第二話:豆腐の隙間のロミオとジュリエット
スーパーの仕事というのは、基本的には「埋める」ことの繰り返しである。 売れて空いた棚を埋める。隙間を埋める。そして、客の胃袋と満足感を埋める。 だが、その「埋める」べき隙間を、自分たちの「甘い囁き」で埋めようとする不埒な輩が現れるのが、若さという名の季節の恐ろしさだ。
火曜、午後二時。 魔の時間帯である。昼のピークが過ぎ、夕方のラッシュにはまだ早い。店内を流れるBGMは、のどかなインストゥルメンタルの『イパネマの娘』。
私、店長・佐藤は、一八五センチの長身を折り畳むようにして、バックヤードで在庫表を確認していた。ふと、冷ケースの裏側から、本来そこにあるはずのない「音」が聞こえてきた。 正確には、それは音ではない。 「熱」を帯びた、湿り気のある、ひそひそ話だ。
「……ねぇ、田中くん。今夜、どうする?」 「どうするって、バイト終わりのラーメンだろ? 佐藤さん、今日は硬めがいいって言ってたじゃないか」
声の主は、大学生バイトの田中。そして、同じ苗字を持つ(紛らわしいことこの上ないのだが)女子大生バイトの佐藤さんだ。 彼らは今、冷蔵棚の裏側の作業通路にいるはずだ。豆腐や納豆を、裏から補充する「先入れ先出し」の最前線。
私は、気配を消して通路の角から覗き込んだ。 案の定だ。田中と佐藤さんは、絹ごし豆腐のケースを抱えたまま、十センチの至近距離で見つめ合っている。
「違うよ。ラーメンじゃなくて、その後のこと。ほら、この前言ってた、あの映画……」 「あぁ、あれか。でも俺、明日一限だし。……あ、ヤベ。三丁売れた。補充しなきゃ」
田中が、慣れた手つきで豆腐を棚に押し込む。 我が店の豆腐売り場は、棚の奥が空洞になっており、バックヤードから直接補充できる仕組みだ。つまり、豆腐を押し込む瞬間、田中の指先と顔の一部は、売り場側(客席側)に露出することになる。
「田中くん、作業が雑だよ。もっと愛情を込めて埋めて」 「わかってるって。……ほら、佐藤さんの方も空いたよ。木綿、五丁」
二人は作業を続けながらも、その視線は豆腐ではなく、互いの瞳に釘付けだ。 私は、店長として一喝すべきか、あるいはこのまま観察して脚本のネタにするか、葛藤した。一八五センチの私は、棚の上の隙間から彼らを完全に見下ろすことができる。
「ねぇ、田中くん。さっきの返事、まだ聞いてない」 「……俺は、その。佐藤さんがいいなら、どこへでも。たとえ火の中、豆腐の中」 「何よ、それ。バカみたい」
クスクスと笑い合う二人。 豆腐の棚越しに交わされる、禁断の(といってもシフトが被っているだけの)恋。 だが、彼らは致命的な忘却をしていた。 ここはスーパーだ。豆腐は、売れるのである。
その時だ。売り場側から、一人の老婦人がゆっくりと歩み寄ってきた。 彼女の手が、棚に伸びる。 ターゲットは、まさに今、田中と佐藤さんが愛を語り合っている「隙間」を塞いでいる、最後の一丁の絹ごし豆腐。
ひょい、と豆腐が持ち上げられた。 その瞬間。 「……大好きだよ、田中くん」 「俺も、佐藤さんのこと……」
静寂。 豆腐が消えたことで、棚の向こう側が完全に「開通」した。 そこには、鼻先が触れ合いそうなほど密着した田中と佐藤さんの顔。そして、暗がりに浮かび上がる、情熱的な二組の瞳。
老婦人は、手に持った豆腐を落としそうになりながら、絶句した。 そして、震える声で叫んだ。
「――出た! 豆腐の隙間に、生首が二つ! 喋ってる、豆腐が愛を囁いてるわ!」
「……っ!? しまった!」 田中が慌てて新しい豆腐を棚に叩き込むが、時すでに遅し。 老婦人の叫び声は、午後の穏やかな店内に、鋭い警笛のように響き渡った。
「店長! 店長はいませんか! 大変よ、お豆腐コーナーで、幽霊がデートしてるわ!」
私は天を仰いだ。 一八五センチの視界に映る天井のシミが、なんだか私の胃の形に見えてくる。 私は白衣の皺を伸ばし、覚悟を決めて表舞台へと躍り出た。
「お呼びでしょうか、お客様。当店の豆腐は、鮮度が良すぎて時折『命』が宿ることがあるようで……」
口から出任せの口上を、落語の導入のように滑らかに響かせながら、私は戦場へと向かった。 さて、この「ロミオとジュリエット」ならぬ「田中と佐藤」の不始末。 店長として、いかにして「笑い」へと昇華させ、お客様の恐怖を鎮めるべきか。
心理戦の、第二幕である。
「大変よ、店長! 豆腐が、豆腐が告白してたのよ!」 腰を抜かさんばかりに震える老婦人の前で、私は一八五センチの巨躯をゆっくりと、柳の枝のようにしならせて平身低頭した。
「お客様、お騒がせして申し訳ございません。ですが、ご安心を。それは幽霊でも怪奇現象でもございません。実はこれ……当店の新たな試み、『立体音響による鮮度アピール』でございます」 「……え、鮮度?」 「左様でございます。当店の豆腐はあまりに瑞々しく、あまりに純粋。そのあまりのピュアさを表現するために、裏側から『愛の言葉』を吹き込むことで、大豆のタンパク質を活性化させていたのでございます」
出鱈目も休み休み言え。 自分でもそう思うが、声には落語の「語り」のような重厚さと説得力を込める。 私はチラリと、豆腐の隙間の「生首」たち、もとい田中と佐藤さんに鋭い視線を送った。
「さあ、そこの『大豆の妖精』たち。お客様に、元気よくご挨拶を」
棚の向こう側で、二人が凍りついているのが気配でわかる。 やがて、おずおずと、しかし必死に裏側から声が響いた。 「……いらっしゃいませ。おいしい、お豆腐、いかがですか」 「愛情、たっぷり、注いでます。大豆の、気持ちに、なりました」
田中と佐藤さんの声は、緊張で上ずり、まるで壊れた蓄音機のようだ。 老婦人は目を丸くし、半信半疑で棚の隙間を覗き込もうとする。私はすかさず、その視線を遮るように大きな体で壁を作った。
「お客様、妖精は恥ずかしがり屋でございまして。直接見つめられると、豆腐が凝固しすぎて高野豆腐になってしまいます。ここはひとつ、この『愛を聴かせた豆腐』をお持ち帰りになり、今夜の食卓を賑やかに彩ってみてはいかがでしょうか?」
「……愛を、聴かせた豆腐ねぇ。なんだか、変な話だけど……面白いわね。じゃあ、一丁いただくわ」 「ありがとうございます! サービスで、こちらの『恋する納豆』もお付けしましょう。粘り強さは、保証付きでございます」
老婦人が苦笑いしながら去っていくのを見送り、私は大きく息を吐いた。 胃のあたりが、豆腐を十丁ほど一気食いしたかのように重たい。
私はくるりと背を向け、バックヤードへの扉を乱暴に開けた。 そこには、互いに距離を置き、真っ赤な顔をして俯く田中と佐藤さんがいた。
「さて。田中くん、佐藤さん。一席、よろしいかな」 私は腕を組み、仁王立ちになった。一八五センチの影が、二人の足元を完全に覆い隠す。
「スーパーのバックヤードは、寄席の楽屋と同じだ。表に出れば、そこはもう高座。お客様という観客を前にして、素っ裸の私情を晒すなど、芸人失格……いや、店員失格だ」 「すみません、店長……。まさか、あんなタイミングで売れるなんて」 田中が消え入りそうな声で謝る。
「当たり前だ。豆腐は売れるためにそこに並んでいる。君たちの恋路の目隠しにするために並んでいるんじゃない。いいか、佐藤さん」 私は、女子大生の佐藤さんの方を見た。 「君の『大好き』という言葉は、豆腐のパックに閉じ込めるには勿体ない。だが、それを仕事中に漏らすのは、賞味期限切れの牛乳を売るのと同じくらい、いただけない『異物混入』だ」
「はい……本当に、ごめんなさい」
「わかればよろしい。罰として、今日は閉店まで、全商品の『面揃え』を完璧にこなしてもらう。それも、一ミリの狂いもなく、恋人の顔を眺める時のような情熱を持って、だ」
二人は「はい!」と威勢よく返事をして、逃げるように売り場へ戻っていった。 一転してキビキビと働く彼らの背中を見送りながら、私は手元のメモ帳に、今日の出来事をサラサラと書き留める。
タイトルは……そうだな。 『豆腐の角に頭をぶつけて死ぬ代わりに、恋に落ちた二人』。 いや、少し長いか。
「店長、今の話、また脚本にするんすか?」 遠くで品出しをしていた田中が、おどけた調子で声をかけてくる。 「うるさい。これは私の精神安定剤だ。さあ、手を動かせ。夕方のラッシュが来るぞ。次は『ポイントカードの逆襲』か、それとも『半額シールの乱』か……」
私は、色白の細い指でペンを回し、少しだけ口角を上げた。 トラブルは絶えない。胃も痛む。 けれど、この滑稽な多重奏が響く限り、私の「スーパー店長兼・落語作家」の日々は、案外悪くないリズムを刻んでいくのだ。
窓の外では、夕焼けが豆腐のように白く濁った空を、ゆっくりと茜色に染め始めていた。




