしてカウンターの上には、一本の「牛乳パック」が鎮座している。


「店長か。君が、この『時間犯罪』の責任者かね?」


紳士の声は、低く、よく響く。まるで寄席のベテラン真打のような、有無を言わせぬ重みがあった。 「……時間犯罪、でございますか? 当店、佐藤と申します。一体、何が起きたのでしょうか」


私は一八五センチの巨体を、折り畳み傘のように丁寧に折り曲げた。 紳士は、懐中時計の蓋をパチンと閉め、牛乳パックの天面を指差した。


「見なさい。この牛乳の賞味期限は『二〇二六年一月二十一日』となっている。しかしだ、私がこれを手に取った時、時計は午後五時二十五分を回っていた。そして今、私が会計をしようとした瞬間、五時三十分になった。……あと六時間半で、この牛乳は『死ぬ』。それなのに、君たちは正規の値段で、平然とこれを売っている。これは倫理の崩壊だ」


私は、頭の中の脚本を高速でめくった。 一月二十一日。つまり今日だ。確かに、賞味期限は「今日」まで。 だが、法律的にも、当店のルール的にも、今日という日が終わるまでは「正規品」としての価値を保っている。


「お客様、仰ることは重々承知しております。ですが、賞味期限とは『美味しく召し上がれる目安』の日。本日中であれば、品質に何ら問題はございません」


「問題は大ありだ!」 紳士は、机を叩いた。いや、正確には牛乳パックをコツンと叩いた。 「私は、この牛乳で明日の朝のカフェオレを作る。明日の朝とは、すなわち一月二十二日の午前八時。その時、この牛乳はすでに『死後八時間』が経過していることになる。死んだ牛乳をコーヒーに注ぐのは、私の美学が許さない。かといって、捨てれば食糧廃棄だ。つまり、君はこの牛乳を私に売ることで、私に『美学の放棄』か『環境破壊』かの二択を迫っているのだ!」


……なんて、論理の飛躍だ。 だが、その言葉には、妙に心地よいリズムがあった。 彼は単に怒鳴っているのではない。自分の中に流れる「厳格な時間」というドラマの主役を演じているのだ。


周りの客がヒソヒソと囁き合う。レジの田中が、助けを求めるような目で私を見ている。 私は一八五センチの背筋を一度ピンと伸ばし、そして、落研時代に培った「あの呼吸」で、紳士に向き直った。


「お客様。なるほど、その『六時間半の黄昏』を憂えるお心。……痛み入ります。ですが、お客様は一つ、見落とされておられることがございます」


「見落とし? この私がかね」


「左様。この牛乳パックに記された『賞味期限』。これは、静止した数字ではございません。実は……『生きている物語』なのでございます」


私は、一八五センチの長い指をスッと立て、牛乳パックをまるで高座の小道具のように扱い始めた。 さて、ここからが店長・佐藤の、言葉の魔術の時間である。


「生きている物語だと? 店長、詭弁はよしたまえ」 紳士は懐中時計を弄びながら、冷ややかな視線を私に投げた。 私は、バックヤードで品出しを待つ段ボール箱を一つ、台代わりにレジ横へ引き寄せた。それを高座の「見台(けんだい)」に見立て、扇子代わりのボールペンを一本、その上に置く。


「お客様、お聞きなさい。確かに、この牛乳の肌に刻まれた『一月二十一日』という数字は、無慈悲なカウントダウンに見えるでしょう。ですが、我々スーパーの人間にとって、この数字は『熟成のピーク』を告げる祝辞なのでございます」


「熟成? 牛乳が、かね」 紳士の眉がピクリと動いた。


「左様。想像してみてください。この牛乳が、牧場を出て、トラックに揺られ、我が『エブリデイ』の棚に並ぶまでの旅路を。初日の牛乳は、まだ若く、荒々しい。だが、期限を迎えようとする今日の牛乳は、己の使命を終えようとする直前、その風味を最も深く、濃密に凝縮させている……いわば、人生の酸いも甘いも噛み分けた、お客様のような『完成された渋み』を纏っているのです」


私は一八五センチの長い腕を大きく広げ、まるでオーケストラの指揮者のように言葉を躍らせる。 「明日の朝、お客様がコーヒーに注ぐその瞬間。この牛乳は『死んでいる』のではありません。コーヒーという熱い情熱に出会うことで、最後の輝きを放ち、最高のカフェオレとして『昇天』するのです。これを逃す手はございません。新鮮すぎる牛乳では、この『調和(ハーモニー)』は奏でられないのでございます!」


周囲の客が、ほう、と溜息を漏らす。 紳士は黙って牛乳パックを見つめた。その表情に、わずかな迷いが生じる。


「……だが、それでも『期限切れ』という事実に変わりはない。私の美学には、瑕疵(かし)(が残る」


「そこです、お客様! その瑕疵を埋めるのが、我々プロの役目。田中くん!」 私はレジの田中に合図を送った。 「はいっ! これっすね、店長!」 田中が差し出したのは、赤いロール。……半額シールだ。


「お客様。このシールは単なる値引きの印ではございません。この物語を最後まで見届けてくださる、あなたという『後見人』への、我々からの感謝のメダルでございます。このメダルを貼ることで、牛乳は『売れ残り』から『選ばれし逸品』へと昇格する。いかがでしょうか、この物語、お客様の手で完結させてはいただけませんか?」


私は、半額シールを恭しく紳士に差し出した。 紳士は、私の顔と、シールと、牛乳をじっと見比べた。 沈黙が流れる。レジの「ピッ」という音が、まるで太鼓の連打のように響く。


やがて、紳士は小さく噴き出した。 「……ははっ、店長。君は相当な『書き手』だな。牛乳一パックに、これほどの御託を並べるとは」 紳士は懐中時計をポケットに収めると、自らの手でシールを受け取り、牛乳パックのど真ん中に、一ミリの狂いもなく丁寧に貼り付けた。


「よかろう。この『昇天』するカフェオレとやらの物語、私が買い取らせてもらおうじゃないか」


「ありがとうございます! お買い上げ、感謝いたします!」


紳士は背筋を伸ばし、満足げな足取りで店を去っていった。 嵐が去り、三番レジには再び平穏が訪れる。


「店長、すげえ……。あんな無茶苦茶な理論で、クレーマーを納得させちゃうんだから」 田中が呆れたように、けれどどこか尊敬の眼差しで私を見た。 「理論じゃないよ、田中くん。演出だ。人は正論で動くんじゃない。納得という名の『オチ』を求めているんだ」


私は一八五センチの体をゆっくりと伸ばし、凝り固まった肩を回した。 喉が渇いた。 賞味期限は、あと六時間。 私も、帰りに一パック、あの「物語」を買って帰るとしよう。


店長室に戻ると、私は今日の出来事をノートに書き留める。 タイトルは……『六時間の黄昏、あるいは白い昇天』。 ペン先が、リズムよく紙の上を滑っていく。 胃の痛みは、少しだけ、引いていた。

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