第三話:バックヤード・冷戦
水曜、午後一時。 外は雲一つない快晴だが、スーパー『エブリデイ』の従業員休憩室には、シベリアから吹き下ろしたような冷気が充満していた。
私、店長・佐藤は、一八五センチの身を縮こまらせ、入り口のドアノブを掴んだまま立ち尽くしていた。部屋の中央、古びた長机を挟んで座る二人の女性。 一人は、惣菜担当のベテラン、山崎さん。御年六十、揚げ物のプロであり、彼女の作るコロッケは街一番の衣の立ち具合を誇る。 もう一人は、レジ締めを仕切る川上さん。五十八歳、数字のミスを許さない鉄の規律を持ち、彼女の指先は一秒間に三枚の千円札を数え上げる。
二人は今、一言も発していない。 だが、その間に流れる沈黙は、鋭い氷柱のように尖り、互いの頸動脈を狙っている。
「……あの、お二人とも。休憩時間は、心穏やかに過ごしていただきたいのですが」 私が勇気を出して一歩踏み出すと、山崎さんが、ゆっくりと視線を私に向けた。その目は、揚げたての春巻きよりも熱く、それでいて冷徹だ。
「店長。聞いてちょうだい。この冷蔵庫、共同のルール、あったわよね?」 山崎さんが指差したのは、隅で唸りを上げている家庭用の小さな冷蔵庫だ。 「ええ、まあ。名前を書いて入れる、長期保存はしない。それくらいの緩やかな……」 「名前。そう、名前よ」 今度は川上さんが、レジの誤差を指摘する時のような鋭い声で割り込んだ。 「店長。名前が書いてあっても、『領土侵犯』が許されるのか、私は問いたいのです。法治国家、あるいは法治スーパーとして」
事の発端は、今朝のことだったらしい。 山崎さんが自分へのご褒美に買っておいた、限定販売の「とろける生どら焼き」。それが、休憩室の冷蔵庫から消失した。 代わりにそこにあったのは、川上さんの持ち物である「カスピ海ヨーグルト(自家製)」の巨大なタッパー。 生どら焼きは、ヨーグルトの影に追いやられ、あろうことか、冷蔵庫の奥の「強冷気吹き出し口」の直撃を受け、カチカチの氷塊と化していたという。
「私のどら焼きは、繊細なスイーツなの。それをあんな、極寒の地に追放するなんて。これは実質的な宣戦布告よ」 山崎さんが、エプロンの裾を握りしめる。 「追放ではありません、整理整頓です。あなたのどら焼きが、私のヨーグルトの定位置を乱していた。私はただ、あるべき場所へ戻しただけ」 川上さんが、眼鏡を指でクイと押し上げる。
どら焼き一粒、ヨーグルト一匙。 それが、二十年共に働いてきた戦友たちの間に、深い溝を作った。 これはもはや、おやつの問題ではない。バックヤードにおける「発言権」と「プライド」を賭けた、仁義なき冷戦なのだ。
私は、店長としての威厳を(といっても、ひょろ長いもやしのような威厳だが)振り絞り、二人の間に割って入った。 「山崎さん、川上さん。いいですか。惣菜が揚げ、レジが打つ。その両輪があってこその『エブリデイ』です。どら焼きの霜一つで、その絆を凍らせてはいけない」
「店長は黙ってて。これは、女の『場所』の問題なのよ」 「そうですよ、店長。一八五センチもあるあなたには、棚の隙間の数センチの争いなんて、分からないでしょう?」
二人の波状攻撃に、私はたじろぐ。 身長が高いことは、こういう時には何の役にも立たない。むしろ、標的が大きくなるだけだ。
その時、休憩室のドアが勢いよく開いた。 入ってきたのは、空気の読めない大学生、田中である。 「あ、店長! お疲れっす! 冷蔵庫の奥に、なんかカチカチに凍った美味そうなもんあったから、今食っちゃっていいっすかね?」
部屋の温度が、さらに五度、下がった。 山崎さんと川上さんの視線が、獲物を狙う鷹のように田中へと突き刺さる。 田中の手には、半分袋から出かかった、無残に凍りついた「生どら焼き」。
「田中くん、それを放せ! 今すぐ放すんだ! それは爆弾だ!」 私は叫んだ。落語でいえば、まさに「修羅場」の幕開けである。
凍りついたスイーツ、激昂するベテラン、そして無邪気な破壊神。 バックヤードの冷戦は、いま、最悪の形で火蓋を切ってしまった。
「……え、爆弾? 何すか店長、これただの、どら焼き……」 無邪気な田中の指が、凍ったどら焼きの袋に掛かる。 その瞬間、山崎さんと川上さんの椅子がガタリと音を立てた。二人のベテランの背後に、それぞれ「不動明王」と「氷の女王」の幻影が見えたのは、私のストレスが見せた幻覚だろうか。
「田中くん、動くな。一ミリでも袋を破れば、君のバイト代はすべてどら焼きの賠償に消え、明日のシフトは地獄の床掃除で埋まるぞ」 私の必死の形相に、流石の田中も異変を察した。彼は固まったまま、凍ったどら焼きを捧げ持つ「供物」のようなポーズで静止する。
私は、一八五センチの長い腕をそっと伸ばし、田中の手からその「氷塊」を回収した。 「……山崎さん。このどら焼き、解凍の儀式は私が執り行います。そして川上さん。あなたのヨーグルトの定位置についても、新たな『国境線』を引き直すことを約束しましょう」
二人はまだ、納得のいかない様子で鼻を鳴らしている。 私は、落研時代に覚えた「扇子の扱い」を思い出しながら、手近にあった割り箸を扇子に見立て、パチンと机を叩いた。
「お二人とも、お聞きください。惣菜の山崎さんが揚げるコロッケは、外はカリッと、中はホクホク。あれは、計算された『熱』の芸術です。対して、レジの川上さんが管理する数字は、一円の狂いもない『冷徹』な真実。情熱の赤と、冷静の青。この二つが冷蔵庫という狭い箱の中でぶつかり合えば、核融合が起きるのは自明の理でございます」
私は言葉のリズムを整え、低音で、しかし通る声で説得を続ける。 「しかし、思い出してください。去年の夏、アイスの什器が故障したあの夜。山崎さんが保冷剤をかき集め、川上さんが全在庫の払い戻しを電光石火で終えた。あの時、お二人の間には、どら焼きもヨーグルトも入り込めないほどの『完璧な連携』があったはず」
二人の視線が、わずかに泳いだ。 過去の「戦友」としての記憶が、氷を少しずつ溶かしていく。
「そこで、店長・佐藤、提案がございます。この冷蔵庫、今日から『二院制』を導入いたします」 「二院制?」 川上さんが眉をひそめる。
「ええ。上段を『惣菜・スイーツ自由区』とし、山崎さんが管理する。下段を『レジ・健康発酵区』とし、川上さんが管理する。そして、その間のチルド室。ここを『中立地帯』とし、ここに入れられたものは……本日より、誰が食べても文句なしの『共有財産』とみなす! いかがでしょうか!」
山崎さんと川上さんは顔を見合わせた。 「……上段が、私の自由区?」 「下段を、私が仕切っていいのね?」
「左様。そして、この凍りついたどら焼きは、中立地帯へ。私が責任を持って、レンジの弱モードで、赤ん坊の肌のような柔らかさに解凍いたします。それを三等分……いえ、田中くんの分を入れて四等分して、和解の印にしようではありませんか」
数秒の沈黙。 やがて、山崎さんが「ふん」と鼻を鳴らして座り直した。 「……店長、解凍に失敗して皮をベチャベチャにしたら、承知しないわよ」 「私は、三等分でいいわ。田中くんには、私のヨーグルトを少し分けてあげるから」 川上さんも、眼鏡を拭きながら、わずかに口角を上げた。
「……助かったぁ」 田中が床にへたり込む。私は彼を無視し、恭しくどら焼きをレンジへ運んだ。
チーン、という電子音が、和平条約の調印を告げる鐘のように響いた。 四人で分けたどら焼きは、まだ芯が少しシャリっとしていたが、それがかえって火照った空気を冷ますのにちょうどよかった。
「店長、あんた、背が高いだけじゃなくて、口も回るわね。落研だっけ? 納得しちゃったわよ」 山崎さんが笑いながら、どら焼きの粉を払う。 「いえ、これも日々のストレス……もとい、皆様への敬愛が生んだ脚本でございます」
私は、空になった袋をゴミ箱に捨て、心の中でガッツポーズを作った。 ベテラン同士の冷戦は、ひとまず幕を閉じた。 だが、冷蔵庫の「中立地帯」には、翌日からなぜか、出所不明の「高級な梅干し」や「手作り漬物」が並び始め、新たな「物資提供合戦」という名の微笑ましい争いが始まるのだが……それはまた、別の話。
私は休憩室を出て、再び売り場の喧騒へと戻る。 背筋を伸ばし、一八五センチの視点から店内を見渡せば、レジ横で自動ドアの隙間に挟まったまま回転しているキャベツを見つけた。
「……次は、第四話『見えない万引き犯』、かな」 私は胃の痛みを、心地よい創作への意欲に変え、キャベツ救出へと向かった。




